エピローグ・1 藍皇国にて

 北方国からの船が着いて暫く。

 第二皇子である瑞光は、実に十日間を喪に服すことになった。彼の実の弟である元第八皇子の亡骸が届けられたからだ。

 彼の嘆きは相当なもので、竜の息吹で出来うる限り腐食を抑えてはいるが、それでも痛んでいたであろう遺骸を躊躇わず抱き上げ、口付けし、泣き叫んだという。

 また、喪に服している間、遺骸と同じ部屋で寝泊りし、何人たりとも近づけなかった。家族の弔いとしては、この国では伝統的なやり方ではあったけれど、彼の弟は既に皇籍を無くしており、本来なら穢れである遺骸を皇宮に運び込むことから許されるものではない。周りの部下達が不穏の目を向けそうになる中、漸く出てきた瑞光の顔は、その美しさを保ちつつも酷く窶れていた。

 心配と不安から駆け寄る妾達を退け、瑞光は自分の部屋に影法師をひとり呼んだ。自分の部下として、自分の弟に付けていた者である。

 ――その影法師も、既に命が尽きかけていた。

 左半身の大部分を噛み千切られたように失った体は、その傷口が全て黒い水晶に覆われており、傷の治療は一切出来なかった。

 意識も途切れ途切れになっており、生きているのが不思議な程だ。腕の良い竜司達が、どうにか命を繋ぎ止めているような状態だった。

 運ばれてきたその影法師――小目に、瑞光は僅かに疲れた顔で、それでもいつも通りゆっくりと問うた。

「小目。話しなさい」

「……御意」

 板間に寝転がらされたまま、掠れた声でも是が返ってきて、瑞光は満足げに頷く。自分の道具がまだ使えることに安心した顔をしていた。

「では問おう。……香々を殺したのはお前だね?」

「はい」

「あの傷はお前でなければつけられないものだろうからね。重要な血の管だけを切った見事な手管だ。――しかし」

 愛する弟を殺した相手に対する憤りなどは全く見せず頷いてから、しかし瑞光はほんの僅か眉を顰めて見せた。

「では、香々の左手、その小指は何処にやったのだい?」

 運びこまれた遺体はまるで眠っているように、目立った傷は僅かだった。心臓の隣に指を突きこまれたような深い傷が二つと、左手の小指が根元から失われていた。

 自分のものに傷を付けられたのだ、という嘆きすら見せて眉を顰める主に、床に放り出されたまま弱く息を吐く小目は、しかしいつも通り、何の感情も篭らない声で。

「――俺が食べました」

 はっきりと。己の意思で、告げた。

 部屋に沈黙が落ちる。瑞光だけでなく、周りの部下や竜司達も、驚愕によって動けない。影法師が一人称を使うことなど、有得ないからだ。彼らに自己など存在しない、筈なのだから。

「……、それは」

 瑞光の声が軋む。口元を覆い、花のかんばせに自分の爪を突き立てて、搾り出すように叫んだ。

「ふざ、けるな。お前に、貴様に、そんなことを命じてはいない!!」

「瑞光様、お静まりください!」

「こ奴は既に壊れております! すぐに処分を!」

「返せ! 香々は、香々は、私の、私だけのものだ! お前が、お前如きが、そんなことを許されるものか!!」

 ――少し昔。瑞光がまだ幼い子供の頃、母が抱かせてくれた柔らかくて温かい、自分に向けて笑ってくれたもの。

 それは彼にとって唯一無二のものとなったから、当たり前のように自分のものであると決めた。それが当然であったし、止める者もいなかった。最初は母も無邪気に仲の良い兄弟だと喜んでいたのに、瑞光のそれが酷く独善であることに気づいて二人を引き離そうとした。

 だから母を殺した。毒を盛るのは容易かった。

 だから他者を殺した。弟に付随するものは必要なかった。

 例え自分の傍から離れても自分の目を付けていたからこそ、安心していたというのに、酷い裏切りであると、目の前の死に掛けの影法師が許せなかった。

「返せ! 吐き出せ! 香々、香々――!!」




 傍付き達を振り払い、腰に佩いた剣を抜き放った姿を残った片目で見詰めながら、小目は何も言わなかった。その剣が自分の胸に突き刺さっても、悲鳴一つあげず。

 何せ、自覚が出来てしまったからだ。自分は既に影法師としては、壊れてしまったのだということを。本来ならそんな認識すら出来ないはずなのだから。

 だから、主に壊されることに関して特に感慨は無い。そうなるだろう、という納得だけだ。

 ただ酷く、ずっと何も存在していなかった筈の自分の中身に、何か一つ、ことんと何かが落ちた気がする。これは、主の弟の、あの白くて細い指だろうか。

 意識が白めいて、呼吸がゆっくりと止まっていく中、小目は酷く自分の体が重くなった気がして、そのまま目を閉じる。

 結局のところ。主の命令を何より優先する影法師である小目にとって、主の弟の望みを叶える手段が、これしか思いつかなかっただけ。

 これはただ、それだけの話だ。

 何かが落ちた筈の腹腔が、今まで感じたことの無い温かさを保っていたのも、多分、気のせいなのだろう。

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