◆6-2

 心臓が脈打つような音と同時に、世界が皹割れ続ける。

 大地が、空気が、皹割れて、黒い水晶になって、砕けて消える。

 ただ自分が存在するだけで、穴が開いて、広がる。

 其処に広がるのは、何も無い。無だ。始原神でなければ何かを作り出すことが出来ない、ただの虚無。

 広がるそれの中に沈んでいくままに身を任せ――ふと呟いた。

「【……鈍いな】」

 どうも、いつもより動きが鈍い。重い、と言った方が良いかもしれない。普段なら、とうの昔に大地ひとつを虚無にしてもおかしくないのに。

 体を起こす。例え周りが無であれど、この存在に何ら痛痒を齎さない。

 瞼を開くと、確かに其処は暗い虚無に見えたが、目を凝らせばほのかに輝く石があちこちに散らばっていて――

「【成程。小細工をしていたな、ビザール・シアン・ドウ・シャッス】」

 太った男の唇から、嘲りと称賛が丁度半々の言葉が漏れた後。

「ンッハッハ! 未だに名前を呼んでいただけるとは、恐悦至極に存じます」

 同じ唇から、いつも通りの惚けた笑い声が響く。正直、神の存在を認めた時点で自分の魂が吹き散らされることも覚悟していたが、確かに小細工は役に立ったらしい。

 広い洞窟街のあちこちに、ヤズローによって埋められた白水晶。崩壊神アルードと対を成し相反する、始原神イヴヌスの力の欠片。従者に知らせてはいなかったが、上空から見ればイヴヌスの神紋を描くように並べられている。崩壊神の顕現を出来うる限り抑える為に、行った準備の一つだ。先刻瑞香から買い取った白水晶も、ありったけ衣服の裏地に仕込んである。

「【面倒だな】」

 だが、すぐにビザールの唇からは、心底詰まらなそうな声が零れる。そう、この程度の小細工など、神にとっては「面倒」なだけのこと。本気で力を振るえば、僅かな引っかかりなど歯牙にもかけない。身動ぎするだけで虚無の皹は広がっていく。猶予は全く無い。

「申し訳ございません、全ての終わりを司る尊きお方。少しでも気分が乗らぬのであれば、吾輩という道化に、退屈を紛らわす命を下しては頂けないでしょうか?」

 だからこそ、ビザールは舌を回す。この身が既に神の憑代と化しているとしても、まだ猶予は僅かにあるのだから。最後の手段であったし、勝算はまるで無いけれど、只管に――時間を稼ぐ。

「【呼び方は気に食わないが、乗ってやる。こちとら暇で仕方ないんだ。少しは面白い話をしてくれ】」

 起き上がろうとしていた体が、また虚無に馴染む。これもぞっとしないが、己という魂が未だ残っているのならば、ビザールに否はない。

「ええ、ええ、願わくは、貴方様のお心を慰められますよう。――愛する妻に対するのろけ話など、乗って頂けないでしょうか?」

 沈黙が落ちる。今この場所に誰かが居たら、何をふざけたことをと一蹴するしかない提案に。

「【く、はは、あははははははははは!!!!】」

 神は笑った。呆れたわけでも蔑んだわけでもない、この存在にしては非常に珍しく―――心の底から。

「【成程、成程、確かにな! それは俺とお前の共通点かもしれん!】」

「ンッハッハ、そうでしょうそうでしょうとも」

 同じ口で会話をするという奇妙な状態のまま、ビザールは尚も続けた。

「神という、不変なる存在にも拘わらず、魔女王と子を成し、またもうひとり娶られた。貴方様が唯一、自分でお選びになられた方がいらっしゃる。残念ながら殆ど文献には残っておらず、名前すら解らぬ不敬ですが――」

「【レタ】」

 ぴしゃりと、言葉を切るように、神ははっきりと告げた。神紋語で「傷」を表す、古い言葉だ。

「【あれの名前だ。俺がつけたわけじゃない、元々そう呼ばれていた。身も心も魂も、傷だらけの、痩せ細った小さな人間だった】」

「ほほう、やはり元は人間だったという俗説は誠なのですな? 吾輩、神学者も知らぬ深淵へと辿り着こうとしております!」

「【神に対して何を学ぶ? 俺達は世界の理であり世界の骨でしかない。……くはは、それなのに、あいつは】」

 自分の顔が酷く歪んでいるのが分かる。喜びにしては随分と、嘲りの笑いが刻まれているらしい。

「【気紛れのまま、相対した俺に、あいつが言った第一声。なんだか分かるか?】」

「さてさて、何でございましょう。流石に愛の告白は無さそうですが」

「【違うが、近いな。殺してやる、だ】」

「なんとなんと!」

 ビザールも笑った。酷い言い草だが、確かに籠った感情の強さでいえば近いのかもしれないと理解できてしまったからだ。

「【不変なる存在に、あいつは本気で言ったし、そうしようとした。手に握った小さな刃一つ、俺の首に叩きつけようとした。出来るわけが無いのに、解っていなかったとしても愚かすぎる行いを、本気でやってきた】」

 神は嗤う。心底楽しそうに。理に逆らう者がどれだけ愚かで哀れで、――愛おしいかというように。

「【だから、俺はあいつに乗った。あいつの理を全て壊した。男でも女でもない、神でも人でもない、生きても死んでもいない、なにものでもないモノにした。そうすれば、いつかは、】」

 神は嘆く。絶対に辿り着かない終焉を欲するように。信じているわけでもないのに、期待が止められないと言いたげに。

「【――俺の存在を、全て壊すモノになれるかもしれない】」

 それは酷く、正しく、のろけ話だった。ビザールは己の内から響く言葉に成程と頷き、この存在が真に望むことを理解できた。

「成程、成程。確かに――貴方様の存在は、大変なる矛盾ですな」

 ほんの僅か、笑う吐息が漏れた。逆鱗に触れた気もするが、止められる気配もないので、続ける。

「始原神が生み出した世界を崩壊させる、それが貴方様の不文律であり存在理由。そうすることで世界は生まれ変わり、また新しい世界が興る。つまりは――貴方様は、

「【――そうとも】」

 声が低くなった。不変の神の中にある、どうしようもない鬱屈が零れ落ちるように。

「【この世界が、何個目かなんて覚えちゃいない。最初の百くらいは楽しかった、次の百くらいは腹立たしくて好きにした、その後はもう、惰性だ。それしかない。腹が立つから殆ど放り捨てて、封印されるのも好きに任せてきたが――ああ】」

 溜息が漏れた。この世の如何なる存在よりも、終焉を愛でて無を欲する存在が、決してそれだけは手に入れられないという矛盾。

「【もう飽きた】」

 酷く虚ろな声だった。全てに倦んで、全てに絶望してしまった成れの果ての如く。だからこそ退屈を紛らわすために人間に声をかけ、戯れを繰り返すのだろう。愛する妻のような存在が増えれば、自分が滅びる可能性が増すとでも思っているのかもしれない。

 そんな存在の有様に、憐憫は僅かに湧くが、結果が大惨事になることだけは流石にビザールにも看過できない。相手がいくらでも繰り返せても、今の自分は今しかいないのだから。

「お心、非常に同情致しますが。かといって吾輩も、諦めるわけにはいかぬのです」

「【――ほう。ならば如何する?】」

 声に嘲りが混ざった。まだ少しは玩具に猶予をくれるらしい。

「ンッハッハ、貴方様もご存じでしよう。吾輩の祓魔としての力は、神紋による悪霊の消滅のみ。それも今や、貴方様の力を借りられぬなら振るうことも出来ませぬ。つまり吾輩、全くもって役立たずの丸い存在に過ぎぬのです!」

「【つまり?】」

 笑われるかと思ったが、不発だった。ただ、己の内の存在が、ビザールの魂を口の中に含んだまま、噛み潰す瞬間を考えているだけだ。縮み上がるような恐怖を無視して、ビザールは自分の意志で唇の両端をにんまり持ち上げた。

「吾輩の得意技、他力本願ですとも! 優秀なる従者と、愛する奥方殿が助けに来られるのを待ちわびているしかございません! 出来うる限り遠ざけたりもしましたが、そのお叱りも含めまして!」

「【そうか。――好きにしろ、俺も好きにする】」

 大切な者達への死刑宣告が行われたのを理解して、ビザールはかなり曖昧になってきた己を取り戻すよう、只管愛する家族や友人達の顔を思い浮かべ続けていた。

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