第3話 完結
鶴吉の悪態をまともに聞いていると、まるで腐った物を飲み込んだように胸具合が悪くなり気分が悪くなり吐いてしまいそうになります。
だからこの頃では、さり気なく水屋に立ちこんにゃくを両耳に詰めてから鶴吉の前に座るようにしました。
すると悪口雑言も心なしか遠くに聞こえます。
きれいな景色や楽しかった思い出を思い浮かべる事が出来るのです。
お姑さんはこんな毎日に一人耐えていなさったのだとつくづく哀れに思いました。
鶴吉の悪態を聞きながら、トラはいつかこの小さなおっかさんを救い、連れ立って、ここから遠く離れた土地で二人で助け合って暮らす事を想像したりします。
楽しいだろうナ、極楽だろうナとそんな空想をしているとつい顔に出てしまうのか、
「何をボーッとしている!何も聞いていないのか!お茶だと言っているんだぞ!まさかお前達はつんぼになってしまったんじゃ無いだろうナ?」と鶴吉がねめつけます。
これでは私達二人は大きな性悪の大蛇になぶられる二匹のひよこのようなものだナとトラは心の中で苦笑いするのですが。
隣にいて縫い物をしながら増々ちぢこまっている小さなおっかさんを見て、でもこの人を一人残して逃げ出すわけにはいかないナーと思うのです。
さりとて、これが死ぬ迄続くんだろうかと思うと、先がすっかり暗く見えるのでした。
世間には暴力を振るう男がいる事は聞いた事がありましたが、鶴吉は殴ったり蹴ったりは決してしない代わり、口から吐く毒で相手をすっかり心の芯迄、凍らせてしまうのでした。
さすがに一歩家から外に出ると悪態はこらえてニコニコしているので、人からはただおしゃべりの男としか見えないだろう。
いわゆる外ヅラの良い男なのでした。
トラはその裏側を知った今、鶴吉に対してはすっかり幻滅して、すぐにもここを逃げ出したい気持ちだったけれど、いかんせん、この哀れな母親を置いては行けない、それではどうするか。とにかく、このままではいけないとは思いつつも、どうする事も出来ないまま月日が経って行きました。
鶴吉は漁に出ない時は朝から酒を呑みながら、心に滞った鬱憤を吐き出して発散するのを繰り返していました。
家から外に出ると、ニヤニヤ笑いながらそれなりに良い人になっているのでしょう。
トラはこの頃では、鶴吉が居ない時でも先々の事を考え、思い悩んで眠れない日が続いていました。
そこへおっかさんが小さな壺を抱えて持って来ました。
「トラサ、これはめくらぶどうで作った酒だ。めくらぶどうは毒だけれど、こうして酒にして、しかも何年も眠らせた物は薬にもなるんだヨ。私はネ、眠れない時これを小さな盃に一つ飲んで眠るんだヨ。すると体がポカポカ温まってトロリと良い気分になって眠ってしまうんだヨ。」と言って見た事もない程の小さな盃にほんの少し注いでくれました。
トラは恐る恐る、それを飲んでみました。
それは口に入れた時は甘くて飲みやすいのですが、喉を通る時思いの外、カッと熱くなり体もすぐにポッポッと温かくなって眠くなって来るものでした。
「めくらぶどうは毒だから沢山飲んじゃいけないヨ。台所の一番下の棚の奥に置いておくからネ。眠れない時はほんの少しだけ飲むんだヨ。」と姑サは優しく言いました。
その後トラはトロトロ眠りに入る時に奇妙な夢を見ました。
トラとお姑さんの傍らに誰か解らないけれど光り輝いている女の人がいました。
その人は優しく笑いかけながら、
「大丈夫、これから先は良い事もある。」と二人を励ましながら、しきりに手繰り寄せるように何か紐のような物を引っ張っているのでした。
トラは何を引っ張っているのかナ?と不思議に思いましたが、何かを引っ張っている所で夢は終わってしまいました。
そしてこの夢はその後、すっかり忘れていました。
それから日は過ぎて行きましたが、トラはこういう毎日にもどこか慣れて半分諦めかけていた頃です。
鶴吉が朝、漁から帰って来てまた、飲みながら延々とじわじわと不平不満の悪口雑言を吐いて寝てしまいました。
嫁に来たと言ってもこの鶴吉には夫の情愛のようなものはカケラも無くて、まるでわがままな子供が年取ってその上、酒癖が悪いというようなまるで外見の男ぶりとはまるっきり正反対な、どうしようも無い婿殿だったという事が解った今、トラは心底ゲンナリした気持ちで、そのしまりの無い寝顔を見ていました。
そしてふいに、この人の腹の中はどうなっているのだろう?腹黒いという言葉があるけれど、あんな悪意のある言葉を吐き続けるという事は、本当におっかさんがあの“神さん”に言われたように腹の中に“虫”がいるのだろうか?
そうしたら、めくらぶどうで作った酒は薬にもなるというではないか。
トラはフッと思いついて水屋の一番下の棚の奥から壺を出して来て、小さい盃に一つ眠っている鶴吉の少し開いている口にそっと垂らしてみました。
すると眠ったままの鶴吉がコクンと喉を鳴らしてそれを飲み込みました。
たったこれだけでは虫はいたとしても死なないだろうと思い、もう一つ盃に入れてそれを口の中に流して見ました。
するとまた、鶴吉は眠ったままコクリと飲み込みました。
暫らく様子を見ても何の変化もありません。
やはりこの酒ぐらいで何もかも良くなりはしないのだ。
鶴吉は誰に似たのか元々が性悪の性質なのだろう。
この酒は眠れない時の大事な酒だ。
これ以上は無駄にこの人に飲ませる訳にはいかない等と考えながら、トラは壺を元に戻して、鶴吉が取り散らかした後を片付けようと戻って、何気なく鶴吉の顔に目をやると、鶴吉は邪心の無い子供のように気持ちよさげに眠りこけていました。
トラはその顔を見てオヤッ?と思いました。
鼻の穴から何か緑色のものがのぞいています。
風の治りかけの時出るアオバナと言う緑色の鼻汁によく似ているが、それよりも濃い気味悪い程濃い緑のものがツツーと出て来たかと思うとまた、ツツーと鼻の中に戻って行きます。
トラが目を離せずにじっと見ていると、それはまるで生き物のように先っぽが水かきのある手のようにさえ見えて来るのでした。
お姑サが、鶴吉の中には悪いビッキがいると思って我慢する事にしたと言っていたっけ。そしたらこれがビッキの正体かも知れない。
トラは暫らくその様子を見ていたが、決心して勇気を出して意を決し、その気味悪い手のような緑色のものがニューッと出て来た時に、その物を思いきって指でつまんだ!
気味が悪くて背中も頭もザワザワと鳥肌が立ったが勇気を奮い起こしたのだ。
するとその物は慌ててまた、鼻の中に逃げ込みそうになるのをトラは両手を使ってしっかりと捕まえて引っ張りました。
ただの鼻汁ならすぐに切れる筈なのにトラが引っ張るとその緑のうどんのような物はどんどん、どんどん出て来るのです。
これを逃してはならないとトラは必死で手繰り寄せました。
その時ふっとあの夢を思い出しました。
あの光り輝く人が何かをどんどん引っ張っていたのはこれかも知れない。そう思い出しました。
トラは緑色のうどんのようなぬるぬるとして気味
の悪い物をどんどん手繰り寄せて、傍らにあった大きな丼に入れました。
鶴吉は相変わらず眠ったままです。どんどん手繰り寄せて
そのどんぶりが八分目ほどになった時、急にもうこれ以上出ないというように、ピンと何かに張り付いて離れないようになりました。
でも、このままにしていたら、この緑色の気持ちの悪い物はまた、鶴吉の鼻の中にズルズルと戻ってしまうに違いありません。
トラは“後はどうなれ山となれ!”と心の中で掛け声をかけて思いっきり力を入れて引っ張りました。
すると何かペリッと剝がれるような感覚でシュポンと抜けました。
しかしこれは何だろう?ただの鼻汁等ではありません。
こんな物が体の中に入って悪さをしていたのだろうか?
丼に一つはあるそれは気持ちが悪くどぶどぶしてイヤーな臭いがします。
これを早く捨ててしまおうと思ったけれど、トラはまたお姑さんの話を思い出しました。
それで急いで、外で仕事をしているおっかさんを呼んで来て見せると、
さぞびっくりしたのだろう。お姑サは何も言わないでそのドブドブした物を見、またスヤスヤ眠っている息子の顔を見ました。
それから独り言のように、
「これは海の底の海神さんかも知れないヨ。トラサ、鶴吉は子供の頃、本当に体の弱い子供だったんだヨ。あんまり弱くてお父とこの子は大人になるまで生きていられるだろうかって心配したもんだ。それでこの辺りじゃ盆には誰も舟を出さないのが慣わしなんだが、盆の日にこっそりお父がこの子を連れて舟を出して海の神様にどうかこの子を丈夫にして下さいって言って、沖に出て海に米を撒いたんだ。するとどういう訳か一緒に乗っていた鶴吉が沖で海に落ちてしまって、お父はびっくりして自分も海に飛び込んで海の中を探したら、鶴吉が海の底に沈んでいたんだと。お父は泳ぎの達者な人だったから底まで潜って行って鶴吉を抱いて上がって来たけれど、鶴吉の顔には落ちた時付いたのか、白い長いイソギンチャクのような物がいっぱい付いていたんだと。舟に上げてパンパンと顔を叩いたら、目を覚まして何とも無かったけれど。あれには肝を冷やしたって、おっとうが言っていたっけ。その後からだヨ。鶴吉が元気になったのは。他の子供達のように丈夫になって、お父も私も海の神さんにお米を撒いて良かったネと話し合ったものサ。でも海に落ちた事は誰にも話さなかったんだヨ。海に出たらいけないお盆の日に舟を出したからと世間の人達に言われるからネ。トラさ、私はこれを見て、今初めて解ったヨ。鶴吉はあのまんまだときっと先のない弱い命だったんだヨ。それが海神さんが鶴吉の鼻からこのミミズの長いようなうどんのような物を入れて鶴吉の体の中の悪い物を吸い取ってくれて長生きさせてくれていたんだ。鶴吉は私達が大事にしすぎてすっかりわがままな大人になってしまったけれど、死んでいないよりは生きている方がマシだと思うヨ。トラサには本当に申し訳ないけど、このドブドブした気味の悪い物は、もしかしたら鶴吉の命の元かも知れないヨ。トラサ、これはすぐに捨てないでおくれ。目の粗い布袋に入れてそこの川の滝壺に流れないように清水にさらしておいておくれ。」と言いました。
トラとおっかさんは、その虫なのか鼻汁なのか解らない物を流れてしまわないように長い紐のついた目の粗い布袋に入れて木の杭の所にしっかり結びつけておいて鶴吉の様子を見る事にしました。
鶴吉は昏々と眠り続けたまま目を覚まそうとはしません。
トラとお姑サはだんだん心配になって来ました。
いつもは夕方の頃合いになると目を覚まして不機嫌そうな顔をしながらも起きて仕事へ行く準備を始めるのですがピクリともしません。
恐る恐るトラとおっかさんが耳元で、「もう夕方になりますで起きてつかあさい。」と言ってもピクリともしません。
死んではいない、触ってみると体は温かい。まるで三日も四日も寝ないで働き通した人がやっと眠れたというような深い眠りの中にいるようでした。
おっかさんとトラは目と目を合わせてまた、鶴吉を見守りながらそっと話し合いました。
「後で急に眼を覚ましても、何度も声を掛けて起こしても起きなかったんだヨと言うしか無いようだネ。とにかく様子を見よう。私達も夕餉を済ませたら早く眠ってしまおう。鶴吉が明日、目を覚まして仕事に穴をあけた事を知って一層、怒り出すに決まっている。」
その時の為にも今日は私達もぐっすり眠った方がいいと話し合って、勿論あのお酒を一口飲んで眠ってしまいました。
次の日の朝が来ても鶴吉はまだ目を覚まさないで眠ったままでした。
おっかさんとトラは、これは只事では無いと心配になって来ました。
あの鼻穴からズルズル引っ張り出したものは鶴吉を生かしてくれている大事な物に違いありません。それを抜き取ってしまったから目を覚まさないのだと考えが至りました。
お姑サーとトラは急いで小川の滝壺の所へ行きました。あのドロドロの物はもう溶けて無くなったかも知れないと思うと気が気ではありません。
布袋は流れずにまだそこにあったので口を開いてみると、きれいな小川の清水で一晩中さらされて、ドロドロの臭いもすっかり取れてきれいな白いうどんのような物になっていました。
おっかさんとトラはそれを大事に持って帰って、眠っている鶴吉の鼻の穴に恐る恐る入れて見ました。
するとどうでしょう。それはスルスルと自分から中に入って行くように少しずつ入って行きました。
そして、ついに元のように鶴吉の体に入れる事が出来たのです。後は神仏に委ねるしかありません。
そういう気持ちで二人は交代で近くにいながらいつも通り畑に出たり、家の周りの仕事をしたりしておりました。
夕方近くになり、カラスがカーカーと泣いて山に帰る頃、鶴吉は目を覚ましました。
「あーあ。ぐっすり眠った。腹が減った。」と言って目を覚ましました。おっかさんとトラは心の中で本当に安心しました。
トラはいつでも食べられるように夕餉の支度を整えてありましたので、それを出すと鶴吉は何も無かったようによく食べました。
その様子を見て、トラとおっかさんは目で頷き合いました。
二人共、もしかしてこのまま目を覚まさずに死んでしまうのではないかと思ったりしたからです。
いくら困った息子でも、婿さんでも、いてくれる方がなんぼ良いかとつくづく思ったし、毎日仕事に出て稼いでくれるのは有難いからでした。
鶴吉は夕餉をいつもよりおかわりして食べると、これまた不思議な事に機嫌良く仕事に出掛けて行きました。鶴吉を送り出した後、
「あのいつもの不機嫌な顔ではなく、サッパリした良い顔だったよネ。おっかさん。」
とトラが言うと、
「そうだそうだ。あんな機嫌の良い顔を見たのは何十年ぶりだろう。」
と二人は手を取り合って喜びました。
その後どうなったかというと、
最初は人が変わったようにいい人になったように見えたのが、また暫らくすると、元の不機嫌に戻りグチグチいいはじめ、”おろち”のように二人を睨み付けるようになるのでした。
そうなるとおっかさんとトラは示し合わせて眠っている鶴吉の口にめくらぶどうの酒を小さな盃で二つ程入れてやります。
すると案の定、鼻の穴からあの緑の物がチョロッと出て来るのです。トラはそれをまたしっかり捕まえて引っ張りだすのです。傍らではおっかさんも布袋の口を開いて待っています。
その袋を例の小川の壺の所へ持って行って清水にさらしてきれいにした物をまた鶴吉の鼻の中に入れてやります。
鶴吉は何も知らずに眠りから目を覚ますと、さっぱりとしてすがすがしい顔になって仕事に出掛けて行くのでした。
息子を無事見送った後おっかさんは、
「何の因果か鶴吉ははらわたがドブドブの病におかされているんだろうネ。あのうどんのような虫はそのドロドロを食べてくれているんだろうヨ。」と言いました。
トラも頷きました。
それからだいたい一ヶ月に一度か時には二度、鶴吉がグダグダ言い始めると、おっかさんとトラは力を合わせて鶴吉の鼻から“虫うどん”を取り出してきれいにしてまた戻してやる事を繰り返しました。
それでも、トラとおっかさんは以前か見たらどれだけ気持ちが救われたか知れませんでした。
恐ろしい不機嫌な顔しか見せなかった鶴吉が、時々は機嫌の良い顔を見せてくれる。
それだけで儲けものだと思いました。
世間の婿さんのように情のある言葉をかけてくれるような鶴吉ではありません。
自分勝手な子供がそのまんま大きくなったような人間ですが、
それでも外に出て稼いで来てくれるのです。トラは諦めました。私には良い婿さんは手に入らなかったけれど、優しい良いおっかさんに合う事が出来た。
トラはそう思う事にしました。
そういう事ですから、トラには子供が授かりませんでした。
これからも授からないだろう。そう思っていた矢先にタツが三人目の子供を身ごもってい
るという話を聞きました。
トラは家に帰っておっかさんに、
「タツの二番目の女の子、まだおむつが取れていないのに次の子が生まれるのは大変みたい。あそこの姑さんは外に出掛けてばかりで、孫の世話を嫌っているようだから。生まれて来る子がおしめが取れるまで、その子を預かってみたいんですけど。」
と言うとおっかさんは、
「私は大賛成だヨ。小さい子供がいると家の中が明るくなるからネ。」と言ってくれました。
ある日、鶴吉の機嫌のいい日に恐る恐る聞いてみると、
「トラのしたいようにしろ!」と関心なさそうに言ってくれました。
それを聞いてトラとおっかさんは喜びました。
だが、ただ預かるだけだし、いずれは実の親の元に帰さなくてはいけなくなる。
トラはその時の事を思い、女として人の子を預かる事を淋しく思うのでした。
だけれども、実際預かると赤子は可愛くて可愛くて堪らないのです。
モチモチフクフクして一日中見ていても飽きない程です。
抱いてもおぶってもその温かいテツテツとした重みは例えようのない喜びでした。
トラは心の中で、いいんだ、いいんだ、今が幸せなんだからと思います。
おっかさんもそれは同じです。自分の孫のように可愛がってくれます。
鶴吉は自分が大きな子供だから無関心のようで、特に可愛がりもしませんが文句も言いません。嬉しい忙しさに追われながら日は矢のように過ぎて行きました。
よちよち歩きの子はアーア、アーアと自分を呼びます。
何て幸せなんだろう。
タツに感謝しなければならないナとトラは思いました。
でもこの子を返す時はどんなに辛いだろうと思っていると、タツは三人目の後、また四人目を身ごもり生んで、また五人目を身ごもりました。
トラは四人目の子供も預かりました。
その後また六人目の子も預かりました。こうしてタツは八人の子供を生んで更に九人目を身ごもりました。
結局タツは九人の子供を生み、トラはそのうち四人をおしめの外れないうちから預かりました。
二人の家は少し離れていると言っても走って行けない所ではないので、子供達は両方の家を行ったり来たり自由に遊び回って育ちました。
だけどトラの預かった四人はトラの事をいつまでも“おっかさん”と呼び、周りの誰かが、
「本当はタツがおっかさんなんだヨ。」と教えても
「いんや本当のおっかさんはこっち。」と言ってトラの背中や膝にとりついて離れようとしないのでした。
それを見てタツも満足そうにしています。
それ程、この四人の子等はトラに我が子のように大事に育てて貰ったのだからと感謝の気持ちでいっぱいでした。
そもそも九人も子供を生んで、その子供が全部伸び伸びと育つ事が出来たのは、姉のようなトラの支えがなくては出来ない事でした。
姑はタツの生んだ子の世話を少しも見ようとはしませんでした。
タツは子供を生む事でここの家の居場所を確かにしようとしました。
一人が二人、二人が三人と子供を生む事によって、確かにそこに根を張って行くような気がしたのです。
亀吉とのゆるぎない繋がりを姑に見せる気持ちもあったのです。
でも自分一人ではせいぜいが二人か三人で諦めていただろう。そうでなかったら
あの姑に泣きついて散々嫌みを言われていたに違いありません。
いずれにしてもこの子達を産む事が出来たのはトラの助けがあったからだとしみじみおもう。タツは、そう思いながら子供達を見る。一番下の九番目の子がヨチヨチ歩きをするようになった今、上の子供達はタツを手伝って下の子の面倒を見てくれるようになりました。
タツはようやく張りつめた戦いが一段落したような気持ちでした。
トラにしたってそうです。
自分の腹も痛めずにこんな可愛い子を四人も育てる事が出来ました。
母親の嬉しさ喜びを味わわせて貰いました。
いつかこの四人が大人になった時は当然タツの所に戻って行くだろうと覚悟はしています。
その時、自分が淋しい思いをするかどうかは解りません。だけれど、それは先の事です。
自分は今、四人の子供に囲まれて幸せなのだから。
先の事は何とかなるだろうと思いました。
トラのお姑サも年を取りました。
思えば、実の母親にも負けないぐらい心の通じるおっかさんで私は幸せだとトラはつくづく思います。
それに忙しさに紛れてふと気が付くと、あんなにグダグダ言っていた鶴吉の悪態がいつの間にか無くなっていました。
子供達の賑やかさに圧倒されて腹の中のあのドブドブ嫌な臭いの物がどこかにいってしまったのでしょうか?それに、きがつけば、めくらぶどうの酒を眠っている鶴吉の口に流し込む事も無くなりました。
世間では鶴吉は嫁を貰ったら、いつの間にか人が変わったように落ち着いて来たと評判になっているとトラは耳にしました。
家の中では大して変わっては見えないけれど、人が言うのだから本当なのだろう。
おっかサーもそれを聞いて嬉しそうにしています。
このおっかサーがいつか居なくなる日が来ると思うと悲しいけれど、その時はその時の自分がどうにか乗り越えていってくれるだろう。
先の事は今から心配しなくても良い。
トラは相変わらず元のトラらしく欲のない悟りの気持ちで一日一日を暮らしています。
タツの家では上の子供達が下の子を連れて浜に遊びに出掛けて、珍しく家の中が静かになりました。
このところ、足腰が調子悪いのか、それとも外で何があったのか姑がいつものように外に出ないで部屋にいるのが少し気になります。
タツは、
「おっか様、どこか悪いんですか?」と声を掛けました。
しかし、部屋の中でブツブツ何か言う声が聞こえるだけで顔を出しません。
「おっか様、もうすぐお盆がやって来ますネ。私、末の子が手が離れて、ようやく針が持てるようになってこれを縫いました。おっか様、おっか様の浴衣を一番先に縫ってみたんですヨ。気に入ってくれると良いんですけど。」
タツがそう言って障子を少し開けて出来上がった浴衣を入れてやると、暫らくして、
「お前のは作ったのかい?もう自分の物は何年も作ってないんだろ?」という声が聞こえます。
タツはニヤッと笑って、
「私のはまだいいんです。おっかさんの方が大事ですから。」
と答えると、暫らくして、
「すまないネー。」と返事が返って来ました。
タツにとって姑の初めての心ある言葉でした。
振り返るとそこには亀吉が立っていました。
そしてタツと目が合うと、亀吉は嬉しそうに照れたように裏口から浜にいる子供達の方へ歩いて行きました。
その時タツは今初めて報われたと思いました。
それからまた月日が流れて行きました。
タツとトラの二人は今では、立派な中年の女房になっていました。
もう、タツの両親もタツの姑も、トラの姑も亡くなって何年も経ちました。
子供達も皆、一人前に大人になって手が離れて楽になっていました。
トラが預かった子供達は馴染んだトラの家が居心地が良いのか、一人も実家に戻ろうとはせずにトラと鶴吉の所を自分の家にしています。
タツの所でも亀吉共々それがかえって安心だと思っているような所があります。
それでも子供達同志は当然、自分達は血の繋がった兄弟姉妹だという事を知っているので、これから何があってもお互い助け合って行くだろうと思います。
今日もタツとトラは浜辺の仕事の合間に並んで思い出話に花を咲かせます。
波乱万丈の二人には相手に話して聞かせる事はいくらでもありました。
タツにとっては一生忘れられないのは、“鳥の生肉を食って角をはやした鬼嫁だー”と姑から恐れられたあの時の事でした。
タツはこの年になって、よくもあんな事が出来たナーと思い出す事があります。
「トラ、私はネ。あの時、阿修羅になっていたんだヨ。あの時はネ。本当に鬼になっていたんだヨ。」と言います。
するとトラは、
「タツ、あんたは一度だって鬼になった事は無いヨ。あの時だって私があんたの背中を押したんだヨ。私がそうするように勧めたんだヨ。”タツ悔いの無いようにやってごらん!大丈夫、あんなの後ろには私がついているから。何てったって龍と寅、二人合わせたら最強だヨ。あんたのお腹のややを守る為なんだ。なんだって出来る筈だヨ。誰が解らなくても私だけはちゃんと解ってるからネ。タツは頭が良くて機転が利いて心が優しくて最高の女だヨ。なんたってあの龍の化身だからネ。大丈夫、大丈夫。それで駄目だったら、今度はこのトラが出て行くから。タツ、勇気を出すんだヨ。”私がそう言ってあんたの背中を押したんだヨ。」
するとタツが、
「そうだったネ。それであんな大芝居が打てたんだったネ。あの時は実は、私は怖くて怖くて体中がブルブル震えていたんだけどネ。そういう気持ちが逆に姑には恐ろしく見えたのかも知れないネ。」
「私はネ、あの前に必死な気持ちでトラの所に行った時、トラが優しそうな姑さんと仲良さそうにしているのを見て泣きそうになったんだヨ。ああ、自分の姑は子供が出来たのを知っても優しくなるかと思ったら、それどころか逆に板の間に蠟を塗って、私のお腹の子を殺そうとしている。何と大違いなんだろう。そう思ったら自分が哀れでトラが幸せに見えてとっても羨ましかったんだヨ。ああいいナー。こんな優しい姑さんが欲しかったナーって思ってサ。だけどあの時、トラも大変だったんだネ。後でトラがどんなに大変だったか解って驚いたヨ。人の家の中の事って中に入ってみなきゃ解らないもんだネ。ところで今はどうなんだい?トラのダンナ、昔の病は起きてないだろうネ。」
「それがサ、不思議なんだけど。おっかサーが生きていた時はたまーに文句っぽくなる事があって、これ以上悪態をついたらまた例のめくらぶどうの薬酒を飲ませなければと思った事もあったんだけど。おっかサーが亡くなった途端、急に毒が抜けたようになってしまって。棘も無くなってサ。すっかり大人しくなってしまったんだヨ。」
「あれまー、どういう事だろうネ。おっかサーが生きていた頃はきっと甘えていたんだろうヨ。」とタツが言って笑った。
トラが笑いながら、「実の母親ならどんなにグダグダわがままを言っても自分の傍らからいなくならないって知っている子供のようなもんだヨ。おっかサーの前では安心して”だはん”していられたんだヨ。それがおっかサーが死んでしまったら、“トラ”という名前の女房と周りは大きくなったトラの味方の子供達だけ。まあ、タツが生んでくれた子供達だけどネ。それでこりゃ大人しくしていないと、いつか放り出されるか置いていかれるかだと思ったんだろうサ。すっかり穏やかになってしまったんだヨ。この調子なら良いお爺さんになりそうだネ。タツ、あんたが大勢子供を生んでくれたお蔭で私も人並みに楽しい思いをしたヨ。ありがとう。」としみじみ言いました。
するとタツが、
「いいや、お礼を言うのは私の方だヨ。私も意地になって次から次と子供を生んだ所があるんだ。いざとなればトラがいるって思ってサ。私のほうこそ“寅神様”に足を向けて寝られないヨ。」
二人はそう言って笑い合いました。
過ぎてしまえば笑い話というけれど、お互い、よく頑張って来たナーと思うのでした。
二人は振り返って後ろの山を見上げました。
あの山の中腹の“神さん”は今もまだ健在だろうか?
二人で行ってみたいナと思いました。
空は青々と晴れ渡って、浜から見渡す海は穏やかに凪いで、今日は本当に気持ちの良い日です。
おわり
山ん婆の昔話/タツとトラ 第1話 やまの かなた @genno-tei70
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