彼岸からの哀歌

秋雨竜胆

第1話 孵る魔女


 聴覚―――

 小さい声ではすぐ横にいる人の声すらかき消されてしまいそうな車の音、風の唸り声、靴のリズム、注意を呼び掛ける町内放送。


 視覚―――

 新発売のCDの広告、電光掲示板を流れる短いニュース、うぞうぞと動き回る人の群れ、『発症者に注意!』と書かれた張り紙に原色で書かれた落書きの文字。


 嗅覚―――

 せき込みたくなる排気ガスの臭い、足元から立ち上る下水の腐臭、辺りの誰かから漂う香水の香りと煙草の臭い。


 触覚―――

 湿った風とそのせいで翻った服が擦れる感覚。誰かが捨てた空き缶を蹴り飛ばす感触に正体不明のゴミを踏みつけてしまった不快感。偶に他の歩行者とぶつかる衝撃。


 味覚―――は流石に特にこれといったものは感じない。何かを口に入れたのは朝食が最後で、それも一時間以上前だ。意識したところで感じるものは何も残っていない。


 人を構成する五つの感覚の内、四つをこうも乱暴にかき回されるとどうにも気分が悪くなっていけない。

 くらくらする。

 ぐるぐるする。


   く く

    ら らする。

          ぐるぐるぐるぐる  

          る      ぐ 

          ぐ ぐるぐる る

          る る  ぐ ぐ

          ぐ    る る

          るぐるぐるぐ ぐ

                 るする。 


 ここは高校入学以来二年以上通り続けている通学路に違いないのだが、それでもこの感覚はずっと変わらない。慣れることもない。強いて言えば気分の悪さを取り繕うことは上手くなっただろうか。


 彼女、木賊とくさみどりは軽い痛みを訴える頭をさすりながらあくびをした。こんなことならもっと静かな場所の学校を選べばよかったか、とも思ったがそれはそれで馬鹿らしい。

 仕方ない、と肩から下げていた鞄から「薬」を取り出す。薬とは言っても飲み薬や塗り薬ではない。ヘッドホンだ。

 音楽はいい⋯⋯音楽は上手く使えば車の出す騒音やたくさんの人の喋り声のような秩序のない音を駆逐してくれる。そうすれば翠は自分を苦しめていた四つの感覚の内一つから解放される。上手くその音楽がハマれば意識がそちらへ集中するので他の感覚も気にならなくなる。

 歩きながらヘッドホンをしていると注意されることがあるのだけが難点だが、今ここにそんな指摘をしそうな人物は見当たらない。


 そうしてヘッドホンをケータイに接続し、本体を頭にセットしようとした丁度その時、斜め前方で信号が青に変わるのを待っている集団の中に見知った人影があることに気が付いた。

 考えが変わった。ヘッドホンのコードを巻いて鞄に仕舞う。要は気が紛れればいいのだ。ならきっと友人と話すことも音楽を聴くことと同じ効果があるはずだ。


「真奈、おはよ」


 巨海こみ真奈まな。人付き合いのあまりよくない翠にとっては中学生のころから続く貴重な友人であり、その中でも特に親しいのが彼女だ。尤も真奈は翠と違いコミュニケーション能力の化身のような人柄をしているのでクラスの半分以上は彼女と親しいと言える。


「⋯⋯ああ、翠。おはよう」


「あれ、どうしたの。真奈が元気ないなんて珍しいじゃん」


 常に人々の中心にいる人物。それが真奈を知る人物が彼女に抱く印象だ。

 真奈はずば抜けて頭がよかったり運動ができたり、あるいは何か特技があったりということはない。どれも平均的な成績で、中にはそれをやや下回る物すらもある。

 しかし彼女はそんなマイナスの評価を彼方まで吹き飛ばすほど底抜けに明るい。そのどんな相手にも分け隔てなく接する性格が人を惹きつけて止まない⋯⋯のだが、今日はどういう訳かその明るさが見る影もなかった。顔色は悪く、目もどこか虚ろだ。まっすぐ立つことすらできないのか背中も大きく曲がっている。

 体調が優れないことは明らかだ。マスクをしているところをみると風邪でも引いたのだろうか。


「あー⋯⋯うん、なんか頭が重くてさ」


「いや、家で大人しくしてなよ。辛いんでしょ」


「うーん、でも熱はなくて薬も飲んだから多分大丈夫だと思うんだよね。それに小学生の頃から続けてきた皆勤賞を途絶えさせたくない⋯⋯!」


「馬鹿、そんな理由ならさっさと帰れ」


 はあ、と翠は大きくため息を吐く。おどけて見せてはいるがそれが真奈の強がりだということはよく分かっている。

 そうして顔を顰める翠を見てなぜか真奈はへら、と笑った。


「へへ、心配してくれてありがと。ていうか翠こそ目つきが悪いよ? 大丈夫?」


「うるさい。目つきは体調に関係ないでしょ。それにこの目つきは生まれつき」


「あはは、そうだったそうだった。」


 多少無理をしている様子はあるが、このくらい冗談を飛ばす元気があるならとりあえず大丈夫だろうか。そう翠が考えた時、真奈が体を折り曲げて激しくせき込んだ。


「⋯⋯! ゲホッゲホッ、かはっ!」


「ちょっ、平気!?」


 明らかに尋常ではないせき込み方。よっぽど重い風邪を引いたとてここまで激しい咳をすることはなかなかないだろう。


「はあ、はあ⋯⋯あ、ごめんね。最近たまにあるんだ、嫌になっちゃうよね」


「嫌になっちゃうってそんな⋯⋯本当にヤバかったら保健室に行くとか親に来てもらうとかしてよ?」


「分かってるって。さ、授業に遅れちゃうから行こ」


 本当に分かっているのだろうか。どこか熱に浮かされたような真奈の様子に翠は不安を感じたが、頑固なところのある彼女に今何かを言っても無駄だろう。


「⋯⋯せめて、救急車の世話になったりすることがありませんように」


 そう呟いて翠は前をふらつきながら歩く真奈を追いかけて行った。





 もしあたしの人生の中から一番の間違いを選ぶとしたら、それは間違いなくこの日真奈と一緒に学校へ行ったことだ。





 今日の五時間目の授業は数学だ。四時間目の体育、その後の昼休みを経た後の授業だからゆらゆらと船を漕いでいる生徒も多い。翠も気を抜けば漕手の仲間入りをしてしまいそうになるが、このクラスの数学はとにかく生徒を指名して問題を解かせまくることで悪名高い金田が担当だから気を抜くことはできない。

 翠は数学がそれなりに得意なので寝さえしなければどうにかなるのが救いだろうか。


「⋯⋯それじゃあ、問題を解いてもらおうか。一問目を勢川、二問目を下辻、三問目を厚芝、四問目を巨海、五問目を小鳥遊。それぞれ黒板に回答を書いてくれ」


 金田に指名された生徒達がまじかー、だの一問目でよかったー、だの思い思いのことを言い合いながら黒板へ向かう。

 そうして個人差はあれど、どの問題も五分少々で回答が埋められた―――四問目を除いて。


「なんだ、まだできてないのか。確かに少し難しいかもしれないが、落ち着いて解けば⋯⋯あ?」


「真奈?」


 自然とクラス全体の視線が真奈へ向かう。寝ていた生徒すらそのどこか異常な雰囲気に気が付いて辺りを見回しているが、真奈は全く反応を示さない。開いたノートの上に上半身を投げだし、腕をだらんと力なく垂らしたその様子は寝ているというより気を失っていると表現する方が正しいように思える。


「おい、巨海。大丈夫か」


「⋯⋯⋯あ、すいません⋯⋯えっ、と。私、もしかして寝ちゃってましたか」


 金田に肩を揺さぶられてようやく真奈は目を覚ました。ゆっくりと上げられたその顔は朝より数段顔色が悪くなっている。力も入らないのか、拾い上げようとしたシャーペンを落としてしまっている。


「体調が悪そうだな。おい、誰か保健室連れてってやれ」


「すいませ……うぅっ!」


 保健室に行くために立ち上がろうとした真奈だったが、すぐに口に手を当ててその場に膝をついてしまう。


「おいおい⋯⋯誰か急いでバケツと消毒持って来い!」


「は、はい!」


「げえ⋯⋯! ごほっごほっ、ぐう、げええええ⋯⋯!」


 真奈が滝のように嘔吐し始めたことで教室が俄かに騒がしくなる。ある生徒は自分と荷物に吐瀉物がかからないよう距離を取り、またある生徒は保健室へ消毒液を取りに向かった。翠も掃除用具入れからバケツを取って真奈のもとへ走っていく。


「真奈大丈夫!? しっかり! ⋯⋯って、あれ?」


 バケツを渡すために近づいたせいで翠は真奈の異変にいち早く気が付いた。真奈の抑えた口からこぼれ落ちるそれが吐瀉物とは思えないほど赤黒く、そしてぬめぬめとした塊状の物に変化していたのだ。血の塊にも見えるそれは、否が応にも翠に嫌な予感を抱かせる。

 一瞬遅れて同じく異変に気が付いたのであろう、金田が真奈にかけていた声がより大きくなり―――不意に消えた。


「は―――」


 びくんと金田の跳ねた体が硬直するその様は、どこかで見た魚を絞めたときのそれとよく似ている。いや、似ているというのは少し正確ではないだろうか。


 金田の腹部を見れば、そこにはつい先ほどまでは無かったはずの暗い肉の色をした太い柱のような物が貫いていることが分かる。腹を穿ったその鋭い先端は背中側へと抜け、ぬらぬらと血で己を輝かせていた。⋯⋯金田が息をしていないことは明らかだった。

 だから硬直の様子は絞めた魚に似ているというよりも絞めた魚そのものと言う方が正しいだろう。


「わ、あああああああ!?」


「え? は? 嘘だろ?」


 一拍の空白の後、それを見ていた生徒の理解が現実に追いつき教室が阿鼻叫喚の渦に飲み込まれる。椅子や机を蹴倒し、戸にはめ込まれたガラスを割るかのような勢いで教室を飛び出して行く。翠一人を除いて。


「ねえ、ちょっと……嘘でしょ?」


 翠は一人、目の前の現実が受け入れられずその場から動けないでいた。

 金田が死んだことではない。そんなことは些細なことだ。ショックではあるがそれだけだ。だがは到底受け入れることなどできない。


 先程金田を貫いた肉の槍⋯⋯この先端は金田の背中から突き出ていた。ではその反対、根元はどうなっているのか。つまりこの槍はどこから生えているのかということが問題だった―――槍は、真奈の口の中から延びていた。


「何で⋯⋯何で、真奈が」


 異様なまでに大きく開いた口からは成人男性の太腿ほどの太さはある肉でできた槍の様にも蛇の様にも見える物体がずるずると這いずり出てきている。明らかに常軌を逸した光景だが、その光景を引き起こしている張本人は虚ろな表情で虚空を眺めるばかりでこれといった反応を示さない。


 つい数分前まで何気ない日常を送っていたはずだ。それが一瞬にして見たこともない悪夢めいた状況になるなどいったい誰が予想できたであろうか。


「どうして」


 ぐう、と血が出るほど噛み締められた翠の口からぎりぎりと錆びついたような声が絞り出される。


「どうして真奈がなんかになるんだよ!?」


 そう言った瞬間、それまでの静かな様子が嘘だったかのように肉の槍が暴れ狂う。

 爆発したのかと錯覚するほどの勢いで体積を増した槍は伸長し、枝分かれし、捻じれ、人を食らいながら校舎を包み込んでいく。


「ああああ!?」


「ぎゃあああ」「痛い痛「あははは」い!」「やめて!」「誰か」「助「ははは」けて!」「いやだい「ひゃはは」やだいやだ」「にげ「きゃはは」ろぉ「いいいいいいぃぃぃぃいいひひひひひいひひひはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」


 飛び交う肉の槍を避けながら翠は校舎を這うように進む。槍が周囲を破壊する音に混じる悲鳴や人がぐちゃぐちゃになる音、それに真奈のゲラゲラという笑い声に頭が割れそうなほどに痛む。


「なんとかしてここから出なきゃ⋯⋯!」


 だが翠のいる場所は全方位を肉の槍―――密集したそれはもはや肉の壁とでも呼ぶべきものになっていた―――によって塞がれていた。逃げる場所は無い。


「どうすれば!?」


 思わず足を止めてしまう翠。そして槍を操る真奈はそんな明らかな隙を見逃すことはない。


「いっ⋯⋯ああああああ!?」


 左足が丸太のような太さの肉塊に潰される。火を付けられたかと思うほどの熱さが足から頭のてっぺんへと駆け上がる。

 動きができなくなった翠に向かって鞭の如くしなる槍が殺到する。その様はまるで手負いのネズミに群がる肉食獣の群れだ。


「ま⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 背を突き破って何か鋭利な物が入り込んでくる気持ちの悪い感覚を最後に、翠の意識は闇の中に消えていった。





 不確かな意識の中、歌を聞いたような気がした。

 歌っているのが男か女か、若者か老人かは分からない。どこで歌っているか、どんな歌かも分からない。

 だけれどそれは、どこか悲しみを歌っているような、気がした。





 真奈が狂気に飲まれてから約一時間後、翠たちの通う高校は半壊し見るも無残な有様になっていた。その周りを太く長く伸びた肉の槍が取り囲んだことにより、今ではまるで肉でできた籠で包まれたかのようにも見える。


 その異形の籠と化した校舎に踏み込む集団が三つ。物々しい格好をした集団だ。全員がヘルメットや戦闘服そして銃などの統一された黒い装備をしている。

 それぞれの集団は五人ずつの隊列を組みながら校舎内をゆっくりと進んでいた。


「アルファ1より本部。北校舎一階部分の捜索を完了。これより二階部分の捜索を開始する。オーバー」


『了解した、引き続き作戦に当たれ。アウト』


『チャーリー3より本部。負傷者を多数発見、回収部隊の派遣を願う。位置情報を送信する。オーバー』


『了解。すぐに派遣する。アウト』


 彼らは負傷者を見つけるたびにどこかへ無線を入れながら歩を進める。しかし彼らの目的は負傷者を見つけることではない。


『こちらブラボ―1。目標を発見した。目標は狂乱状態にあるため説得および確保は危険と判断。またコンパスの反応から危険度は極低いと考えられるためこれより我々のみで排除を行う。オーバー』


『こちら本部。了解した。アルファ隊及びチャーリー隊はそのまま負傷者の探索を継続せよ。アウト』


 彼らの目的は事態の元凶である真奈を発見することだ。そしてそれもたった今完了した。


「ちぇっ、危険度は低いのに規模はそこそこのいい任務だと思ったのに。美味いところはブラボ―隊が持ってったか」


「三瓶⋯⋯五月蠅い上に不謹慎だ。無駄口を叩く暇があったらもっと周りに目を光らせろ」


「ってもよお、やる気が出ねえのはしゃあねえじゃん」


「これは我々の職務。自分のやる気に左右されるなどもっての外だ」


 本部からの連絡を聞いた隊員達が緊張感無く会話を始めた。不気味な肉塊に囲まれている状況でする会話にしてはあまりに平和で、それがむしろ異常だ。しかし周りにいる人間でそれを止める者はいない。それどころか会話に参加する人数は増えていった。


「まあまあ三谷、緊張感を持つのはいいことだが三瓶の言うことも一理あるんじゃないか? 魔女を仕留めれば手当も増えるし評価も上がる。それがよそに持ってかれたとありゃあやる気が減るのは仕方ないし、人間はそういった報酬なしにいつでも動ける訳じゃない」


「平井さん!」


「そら、俺の言う通りじゃないか」


「それだって限度があるわ。ですよね?」


「ははは、それも道上の言う通り」


「ぐぅ⋯⋯」


「ふん」






「―――総員、警戒態勢」


「「「「!」」」」


 そんな場違いなまでに明るい雰囲気は一人の男の短い言葉で打ち破られた。とても静かな口調だったが、隊員たちは弾かれたように反応し素早く銃を構える。


「隊長⋯⋯特に異常はないように思えますが?」


「いや、僅かだが確かにコンパスに反応があった」


「そりゃブラボ―隊が見つけた魔女を指してるんじゃ?」


 コンパスというのは部隊ごとに支給された道具の名称だ。その名の通り羅針盤に近い形をしているが、これが指し示すのは北ではなく彼らのだ。


「ブラボ―隊がいる場所はコンパスの有効範囲の外だ。それにブラボ―隊がいるのは南だがコンパスが指したのは東だ」


「それじゃ、本当に二人目の魔女が⋯⋯!?」


「全く、勘弁してほしいな⋯⋯こちらアルファ1。本部応答願う」


『こちら本部。何があった』


「イレギュラー発生。コンパスがブラボ―隊の発見した魔女以外の反応を捉えた」


『!? りょ、了解した。少しでも危険があると判断したら即時撤退せよ。アウト」


 無線を切るとアルファ1、隊長と呼ばれた男は隊員たちにハンドサインで指示を出し、隊列の組みなおしが終わると姿勢を低くして廊下を進み始める。


「ここだ」


「⋯⋯」


 コンパスの指し示す一つの教室の前で隊は止まる。一度アイコンタクトを交わしタイミングを測ると静かに戸を開け、素早く室内へ滑り込んだ。


 その教室は他の場所と比べると少し解放感を感じた。壁に大穴が開いているのも理由だが、それよりも真奈が生み出した肉が何故かここにはとても少ないことが大きい。


「隊長!」


 道上と呼ばれた隊員が声を上げる。その視線の先には気を失っている女子生徒が一人。

 倒れひしゃげた椅子と机の隙間に横たわっている少女の衣服には至る所に大きな穴が開き、全身が煤で汚れていた。腹回りに付いている黒い染みのような物は血液かもしれない。

 一見しただけでは死体と見紛うような有様だが、その胸は確かに上下していた。


「―――」


 隊長が手に取ったコンパスを見下ろす。今その針は瘧のように激しく震えながら少女をはっきりと示していた。


「こいつが目標だ。コンパスの反応から超高危険度が予想される。目を覚まさないうちに拘束しろ」

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