果たしてそれは愛なのか

◆6-1

 黒狼の動きは本当に、降りるというより落ちるという方が正しかった。

 断続的に揺れる暗闇の中、光もない崖の壁を蹴り、どんどんと地下へ下っていく。幾ら不可思議な力で支えられているとしても、怖い。リュクレールは心の中で詫びつつも、荷物を抱えたまま、黒く固い毛を両手でしっかりと握り締めた。そうしないと崖の縁に引っかかって上半身が泣き別れになりそうだったからだ。

「っ、……! ……うー……!」

 悲鳴を上げたら本気で振り落とされそうな気がして、唇を噛んで堪えた。結果口の中に血の味が広がってしまったが、その頃にはかなりの奥まで下りることが出来た。

「……あ、ここ、は」

 漸く狼の脚が緩み、絞り出せた声は酷く掠れていたが、双頭の黒狼は気にした風もなく二つの鼻を僅かに掲げ、ひくひくと蠢かせている。不安は有れど他に伝手もなし、堂々と歩いていく六つ足に素直に身を委ねた。

 やがて、随分と洞窟の壁面が古びてきた頃。……そこに打ち捨てられていた遺骸に、リュクレールは眉を潜めた。

「……これは」

 打ち捨てられる、というのは正確ではない。彼らは皆、穴の中に所狭しと広がった、粘性の柱のようなものに絡め捕られていた。まるで幼子が戯れに虫の手足を毟ったような死体が、壁や天井にぶら下げられている。まるで体の中身を全て吸い取られたような干からびた代物もあった。あまりのおぞましさに息を止めてしまっていると、不意に双頭の狼がぶるりと身を震わせ、リュクレールの腰を支えていた体毛がばらりと解けた。

「えっ、きゃ!?」

 急な解放に耐え切れず、床にどしんと尻餅をついてしまった。そのまま狼はずるりと二頭に分かれて、壁の陰に溶け込んでしまった。どうやら彼らの役目は済んだようだ。

「……ありがとうございます、暴虐神アラム様」

 此処が敵地であることを理解してそっと囁くと、暗闇の中で金色の目がきらりと瞬いて、消えた。この世の残虐なる暴を全て備えた魔狼であろう筈なのに、こんなお使い紛いの事を成してくれた。感謝の礼をして、リュクレールは重い荷物を抱え直す。

 足を進めると、ぐちゃりと粘つく。どうやら床にもこの粘生の糸は広がっているらしい。迂闊に進めば、まさしく蜘蛛の巣に捕らえられる。ならば、出来る手段は僅かしかない。

「――ヤズロー! 聞こえますか!」

 何とも知れぬ暗闇に向かって声を張り上げる。彼が今どんな状況であるかは解らない、だがこの声を聴けば間違いなく彼は来る。主の妻の言葉を聞き違える筈も無ければ、

「男爵様が、己の命と誇りを賭けて、大いなる神と戦っておられます! なれば、わたくしも貴方も、お側に参らねばなりません! たとえ如何なる危険があろうとも、必ずや、男爵様をお助けしなければならないからです!」

 彼と自分の間にある絶対なる真実を違える筈も無い。そう信じて目を凝らす内、暗い昏い闇の向こうに、ちかりと金色が瞬いた。―瞬黒狼が戻ってきたのかと思ったが、違う。ちかちかと、天鵞絨の上の宝石のように煌めく光は、八つ。

「――煩い子犬の声かと、思ったら。そう――そう。お前があれの、奥様ね?」

 響いた、まるで腐った果実のような甘く重い声に、ぞろりと魂を舐め上げられるような怖気を感じ、リュクレールの背が引きつる。悪霊に対峙したことはある、恐ろしく憚ましい、或いは理解できない人間にまみえたこともある――だが、この存在は違う。人間とは全く異なる領域で生まれ出でるもの。形作る理から全く異なる存在。世界から零れ落ちる澱が凝り固まった、魔と呼ばれるもの。

「態々、こんな奥まで来るなんて。あれに喧嘩を売るなんて、愚かなことよ。嗚呼――嗚呼、嫌な臭い。鉄と錫と、銀の臭いね。どれも嫌いよ――」

 ずるり、ずるり、と這いずる音が聞こえる。金の光が近づいてくる。粘つく糸を爪の生えた節くれだった八本の足が、するすると超えて来て――黒い牙の並んだ顎が、リュクレールの顔を噛み潰そうと闇の中から伸びてきた。

「全部食べてしまおうかしら? あなたごとならその硬い手足も、美味しく頂けそうだもの」

 美しい女の体に、蜘蛛の顔と下半身を下げたその憚ましい姿に、リュクレールは真っ青になったままぐっと奥歯を噛み締めて――もう一度、震えながらも声を出した。

「……ヤズロー。其処に居るのですね?」

 きちきちと鳴っていた顎の動きが止まる。生臭い口が鼻を齧らんばかりの傍にあるのに、リュクレールは後退しない。確信をもって話す彼女の瞳は――既に、半分を超えて金色に侵食されていた。悪霊の子として産まれてきた彼女には、元来魔の証である金の瞳が備わっていた。目では見えぬ魂の形をはっきりと見極めることが出来る。凝り固まる黒き魔の中に、確かに残って輝いている銀の煌きを。

「ふふ、ふふふ。面白いこと。あの子は此処にはいないわ、誰にも取られない場所に隠したもの」

 嘲るような声だが、リュクレールはぐっと腹に力を入れ直す。魔は人とは異なり、その魂から体を生み出すもの。体は物質ではなく霊質によって編み上げられており、物理的な損傷を付けることは難しい。その代わり、強度は精神の強さに左右される。故に魔と対峙する時は、怯えず、恐れず、相手を揺さぶらなければならない。これも、愛する夫から教わったことだ。

「いいえ、いいえ。“蜘蛛”のレイユァ殿とお見受け致します。此処にヤズローがいないと仰るならば、何故貴女は、今ここにいらっしゃるのですか」

「此処がわたしの巣だもの。入り込んできたのはお前でしよう?」

「いいえ、いいえ。ならばわたくしの声に応えず、もっと奥に行けば宜しかったのです。わたくしだけでは、この巣の中にまで入ることは叶わないのですから」

「煩かったのだもの。煩いものは、食べてしまったほうがいいでしょう?」

「いいえ、いいえ。男爵様からお伺いしたことがあります。貴女が食べたい一番のものは、愛する子供であることを」

 間答を続けるたび、黒い牙がリュクレールに伸びてくる。巨大な切っ先がぶつりと頬に刺さっても、彼女は構わず確りと前を見据えていた。

「貴女は、ヤズローを食べたのですね?」

「ええ。ええ、そうよ」

 魔の者はその在り方故に、嘘を吐けない。偽りを告げるのは、己を弱らせることだからだ。

「ならば、やはり」

 リュクレールは腹を決め、涎の垂れるそこに口付けんばかりに近づき――その中へ向かって声を発した。

「ヤズロー、出て来て下さい。難しいのならば、わたくしが手助け致します」

「やめて!!!」

 悲鳴が響いた。牙の並ぶ恐ろしい顎から、哀願が出た。巨体が傾ぎ、白い裸体がぐにゃりと仰のく。

「嫌よ。やめて。この子は私のものよ!」

「貴女がここまで来てくださったのは、ヤズローの為ではないのですか? 或いは、ヤズローが貴女を動かしたのではありませんか?」

「嫌! 嫌! 嫌! 嫌! 嫌! 嫌!」

 激しい拒絶と裏腹に、黒と黄の縞模様に膨れた腹がぶるぶると振動し――じゃぎり、と嫌な音がした。腹の中から、銀色に鈍く光る刃が突き出されている。それを縞模様の足が必死に抱えようとするが、人の手ならば兎も角蜘蛛の足では、何かを抱きしめることは叶わない。

「駄目よ、駄目、出て来ては駄目、此処にいて――危険なの! 駄目なのよ! 崩壊神に見つかったら貴方も死んでしまうわ! 嫌よ嫌嫌、絶対に嫌――」

「――うるっせえ!!」

罵声と共に、飛び出した刃がざくりと交差し、蜘蛛の腹を掻き捌いた。血とも体液ともつかぬものがどぶどぶと浴れ出て、其処から――大鋏に変わった右手と共に、ヤズローの小さな体がまろび出てきた。どさりと崩れる巨体と同時、ごろんと転がった小さな体は、右手以外は肘と膝から先がない。蜘蛛の腹で溶かされたからではなく、元々無いのだ。その四肢をどうにか動かして、口から分泌液を何度も吐き出しながら立ち上がる。

「ぅえ、べっ」

「ヤズロー!」

 慌ててリュクレールが駆け寄る。幸い、服なども僅かしか溶けておらず、酷い有様だが怪我は無いようだった。安堵に息を吐いて膝をついてしまう少女に、従者は申し訳なさそうに眉を顰める。

「……お見苦しい姿で、申し訳ございません。奥方様に大変なご足労を」

「いいえ、いいえ! よく無事で……本当に良かったわ。腕と足を持ってきたの、ああでも、ミロワール様でないと」

「ご心配なく、少々お待ちを」

 そう言いながら、ヤズローは僅かに口を窄め――ふうっと息を吐くと、その吐息の中に銀糸が混じった。その糸はするすると伸び、リュクレールの抱えてきた銀腕と銀脚に届き――くるくると引き寄せ、ヤズローの四肢に絡まって固定していく。僅かな間の後、ぎしりと銀の五指が両方とも握りこまれた。

「まあ……こんなことが」

「こいつに食われる前に、銀蜘蛛を一匹噛み潰しました。半分以上俺の使い魔のようなものだったので、上手く馴染んだようです。……あまり使いたくありませんが」

 つまり、絡新婦の力を有することにより、片腕だけでも取り戻し、尚且つ腹の中でもそう簡単に消化されずに済み、レイユァ自身の体と一時的に同期することすら出来た、らしい。うっかり魔の者の領域に一歩を踏み込んでしまったヤズローをどう労って良いか解らず、落ち込む従者の傍でおろおろとしていると。

「嫌よ……やめて……お願い……」

 ぐずぐずと呟き続ける蜘蛛は、腹から血と体液を流しながら、その姿を随分と縮めていた。下半身は蜘蛛の身のままだが、いつの間にか顔は美しい女の姿に戻り、ひとの両手で覆ってさめざめと泣き崩れている。彼女は彼女なりに、ヤズローを守ろうとした結果の暴挙だったのかもしれない。そのお陰で犠牲者が増え、彼女も約定を違えてしまったことについては見過ごせないが。

「ヤズロー。今は」

「はい、奥方様。了承しております」

 労いすら混じる主の妻の慈愛に深々と礼をしてから、ヤズローは漸く取り戻した足で立ち上がる。動きに問題ないことを確かめてから、ゆっくりと近づく。

「……おい。レイユァ」

「行かないで……坊やぁ……」

 ヤズローの拒絶が致命的だったのか、まるで幼子のように泣きじゃくり続けている。心底嫌そうに天を仰いでから、はあ、と溜息を吐いた。

「……沙汰は、旦那様から命じられる。それまで大人しくしてろ」

「嫌よ、嫌、ビザール・シアン・ドウ・シャッスもどうせ死んでしまうわ。だったら、ここにいた方がいいじゃない……! わたしが守ってあげる方がずっといいじゃない!」

 彼女ほどの魔の者が、心の底から敵うことがないと思ってしまう相手なのだろう、崩壊神は。それだけでも怖気が来るが、ヤズローとて足を止めるわけにいかない。――己の主が、その神と戦っているのだとしたら、その前に立たない理由が無いのだ。

「俺が旦那様を死なせない。だから、ちゃんと戻ってくる。……約束、する」

 凄く嫌だけれど、どうにか絞り出した。約束することが、彼女にとってどれだけ強力な縛りかを知っている。魔の者と約定を結ぶのがどれだけ面倒臭いことかも。

「……嫌よ。人間は、嘘をつくわ」

 ぐす、と洟を畷りながら、駄々を捏ねるレイユァだが、やはり約定を出されたため僅かに勢いが緩んだ。もう一度溜息を吐いて、ヤズローは言い募る。

「小指でも醤って持っていくか?」

「……嫌よ。そんな銀臭い指、一本も要らないわ」

 当たり前の事のようにそう囁いて、レイユァはぐるりと体を翻した。がさがさと、糸を伝って洞に入っていく――奥とは別の方向へ。

「約束よ。戻ってきたら、ちゃんと肉を齧らせて。目玉でも腸でも良いわ」

「――治る部位にしてくれ」

 闇の向こうから聞こえた声に、どうにか妥協案を絞り出すが、返事は来なかった。憂鬱を振り解き、改めて主の妻へ跪く。

「遅参、申し訳ございません。全てが終わった後、処分は如何様にも」

「ええ、いいえ。気持ちは解りますが、今は旦那様の無事が最優先です。わたくしと共に、神の座す地へ……旦那様の元へ向かってください、ヤズロー」

「――仰せの通りに!」

 確りと礼を返し、ヤズローは立ち上がった。

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