◆7-2
からだが、ばらばらになった。
世界全ての存在を認めないような容赦のない何かに、自分が自分であるための繋ぎ目を、全て切り離されたような。
体も心も魂も全て、塵芥以下のものに砕かれて、消え去る。ほんの僅か、神と名のつくものが、言葉と視線を向けただけで。
こんな矮小な存在が、神に逆らうこと自体が間違っている。そうかもしれない。
――嫌。
否定ではない。ただ、嫌だ。理不尽なものに頭を押さえつけられ、好き勝手に奪われて、体も心も魂もぼろぼろになって、それでも諦めきれなかった。あの時も、今も。
――嫌。
自分が無くなっても、幸せになって欲しいひとがいる。
何物でもない自分を拾って育ててくれた、母にして従者と。
何も知らぬ自分に色々なことを教えてくれた者達と。
――厳しくも優しく、主を淑女たらんと仕えてくれたメイドと。
――朴訥でも、ただ主とその妻を守る為に命をかけてくれる少年と。
――愛してくれて、愛を返したいたったひとりがいたから。
「わたくし、は」
口が動いた。まだ自分には口がある。そうだ、自分は例え肉体がほぼ無くても生き汚くしがみついた女だ。霊体のひとつやふたつ、自分だけで律せなくて何とする。
腕を動かす。腕が動く。まだ自分には腕がある。そうだ、足も腹も胸も頭も全てあるとも。たかが肉体を砕かれた程度で、この身が無くなるものか。
「わたくしは、忌まわしき首吊り塔で生を受けた、悪霊の娘……!」
己の出自を恐れたことも恨んだこともある、だが今そのお陰でまだ、この虚無の中で存在を許されているのならば、最早振り返ることは無い。
「わたくしは! ビザール・シアン・ドウ・シャッスが妻、リュクレール! この身が魂だけになろうとも、膝を屈することは有り得ません!」
叫びに応えるように、握り締めた掌の上には、黒い刀身が顕現していた。
×××
下を向くな!
己にそう言い聞かせても、がくりと膝から力が抜ける。
暴虐神の牙に耐えても、崩壊神の爪はじき一つに耐えられなかった両足が、消し飛んでいる。
「くそっ、動け……!」
不格好な短い足で、地面を蹴る。感触は無い。左腕は肩まで消し飛ばされた。右腕も感触が無い。血塗れの、芋虫の方がまだましな姿で、虚無の中に沈みそうになっていると解っていても、無様な動きを止められない。
「奥方様……!!」
呼ぶ。返事は無い。彼女の姿が見えない。視界もかなり削れてしまっている。顔の半分は吹き飛ばされたのかもしれない。もう耳もあまり聞こえない。
「旦那様!!」
返事は無い。目の前にいた筈の人が、どこに行ったのかもわからない。出来ることは、僅かにでも前に進むことだけ。碌に進めないし、何処に何があるかもわからないのに。
「くそっくそ……! 畜生!!」
悪罵しか漏らせない。何もできない己が何よりも許せない。
既に一度、自分は主の危機に駆けつけることが出来なかった。それだけで裁かれるべき存在なのに、主の妻はそんな自分を許して下さった。だからこそもう二度と、二人の信頼を裏切る訳にはいかないのに!
「動け、動け動け動け……!」
必死に這いずる。否、最早自分がいる場所は虚無の沼の中で、動いていることすら錯覚なのかもしれない。それでも――奥方様の声が聞こえた気がして顔を上げた。
非常に悪い視界の中、幽霊のように白いドレスが翻っているのが見えた。ならば彼女を守らねば。次にあの攻撃が来たら今度こそ彼女が消し飛ばされる!
何度目かでずるりと滑り沈む瞬間、ぐいと襟首を引っ張られた。何、と思う間もなく、耳元で響く低い声。
「――まだ、生きているか」
「っ、お前」
僅かな訛りの残る朴訥な北方語に気づき、持ち主の方を見ることなくヤズローは叫んだ。
「俺をぶん投げろッ!!」
歩いても走っても飛んでも間に合わない、主の妻を守るにはこれしか方法がない。全てを理解しているかのように、小目は、襟首を掴んだままヤズローの随分小さくなってしまった体を持ち上げ――虚無の沼をものともせずに駆け出す。
「おいっ!!」
「まだだ。盾は二枚使える」
はっきりと耳に届いた朴訥な声に、自分の意思がきちんと伝わっていることと、それ以上の働きをするつもりであることに気づき、ヤズローは上手く開かない瞼をどうにかこじ開ける。
掠れた視界に移る小目の顔はいつも通り何の感情も浮かんでおらず、まるで地面と変わらずに暗い空間を――否、其処に僅かに煌く白水晶の先に爪先を押し当て、軽々と走っていく。己に出来ぬその動きを見せ付けられた気がして、場違いな羨望がまた沸いてしまった。
掠れた視界の中、主の体が見える。その視線が自分の方に向いた、と思った瞬間、小目がヤズローの体を抱きかかえる。同時に、小目の右肩から腹部、ほぼ右半身が吹き飛んだ。何の音も無く、肉体が黒い水晶へと変じ、粉々になって、消える。
「小――」
ぐらりと傾ぐ体を、無理と知っていて支えようとした時。逆に、小目の無事な左手でもう一度襟首を掴まれ、振りかぶられた。
「行け。お前は、まだ間に合う」
ぽつりと、独り言のように呟かれた瞬間、ヤズローの体は宙に舞い――再び口を開こうとしていた主の顔に覆い被さった。
×××
目の前の人間たちが、まだ壊れていないことに、ほんの少しアルードは驚いていた。
普通、肉の体が砕かれれば人間は死ぬ。脆くて弱くて、力加減など気にしても無駄なくらいの、イヴヌスが戯れに作った奴隷。こんなものを増やして何になるのかと疑問だったが――例外がたまに現れるのは悪くない。何せ、自分の妻もそうであったが故に。
といっても、彼らの力が自分を滅せるかというとまた別問題だ。神の存在を脅かすものを人間は未だ作れていない。神の言葉を書き換えることぐらいは出来るようになったようだが、それでは足りない。神の力を借りず無から作り出さなければ、皆神の力の焼き直しでしかないのだから。
僅かな失望と共に、仕方ないからいつもの通り、世界を平らげようとする。またイヴヌスが作り直して、人間が増えるまで待てばいい――退屈で仕方ないけれど。
だから、もう一度視界を動かして――小さな人間がこの憑代にしがみついてきたので、そのまま砕こうと思った時。さくりと、驚くほどすんなりと自分の体に何かが突き刺さってきた。
「【――ああ、】」
それを理解して、納得した。もうひとつの小さな人間が、憑代の腹に突き刺している黒い剣。見覚えがある。イヴヌスが作った神の紐だ。――自分を殺したがる自分の妻に、少しは足しになるだろうと思って戯れに下賜した。いつか、そうなることを期待して。勿論これもイヴヌスの一部であるから、アルード自身に何の痛痒も与えられないけれど、憑代に傷はつけられる。
ずるり、と位相が崩れる。僅かに開いていた皹が閉じる。神紋が削られて、この世界の存在を許されなくなる。
――悪くは無いが、このまま終わるのは癪だな。
中々面白くはあったが、ただ大人しくイヴヌスが命じるままに眠るのは、諦めていても退屈だ。せめてこの憑代だけでも、僅かな話し相手として引きずり込もうか――と思ったその時。
「馬鹿野郎。戻ってこい」
懐かしい声が聞こえて、
【――レタ?】
この世で唯一、自分で選んで手にした妻の名を呼んだ瞬間、崩壊神の全ては丸く黒く小さな塊になって、留まる。
「今は、寝てろ。いつか、俺が必ず、殺してやるから」
思ったよりも優しい声で、睦言のように囁かれ。温い何かに包み込まれて、掌で撫でる感触が届く。
【……仕方ないな。もう少し、待ってやる】
全く自分は妻に甘い、と苦笑いして、全てが閉ざされた眠りに大人しくつくことにした。
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