第2話 虜囚
長く眠りすぎた時特有の気分の悪さを感じて翠は目を覚ました。
視界ははっきりしないが、自分が今まで座ったまま眠っていたことは何となく分かった。 寝る前自分が何をしていたのかはまだ脳が半分寝ているせいか全く思い出せないが、大方授業中か自室で勉強している最中に寝てしまったのだろう。
この感覚だと数時間は寝ていたに違いない。だとすると後者ならまだいいが前者だった場合かなりまずい。すぐに起きなければ。
「あれ、何これ⋯⋯」
しかしどういう訳かうまく体を動かせない。できるのは頭より上を少しひねることだけで、それ以外は手足は疎か指の一本を僅かに動かすことすら叶わない。
何かがおかしい、と頭を何度か強く振る。脳が少し歪むような感覚にくらりと気持ち悪さを覚えたが、その強い刺激でようやく視界がはっきりする。
「―――は?」
果たして翠の目に映ったのは、自分の体をきつく締めあげる拘束具とただただ真っ白いだけの無機質な部屋だった。
「何この服!? というかここどこ!?」
あまりに異常な状況。極一般的な高校生の翠はただただパニックに陥るしかない。
それでもなんとか気を落ち着け、何か現状の手がかりはないかと辺りを見回す。しかし部屋にある物は自分の座る椅子と拘束具以外には何もない。だが椅子は身動きが取れないせいで見ることはできないし、拘束具に関しては着せられたことはおろかこれまで見たこともなかったので結局得られる物は何もなかった。
それでも強いて何か思いついたことを挙げるとするならば、この部屋はまるで―――
「まるで、病室か実験室みたい」
『あながち間違いではない』
「! 今度は何!?」
独り言のつもりだったのだが、スピーカーを通した声で返事があった。それと共に翠の目の前の白かった壁が音もなく透明に変わっていく。十秒もしないうちに翠の目の前にあった壁は分厚い窓に取って代わっていた。
向こうにはいくつかの人影が見える。スーツなど着たことの無い翠でも分かるくらい上等のスーツを着た男が一人に、じろじろと翠を見つめる白衣を着た男女が数名。さらにそれらを取り巻くように銃で武装した人影がたくさん。その中で最も前に立つスーツ姿の男が口を開いた。
『初めまして、木賊翠君。私は獅子堂。よろしく』
「は、初めまして⋯⋯?」
『ふむ、意外と落ち着いているね。良いことだ』
「いや、もう何も分かることが無いからパニック過ぎて、却ってこんな調子になってると言うか⋯⋯そのー、あなた達は誰で、ここはどこで、何であなたはあたしの名前を知ってて、あたしはどうして動けないようにされているんですか?」
『ほう、パニックだと言う割にしっかり質問をしているじゃないか。やはり只物ではないということかな』
「え、や、そんなことは⋯⋯?」
どこか皮肉気ではあるが自分を高評価する人物に翠は戸惑うしかない。そんな評価を受けることをした覚えもなければ目の前の男に会った記憶もないのだが。
『順を追って説明しよう。まずは我々が君の名前を知っている理由だが、これは君を保護したときに近くに落ちていた君の荷物の中にあった学生証で確認した』
「ちょっと! 何当然のように勝手に人の荷物を漁って⋯⋯え、保護?」
『おや、覚えていないのかね? 君たちの学校で巨海真奈が一体どうなって、何をしたのか⋯⋯本当に?』
「―――」
ばちんと乱暴にスイッチを入れられたような気がした。
真奈。
その名前を聞いたことで全てを思い出す。
変貌する親友。恐怖に飲み込まれる教室。飛び交う悲鳴と血飛沫。
「そう⋯⋯そうだよ! 何で今まで忘れて⋯⋯! 真奈が大変なことになって、人がたくさん死んで、それで―――」
思い出した最後の記憶は、一本が翠の足よりも太い肉の槍が自分の背中に何本も殺到したこと。
「―――それで、あたしも、死んで⋯⋯」
思い出すだけでも血が凍るようだ。あれは一本一本が人を簡単に挽肉にできるほどの力を持っていた。それが束になって襲いかかってきたのだから、あのときの翠の体は繋がってすらいなかったかもしれない。⋯⋯そのようなことになっても人間が生きていられるとはとても思えない。
「はは⋯⋯じゃあ何、ここはあの世か何かな訳? どう見ても天国って感じじゃないし、あんたらは地獄の鬼とか? 最近の鬼は金棒じゃなくて銃を持ってるなんて、ずいぶん現代的ね」
『残念ながらここは地獄ではない。生き地獄ではあるかもしれないがね。だから安心したまえ、君は死んでなどいない⋯⋯我々は医療分野についても世界屈指の技術を持っていると自負しているが、流石に死んだ者の蘇生はできん』
「⋯⋯じゃあその、我々ってのは何なんだよ」
『これは失礼、挨拶がまだだったね。我々は日本における唯一の遼遠存在接触者、通称魔女に関する事態の解決を一挙に引き受ける機関、遼遠存在研究開発局だ。以後お見知りおきを』
◆
十八世紀後半、ヨーロッパを中心に始まった第一次産業革命の真っただ中。一番最初にソレが人間の前に姿を現したのは人間が地球の九分九厘を支配していたこの時、イギリスのとある村でのことだった。
その村は非常に長閑な場所で、長足の技術発展に沸く世間とは切り離されているかのようだった。
だがそれも一人の村娘が消えた日を境に一変する。
娘の名前はケイティ。少々静か過ぎるところはあるが、器量がよく、働き者な彼女は村の人々に愛され、明るい将来を誰からも確信されていた。
しかしある夕食時、彼女はふらりとどこかへ行ってしまったかと思うとその日の深夜になっても戻らなかった。その後すぐに攫われてしまったのではないかという話になり、すぐに村の男総出で彼女を探すことになったが、このときは痕跡の一つすら見つけることが叶わなかった。
事態が動いたのは日が昇り、村人だけでの捜索は限界だから警察を呼ぶということになり、それに伴い捜索に参加した村人達が各々自宅に帰ろうとしたときのことだった。ある村人が村の中で飼育されていた鶏や猫などの家畜から作物を荒らすカラスまで、小型のあらゆる動物が一匹残らずいなくなっていることに気が付いた。
しかしこちらはケイティとは違いすぐに見つかった。村の外れにそびえていた大きなオークの木、その枝という枝にいなくなった動物が串刺しにされてたのだ。遠目に見たその様子は当時葉を落としていたはずのオークが濃い色の葉を全体に茂らせているかのように見えたという。
気が狂いそうな異常事態に村人も呼ばれた警察も何もすることができない。泣き叫ぶ子供や嘔吐してしまう者、気を失う者も出た。
ようやく気を取り直した警察が応援を呼ぼうとしたそのとき、喧騒に引かれたかのようにふらりといなくなったはずのケイティが現れた。
何があったんだ、心配していた、とにかく帰ってきてくれてよかったと家族を始めとする村人たちがケイティに群がった途端、辺りの木々がざわざわと風もないのに大きく揺れ始めた。不気味な現象に何かがおかしいとその場にいた者たち皆が気づき始めていたが、少し遅すぎた。
「ぎゃ―――」
多くの者が見ている中、ケイティの母親が悲鳴を残して上へ消えていった。それに続くように一人、また一人と同じように消えていく。
原因は近くに生えた木々。これが枝を目にも止まらぬ速さで人へと伸ばすとその体を吊り上げ、捩じり、千切る。最後には自身を飾り付けるかのようにその亡骸を幹や枝に固定した。
狂気の溢れたその光景に大人も子供も逃げ惑った。
踊り狂う様にのたうつ木々、その中心でくるくると回りながら喝采を叫ぶケイティ⋯⋯彼女が指を揮えば誰かの首が飛ぶ。彼女が腕を薙げば誰かの悲鳴がぴたりと止む。―――押し合い圧し合い、泣き叫びながら、その場の誰もが気づいていた。⋯⋯彼女がこの地獄を操っているのだと。
◆
『―――と、いうのが人類初の遼遠存在接触者⋯⋯通称魔女と我々人類が初めて遭遇した事例、ウィルトシャーの怪木と呼ばれる事件のおおよその顛末だ』
「いや、それは歴史の授業でやったことあるんでなんとなく知ってるんですけど⋯⋯」
『それは結構』
ぴん、と顔の前に指を立てた獅子堂は透明な仕切りの前を左右に行ったり来たりしながらゆっくりと語る。
『突如として我々の常識では計れない力を会得した恐怖すべき者達。これを遼遠存在接触者、一般的に魔女と呼ぶ』
どこか授業を受けているような気分になる。実際、こういった内容を小学校からずっと受けてきた。
魔女についてなどという分かり切った説明よりも未だ明かされていない現在の状況などについて聞きたいのだが、獅子堂の有無を言わせぬ雰囲気がそうさせてはくれない。
『彼らの能力を所詮生身の人間の振るう力、などと侮ってはいけない。それらはいずれも天災級、あるいはそれを凌ぐ被害をもたらす。君は身をもって知っているね』
「真奈⋯⋯」
『そう。だが彼女の魔女としての力はかなり低いと評価している』
「はあ!? 校舎が半壊したのに!?」
『半壊しただけだろう、物理的な被害しかない。その被害も半壊止まりだ』
ばん、と獅子堂は翠と自分を隔てるガラスに写真を叩きつけた。それは天を衝くような巨大な花のような何かの写真。あまりの大きさに周りに写っている建物がおもちゃのように見える。
翠はここまで大きく奇妙な花を目にしたことは絶対にないはずなのだが、なぜかこの花には見覚えがある。
『これは巨海真奈とは反対に魔女の中でも特に強力な個体が遺した物だ。魔女自体は消えて久しいが、未だ半径数十キロにわたって吸い込んだ者を理性のない怪物へと変貌させる粒子を放ち続けている』
「それは、確かに比べ物にならないかも⋯⋯」
『実際のところ、魔女に匹敵する力を持つのは一握りだがね。とはいえそうでない物も常人に対処できる物ではない』
魔女としては大した事の無い力しか持たないという真奈でさえ校舎を半壊させ死傷者を大量に出したのだが、写真の説明を聞くと確かにかすんで見える。
『そしてこのような魔女の中でも規格外の力を持つ者を特に大魔女と呼ぶ。―――そう、木賊翠⋯⋯君のような者のことだ』
◆
「大魔女⋯⋯は? あたしが? 魔女?」
何を言ってるんだという気持ちをこれでもかと目に込めて翠は獅子堂を見つめる。笑えない冗談だ。
しかし見つめられた本人はどこ吹く風、堂々たるその様はまるで冗談など言っていないかのようだ。
「いや……いやいやいや! 何言ってんの。あたしは口からグロい触手を出したりしないし、でかい花になったりもしてない。どっからどう見てもただの人間でしょ!」
『すべての魔女が人からかけ離れた姿をしている訳ではない。むしろ人間らしい姿と怪物の姿の二つを自在に切り替える魔女が大半だ。証拠にはならない』
「証拠⋯⋯そう、証拠だよ。あたしが魔女だっていう証拠はどこにあるんだよ!」
『単純に、魔女に反応するセンサーのようなものがある』
獅子堂は懐から手のひらサイズの丸い道具を取り出して見せた。
『これはその一つで、我々はコンパスと呼んでいる。近くにいる魔女がいる場合、中の針が回転してその方向を指し示すというだけの単純な機械だが正確性は保証されている。巨海真奈の捜索に使用されていたのだが、代わりに君に反応した』
「そ⋯⋯そんなんで納得できるかぁ!!」
センサーがあると言われればそれまでかもしれないが、翠はそんな物の存在は今まで知らなかったのだからそれで納得しろと言われても無理がある。極端な話、翠にとっては
『そうは言われてもだね』
「あたしは変な力なんて何も持ってない! 普通の人間だ!」
『変な力。それなら持っているだろう』
「は?」
顎に手を当てて獅子堂はゆっくりと言う。
翠は魔女ではない―――魔女ではないが、その先をどうしても聞きたくなかった。
『先ほどの反応からして、君は巨海真奈に致命傷を与えられたことは覚えているようだ』
「⋯⋯やめろ」
『君の脚は潰され、さらには腹部を一本が直径五センチほどの触手六本に貫かれた』
「だまれ」
『だが、以上のことは君の衣服の損傷や周囲の血痕からの推測に過ぎない。何故だろうな?』
「黙れって言ってるだろ!」
『黙らない、君には知る義務がある。我々は君にいかなる救命処置も施していない。いや、何かしていたとしても即死だっただろう、真っ当な人間ならば。それだけのダメージを負っていたことは明らかだった。だが、今の君の腹部には小さな傷一つ残っていない⋯⋯以上のことから君は回復に関わる能力を持った魔女であることが推測できる』
その言葉を聞き終わったとき、翠にはもう自分が魔女であることを否定する気力は残っていなかった。
「⋯⋯あたしは、これからどうなるの」
『君は公には死んだことになる。家に帰ることは二度とできないし、日の光を浴びることは二度とないだろう。だが大人しくこちらの研究に協力してくれるというのならば衣食住くらいは保証しよう』
研究、という言葉がこれほど不穏に聞こえたのは初めてだ。モルモットやマウスになった気分だ。
「⋯⋯わあ、なんて好待遇。喜んで協力します―――なんて、言うとでも思ってるの?」
『もはやそのような次元の話ではない。君が人間でないということは純然たる事実だ。そして、人間ではないモノに人権は発生し得ない』
街に下りてきたヒグマのようなものだ、と獅子堂は言う。
『では、そこでしばらく静かにしていたまえ。後で研究スタッフが今後の君の詳しい処遇を説明する』
その言葉を最後に獅子堂は部屋の隅へと避け、代わりに数人の白衣を着た者たちが前に出てきた。翠のデータを取っているらしい。
「――――――」
スピーカーを介して遠くの方から耳を塞ぎたくなるような言葉が聞こえる。
およそ人に向ける言葉ではない。本当に翠は資源としか見られていないのだろう。
「は!」
だったらいっそ、お望みどうりに化物として振舞ってやろうか。
削られ、すり減り、尖る思考のままに、翠は鋭い笑みを浮かべた。
ぶつ、と頭の前で音がした。
◆
己が人ではないと認めたのか、仕切りの向こうの少女はがくんと項垂れたまま身じろぎもしない。
自分の娘、下手をすれば孫ほども年の離れた子供相手に残酷な仕打ちをしている自覚はあるし胸も痛まないわけではないが、自分は彼女を人として扱っていい立場にないし、事実彼女はもう人ではない。
「⋯⋯ふむ」
難儀なことだ。そう獅子堂は小さく溜息を吐いた。
自身が魔女になったとき、あるいはそれを自覚したとき、その人物のとる行動は大体三つに分けられる。
一つは諦め。魔女が現れた場合、その国の軍隊などが急行して捕獲、それが無理ならどんな手を用いても排除を行うというのは現代を生きる者なら誰でも知っている。それゆえの行動。
二つ目は暴走。魔女の力に精神を壊された結果、自我を失いただただ暴れ回るという物。巨海真奈はこれに当たる。
三つめは悪用。起こる結果は暴走に近いが、魔女自身が悪意と計画性を持ってその力を振り回すという点で暴走よりも被害が大きくなりやすい。
この三つの内、最も対処しやすいのは言うまでもなく一つ目だが、見たところ翠もそれに当てはまる。これ以上の非道はせずに済みそうだ。
「しかし大魔女⋯⋯しかも回復能力持ちとは、ずいぶんと素晴らしい被検体が手に入ったものですな。他の魔女ではできない実験がいくらでもできる」
獅子堂のすぐ横に立つ四十代半ばほどに見える人物は明るい口調でそう言い放った。
「⋯⋯老松室長。以前から言っているが、魔女が相手とはいえ必要以上に負荷をかける処置は控えるように」
「局長、お言葉を返すようで非常に恐縮ですが⋯⋯それでは甘いのです! 特に大魔女ともなればその研究結果が人類に与える恩恵のほどは計り知れません。そもそも相手は虫以下の魔女。その程度の存在、何をしたところで欠片も問題ありません」
強いて言えば無駄にしないよう気を付ける程度でしょうか、と馬鹿にしたように笑うのは日本における対魔女拘束技術開発の権威である老松博士だ。
現在は捕獲拘束技術開発室の室長を務めているのだが、魔女の扱いを巡って獅子堂と衝突することが絶えない人物でもある。確かな技術を持っており、一定の支持を得ているため局のトップである獅子堂ですら強引なことはできない人物だ。
故に今老松と争っても無駄だろうと考えた獅子堂は老松から離れて部下に指示を出すことに集中する。
「これよりプランAで動く。戦闘員は最低限を残して解散、ただし万が一を考えて応援はすぐに駆け付けられるようにしておけ。医療班は予定通り対象の健康管理。問題が無ければその後は研究班に引き継げ。後は―――何事だ」
今後の動き方をその場にいた人間に獅子堂が指示をしていたそのとき、白衣を着たスタッフが管理していた端末から突如警報音が鳴り響いた。画面に映る赤い表示を信じられないというように見つめるスタッフは震える口を開いた。
「た、対象周囲の魔力波の急上昇を確認! 信じられない、何だこの力は⋯⋯!?」
拘束された体を捩じる様に身悶えする翠。その額には先ほどまでは確実に存在しなかった角か剣のように見える歪な物体が鎮座し、青白い不気味な輝きを放っていた。
「力の顕現⋯⋯!」
「危険です、こちらへ」
「おおっと、待ちたまえよ。何を逃げる必要がある」
辺りに控えていた武装した者たちが獅子堂たちを逃がすために誘導を始める。しかしそれに待ったをかける者がいた。
「老松室長、何を言って⋯⋯!」
「見たまえ、彼女はああして必死に身を捩じらせているが、一向に抜け出せる気配がないだろう? それもそのはず。あれは我が捕獲拘束技術開発室の最新拘束具、通称デイジーカッターだ。生まれたての魔女ごとき、抜け出すことは叶わんよ」
「相手はただの魔女ではありません。それに何か起こってからでは遅いのです! さあ、早く!」
「いや、老松君がそこまで自信を持って言うのならばそれだけの物なのだろう。私もここにいるとしよう」
獅子堂の言葉に老松は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににやりと得意げな笑みを浮かべ、反対に誘導しようとした人物は唖然とした表情を浮かべた。
「ですが!」
「私は先程、彼女に自身が魔女であると認めることを義務だと言った。ならば私の義務は彼女、一生を魔女という鎖で繋がれたままの彼女の全てを見届けることだ。⋯⋯無論、私はまだ死ぬわけにはいかないので安全が担保された場所から見ることのできる範囲だけ、というのが少々恰好が付かないがね」
「⋯⋯分かり、ました」
そう言って誘導を行っていた隊員はしぶしぶと引き下がった。機構のトップである獅子堂にそうまで言われてはそうするしかない。
「では私たちはここで警護を務めさせていただきます」
「そうか、ありがとう」
「だから、逃げ出すことはできないと言ってるだろうに」
あくまで翠が脱走するかもしれないという立場を崩さないその態度に老松は露骨に嫌な顔をする。しかし獅子堂の前だということを思い出したのか、すぐに下手な笑顔で取り繕った。
「まあしかし、抵抗が長くて鬱陶しくなってきたのも事実。ここらで少し痛い目を見てもらうとしましょうか」
「待て、何をする気だ」
「デイジーカッターには優れた拘束能力に加え、もう一つ大きな力を持っております」
「デイジーカッター⋯⋯まさか」
「ええ、ええ。さすが局長、聡明でいらっしゃる。デイジーカッターにはその名の通り、拘束した対象の一部を切り落とす能力が備わっているのです」
自慢のコレクションについて説明するかのような嬉々とした口調で老松は言う。顔を僅かに強張らせた獅子堂の様子には気づいていないようだ。
「デイジーカッターには全部で五十を超える起爆装置が搭載されています。これで爆発を起こす際に爆風を圧縮し鋭い刃のように射出します。これにより一瞬で対象の一部を切り取ることができるのです。起動する起爆装置を変えることで与えるダメージや切り取る場所を細かく設定することができるのですが⋯⋯今回の魔女は致命傷すらなかったことにする回復能力を持っている様子。多少やりすぎても問題ないでしょう⋯⋯おい、やれ!」
「待て―――!」
獅子堂の制止もむなしく、指示を受けた老松の部下がコンソールから指示を送る。
「―――? おい、何をしている。早く奴の腕の一本でも飛ばして黙らせろ!」
しかし視線の先の翠には何の変化も見られない。デイジーカッターが作動すれば文字通り四肢を
「いえ、それが、デイジーカッターが反応せず⋯⋯」
「何だと!?」
「⋯⋯」
この場には開発局のトップである獅子堂がいるのだ。それは自分の発明を直接紹介するチャンスを意味するが、言い換えれば万に一つも失敗が許されないということでもある。
しかもデイジーカッターは魔女の捕獲が成功した後に大きな問題となる生かしたままの管理を大幅に簡略化するという画期的な発明だ。その分成果を上げられなかったときの失望は大きくなる。
「ええい、よこせ! くそ、何が間違っているというのだ。試験では何も問題なかったじゃあないか!」
がちゃがちゃと複雑にコンソールを操作するが、いくらやってもデイジーカッターは作動しない。それどころか全く想定していなかった赤い文字が画面に浮かび上がった。
「『破損箇所を確認』⋯⋯!?」
画面をのぞき込んでいた獅子堂は無意識にその文字列を読み上げた。一瞬遅れて理解が追いつくと同時に弾かれたように顔を上げて翠の方を見る。
翠の体を縛めていた拘束が固い音と共に砕け散ったのは丁度その時だった。
『ああああああ!!』
分厚い隔壁を一枚隔てている上に相手は見た目だけなら普通の女子高生とほぼ変わらないにもかかわらず、その咆哮はその場の全員に刃を首元に突き付けられているかのような寒気を感じさせた。
『逃げんじゃねえぞ⋯⋯!』
獣のような笑みを浮かべた翠は右手を振り上げると隔壁へと叩きつけた。
この隔壁は一見ガラスやアクリルのように見えるが実際は対魔女用の特殊素材からできている。高ランクの魔女の強力な一撃にも耐えられるように作られており、低ランク魔女や生まれたての魔女に打ち壊せる代物ではない。
―――ビシ!
だがその確信も蜘蛛の巣のように隔一面に走った罅によって一瞬で覆された。
「戦闘班、総員構え!」
獅子堂の声で我に返った戦闘員たちが一斉に銃口を翠へ向ける。隔壁が破られたことは驚いたが、デイジーカッターを破壊されたことである程度予想できていた。そのおかげですぐに指示を出せた。
「来るぞ!」
誰かがそう叫んだのと同時、隔壁が粉々に砕け散る。
さざ波のように押し寄せる欠片を踏みしめながら幽鬼のような足取りで迫る翠はぐるりと辺りを睨め付けた。
「っ⋯⋯撃」
「邪魔だ!」
ずん、と右足を一度踏みしめただけで足元から衝撃波が迸る。その場にいた誰もがたまらず吹き飛ばされてしまう。
「ぐあっ⋯⋯! 局長!」
ただの人の身ではあるが、その場にいる戦闘員たちは魔女に抗う訓練を積んだ精鋭揃いだ。その多くはすぐに体制を立て直す。しかしそのとき既に翠は獅子堂の目の前にいた。
「く⋯⋯」
「あたしは死にたくない。痛いのも嫌だ。だけどあんたらは虫以下のあたしを虫以下に扱うって言う」
冷たく語る翠の目には、決意にも似た静かな狂気が浮かんでいた。
「だからさあ、やられる前にやるしかないんだよ。
いつの間にか手に持っていた鋭い隔壁の破片を手で弄びながら翠は言う。その顔にはごうごうと燃え盛るような憤怒が張り付いていた。
「あんたに明日は来ない。
「―――」
「
あたしが手出しできないほど危険な虫だって分かれば、誰も殺しに来ない。
そう言って翠は額から伸びた角を左手でなぞる。
「恨んでもいい。だけどこれは自分が生き残るために何かを切り捨てるってだけのこと。だからあたしも同じようにやる」
翠が手に持った破片で首を撫でられでもすれば獅子堂は確実に死ぬだろう。
正に絶体絶命。大災害の化身の如き力を持つ魔女を利用しようとしたことが間違いだったか―――否、これが理想である。少なくとも獅子堂にとっては。
「―――その通り。君には明日がある。ただし、それは一つではない。三つだ」
「はぁ?」
とても追い詰められた人物のそれとは思えぬほど強い眼光と口調に思わず翠は獅子堂に近づく足を止める。ハッタリか単なる嘘かとも思ったが、そうではないようだ。
「何を言って⋯⋯」
「一つ目は人類に仇なす魔女として過ごす明日。このまま私を殺せば恐らくこうなるだろう」
聞くまでもなくそうしてやればいいはずなのだが、何故か翠にはできなかった。
「二つ目はこの研究所で一生を研究材料として使い潰される明日だ。私を殺し、一つ目のようにならなかった場合はこうなるだろう」
「⋯⋯」
「そして三つ目―――君が我々と共に、破壊を振りまく魔女と魔女を生み出した者らに抗う明日だ」
「え」
一度に二つ聞き捨てならないことが聞こえたような気がして、翠の思考が止まる。共に? 生み出した者?
「魔女を生んだ元凶については今はどうでもいい。大事なのは前半だ。君は魔女を捕えるために作られたここを破壊し、訓練された対魔女戦のスペシャリスト達をいとも容易くあしらって見せた。これは人類の危機ともとれるが、幸い君は話が通じる。ならばむしろ君は人類を守る剣にもなり得る」
その考えは、魔女という言葉からはかけ離れているように見えた。だって、それはまるで―――
「どうかね? どうせなら
―――まるで、人間のようじゃないか。
「英雄を求め、英雄となれるのは人間だけの特権だ」
彼岸からの哀歌 秋雨竜胆 @syu_009
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