◆7-3
不意に、自分がひとりでいることに気づいて、ビザールはぱかりと目を開けた。
はて、これが死の国と言うべき場所なのだろうか、と目を瞬かせる。何せ動かせる体の部位がそこしかない。
自分の体はぴくりとも動かないが――辺り一面が、黒い水晶で出来た皹で覆われていた。本来「無」であった場所が、少しずつ形を成して戻っていくためのものだ。つまり、あの残酷で気紛れな神という御仁は、どうやらビザールを捨てていったらしい。
つい先刻まで、神の憑代となっていた体の状態がどうなっているか、さっぱり解らない。自分が呼吸しているかどうかも曖昧だ。さてこれは、果たして生きているのか、死んでいるのか――
「――男爵様ぁああ!!」
泣き声のように、呼ばれて。
ビザールの視界に真っ白い影が入り込み、頬の上に滴が触れて。自分の唇が、ぎしぎし軋みつつ、ちゃんと動いた。
「――おお。よくぞ御無事で、いてくださいました、愛しの、奥方様。御足労、申し訳ございません。この度は――」
すっかり舌の感覚は無くなっていて、自分がちゃんと喋れているかどうか自信も無い。ただ、愛する妻に言いたいことが沢山あって、どうにかこうにか喋ろうとするのに。鼻先が触れ合うぐらいの近くで、青と金、二色に分かれた妻の瞳から、絶えず涙が零れ落ちていく。
「もう、もう! どうして何も、仰ってくださらなかったのですか! 酷いです! 酷いです男爵様! わたくし、未亡人になどなりたくありません!!」
「……ンッハッハ。これは手厳しい。確かにそれは、仰る通り」
「ヤズローにも、謝ってくださいませ!」
そう言われた時、頬にぱさりと何か、毛のような感触がした。どうにか視線を動かすと、真っ白でぼさぼさの、有能な執事の頭が見えた。縋りつかれているのか、倒れ伏しているのか、解らなくて如何にか体を動かそうとすると、耳の傍で唸り声がした。
「ぅう……あああ、あー……っ!! うううー……!!」
それは、嗚咽だった。子供のように、身も世も無く、恐怖から解放された安堵で泣いている。出会ってから一度もそんな姿は見たこともないのに、何故だかはっきりと解った。
「おお、ヤズロー、ヤズロー……。泣いているのかね、何処か怪我を?」
「っ、うう、うぇ、ううぅぅうー……!」
ごん、と結構痛い頭突きが柔い顎に入った。――痛い。体が痛い。驚いたことに、嬉しいことに、どうやら自分は――生きている。
泣きじゃくりながら、何度も頭突きしてくる従者に対し、良人の頬を優しく撫でながら、愛する妻はまだ怒り心頭のようだった。
「泣いて当然です! わたくしも泣きます! 絶対絶対、許して差し上げません……!」
どうにか掠れた視界で判断すると、どうやら愛しき妻の体はほぼ霊質に変わっていた。折角育った肉体は、殆どが砕かれてしまったらしい。申し訳なくて、彼女の頭を撫でて抱き寄せたいけれども、やはり腕は動かない。……どうやら体の殆どは、あの恐ろしくも気紛れな神に持っていかれたようだ。そのことを告げたらまたリュクレールは怒りヤズローは泣いてしまうだろうから、言わないけれど。
だから精一杯、いつも通りの笑みを作ろうと努力した。両頬を持ち上げて、にんまりと笑い、礼の代わりに静かに告げる。
「ええ――ええ。吾輩を許さないでください、リュリュー殿、ヤズロー。助けてくださり、本当に、有難うございます。ふたりとも、全く持って、僕には勿体無い奥方と従者ですとも」
「っ、う、だんしゃくさま、ぁああ……!」
「うあーぁああぁ……!」
やっぱり二人とも泣かせてしまって、ビザールは心底困り、如何にか動かせる首だけで、まだ柔らかみの残っている頬を、縋り付いている二人に摺り寄せることしか出来なかった。
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(ネージ共和国郷土資料誌No.44より抜粋)
(前略――)
しかし、冬の半ばに都市が半壊する程の地震が起き、被害がこの程度で済んだことは奇跡であるとも論じられている。
幸運なことに、この年は稀にみる暖冬であり、全体的な降雪量が非常に少なく、人々の避難や都市の再建がかなりスムーズに行われた為とされている。事実、死者は地震が起こった際のものが殆どで、その後の混乱や生活苦によるものの記録は少ない。当時国交のあった隣国――果ては藍皇国まで――全てから支援が届いたという記録もあるので、復興の助けになったのだろう。
実際、この三年後には旧王都の外苑に新王都の街並みがほぼ完成しており、都民の移住も完了していた。旧王城と被害の大きかった旧貴族街、および地下洞窟は放棄される形になったが、地下に住んでいた人々の大多数は地下洞窟に戻ったという。その後、地下都市は暗黒都市とも名指され隆盛を誇ったが、近代に至り犯罪組織の掃討が行われ、現在は遺跡としてその姿を残している。
当時在位していた王グトゥは、遷都が完了した時点で退位し、グラスフェルがその後を継いだ。非常に辣腕であり近代ネージの基礎を作った名君であるが、生涯妻は持たず、次代の王は貴族院長であったフムス侯爵家のアルフレードである――(後略)
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