36話-空虚-

 【彼】が殺され、私が拘束されてからの数日間、様々な手続きがあったような気がするが、ぼんやりとしか覚えていない。



 気が付いたら、私は監獄にいた。


 自分でも妥当な措置だと思った。


 末端とはいえ、仮想敵国と工作関係を結んでいた組織の一員なのだから。


 


 数か月前まで自分がアイドルのステージの舞台袖や、高級ホテルのスイートルームにいたとは思えなかった。


 諸行無常という宗教用語があるが、人間すべてを失ってどん底へ落ちるときは大抵このようなあっけなさなのかもしれない。




 テレビもなくラジオもなく、寝床となる単調なマットレスと、トイレ以外は何もない空間。



 【彼】の死んだあの場所で睡眠薬を盛られた私は、家具か何かのようにその空間―――独房に放り出された。

 当然、部屋は二重に施錠されており、窓も片手がやっと通せるほどの大きさのものが一つだけ。

 普通の人間はもちろん、おそらく【霧】の工作員であっても、脱出することは困難だろう。




 いや。

 もう今の私には、脱出する理由がない。





 職業柄はっきりとした戸籍を持っていなかった私は、それを理由に裁判を受けることすらなく、投獄されたのだ。


 【彼】は世を去った。


 隣国相手の工作活動を主要活動としてきた組織のエースは、皮肉にも同国人に処刑されたのだ。


 私が収監される直前、とある警備室から流れてくるラジオ番組の音声で、あの日あの洋館で半殺しにされて転がっていたゴンゾウ・ヤグルマらも逮捕されたと知った。


 名実ともに、【霧】は死んだのだ。



 

 今の私には名前がない。家もない。

 自分の真の姿を知り、守ってくれる人間もいない。



 活動する組織が崩壊した以上、脱獄して何かをする理由は無い。

 大体脱獄したところで、私には帰る家がない。

 工作活動のたびに素性を変えた私にとっては、変装中の仮の住まいこそが家だった。

 スパイでなくなり、かぶる仮面もなくなり、戸籍すら持たない私など、娑婆に出ても誰にも歓迎されない。

 最早この牢屋ではなく、櫻宗国という島国全体が、今の私にとっての牢獄なのだ。






 改めて自分がそう認識したとき、自分の脳、自分の脊髄、自分の自律神経に、全く力が入らないことが分かった。



 なぜなら、【霧】の【姫君】こそが私が私である理由であり、名前は任務の度に変化するものだった。



 【霧】が消滅した今。



 名前も、自分が自分である理由も―――




 そこまで考えたその日の夜、私は。


 私という、人間の形をした空虚な何かは。


 一人、泣いた。




◆   ◆   ◆




 その日、ふと、目が覚めた。

 月の光だけが、小さな窓を通して、暗闇の中で視界に映っていた。


 私は月の光に誘われるように、窓に背を向けていた身体を仰向けにした。無機質な灰色の内壁が月の光で深青色に染まっている。寝起き様で視界もぼやけていたので、海底から窓という海面越しに月を見ているかのようだった。私の立場は廃棄された政府の部品なので、海に沈められた軍艦のようにそこに伏していることはある意味ではおあつらえ向きだった。




 涙を流した後、私は微動だにせず、何かについて思考回路を働かせることもなく、彫刻のように固まっていた。


 まるで流した涙が私の本体であり、私の肉体は抜け殻のようにそこに放置されたかのようだった。


 日に2回渡されるパンとスープにも、手を伸ばすことはなかった。




 多分私は、あのまま餓死しようとしていたのだと思う。


 エネルギーを摂取しようとしても、目的がなければ体を動かす意味がないからだ。


 戦火の中で【彼】に拾われた私は、あの時スパイとして二度目の誕生を迎えた。

 ならばスパイとしての役目が終われば、必然、その瞬間こそが私にとっての二度目の死。



 今日も睡眠時無呼吸症候群で死ねなかった、とか、スパイ小説によくいる悪役のように舌を噛みきって死ねたらよかったのに、とか考えながら、何もせずにただ横たわるだけの日々が毎日続いたのもまた必然。



 だが淡い月光に照らされた独房の静けさと、抽象的な美しい空間の影響だったのだろうか。

 その日の私は、やけに落ち着いていた。

 私が独房ここに入れられた日も、こんな満月の夜だったな、という思考を巡らせる程度には。


 変らぬ夜空に情緒もなくし、方向性を見失った私の思考は、今まで考えてこなかったこと―――自分の人生における根本的な問題について思考していた。

 思考、と呼べるほどのものではなかったのかもしれない。

 死ぬ前の暇つぶし、のようなものだったと思う。

 身体を動かさずに寝ている間、脳が思考を整理するために夢を見るようでもあった。


 ともあれ、この場の私はある問題に思いをはせていた。

 私は、何のために生きてきたのだろうか、と。


 思えば、常に【何かをすべきだ】という任務の中で生きてきた。

 【何かをすべきだ】の基準となってきた組織は、もうない。



 動物は、子孫を残すために生きている。

 捕食・生殖などの動物的本能で動く以外に、個体としての自分の存在意義などは考えない。



 だが人間は、なまじ思考力と自我が存在するために、【自分という個体が何のために生きているのか】を考えてしまう。



(その悩みを補うために作られたのが、神話や宗教……か)


 ふと、そんな考えに至った。


 だが、啓蒙主義と科学の発達によって、その神話や宗教による世界観も否定され、結果として【自分が何のために生きているのか】について悩む人間だけが残った。



 スパイになった私や、先の大戦で犠牲となった兵士たちが神話や宗教の代わりに生きる原動力としたのは、【国のため】に動く、という、いわゆるナショナリズム。

 しかしそのナショナリズムが、いつしか権力者の私腹を肥やすためのシステムと化していたことは、【霧】の腐敗を見ても明らかだった。

 そしてその腐敗は【彼】の裏工作によって暴かれることになり、市民たちは【自由のため】という新しい概念を生きるための原動力として、政権を転覆させた。



 自由、か。



 悪くはない言葉だが、徹底した思想教育の下で生きてきた私にとっては逆に不自由な概念だ。

 自由な人生とは、つまるところ思想教育に捕らわれない人生、という意味だし、私にとっては今までと真逆の人生にも等しいだからだ。

 とどのつまり、仮に私が今の櫻宗国で一般市民として自由主義の下で暮らしたところで、それはやはり、今いる独房にいることとそう変わらないのだ。



(どう思考を巡らせても、結局今の世界は独房ここだけか)



 つまるところ、今の私――スパイでなくなった、名前すらないただの女――は、時代のうねりから生まれた哀しき存在なのだ。





 せめて【霧】が健在だった頃に、こういう事態に陥ったときどのような行動を起こすか決めておいていれば、私の心がこのような空虚に堕ちることはなかったのだろうか。






 ―――【霧】が解体したとき、貴方たちはどうしますか?





 そこまで考えて、私は一度養成時代に、【彼】が私を含む、各工作員候補生に問うたことを思い出した。

 人類全体というマクロな視点で歴史を見た私は、やがてミクロな視点――私的な歴史を振り返っていたのだ。



 それは教室内で公式の授業が始まる前の非公式の質問だったが、候補生たちの回答は、人によってさまざまだった。



「【霧】が倒壊しても、【霧】が守るべき国民がいなくなるわけではないですよね? あまり表立っては言えませんが、裏切者と言われようとも、所属する組織を入れ替えて、国民を守るために工作活動を続けると思います」

 国内の他の組織に寝返る者。

 当時所属していなかったイメルダも、この場にいれば同じ回答をしていたのだろう。

 一見軍事政権の下で動くスパイにあるまじき回答だが、基本放任主義だった【彼】はその答えを返した候補生に何も言わなかった。

 このタイプの連中は国を守ることを軸として掲げていた。おそらく同タイプの者のなかからは、【霧】の腐敗を知ったのち、イメルダのように組織を裏切った者たちが大勢いるのだろう。



「【霧】があってこそ、俺達は工作活動を続けられるわけでしょう。【霧】のない櫻宗国にいる理由はありませんよ」

 国外逃亡する者。

 国内の組織に寝返った者たちが国民を守ることに生きがいを感じていたのだとすれば、彼らはスリルや緊張感のある工作活動をゲームか何かのように楽しんでいた。

 この手の連中は【霧】崩壊後、規格外の報酬と引き換えに外国政府と非公式の契約を結んで工作任務を続けているはずだ。

 旧政権が【霧】にやらせてきた血生臭い工作活動も、いくつか彼らに売り飛ばされているかもしれない。



「【霧】は私の生きる理由です。【霧】が無くなれば、私も命を絶つまでです」

 組織と心中する者。

 私が拘束される直前、【霧】の隠れ蓑で【彼】が両手を置いていた書面の中には、実際に毒薬を煽って組織と心中した者のリストもあった。



 それぞれの回答に対して、【彼】は特に何が正しく何が間違っているとは言わなかった。

 アンケートや心理テストに同じく、各々の性格を見るために応えた質問だったのだろう。



 九番目だか、十番目だかに問われた私は、あの質問にどう答えたんだったか。


 あぁ、そうだ。



「どのような状況によって【霧】が解体するかは、様々なパターンが考えられます。その時になってみて状況を整理しないことには、明確な答えは出せないかと」



 我ながら呆れ返る、主体性のない質問だった。

 その時【彼】には柔軟性がある、と褒められたような気もするが、今思えば実質的な回答放棄に他ならなかった。


「うまくはぐらかしたわね」


 質問した【彼】が去った後、同じ候補生にそういわれた。

 命を絶つ、と答えた候補生だった。

 なお彼女は私よりもずっと年下だったが、工作員候補生としてのキャリアは同程度なので先輩後輩の序列は存在しない。



「状況に応じて判断を変える柔軟な生き方を否定はしないわ。でもそれって、一貫した何かを持ててないってことだし、そういう人間ってなんだか頼りないのよね」

 

 私はその台詞を聞き流していた。

 【霧】の工作員は一人一人価値観が異なり、各工作員の任務は上層部や【彼】が調整していたので、各工作員と細かい思想や価値観まで共有する必要などないと考えていたからだった。

 実際長らく彼女のこの発言は忘れていたし、今人としてになったことで十数年ぶりに思い出したのだ。



「そういえば貴方は、【彼】に拾われたころは既に五歳ほどの少女だったのだっけ。その年代としに拾われたのなら、仕方ないのかもね」


 その後、命を絶つと答えた彼女はそうも言った。

 人づてに聞いた話だが、一人で歩くことすらできない乳児の頃に、【彼】に拾われたのだという。

 つまりあの候補生は、拾われた時わずかに自我があった私と違い、拾われた時点で、スパイ以外の何者でもなかったわけだ。

 それなら、【霧】での任務自体を生きる理由とするのもうなずける。




 彼女の写真が自決リストの中にあったのは、言うまでもない。




 私と違って、自分がどういう生き方をしたいかが、彼ら・彼女たちの中でははっきりと輪郭を持っていた、という【彼】の言葉が、改めて脳内に蘇ってきた。



 だがなぜ、彼ら彼女らはその生き方を選んだのだろう。

【国のために】、などという建前上のナショナリズムなら私でも持てた。

 恐らく必要だったのは、問題の更なる掘り下げ。

 つまり、【何のために国のために生きるのか】、という問題の。


 

 一人で考え詰めても、らちが明かなかった。

 だから【霧】の工作員たちがどういっていたかを、私は振り返った。

 確か【彼】に質問された直後、候補生同士で答えの真意を語り合ったのだった。



 寝返る、と言った彼女はどうだった。

―――【霧】が守っているのは国民です。例え今の組織を裏切ることになっても、国民の意思に従い、国民が信じた組織を信じたいだけです。



 国を出る、と言った彼はどうだった。

―――工作活動こそが俺の性に合った生き方なんでね。生き方も性に合ったものにしたいだけさ。



 組織と共に死ぬ、と言った彼女はどうだった。

―――組織のために生きてきたからには、組織のために死にたい。













…………あれ?













 

 【従いたい】?

 【ものにしたい】?

 【死にたい】?




 ―――彼らは生きてどうしたいか、で動いていた?

 ―――生きてどうすればいいか、ではなく?



 そこまで考えて、私は自分に問うてきた【何のために生きているのか】という問題が、【何の為に生きればいいのか】と同義だったことに気付いた。



だが思った。

何の為に生きればいい、というのは、誰にとっての【いい】なのだろう。

所属する【霧】にとって? 直属の上司であった【彼】にとって?

だが【霧】は解体したし、【彼】はもうこの世にいない。

じゃあこの場合の【いい】って、誰にとっての【いい】なんだ? 



彼らが語っていたことを、もう一度私は反芻した。

―――他人がどう、ではなく、自分が納得できる生き方のことを、彼らは【いい】と言っていたのか?

―――私以外の【霧】の工作員は【何の為に生きればいいか】ではなく、【自分が何の為に生きたいか】という問いをしてきたのか?

 矢のごとく、そのような考えを脳内がかすめていった。



 ……いや、しかし、その生き方は単なるエゴだし、動物的本能と紙一重じゃないのか。犯罪者や腐敗した権力者は、正に自分が楽しければそれでいいという動物的本能で動いているし、文明社会に生きる我々人間はそんなエゴに囚われず自分を律して生きるべきだ。


 いや、しかしそのような考えに徹した結果、私は組織の腐敗に身動き一つとれなかった。理性的な生き方は、時として世の中の理不尽に抗う強さを人間から奪う。


 いや、しかし、人々のエゴが集まって国単位の者となった結果、二十年前に戦争が起こった。


 ……いや、しかし……


 …………いや、しかし…………


 ……………………いや、しかし……………………





 もがけばもがくほど沈んでいく蟻地獄のよう自問自答の連鎖。

 感情など遠に失せたはずの私の眉は、その連鎖の中でいびつにゆがんでいた。


 脳内が周りに周る。

 結局、私はまだ死ねていない。



「……どうしたらよかったっていうんですかっ……!!」


 思考の渦の中で息が詰まった私は、既にこの世にいない上司に毒づいた。



 思わず出た言葉は、「どうしたらよかった」。

 結局頭を全力で回転させようとも、私は【どうしたい】という思考が出来ず、【どうすればいい】という思考の沼に囚われていた。

 美しく見えた月が、今は自分を見下し、嘲笑っているようにすら見えた。



 出口の見えない思考の迷路に陥っていた時。



 一筋の心地よい旋律が、その場を流れた。



「……………………………………………………………………………………この曲」





 【ロングデイズジャーニー】―――私が作戦の隠れ蓑として作り上げたに過ぎないはずの、うら若き少女たちの歌声だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

国家直属のスパイの者ですが、アイドルのプロデューサーになりすまして冷戦中の仮想敵国を偵察したいと思います-両国の未来のために合同アイドルライブを開きたいと今更言っても、もう遅い……?- 八木耳木兎(やぎ みみずく) @soshina2012

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ