エピローグ・2 春の庭
膝丈の綺麗なワンピースを纏った少女が、がさがさと茂みを掻き分けて進む。
貴族の淑女としては眉を輩められる行動だが、少女は気にした風も無くずんずん進む。やがて茂みの中の程よい隙間に、汚れることも厭わず腰を下ろして、きゅっと丸まった。
やがて、同じように茂みを揺らす音がして、少女が声を堪える為に両手で口を覆い――茂みの隙間からぬう、と銀色の腕が伸びて、少女の襟首を掴んだ。
「きゃあー!」
甲高い悲鳴を上げながら、少女の小さな体は軽々と持ち上げられ――銀色に鈍く光る長い腕の中にすっぼりと納まった。
「お嬢様、見つけましたよ。お部屋に戻りましょう」
「ヤズロー! しゅくじょのあつかいがなっていないわ! ドリスのことりにいいつけてあげるのだから!」
淑女としての嗜みなど知ったことではないとばかりに大声を上げ、足をばたつかせる少女をうまく抑え込みながら、伸びた背丈に合った両足を動かしてヤズローは屋敷に戻る。同時に、片方は宝石に変わってしまった両目で、不遜でない程度に少女を睨みつけた。
「師匠はこの前来たばかりでしょう、東の森も遠いのですから頻繁に呼び出さないで下さい。何より、そんな格好でおられたら流石に貴女に甘い師匠も叱りますよ」
「けんりをえるためのとうそうのけっかよ! めいよのふしょうよ!!」
「違います。単純に午後のお勉強を無視する為の無茶です」
「むしをするつもりはないわ! ただいっとき、めをそらしただけよ!」
「一時ならばもう充分でしょう、お戻りください」
「なんてこと!」
がぁん、と己の理論の穴に気づいたらしく顔を蒼褪めさせる、綺麗に切り揃えた銀髪を揺らす少女を銀色の肩に抱き上げ、ヤズローは嘆息する。年の頃に似合わず達者な口だが、まだまだ旦那様のようにはいかないようだと留飲を下げながら告げた。
「それに、旦那様がお目覚めになりましたので、ご挨拶を致しましょう」
未だ逃げ出そうと暴れていた少女が、その言葉にぴたりと動きを止め――ぱああ、とまさしく大輪の花のような笑みを見せて、忠実な執事の首に抱き着く。当然、ヤズローの方は欠片も揺らぎはしない。
「ほんとう!? おとうさまがおめざめになったの? おかあさまは?」
「既に旦那様のお部屋におられます。さあ参りましょう、お嬢様」
「うん! さあいそいで、ヤズロー! おようふくもきがえないと!」
「仰せの通りに」
すっかりやる気になってますます暴れる幼い子供をしっかり抱き締めながら、ヤズローは早足で、新王都に建て直された小さな屋敷の中へと戻っていった。
×××
数分でちゃんと身支度を整え、少女と執事は主寝室の前までやってきた。
最後の確認とばかりに着替えたドレスの裾を揺らしている少女を目で制してから、ヤズローはここん、と小さくノックする。
「失礼致します、お嬢様をお連れしました」
『――ええ、お入りなさい』
静かな女性の声にヤズローは軽く目礼をし、僅かに軋むドアを開ける。
日当たりの良い部屋の中には大きなベッドがひとつ。枕元に据えられた椅子には、美しい銀髪を綺麗に結い上げた細身の女性が座っていた。ヤズローと少女の姿を認めると、青と金、ちょうど半分に分かれた瞳――かの崩壊が齎した肉体の損失は、どうにか嘗てと同じぐらいまで戻すことが出来た――がゆるりと微笑み、軽く手を招いた。
「ありがとう、ヤズロー。ラヴィ、こちらへいらっしゃい」
「はい、おかあさま!」
走り出したいのをぐっと堪えて、ゆっくり歩み寄る少女に、ヤズローがやっとそれぐらいの取り繕いは出来るようになったのかと失礼な関心をしている内。寝台の中、ほんの僅か隆起したシーツの中からもそもそと声がした。
「……ああ、ラヴィー、ラヴィリエ。我が愛しの娘よ、そこに居るのだね? どうか顔を見せておくれ」
「おとうさま!」
母の膝に乗った娘が、彼を呼ぶ。ベッドの上に寝転んでいたのは――枯れ木のように痩せ細った、シアン・ドゥ・シャッス家の現当主だった。
嘗ての姿は見る影もなく、腕も足も風が吹けば飛ぶほどに細い骨と皮しか残っていない。夜着の下にある筈の腹部は、えぐれてしまったかのように凹んでいた。まるで中の内蔵すら無いと思われる程に。かの悪食男爵の姿を一度でも見たことがあるものならば、この変わりように驚愕しただろう。
だが、ラヴィ――本名をラヴィリエ・シアン・ドゥ・シャッスと言う――少女にとって、生まれた頃から父はこういう姿であったし、最早1年の殆どを寝台で眠って過ごすのは当たり前のことだった。だからこそ、この好機を逃さないとばかり、きらきらと輝く金色の欠片が幾つも散った青い両の眼で父を覗き込んだ。
「おとうさま、ラヴィはここにおります!」
「おお――何と大きく、麗しく、賢く育ったのだろう、我が愛娘は。これも全て、我が愛しの妻と忠実なる執事のおかげだ、何度礼を言っても言い足りないとも」
「勿体ないお言葉ですわ、あなた」
賛辞が自分にも向いた奥方が、ほんの少し頬に朱を乗せて微笑むのに合わせて、ヤズローも控えたまま丁寧に礼をする。ビザールが命を保つために眠りについている間、ラヴィリエをこの家の跡取りとして申し分なく育てるのはリュクレールとヤズローの一番の仕事だった。
――崩壊神の出口を完全に塞ぐことに成功はした。だが行きがけの駄賃とばかりにあの邪神は、ビザールの体の殆どを「壊して」いった。神官や魔操師の診断としては、生きているのが有り得ないほどに身体の機能は低下しており、同時にいつ死んでもおかしくない筈なのに魂は鎮座し続けているという、奇妙な状態を保ち続けていた。恐らく人間としての理の殆どが、壊されてしまったのだろう。崩壊神の神紋を刻みつけられてから、いずれ人ではなくなると彼自身も理解していた果ての姿だった。
しかしこの通り、ほぼ動けなくなったものの意識と弁舌は変わらず確りとしており、妻と執事の献身的な介護により命を長らえさせている。一粒種ではあるが、次代の子供すら生まれさせることが出来た。
「ラヴィ、麗しき我が娘よ、吾輩の手に触れてくれるかね?」
「はい、おとうさま」
ちゃんと母の顔を見て確認してから、ラヴィリエは母の膝から降りてベッドの縁に寄る。シーツの上に投げ出されたままの枯れ木のような手指を、小さな五指でそっと握った。
「なんと温かい。なんと瑞々しい。――我か妻を愛し、君という娘を得られただけで、吾輩の人生は意味を果たしたと言っても過言ではあるまい」
父の言葉遣いは相変わらず娘にとっては難解だったらしくちょっと首を傾げているが、かさついた肌を癒すように小さな手で何度も撫でている。ビザールも、娘の困惑に気づいたのだろう、あくまで明るく、腹に力を籠められない声だったけれど、改めて話しかけた。
「つまらない話をしてしまったね、許してくれたまえよ。これから見る見るうちに大きくなってしまうのだろう君は、これから何か成したいことはあるかね? 何を食べたいでも、どんなことでも良い。どのような大人になりたいかね」
その問いかけはちゃんと理解できたので、ラヴイリエは笑顔で意気込む。
「たくさん、たくさんありますわ! おかあさまみたいに、きれいになりたいし、けんもじょうずになりたいです! そしておとうさまみたいな、やさしいかたとけっこんしたいです!」
「なんと!! 最早君を手放すことを愚考しなければならないというのかね……。何という試練だろうか!」
「ふふふ、まだまだ先の話ですわ」
本気で衝撃を受けたように枕からかくりと顔を落とす良人に、美しい妻にして母、リュクレールは唇を綻ばせた。
×××
それから数刻、ラヴィリエは部屋に居座っていたが、父親が大欠伸をしたあたりで従者に抱き上げられた。最初は自分の脚で歩こうとしたが、勉強から逃げようとしているのを見破られたからである。
いやぁー、という淑女らしからぬ悲鳴が廊下から聞こえてきて、リュクレールは恥ずかしそうに俯きながら、寝台の縁へ腰掛けた。
「申し訳ありません、まだまだ落ち着かない子で」
「ンッハッハ、嬉しいものですよ、我が娘が元気だということは、何よりも」
すっかり肉がそげてしまった夫の手を、今度はリュクレールはゆっくりと支えて撫でる。すると僅かに指先に力が籠ったのが解ったので、答えるように握り返した。
「お手を煩わせておりますな、我が愛しの奥方様。もう少し吾輩の、自由が効けば良いのですが――」
削げた頬で笑顔のまま、そんなことを言う良人の唇を、そっと身を乗り出して自分の口で塞いだ。乾いて僅かに皹割れているので、後で膏薬を塗っておこうと思う。
「男爵様こそ、どうかお気になさらないでください。わたくしは此処で、こうしているだけで、十二分に幸せなのですから」
「……ンッハッハ。リュリュー殿、呼び方が新婚時に戻っておりますぞ」
「あら」
すっかり良人を旦那様、或いはあなたと呼ぶことに慣れた筈なのだが、二人きりの時はつい出会った頃の喋り方に戻ってしまう。恥じらって口元を手で追おうと、夫は嬉しそうに顔を緩めて笑った。腹に力を入れるのも難しく、笑い声は随分と張りの無い声になってしまったけれど。
……もう、この体から零れ落ちる命を止めることは出来ない。肉体と言う寄る辺を失った時、彼の魂はどうなるのだろう。共に崩れて消えてしまうのか、未練から残り悪霊に成り果ててしまうのか。それは誰にも解らない、恐らく本人にも。
だから、リュクレールに出来ることはひとつしかない。動くことのできない夫の傍に寄り添い、静かに囁く。
「どうか、日々を穏やかにお過ごしください、わたくしの愛しい旦那様。あなたがお望みになる限り、わたくしはずっとあなたの妻です」
「……愛しい貴女、そのような誘惑は、貴女を縛って仕舞わぬでしょうか」
縛って欲しいという爛れた望みを、胸の内に飲み込んで微笑む。そっと額を擦り寄せて、小さく囁いた。
「いいえ。いいえ。わたくしこそ、あなたを縛ってしまうやもしれません。決して、己を律することを失いたくはありませんわ」
そしてこの人を失ってしまった時、自分がどのように成り果ててしまうかも恐ろしい。現実を認められず、愛する人を鎖で縛り付ける愚者に堕ちてしまったら、忠実なる従者にも愛する娘にも顔向けできない。恐怖で自然と力が入った手指は、夫にしっかりと握られていた。
それでも、それでも――嗚呼。
「愛しています、旦那様。わたくしに全てを与えて下さった、愛しいあなた。どうか、終わりのひとときまで、お傍に侍ることをお許しください」
互いの睫毛が触れるぐらいの近い位置で、決意を囁いて。
「……ありがとう、愛しき吾輩の珠玉よ。吾輩の残り全てを、貴女の為に燃やしましょうとも。愛しています、リュリュー殿。愛しています――」
ほんの僅か、夫の瞳に浮かんだ涙を、リュクレールはそっと唇で啄んで拭った。
悪食男爵と神々の微睡み @amemaru237
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