閑話・悪食男爵と青春の終わり

 気づいた時には、もう遅かったのだ。

「――フルーフ!」

 名前を呼んだのは、ビザールだったのか、瑞香だったのか、同時だったのか。

 学院の外れにある古い時計塔。決まった時間で自動的に鐘を鳴らすからくり時計であり、年に一度の整備以外で近づく者はいない。昔、閉鎖的な生活に疲れ此処から飛び降りた生徒がいただの、否悪質な複数人の嫌がらせによって追い詰められやむを得なくだの、曰くばかりが先行して人気のない場所。正面扉は施錠されているが、窓の鎧戸が一枚壊れていて、中に入る事が出来るのも公然の秘密だった。

 そうやって無理やり入った、狭い部屋の中に、小目が立っている。瑞香と一定の距離を保つように、いつも通り、表情を動かさないまま、――その手を血に濡らして。

 部屋の床には、フルーフが寝ている。古びた絨毯の上に、赤い血が広がっていく。その体は既にこと切れていて――彼の霊体は、全身に紅い棘が突き刺さり、壁へ磔にされていた。

『小目ゥッ!』

 光景を理解してか、あるいは拒むようにか、瑞香は叫んだ。忠実な従者の襟首を掴み、睨み上げても相手はびくともしないまま。

『――瑞光様のご命令です』

「……、ぁ」

 南方語で小さく告げられたその言葉をビザールが理解する前に。瑞香の瞳から、怒りは愚か全ての感情が抜け落ちて、ずるずるとしゃがみこんだ。まるで、夢から覚めたように。小目の汚れた手が彼の腕を掴んで支えようとするのにも、抵抗すらせず。

 ビザールは――何も出来なかった。いつもなら、幾らでもくだらないことで、舌を動かして語れるのに。唇も手も、凍り付いたように動かせない。

 何故、と問うのは無意味だ。既に起こった状況を問う意味は無い。

 何が、と問うのは無意味だ。状況証拠と現状に齟齬が見当たらない。

 故に、ビザールは、よろよろと足をどうにか踏み出して。

『……ごめんよ、ビザール。お願いだ』

 紅い棘に侵食されて、既にその霊体を半壊させている親友の声に止まった。理解が出来ていても聞きたくなかったからだ。何と無様であろうか――ただ止まっているだけでは、現実は容易く広がり己を食い潰すと知っていた筈なのに。

 フルーフの魂には、先祖代々受け継がれてきた呪殺師達の悪意が絡みつき突き刺さっており、それを他者に向ける為の刃として使ってきたのだ。彼自身もそれを理解していて――痛みを堪え続け、その針を全て己の魂に向けていた。迂闊に他者に向ければ、自分の妹や友人達にまで累が及ぶ羽目になってしまうから。

 その結果が、今だ。死んだ彼の魂は既に悪意の棘の苗床と化し、身動きが取れず分離も出来ない。こんな有様では、死女神が司る忘却の河を渡れずに――

『このままじゃ、僕は只の悪霊に成り果てる。だからお願いだ、ビザール』

「っだめ……駄目よ。やめて。ねえ、お願い」

 彼が言いたいことに気づいた瑞香が、涙を浮かべてフルーフに縫ろうとするのを、小目が止める。今彼の遺体に触れれば、呪いの毒に侵される危険があるからだろう。勿論瑞香は、それでもいいと思っているのだろうが。

『ごめんよ。君にまた、重石を増やしてしまうかもしれないけど、他に方法が思いつかないんだ……』

 本当に済まなそうに、フルーフは言った。

『僕が呪いに塗れた悪霊になってしまう前に。手遅れになる前に、僕を食べてくれ。僕は君も、ルエも、両親もナーデルも、傷つけたくない。……お願いだ』

「駄目よ!!」

 瑞香が叫んだ。瑠璃色の瞳から大粒の涙を零しながら、小目の腕に抑え込まれたままで。

「嫌よ、駄目、絶対に嫌! 悪霊でもなんでもいい、あなたがいてくれればそれでいいから! 呪われても殺されてもいい、一緒にいて、離れないで……!」

 それはふたりの親友から発せられた、紛れもない、本気の願いだった。

 フルーフは笑っている。震えながら、笑っている。その魂には悪意の針が届き、痛みにのたうちまわりたいだろうに。呪殺師としての、それに何よりも大切な者達を守りたいという気骨が、その笑顔を支えているに違いない。

 瑞香は泣いている。もう言葉が上手く発せられないらしく、蹲って泣いている。彼にとって一番大切な相手が、この世界から消えてしまうことが一番堪えがたいのだろう。恐らくこのまま、フルーフが悪意に飲まれたとして、一緒に堕ちても悔いなど無いというのも本気に違いない。

 二人の友人の、心からの願いを受けて、ビザールは唇を一度噛み――丸い頬を無理やり引き上げて、笑顔を作った。そうしなければならないと思ったからだ。酷く不格好だった、自覚はあるけれど。

「――良いだろう。了承したとも、フルーフ」

 フルーフが安心したように笑う。瑞香の悲鳴のような泣き声が響く。後ろは振り向けない。えずきそうになる喉を堪えて前を向く。

 だってこれは、ビザールの願いだ。浅ましい程のエゴだ。親友をひとり失うか、ふたり失うか、ではなくて。

 親友をふたり失っても、せめてひとりには生きていて欲しいという願いなのだから。



【――そろそろ諦めるか?】



 腹の底から聞こえてきた声を無視する。諦める理由など、今ここには何もない。

「――フルーフ。君が意気地なしなど、とんでもない。君は素晴らしく誇り高い、最高の親友だ」

『ありがとう、ビザール。……ごめんね、ルエ』

 既に、彼の霊体は崩れ初め、棘が生えた山嵐のようになってしまっている。もうあまり時間は無い。それでも彼は、酷く優しい声で愛する相手に詫びた。

『僕は君に、生きていて欲しい。怨んでくれて構わない。大丈夫だよ、慣れているから』

「いや、いやよ、お願い、お願いだから――」

『僕だけ怨んで。僕にはそれで、充分だから』

 何と傲慢な愛の言葉だろうか。今この場には、己の我を通そうとするものしかいやしない。フルーフもその自覚があるのだろう、後はもう機能を失った瞳から涙を零して詫び続けた。

『ごめんよ、ルエ。ビザールも、ごめん。何もかも、背負わせて、本当にごめん――』

「謝ることなど無いよ、我が永遠の友よ。――君に永遠の安らぎが与えられるように」

 また暴れ出そうとした瑞香の体を小目が抱えて下がっていく。有難いと思った。今の心境で神紋を開けば、彼まで巻き込みかねないからだ。フルーフもそれに気づいたらしく安堵したように頬を緩め――紅い棘が彼の全身を覆いつくした瞬間。

「……頂きます」

 静かな宣言と共に、腹腔が熱くなる。円を描くように、額から、右手、左手、舌に刻まれた神紋が疼く。魂と血に刻まれたあまりにも多量の悪罵が、酷く吐き気を催す溝泥となって舌から体に流れ込み、己の体が削られていく。どうにか増やし続けている腹の肉の中身が、あっという間に満たされていって。



【――馬鹿なやつ】



 神の呆れた声を、ビザールはやはり無視した。

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