第2話
タツは静かに仏壇から離れるといつものように浜の仕事に出掛ける準備をして、裏の戸口からこっそり中の様子を伺っていました。
すると姑が出て来て、仏壇の引き出しからろうそくを全部出して、板敷きの所にろうを塗り始めました。
それを見てタツは体中がザワザワ寒気がする程、驚いて恐怖を感じました。
この調子では子供がお腹に授かっても本当に無事生み落とす事が出来ないかも知れません。だんだん体が重くなったら今のように働く事も出来なくなるだろう。
そうなった時の事を考えると今のうちにどうにかしなくてはと思いました。
もう亀吉の優しさ良さを知った今では、夫婦別れをする気はもうとうありませんでした。
タツは思案して思いつきました。
その足で実家に走って行って、元気な自分の姿を見せて安心させてから、両親に一つお願いをしました。
両親の飼っているニワトリを一羽潰して貰い、その肉を焼いたものと頭と羽根のついた部分、足の部分はそのままに袋に入れて貰い、とうきびの実のついていない先っぽの二つを前だれの中に入れて帰って来ました。
その娘の頼みに両親は理由を知りたがりましたが、
「いつか笑い話で聞かせてあげるから心配しないで。」と言ってタツは何も話しませんでした。
家に帰ると持って来た物を物置にこっそり隠して、板の間はろうが塗ってある事が解っていますので、気を付けてさり気なく用心して歩きました。
陰でそれを姑がこっそり見ている事は痛い程解りました。
夕方になると亀吉はいつものように漁に出て行きました。
姑はきっと私がなかなか滑って転ばないのでイライラしているだろう。
タツは気を付けながら板敷きを静かに歩き、仕事が一段落すると暗くなってから、わざとこっそり隠れるように物置に入りました。
嫁のする事を一挙手一投足見逃すまいと見張っていた姑は、嫁のこっそりする事を逃してなるものかと物置の方へ行き戸の隙間から見ていました。
もう夜中だったので辺りは暗いが手燭を灯した物置の中は嫁が何をしているのかは見えました。嫁はこちらに背を向けて何かをしきりにむさぼり食っているように見えます。
姑は、これは自分や亀吉に隠れて盗み食いをしているナと思いました。
それが解ると鬼の首でもとったような勝利感を覚えて、戸をガラリと開けて飛び込んで行きました。
「これ!タツ!何してる!何を盗み食いしているんだ!」と叫びました。
すると姑の怒鳴り声を背中に受けた嫁は何かを食いながらクルリと振り向きました。
その顔の何と恐ろしい事!
口の周りや顔が血だらけで、血に濡れた両手には羽根のついたままの鳥の死骸が今までそれを生のまま食っていた事を物語っています。
しかも血に濡れた鉢巻の下には、はっきりと角らしい物が盛り上がっているではありませんか?
目つきはいつもの嫁とは思えない。睨み付けるような恐ろしい目です。
この嫁は顔中血を付けて羽根のついた鳥を生のままむしゃむしゃ食っていたのだと思いました。
それだけでも恐ろしくて腰を抜かしているのに、低い太い声が
「見てしまったネ。お前は見てしまったネ。私はネ、イライラすると無性に生肉を食いたくなるんだヨ。今までだってお前の足に噛みつきたくなった事は一度や二度ではないんだヨ。いつもこらえていたんだヨ。イライラするとネ。あーあ、角が出てしまった。」
と言って嫁は鉢巻のそこをつるりと撫でると、またクルリと背中を向けて肉をむしゃむしゃ旨そうに食い始めました。
姑は余りの恐ろしさに腰が抜けて、立てないので暗い土間を這って自分の部屋まで行き辿り着くと布団を被ってガタガタ震えていました。
誰かに助けを呼ぼうにも真夜中の事ではあるし、亀吉は朝までは帰ってきません。
下手な事をするとあの鬼嫁が今にも追いかけて来て足に噛みつくかも知れない。
そう思うと姑はとうとう一睡もしないまま朝を迎えてしまいました。
朝になりました。
土間ではいつものように嫁が朝餉の支度をしているらしい。ごはんの炊ける匂いとみそ汁の匂いが漂って来ます。
いつもと変わりない朝のように見えるけれどあれは絶対に夢なんかじゃない。
私は一睡もしていないんだからネ。
明るくなっても息子の亀吉が帰って来るまではあの鬼嫁と二人っきりになるのは恐ろしい。
真夜中のあの別人のような顔。
血だらけの口で羽根がついたままの生の鳥に食らいついていた嫁の見た事も無い恐ろしい目と聞いた事のない太い声。
思い出す度に震えがやって来ます。
そして何よりも、あの鉢巻の下には確かに角が出ていた。
「亀吉、早く帰って来ておくれ。私は確かに見たんだヨ。あれは鬼嫁だヨ。私はいつか食い殺されてしまうヨー。亀吉、亀吉、早く帰って来ておくれー。」と布団の下でガタガタ震えていました。
すると亀吉が帰って来たようです。
「お帰りなさい。お疲れでしょう。」というタツの優しい声が聞こえます。
姑は布団を跳ね飛ばすと、髪を乱したまま飛んで行って、
「亀吉―!!」と言って息子に飛びつきました。
息子は突然の事でびっくりし、
「おふくろ、どうしたんだ?!」と言いました。
「亀吉!!よくお聞き。この嫁はとんでもない鬼嫁だヨ。生の鳥を、羽根のついた鳥を食い散らすんだヨ。角も出るんだヨ。恐ろしい鬼嫁なんだヨー。私は確かに見たんだヨー。早く早く、追い出しておくれー。」と泣き叫びました。
亀吉は何が何だか解らなくて隣にいる嫁を見ました。
嫁はいかにも愛らしい桃のような頬をほんのり赤らめて困ったようにしています。
「おっかさん、おっかさん変な夢でも見たんじゃないか?」と亀吉が言うと姑は、
「夢なんか見てないヨ。一睡もしてないんだから。」
「気がおかしくなったんじゃないか?」
「馬鹿におしでないヨ。私は正気だヨ。証拠があるんだ。ここに証拠があるんだヨ。」
姑は息子の手を引っ張って物置に連れて行きましたが、そこはいつものようにこざっぱり片付いていて鳥の羽一枚落ちていません。
どこにも血の跡もありません。
母親が、「確かに角が生えていたんだ!」と言って鉢巻を指すので、母親の性格をよく知っている亀吉が、
「タツ悪いけど、その鉢巻を取って見せてくれないか。」と申し訳なさそうに言いました。
タツは悲しそうにしおらしく、するりとその鉢巻を取りました。
姑は少しの痕跡も見逃すまいと血眼で見ていましたが、そこには何のシワもシミもましては小さなイボ一つないつるりとしたきれいな額が現れました。
それを見た途端姑は、
「ワーッ。」と泣き出して、また、自分の部屋へ行って布団の中に入ってしまいました。
それから今度は本当に熱を出して寝込んでしまいました。
それ以来、亀吉以外は部屋に人を入れようとはしません。
タツはごはんの用意をするとお盆に乗せて部屋の前に置くだけです。
丁度その頃、何日か海が荒れたので亀吉は海に出ないで時々寝込んだ母親を見舞いました。
亀吉はその間中、黙って母親の愚痴を聞いてやりました。
母親には、「ああ、そうかそうか。それは大変だったろう。」と言いました。
亀吉はなかなか利口な男だったので、タツにも
「お前もさぞ大変だろう。前からあんな姑がいては嫁の来てが無いと言われていたんだ。だけど自分にとっては唯一人の母親で、それを捨てる訳にも行かない。世間の噂で亀吉の嫁になったら三日も持たないだろうと言われている事は俺も知っている。それなのに俺のいない間の事を愚痴一つ言わないで努めて呉れた事を本当にありがたく思っているんだ。」としみじみ言いました。
そして、「俺はタツをおいて他に嫁は無いと思っているんだけど、あのおふくろではタツお前が可哀想だ。お前がこれ以上辛抱が出来ないと言うなら、俺は諦める。これ以上我慢してくれとは言えないからナ。だが俺はお前以外には一生嫁を貰わないヨ。」としんみり言いました。
タツはその時、急に吐き気がして台所の方に走りました。
もしやこれがつわりというものかも知れないと気が付くと、思わず涙が溢れて来ました。
これはお腹に宿った子が別れちゃいけないといっているのではないかと思いました。
タツは亀吉の元に戻ると、ニッコリ笑って、
「もう少し頑張ってみるから。」と言いました。
そして、「何も言ってくれなくていい。何もしてくれなくていいから、心の中で私の背中を支えていて欲しいの。」と言いました。
亀吉は少し安心したように、
「うん、悪いナ。」と力無く笑いました。
そして、「おやじも毎日のようにおふくろの悪態を聞きながら、まずそうに酒を呑んでいたっけ。酒のせいかも知れないけれど、血を吐いて呆気なく死んでしまったヨ。あの時はおふくろの悪態のせいかもと思ったりしたが、小さい頃はどこの家もそういうものだと思っていたけど、大きくなって自分の母親が他の母親と違う事を知って恥ずかしくなったヨ。どうして自分のおふくろがああなのか解らない。」と言って淋しそうにしました。
そんな亀吉を見てタツは、お腹の子供の事は今言うべきではない。とにかく、もう少し様子を見ながら慎重に、どうすれば先、平穏に暮らして行けるかと考えました。
亀吉が沖に出るようになって姑が床上げした時、二人っきりになるのがタツは空恐ろしくて、その場合の事を心配し手、不安で心細くなりました。
実家に身をよせる事も考えましたが、それは姑も同じだったらしく、姑は床上げすると、昼間はどこかに出掛けるようになりました。
そして夕方帰って来て夕餉を食べ終わると、さっさと自分の部屋に入ってしまうのです。
そしてまた、次の日も、そのまた次の日もタツと顔を合わせるのを避けるように外に出掛けます。
近場に野菜や豆等を育てる畑もあるにはありましたが、どうも畑にいるばかりではなさそうでした。
タツにしても姑が出かけるとホッとします。
そして一人になるとしみじみ考えました。
しかし世の中にはこんなにどうにもならない事があるものなんだナー。これまで自分を取り囲んでいる人達が特別善良で良い人達だったのだろうか。優しい両親や姉のようなトラや気持ちの良い隣近所の人達を思い浮かべてつくずく思いました。
今、タツは初めて波の高い大海原にひとりぽっちで漕ぎ出したような心細い気持ちになりました。
亀吉さんはこの状況に十分心を痛めている。
嫁の私に同情すれば、姑は狂ったようにわめき出して、収拾がつかなくなるのは目に見えています。
背中を支えてくれると言った言葉を信じて頑張ってみよう。
勿論、実家の両親には心配はかけられない。
あんなに心配して送り出してくれた時、
「私は大丈夫だから。」と自信たっぷりに言い切って嫁に来たのは、この自分なのだから…」と思ったりしました。
そういう日が何日か続いたある日、いつものように浜仕事をしていると、
「ネエネエ、おタツさん!」と言って、隣の家の女房が話しかけて来ました。
隣といってもその間には畑や物置やちょっとした庭を隔てているので、お互い忙しい事もあってそうしょっちゅう顔を合わせておしゃべりする仲ではありません。
その女房が言う事には、
「おたくの鬼婆さんが、あんたの事を鬼嫁だって言ってあちこちに振れ回っているのは知っているかい?」と話すのです。
隣の女房は以前、散々亀吉の母親の餌食になって嫌な思いをして来たのだろう。
「ネエ、自分が鬼婆なのも解らないで、来たばかりのあんたの事を鬼嫁だなんてネ。何を勘違いしているのか。誰も信じちゃいないヨ。腹の中ではみんな笑ってるんだヨ。それも知らずにサ。泡を吹きながら、嫁が生きた鳥を裂いて生のまんま食ったとか、自分も今に食われるとか、嫁は本当は恐ろしい化け物で角が生えているだとか。この目で本当に見たんだヨとそんな事を言ってるんだヨ。まるで気が違ったとしか思えないヨ。実際、何日か床についていたようだから。熱に浮かされてそんな夢を見たに違いないって皆、言ってるヨ。そしてサ、恐ろしい、恐ろしい嫁と二人っきりになるのは恐ろしいってサ。あの鬼婆、悪い熱に浮かされて罰が当たったんだヨ。」と言ってタツの反応を好奇心いっぱいの目で見ました。
タツは困ったように、「私がいたらないものですから。」と一言だけ言って、会釈をしてその場を離れました。
あれから何日経っても姑はタツと二人っきりになるのを避けるようになっていました。
タツも吐き気が去らずに月のものも来ないので、これは本当に腹に子供が出来たのを確信しました。
それで亀吉に言うと亀吉はとっても喜んでくれて、
「おふくろにはどうするかな?」と言いました。
タツは、「私がそれとなく知らせますから。」と言っておきました。
それから実家の両親に知らせる為に少しだけ親元に顔を出すと母親が、
「お前が鬼嫁だという噂を聞いたヨ。」と笑って言いました。
あの日、走って来て家のニワトリを一羽父さんに潰して貰い、その肉の塊を火で炙って羽と一緒に持って帰る時、これは訳あってする事だけれど、何か悪い噂が流れても心配しないでと両親には言っておいたのでした。
タツの両親は、子供が出来た事は大層喜んでくれたものの、これからの事を心配しているようでした。
「誰に何と言われても良いから大変だったら実家に帰って来て、お産をしても良いんだヨ。」と言ってくれました。
タツは帰り道、本当に親というものは有難いものだと胸が熱くなりました。
でも、いつまでも心配をかける訳には行きません。母は元々体が丈夫ではないのですから、心配をかけると体に障ります。
それにしてもこれが私が生まれる前に神さんが見通した事なのだと今、確かに思いました。
その為に何者にも負けない強い名前を頂いたのだから、私はあの空を駆け巡る“龍”なのだから。
そう思うとまた、ムクムクと体の内から力が湧いて来るような気がしました。
それからタツは子供を九人産みました。
子供が増えると家の中ががやがや騒がしく、嫁姑がいがみ合っている余裕などいつの間にか無くなる。というより、いちいち気にしていられなかったのです。
それに、あんなに元気が良かった姑も年をとるといくらか棘が採れたようにも見えましたが、生まれながらに備わった性分は変わらず、外に出ては嫁のタツの悪口を言って回りました。
そして、意地でも孫の面倒を見ようとはしませんでした。しかし、いつの間にか、
もうタツはそんな事も気にならない程、しっかりと根を張った立派な子沢山の母親になっていました。
一方、トラの方はどうだったかと言うと、トラの嫁いだ家はタツとは多少家は離れていましたが、同じ村ですからタツの所に行こうと思えば小走りで走って行ける所でした。
トラがこの少々難がありそうな話に乗り気になったのには、やはりタツが近くにいる事と、何かあっても自分達の実家が同じ村にあるという事でした。
親はいずれは先に死ぬ。
何か難儀な事や災いが降りかかっても、タツにはトラが、トラにはタツがいる。
二人は実の姉妹よりも気持ちが通じ合いお互い頼りになる存在でした。
タツも割合そうだが、トラは特に欲が無い性質でした。
親からも叔母からもよく、トラは欲が無いネーと言われて育って来たのでした。
人と争ってでも得する事はたかだか知れている。トラはいつからか、そう考えるようになっていました。それは誰に言われた訳でもありません。トラの持つ天性と言うしかありません。
子供の頃、村のお寺の境内でワイワイ子供達が遊んでいた時、和尚様がお供えのあげ物のまんじゅうを子供達に配る事がありました。
それを聞くと子供達は我先にと駆けて行きます。
先に行かないと貰えなくなるとでもいうように争って行く子供が多いのです。
そういう時でもトラは、いつも最後になる事が多いのでした。そもそも人をおしのけて自分がというのが苦手なトラでした。だけども貰えないで損をしたり悔しい思いをした事は一度もありませんでした。
例え厳密には、何度か貰えない事があったのかも知れませんが、悔しいという気持ちが起きなかったというのが本当の所だったろうと思います。
それに反して、気ばしっこくて人に絶対に負けない、損をしてなるものかというような性質の子供もどこにでも何人かはいるものだが、その子供達がやがて成長し大人になった時、果たしてどれだけの得をするのだろう。
人より何かが先に手に入る。それは一瞬の事であり長い目で見たならそれが、何程の事だろうとおもう。他人より負けずに先に先にと思うあまり、大事な何かを取りこぼしてはいないだろうか?子供の時ならいざ知らず大人になっても何事も人より先にという者がいる。
例えば人より先に嫁に行って、その時はさぞ得意だろうが、その後、ずっと満足した良い気持ちが続くだろうか。
人を押しのけずに、のんびりどっしり構えて生きている者と結局はそんなに大差の無い生活をしているのではないかと、トラはそんな風に考えるようになっていました。
全ては大きな流れに身を任せるようなゆったりとした気持ちで一歩一歩、自分らしく歩いて行く。
もしも途中に困難な事があったら、その時はじっくりと考え、その末に自分なりの判断を決めたら後悔のないように前へと進む、もしも悔いが残ったり途中でよく考えて別の道しか無いと思い至っ時、引き返せる事ならそれも良し。
やはり前へ進むべしと考えたなら、それも良し、全てはその時の自分と運に任せよう。
こんな風に考えるようになったのはいつからだろう。
トラの心の底は、まだ嫁入り前の娘だというのに、そのように出来ていました。
苦労した事より持って生まれた性格だったかも知れません。
この度の縁談も人の噂は多少、参考になるけれど、人間皆誰もが一長一短あるものだ。
何の不足も無い人物も世の中にはいるかも知れないが、人に一癖というではないか。
この自分自身でさえ他人から見たら欠点は数え上げたらいくらでもあるだろうと思う。
この度の話を断って果たして次に更に良い話が来るという確証がある訳じゃなし。
死んだおっかさんなら何と言うだろう。
そう考えた時、おっかさんの笑った顔が目に浮かびました。
「トラ、お前の人生だ。お前の好きにするがいいヨ。」と言ってくれるような気がしました。
トラはその時決心したのです。
座っている両腿を両手でパンと叩き、
「まあ、なるようになるサ。トラ。」と自分に言い聞かせました。
そうしてトラは鶴吉という人の所に嫁に来たのでした。
おしゃべりだという鶴吉は成程、仲人婆様の言う通り背も高く、顔も役者になれるような男ぶりでした。
それなのに今まで嫁の来てが無かったという事は、かなり覚悟してかからねばならないと一目、チラッと見るなりトラは自分に言い聞かせました。
嫁ぶりの宴会は一晩中続きました。
改まってゆっくりと婿さんとも姑さんとも話せないままに朝を迎えてしまいました。
婿さんは村の人達から次々と祝いの盃を受け、客が全部帰った後も酔っぱらってそのままグーグーと高鼾で寝ていました。
トラがいつもの普段着に着替えてお勝手の流し場に降りて働こうとすると、
姑と思われる小柄な婆様が傍らに来て、
「トラサー、お前様も昨夜からの騒ぎで疲れなさったろう?いいや、気持ちも体も疲れている筈だ。鶴吉も眠っている事だし二人でゆっくりお茶でも頂きましょう。」と言って、大ぶりの茶碗になみなみと熱い茶を入れて持って来てくれました。
裏の勝手口から冷たい風が入り込んで来て、のぼせたような疲れた体にはそれが心地良くてトラはニッコリ笑いました。
鶴吉のお母サという人は驚く程、痩せて小さな人でした。
そしてその目は子供のように無垢で純真な人に見えました。
その目に優しさと嬉しさを湛えてニコニコし、まるで待ちに待った女神様でも見るように眩しそうに、トラを眺めているのです。
トラはその目に出会うと、お姑様は良い人で良かったとまずそう思いました。
姑は、
「トラサー、まず鶴吉のような者の所に嫁に来てくれて本当にありがとう。」としみじみ言いました。
「トラサーには最初に話しておかなければならない事があります。誰でも嫁になれば多少の苦労はつきものだけれど、私はトラサーの目を見た今、全てお前様に話しておかねばという気持ちになりました。トラサー、お前様は私が今まで見て来たどんなおなごの人達にも無い何か特別のおなごのように見えました。私は一目でお前様を気に入りました。鶴吉には勿体無いお方です。本当はもっともっと立派な人のおかみさんになれる人なのにと思いました。いいや、お世辞などではありません。トラサーの目の奥の光がそれを表しています。だけれど恐らく鶴吉にはそれが解らネーと思う。いやいやトラサーを嫁に迎えて鶴吉がガラリと人間が変わるかも知れない。そういう希望を持っているけれども、人間、そうそう変わらないものだ。実の母親の私がこういうのも情けないが、トラサー、鶴吉は見た目の一割と覚悟しておいて貰いたいのです。世間の人の前ではあれもいい顔をしているから、それでもうすうす気付かれて鶴吉は見た目の半分等と言われているけれど、トラサーには最初から一割の心構えでいて欲しい。」と姑は言いました。
「後で騙されたと思われるのは忍びないし、嫁に来て早々、こんな話をしてむごいと思うけれど、何でもかんでも全て話して、それを解った上で鶴吉の嫁ごになって呉れないだろうか。実は世間の噂の為にいい歳になっても嫁に来る者が無くて私は諦めていました。あれの父親が二年前に亡くなってからは特に、私には、あれ(鶴吉)が重くて重くて。実はあの“神さん”に伺いをたてに行ったのです。人には言えない内々の事を全部聞いて貰って「私もだんだん年を取るし、気持ちは弱くなるし、どうにもならなくて神さんのお言葉を頂きに来ました。あのような息子にも嫁は来るでしょうか?」とお聞きしました。すると、神さんは暫らく私の頭の上の方をじっと見てから、「おっか様、お前様は息子の為に随分苦労なさいましたネ。だけど嫁さんは来ます。きっと来ます。お前様を救ってくれるような心強い嫁さんが来ます。その嫁さんがもしも出て行くような事があったら、もう二度と嫁は来ないでしょう。息子の体の中には何か虫が棲みついていて、その虫が息子の体の中にいて体の中のドロドロした物を食べて暴れ回っているのが見えます。だけれども、その虫がいないとまた、ドロドロとしたものが体中に広がって息子は病気で死んでしまうでしょう。息子を活かしたいならその虫を体に飼っておくしか無いし、もしもお前様の所に来る嫁がいたら、その嫁に何もかも話して助けてもらうが良いでしょう」。そう言われました。」
話し終わると姑はフーッと溜息をつきました。
トラはこれは大変な所に来てしまったと思いましたが、目の前の小さなおっかさんを見ているうちに、とにかくなるようになるだろうと覚悟を決めました。
二人がそういう話をしている間、鶴吉は酔い潰れて高鼾で寝ていました。
実の母親がああまでして思い悩んでいる怪物とはとても思えないけれど、とにかく心していようと、トラは大蛇退治に来た武士にでもなったような気持ちで鶴吉を見降ろしました。
自分の嫁入りがまさかこんな形で始まるとはゆめゆめ思わなかったけれど、乗りかかった船からすぐに降りる訳にはいかないと思いました。弱い気の毒な姑の姿を知ってしまったのですから。
それからトラの毎日は始まりました。最初はどんな化け物に変わるのだろうと気構えていましたが、鶴吉は機嫌の良い婿さんでした。
特に悪い人間でも無さそうに見えます。男の人にしては多少口が軽いようだが、それとて恐れる程の事はないと思いました。けれども、気になる事がありました。お姑さんがいつもおどおどしているのです。いじめぬかれた子供のようにいつもビクビクして疲れているように見えるからです。
トラは姑を勝手口から外に連れ出して、
「おっか様、どうかなされましたか?顔色が悪いですヨ。」と、こっそり労っていると、
「そこで二人して何をこそこそしているんだ!」と声がして、ニュッと顔を出したのは鶴吉でした。
その不気味さに二人はギョッとして思わず抱き合いました。
さすがのトラの心臓も飛び上がりました。
怒鳴られたのではないけれど、その声にはどこか悪意と一種の凄みがありました。
ああ!これなのだナとトラは思いました。
その日を境に鶴吉の悪態はトラにも向けられるようになりました。
母親と嫁が仲良くしているのが気に入らないのか、何が気に入らないのか。些細な事に目くじらを立ててじわじわと攻め立てるのでした。
何でも無い事に言いがかりをつけて文句を言うのですから心の休まる暇がありません。
特に酒が入るとそれは際限も無くいつまでもいつまでも続きました。
ある日、姑サがこっそり水場に来て、
「トラサー、本当に申し訳無いネー、あれの相手をしていたらこっちが病気になってしまう。あれの中には悪いビッキ(かえる)がいて、あれをそうさせているんだと思う事にしているんだヨ。あれの話を聞いていて頭が痛くなったら、これを耳に詰めるといいヨ。私はそうしているんだヨ。」とそう言って小指の先程のこんにゃくを渡してくれました。
「あれの悪口雑言が少しは小さく聞こえるからネ。」と言うのでした。
姑とトラは鶴吉が仕事に出掛けないで家にいる時はこんにゃくを両耳に詰めて、針仕事や細々とした手仕事をしながら鶴吉の前にうなだれて、あらゆる悪口雑言を延々と聞かせられる事になるのでした。
これが嫁に行くという事だろうか?
苦労の数々を覚悟していたものの、トラにとっても、この毎日は予想外のものでした。
まず第一に、こんなにも悪態がつけるものだろうか?そしてこんなにもあらゆるものに不満が持てるものなのか?
そういう種類の人間が実際にいるというのが驚きでした。
しかもこんなにも善良な母親のお腹から生まれた息子がです。
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