◆6-3

 不幸中の幸いか、“蛞蝓”に皹の被害はあまり届かなかった。別にここの長が信心深かったわけでもない、単純に場所が一番遠かったというだけだ。その為、瑞香はそこまで時間をかけず、リマスとの緊急商談に臨むことができた。

「これはこれは藍殿、ようこそいらっしゃいました。このような時に、お盛んな事ですなぁ」

「腹の探り合いは嫌いだって言ったでしょ、単刀直入に言うわ」

 揉み手をする痩せぎすの老人に、瑞香も商売用の笑顔を見せたまま続ける。

「地上に避難所が出来る予定だから、そこに運ぶ物資の買取をしたいのよ。あんたにも悪い話じゃないでしょう、地上に恩を売れるのなら」

「ほっほっほ、それは剛毅なことですな。しかし我等は所詮地の底の毒虫、そのような侵攻を上が許すでしょうか?」

「王太子のお墨付きは貰ってるわよ、どうせあんたももう知ってるでしょうに」

 この抜け目のない男が“蟻”の目を掻い潜り、地上の状況を観測しているのは間違いない。明言しないが笑顔を見せたのが肯定だろう。食えない奴と長い話し合いをするのは本気で嫌なので、懐に入れていた紙を取り出す。

「さてさて、しかしこの冬ですから、食料も薪も馬鹿にならぬ仕入れ値でございましてねぇ。勉強させて頂きますが、まずは如何程ご用意致しましょうか」

「そりゃあ当然、出せるだけ全部、よ」

 はっきりそう告げながら、二人の間のテーブルに取り出した紙を大きく広げた。その一枚目にリマスは自然と視線を流し――皺に埋もれていた目が、ほんの僅か見開かれた。初めてこの爺に一矢報いた気がして、瑞香はほくそ笑む。

「今この国にある全ての、藍商会店舗の売買契約書よ。御代はこれで足りるかしら?」

 堂々と、瑞香が告げる。つまり自分の店の、ネージ国内における権限を全てリマスに売り払う、と言っているのだ。流石の狡猾な蛞蝓も、絶句している。これはあまりにも――瑞香が支払い過ぎだからだ。

「……確かに。これならば、充分過ぎるお代ですな。しかしまた、何故?」

「あら、欲しいものに対価を払うのは商人として当たり前じゃない?」

 話すつもりはない、と言いたげな笑顔に、リマスは肩を竦める。既に余裕を取り戻した老爺は、やれやれと言わんばかりに髭を扱いた。

「ほっほっほ、これは一本取られましたな。宜しいでしょう。儂の店の在庫は全て吐きます。運搬についてはそちらの手を使わせて頂いても?」

「ええ、サインすればもう全部あんたのものなんだから、好きになさいな。本国や城とのやりとりは自分で頑張りなさいね」

「御随意に。さてさて、面白くなってまいりましたな。この年で再び、城相手に商売が出来るとは」

 心底楽しそうに嗤いながら老爺は頷く。――風の噂でしか聞いたことは無いが、嘗て王家に対し、隣国に国そのものを売ろうと画策した男がいたらしい。様々な商売を利用して貴族から金を搾り取り、国自体を痩せ細らせた結果あわや成功しかけたが、寸前で企みが暴かれた。当然男は極刑に処されたとされたが、実は賄賂を行き渡らせて洞窟街へ逃亡したと噂されていた。

 ……もし本当にその男がこの目の前の老爺だとしても、瑞香に興味は無い。振り向くことなくリマスの部屋を出て、足を更に“蛞蝓”の奥――“蛆”の方へ繋がる通路へと向ける。当然のように、小目も傍に控えて付いていった。“蟻”の襲撃も警戒したが、どうやらこの混乱で数を減らしたらしく、咎められることは無さそうだ。

 瑞香はいっそゆっくりと、しかし何かを決めたような顔で前に進み――何度めかの揺れに、足を止めた。 

「……流石にやばそうね」

「空気が軋んでいます。お戻りください」

 小目が自ら話しかける時は、それだけの理由がある時。それを知っているからこそ、瑞香は眦を鋭くした。

「嫌よ。進むわ」

「瑞香様」

 足を前に出すと、素早く道を塞がれた。睨むが、少し高い位置にある小目の顔は全く表情を動かさない。そんな顔を見ると、解っていてもどうしようもなく――瑞香の苛立ちは止まらなくなってしまう。

『お前にそんな権利があると思うか』

『――瑞光様のご命令です』

 静かに告げられた、覆せない事実に、耐えられなかった。

『っ退け……!』

 僅かな隙間を縫って奥へ駆け出す。腕を掴まれ、戻される。流石にこれ以上は見過ごして貰えないのだろう。――ああ、何もかもが腹立たしい。

『離せ! お前が――お前が、フルーフを殺したんだから!』

 叫んだ。僅かに腕を掴んだ五指の力が強くなった気がした。多分気のせいだ。

『ビザールまで、取らなくたっていいだろ……!』

 無理やり足を動かす。引き剥がせない。行ったところで何になると解っていても止められない。だってもう、自分には、一人しか親友がいないのだから――

 その瞬間、地下からの鳴動が大きく響いた。二人の足元にまで皹が到達し、僅かに小目の腕が緩んだ瞬間、無理やり振り解く。しかし足場の悪い中、上手く体を支えきれず――今まさに水晶の刃が並んだ顎のような皹へ、瑞香の体が落ちかけた時。

『瑞香様!』

「ッ――!」

 伸ばされた手を、反射的に瑞香は払った。どうしても、こいつに助けられたくなんてなかった、ずっとずっと。

 ほんの僅か、小目の眉間に皺が寄って――また凄まじい蠢動が起こった時。

 小目が床を蹴り、手をまるで槍のように構えて、突き出す。瑞香の胸へ向けて、真っ直ぐに。その速さはとても、避けるどころか、目で捉えることも出来ず、

「っ、あ」

 思わず声が漏れた。胸元に、軽くとしか思えない衝撃を受けた。同時に、その衝撃によって無事な地面に辿り着いた瞬間、かくんと膝が折れる。

 その瞬間思ったのは、驚愕でも、しくじったという無念でも無い。ああそうか、という納得だった。



 ×××



 がくりとその場に頽れる瑞香の肩を、小目が掴み直す。その手は既に、赤い色で濡れていた。


『――瑞光様のご命令です。瑞香様に命の危険が迫り、助けられなかった場合は』

 こふ、と僅かに咳き込む。痛い。肺が酷く痛む。

『体だけでも欠けさせず、藍皇国に戻せと』

 言葉の通り。瑞香の胸に、貫き手が貫通したとは思えない程の小さな穴が開いていた。心臓の脇、大きな血管を切ったのだろう。――小目自らの手指で。

「は、はは」

 思わず笑いが漏れて、ずるりと、壁際に座り込む。馬鹿げている。結局のところあの男は、自分の弟というモノを傍に置いておきたいだけだ。お気に入りの玩具か、子供のおしゃぶりか知らないが、全くもって馬鹿げている。多分、自分以外のものが思考や感情を持つ人間であることを理解した上で――それを全く尊重するつもりなどないのだろう。

 そんな馬鹿な奴の思った通りにこの場で死ぬのは非常に癪だ、癪だが――体に力が入らない。こふ、とまた咳き込んだ喉から血の味が上がってきた。

 悪罵を叫ぶべきだろうか。恐怖に泣くべきだろうか。そんな風に冷静に考える自分に呆れて、どうしようもなくて、瑞香はほんのちょっとだけ呆れたように微笑んだ。目の前に立つ小目が僅かに身動ぎをしたのは、気のせいだろう。

『そ、っか。じゃあ、しょうがない、な』

 真っ先に、諦めの言葉が唇から零れた。自分でも驚くぐらい、しっくりと味わえた。

 だって、商人でいることは楽しかったし、悪友と酒を飲みながら話すのも楽しかったし、可愛い従者や悪友の妻の面倒を見るのも楽しかったけれど――だけど。

『未練も、無い』

 もうこの世界に、一番愛したひとはいないのだ。何処にも、欠片も。その一点において、どうしても瑞香は、生にしがみつくことが出来なかった。

『だって、もしまた、俺が誰かを愛したら』

 僅かに滲む視界は、涙のせいではないと信じたい。その先にいるであろう影法師に泣き顔を見せるなんて絶対に御免だった。

『また、お前が殺しちまうんだろう?』

『――はい。瑞光様のご命令です』

『ああ、腹立つ……』

 いつも通りの重たく抑揚のない声に、何故だか笑えて来た。それにしても、小目が本気になればこんな風に喋る余裕などなく命を刈り取れるくせに、何をやっているんだか、と瑞香は本気で思った。勿論、手当したとしても生き延びるのは叶わないと解っているけれど。

 僅かな罅割れから、更に底が見える。一番深い地の底に、多分悪友がいる。自分と違って生き汚いあいつのことだ、きっと愛妻を泣かせるようなことはしないだろうけど――

「ねえ、小目」

「はい、瑞香様」

 北方語で話すと北方語で返してきた。流石にもういないかもしれないが、小目以外の見張りに聞こえないよう、念の為だ。小さく囁くと、察したように膝を折って顔を近づけてきた。主でも無い奴に対してそこまですることも無いだろうに、とまた笑えた。笑うと傷が引き攣れて痛い。

「ビザールを、助けてよ」

 ぴくりと小目の眦が僅かに動いて、それだけだった。響かないと解っていても、言わないわけにいかなかった。

「どんな形でもいいから、あいつを、助けて。奥様と、ヤズローの力に、なってあげて」

 喉に力を籠めると血が溢れてきた。不快でどうにか舌で口の中から追い出しながら、必死に言葉を紡ぐ。

「あいつから、奪うの、もう、あたしで、最後にして。それで、いいでしょう? ……お願い、だから」

 自分が諦めたせいで、親友から最後の友人を奪ってしまうのだから、これぐらいしないと割に合わないだろう。

 小目は何も言わない。解っている、こいつがそんな埒も無い命令を受け付けるわけが――

「――仰せの、通りに」

 僅かな間の後、小さくそう呟いた影法師に、吃驚して一瞬痛みを忘れた。その後、ますます笑いが出てしまう。普段ならどんな命令でも、御意、の一言で聞く癖に。

「ふ、ふふ、なにそれ。ヤズローの、真似? 似合わない、わよ」

 揶揄してやっても、小目の視線はまっすぐに、瑞香に向かって動かない。本当、変な奴、と小さく口の中で転がして、ゆるゆると瞼を開じた。どうにも眠くて、もう開けられない。

「ふふ、じゃあ、もうひとつ。……全部、あいつのものになる、なんて、絶対、やだから、」

 息も細くなっていく。もう吸うことすらできない。別に叶わなくてもいい、ただの意地のようなものだから、だから、

「どこでも、いいから、もっと、傷、つけて……」

 意識が落ちていく。自分というものがばらばらになって、何もない世界に溶けていく。

 僅かな身動ぎの音と、耳元に当たった息の感触を最期に、完全に瑞香は世界と断絶した。

 どんな答えが返ってきたかも、聞こえなかったし、聞く気もなかった。

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