おまけ 二年後 夏

「お疲れさまでした」

「ああ、お疲れ~」


 先輩に声をかけると、俺は職場を出た。

 七月の空気は蒸し暑い。大雨が過ぎ去ったばかりの街はもうもうとしている。


 長野市の西にある大型のスポーツショップ。専門学校を出た俺はそこで働いている。


 いろんなスポーツの知識を仕入れたが、やはりメインは野球だ。野球用具に関係する相談は、俺が積極的に受け持っている。相変わらずコミュ障気味ではあるが、好きなことに対してなら普通にしゃべれるのだ。


 ――二年、か。


 俺が高校を卒業して、それだけの時間が流れた。

 専門学校を三月に卒業し、四月からは今の職場勤務。残業もたまにあるが、きついというほどではない。


 去年の秋に免許を取り、車もすでに持っている。黒のシビックだ。最初は自分で買うつもりだったのだが、修介さんに「玉村家の車庫で置物と化している車を使ってやってくれないか」と言われ、譲り受けた。だからけっこう前のモデルだが、乗り心地はとてもいい。


 五十鈴は高校を卒業してから、専業イラストレーターとして仕事を続けている。初めての依頼をきっちりクリアしたことで、続けて仕事が入ってくるようになった。


 高校三年生のあいだは、学業と画業の掛け持ちで、疲れのあまり体調を崩す時も何度かあった。しかし本人的には充実しているみたいで、前より笑顔が増えたように思える。


 今朝も少し調子が悪そうだった。

 もうおなじみといえばおなじみなのだが、心配だ。残念でもある。今日は特別な日だから出かけたかった……。


     †


 車をマンションの駐車場に止めて外に出る。


 ここは五十鈴の両親が見つけてくれた賃貸マンションだ。四階建ての最上階に俺たちの部屋はある。玉村家からかなり近く、非常事態にはすぐ大河原さんが駆けつけてくれることになっている。


 エレベーターで四階へ。

 四○六号室。角部屋。


 鍵を開けて「ただいまー」と声をかける。


「おかえりなさい~」


 小さな返事があった。


 リビングに入ると、ローテーブルの上にタブレットを置いてペンを走らせている五十鈴の姿が見えた。カチューシャはしなくなったけれど、ロングスカートスタイルは変わらない。


 同棲生活は今年の四月から始まった。五十鈴と俺がそれぞれに卒業してから。そういう取り決めだったのだ。


「ちょっと休まないか?」

「そうします」


 五十鈴は作業を中断して、大きく伸びをした。


「ふぅ」


 ソファーに座る五十鈴。俺もその横に腰を下ろした。


「大丈夫か?」

「ええ、薬を飲んで午前中はしっかり休みました。おかげでだいぶ楽です」

「そっか。でも無理しないほうがいいな」

「そうですね。恭介さんには申し訳ないですけど……」

「なにが申し訳ないんだ?」

「出かけたかったんでしょう?」

「な、なぜバレた」

「恭介さん、出かける日は必ず朝のうちに服を用意しますよね。最近、それでわかるようになったんです」

「なるほど……」


 帰ってきてバタバタするのが嫌だから、早めに用意しておきたいのだ。


「まあ、今夜は出かけずにゆっくりしよう」

「なにか用事が?」

「五十鈴と食事に行きたかったんだ」

「あら、週の真ん中でそういうのはめずらしいですね」


 やっぱり覚えていないのかな、五十鈴……。


「進捗は?」

「八割くらいですね。これが終われば次のお仕事の〆切りがかなり先になるのでのんびりできそうです」

「そっか」


 五十鈴の仕事の中心は、やはり小説関係のイラストだ。俺もこの二年で勉強したのでそこそこ詳しくなった。


 一般文芸の単行本や文庫の表紙、小説雑誌の連載作品に挿絵を描いたりする。こちらは比較的、風景重視のタッチ。


 一方、ライトノベルのイラストも描く。こちらはキャラ重視で背景は簡素だ。五十鈴のところにやってくる依頼は、青春ものや恋愛ものの挿絵だ。異世界ファンタジーや異能バトル系の依頼は来ない。それはきっと、五十鈴の絵に儚さや繊細さがあるからだと思う。


 俺の収入は低めながら、毎月確実に入るので安定している。五十鈴は不安定な代わりに入る時はドカッと入る。

 うまくバランスが取れている。おかげで、どちらの両親にも資金援助を頼んだことはない。


「あ、連絡を入れなきゃいけませんね」

「おう、やっとけ」


 五十鈴がスマホをいじる。

 定時連絡だ。

 俺がいない時の五十鈴は、二時間おきに泉美さんにメッセージを送っている。俺が帰宅したら報告し、翌日出勤するまで連絡はしなくていい。

 こうすることで、俺が不在の時、万一五十鈴が倒れてもすぐに玉村家の誰かが駆けつけてくれるというわけだ。

 手間ではあるが、五十鈴と俺が同棲するにはこのくらい必要になるのだ。


 俺の両親も、五十鈴の両親も、二人で暮らすことを認めてくれた。

 とはいえ修介さんと泉美さんは心配だろう。そこで出たのが定時連絡という方法だった。


「そういえば、今日は清明の試合があったんじゃないですか?」

「ああ、速報で見たけど圧勝だったよ。今年こそ甲子園行ってほしいな」

「懐かしいですね。恭介さんと並んで試合を見たことを思い出します」

「そう、それだ」

「え?」

「今日はその日なんだよ」

「……あっ」


 ようやく、五十鈴は気づいた顔になった。


 今日は、二年前、俺と五十鈴が野球部の県大会初戦を見に行った日なのだ。

 二人で野球の試合を見に行ったのは、結局あの試合だけだ。俺たちにとっては特別な一日。


 なにより、その日は――。


「五十鈴」

「は、はい」

「今日は、俺がお前に告白した日でもあるんだ」

「……そうでしたね」


 五十鈴は俺を見て、うっすら微笑んだ。


「だからさ」


 俺は、足元のショルダーバッグに手を入れる。


 本当は一緒に外食をしたあと、思い出の雲上殿に行けたら最高だった。ロマンチックすぎるかもしれないが、そのくらいしてもいいと思っていた。


 けれど、五十鈴の体が最優先。

 これはこれで俺たちらしい形だと、前向きに考えることにする。


 俺は白い小箱を取り出し、五十鈴に渡した。


「開けてくれ」

「え、ええ」


 五十鈴が恐る恐るといった様子で小箱を開ける。


「あっ――」


 そこには、ホワイトゴールドの指輪が入っていた。


「きょ、恭介さん、これって……」


「五十鈴」


 俺はまっすぐに五十鈴を見つめて、言った。


「俺と、結婚してほしい」


 すぐには受け入れられないみたいだった。五十鈴は口を開けて、しばらく固まっていた。


 それから硬直が解けたように、小箱のふたを閉じ、テーブルに置いた。


 五十鈴の両手が俺の両手を握ってくる。どちらの手も熱を持っていた。


「恭介さん――ぜひ、受けさせてください」


 五十鈴の目から涙がこぼれ落ちた。

 俺の目頭も熱くなっていた。


 特別派手なことなんてない。俺たちにあるのは、ささやかだけど、愛おしい日常。


 五十鈴はこれからも俺が支えていく。家族として。


「恭介さん……恭介さんっ」


 胸に飛び込んでくる五十鈴を抱きとめた。


「嬉しい……本当に、この瞬間をどれくらい夢に見たか……」


 震える声。俺は五十鈴の体を優しく抱きしめ、妻となる大切な人を感じた。


「新海五十鈴って微妙に言いづらいな」


 ちょっと話をずらすと、五十鈴がようやく顔を上げた。涙と笑顔でくしゃくしゃの表情。ここまで感情をあらわにした五十鈴は初めてだ。


「そんなの、すぐ気にならなくなりますよ」

「そうかな」

「はい。新海の一員として頑張ります。まずは立派な奥さんにならなきゃ」

「その前に体調を万全にするところからだな。ここのところずっとだるそうな顔してるし」

「うっ……も、もう平気です。こんな幸せなことがあったらすぐ全回復しちゃいますね」


 胸を張ってみせる五十鈴。高校を卒業してもかわいらしさは健在だ。


「ちゃんとよくなったら、次こそ食事に行こうな」

「はいっ!」


 五十鈴の笑顔は、窓から差し込むオレンジ色の夕日に包まれて、最高にまぶしく見えた。










     †     †


 本作はこれにて完結です。

 おつきあいいただいた皆様、本当にありがとうございました!

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からかい好きな病弱お嬢様とコミュ障な俺の、ささやかで愛しい甘々生活。 雨地草太郎 @amachi

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