罅割れる世界
◆7-1
洞窟を奥に行けば行くほど、道のりは険しくなった。
本来の通路は殆ど皹割れで寸断されており、歩いて進むことすら難しくなっている。更に断続的に続く揺れは、下れば下るほど頻度が上がり、進む者達を皹に飲み込もうとする。
そして今までは、皹の奥には別の通路が見えたりしていたのに、気づけば闇一色だ。単純に光が届いていないだけなのか、本当にそこに何も無いのか、判別できない程に。まるで、壁が壊れたら舞台裏が覗けてしまったようで、酷く居心地が悪い。自分達の立っている世界そのものが、あまりにも脆いものであると嫌でも気づけてしまうようで。
精神を磨り減らす道筋を、ヤズローは自分の口から吐いた糸を命綱にして、主の妻を抱えたまま慎重に降りていく。我ながら気持ちの悪い能力である自覚はあるが、使えるものは使う。
そして、暗闇の中に僅かばかり浮かぶ、星のような輝き。虚ろな皹の中にも確かに輝いているそれは、細長い水晶だ。ヤズローが洞窟街じゅうにばらまいた結晶が、ここまで落ちてきているらしい。主はやはりこの状況を見越していたのだ――と考えると、苛立ちが沸いてしまって腕に力が篭る。ん、とリュクレールが苦しげな声を上げたのですぐに我に返ったが。
「失礼致しました、奥方様。ご無礼お許し下さい」
「いいえ、大丈夫です。……気持ちは、わたくしにも解りますから」
困ったように微笑むその顔を見て、ヤズローの肩の力が僅かに抜ける。どうやらこのお優しい奥方様も、流石に腹に据えかねているらしい。恐らくは、自分と同じ理由で。
「……旦那様の、考えそうなことであると、理解はしているつもりなのですが」
「ええ、ええ。安全なことならば、助けを求められるけれど――本当に危険な時は、わたくしは遠ざけられてしまう」
「私も、似たようなものです。こういう事が起こると聞いていたならば、修理が終わればすぐさま戻れた筈です」
「ヤズローは仕方が無いわ、やむを得ない事情があったのだから。男爵様はいつも、貴方を頼りにしているわ」
「……勿体無いお言葉です。しかしそれは、奥方様も同じことかと」
「だったら、とても嬉しいわ。ええ、だからこそ――悔しいの」
目を逸らし、きゅっと桃色の唇を噛んで囁いたリュクレールの気持ちを、ヤズローは嫌と言うほど理解していた。結局、自分達はどうしようもなく、かの悪食男爵の庇護対象であると認めざるを得ない。だからこそこういう時に、守られてしまうことが、どうしようもなく悔しいのだ。
自然と二人とも無言になって、更に下へ下へと降り――やがて、広い空間に続く横穴の一つに辿り着いた。恐らく、嘗て“蛆"の本拠地の一つだったのかもしれないが、既に其処には――何も無かった。
正しく、地下に広がった星空のように見えた。ただ黒い、黒い空間が床一面に広がる部屋の中、沢山の白水晶が星の如く輝き、まるで海のようにも見える。
その真中、まるで小さな島のように浮かんでいる何かがある。
真ん丸の体に、四本の手足を突き刺したような、酷く奇妙だが良く見慣れた――
「だ――ッ!?」
漸く、の意味を込めて叫ぼうとしたヤズローの口が、白い両手で塞がれた。驚いて隣を見ると、自分の口を塞いだ主の妻が――真っ青な顔で首を横に振っていた。血の気の引いた唇が、慄くように震えている。
「……駄目。違うわ。あれは、あの方は、男爵様では、無いの」
何を言って、と反論したかったが、青と金のリュクレールの瞳が、今にも涙を零しそうに潤んでいるのが見えて、それが事実なのだと理解できた。抵抗を止めたヤズローに対し、主の妻はおずおずと手を外し、堪えるように囁いた。
「とても、大きいものが、男爵様の、中にいて。……男爵様が、見えないの……」
彼女の瞳に、何かとてつもなく憚ましいものが見えている。そのことを理解して、ヤズローはぐっと唇を噛んだ。
先刻から、自分の脚が疎んでしまっていることにも漸く気づけた。ただ主が横になっているだけなのに、何かに囚われている、と感じたのだ。この空間どころか、まるで王都全体に、酷く重たい影がのしかかっているかのように苦しい。奇妙な恐怖や不安を、リュクレールは視認してしまっているのだから尚更だろう。だが。
「……僣越ながら、お伺いします。ならば、どのようにすれば宜しいですか」
悔しいが、どうすればいいのか、今のヤズローにはさっぱり解らない。だが主の妻がここまでやってきたということは、何か手立てがあるということだ。その為に動くことなら、いくらでも出来る。揺れていたリュクレールの瞳がはっと見開かれ、こくりと顎を引いた。やはり、どれだけたおやかに見えても彼女は強い、誇り高き貴族の娘であり主の妻だ。
「……ええ。かの黒き貴婦人様より、武器をお預かりしました」
そう言って、リュクレールはずっと片手を覆っていた黒い手袋を外す。只の皮手袋に見えたそれは、まるで水のようにぬるりと解け、その姿は目の前に広がる虚無を連想させたが、あっという間に形を変えて、少女の手の中にしっくりと納まる小剣となった。
「この剣ならば、男爵様のお腹に刻まれた神紋を削り取れると。成功すれば神の力は消えて、男爵様を取り戻せる筈です。……ただ」
彼女の愛用している小剣よリ一回り長い黒の剣は、取り回しがし辛そうだが振るうのに違和感は無いらしい。しかしそれを握る細い手は、酷く震えていた。
「もし、男爵様の魂自体が、既に消えてしまっていたら……助からない、かも、しれない、と」
じわりと雫が浮かんで零れたことに気づいたのだろう、リュクレールは慌てて自分の手指で目尻を拭った。今泣いている暇は無いとどちらも理解している、それでも――ヤズローは両手を握りしめたままの銀腕も、酷く震えていることに気づいた。
恐ろしい。自分達が失敗すれば――否、成功しても、敬愛する主を、愛する夫を、失うかもしれない。恐怖で足が竦み、立っていられなくなりそうだ。それでも――それでも。
「それでも、わたくし達は行わなければなりません、ヤズロー」
リュクレールは、迷いを心の奥に押し込んだ決意の眼差しで、ヤズローに目線を合わせて告げた。
「何故なら、今のこの状態を、決して男爵様は望んでおられない筈だからです」
「はい」
何の疑間も無く、頷けた。あの人が、あの方が、地上だろうが地下だろうが、この王都に生きとし生けるものを徒に蹂躙し続けているこの状態を、望んでいるわけがないのだから。
「何が起こるか解りません。申し訳ありませんが、援護をお願いします。わたくしの切っ先を、男爵様まで届けるよう手を貸してください」
「奥方様が詫びる必要など、欠片もございません。――全て、仰せの通りに」
主の妻としての凛とした願いに、従者としての最敬礼で応え、ヤズローは虚無の皹割れへ再度向かい合う。
いざ、見てみればかなり遠い。心臓の音のような鳴動が響く度、虚無の中から真っ黒な皹が縦横無尽に広がり続けていて、いずれはこの通路に至るかもしれない――時間は無い。ただ走ったところで、途中で気取られたらただの的になりかねず、奇妙な皹自体に触れるのも危険かもしれない。
ならば、全速力で飛び込むしかない。ヤズローは許可を得てから、リュクレールの体を肩にぐいと抱え上げ。
「――弾けろ両足ッ!」
銀の両足に命じ、翼を開いた鳥の如く飛んだ。
ほんの少し予想はしていたが、銀脚から吐き出された空圧は、ヤズローが思っているよりも強かった。恐らくミロワールが更に弄ったのだろうことは想像に難くなかったので、問題は無い。無限に広がるかのような虚無の皹の中、ぽつりと浮かぶ主の体を見下ろし、天井を蹴って降下しようとした瞬間。
――ビザールの目がぱちりと開いた。
普段ならば、ごく普通の碧眼が見える筈の其処は、金色にてらてらと輝いていて――反射的に、拙い、と感じた瞬間、丸い頬に刻まれた口がにんまりと――有り得ない程に大きく開き。
「【――詰まらんな】」
酷く低い、主の者ではない声が響いた瞬間――ヤズローはリュクレールを庇おうとしたが、逆にリュクレールが彼を庇うように抱きしめ――、二人の肉体に皹が走った。
懐に忍ばせていた氷龍の鱗も、魔操師が編み上げた銀の四肢も、床や壁面も。ついには空間そのものに走った皹は、その全てをまるでステンドグラスの如く、砕き散らした。
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