山ん婆の昔話/タツとトラ 第1話
やまの かなた
第1話
名前というものはその人がこの世で生きて
死ぬ迄の目印のようなもの
その名前に支えられて危機を乗り越えるお話です。
親同士が仲の良い姉妹
そこに生まれた娘達の名前は“神さん”と呼ばれる
祈祷師からいただいた“トラ”と“タツ”という名前でした。
昔々のお話です。
海沿いのある所に、嫁いでも尚、仲の良い姉妹がおりました。
二時間もかかれば歩いて行けるような隣村同士で、婿さん達も気やすい人達でしたので、始終、何かと言うと行き来をしておりました。
先に姉の方が”おめでた”になりました。
すると、すぐに妹の方も”おめでた”になりました。
二人は互いに喜び合って、お腹の赤児が落ち着く頃を見計らって、無事健康な子が生まれますように。
それと、丈夫に育つように、よい名前を授かりたいと、“神さん”の所に行こうと相談が決まりました。
実は二つの村の丁度、中程の所を山の方へ登った所に、“神さん”と呼ばれるお方が住んでおりました。人々は近隣の村々から、その評判を聞いて、何か相談したい事があると“神さん”に伺いを立てるというのがこの辺りの習慣のようになっておりました。
何故なら、それが本当に的を射たような御託宣なので、増々人々から頼りにされておりました。“神さん”と呼ばれているお方は年齢がさだかには解らないながら、見た目はまだ五十歳にはなっておられないだろうと思われる女の神さんで、その方よりも少し年かさの下女を一人使って、お山の中腹辺りに小さな家のような物を建てて、そこにおいでになるのでした。
ですから、体の弱い者や、年老いた者がそこ迄登って行くのは一苦労でしたが、
それでも有難い御託宣を頂く為にそこ迄登って行く人が全く絶えるという事はありませんでした。
そういう評判を常々聞いて知っていた姉妹はお腹の子が男か女か?
健やかに育つように“神さん”に名前を授けて貰いたいと話し合っていたのです。
二人の亭主達もそれが良いと賛成してくれました。
天気の良い気持ちのいい日に二人は森の中の道を登って行きました。
すると急な坂の上の方に神さんの家がありました。
どんな方だろうか?
どんなお話を下さるだろうか?
好奇心と緊張でいっぱいになりながら二人は思いきって訪いを入れました。
最初に下女と思われる髪が半白の女の人が出て来ました。
声も低く言葉少なに奥へ通してくれました。
仰々しい飾りも何も無いすっきりした広い畳敷きの部屋は、障子や襖を閉め切ってありその薄暗い中に背の高い燭台に二本の蠟燭が灯されておりました。
その日は珍しく他に人の気配が無く家の中はしーんと静まり返っています。
すると程なくして、右手の部屋の襖があいて、女の人が入って来ました。
二人を見て、ほんのわずかに微笑みました。
二人は自分達が想像していた以上に若くて、きれいな“神さん”を見てびっくりしました。
神さんは二人の顔を一人一人じっと見ました。
まるで目の奥をじっとのぞき込むと言った方が良いだろうか?
その目はきれいだが、人の心の中にスルスルと入って来るように目をそらせないものがありました。神さんは暫く見ていました。
姉の方が堪り兼ねて何か言わねばと思った矢先に、
「お腹のお子の事ですネ。」と神さんはおっしゃいました。
何故解るのだろうとびっくりしていると、
「お二人のお腹のお子は順調に育っていますヨ。」とおっしゃいます。
姉の方が、
「あのー、名前を頂きたいのですが。男の子か、女の子か解らないので…。」ともじもじ話すと、神さんは微笑みながら淡々と、
「おそらくお二人共、女の子でしょう。生まれて見なければ解りませんが。」
そう言ってまた微笑みました。
二人はそれでも男の子の場合もあるので両方の名前を頂きたいとお願いしました。
すると神さんは、
「これは誰にも言える事ですが、生きて行く上には様々な困難が付きまといます。しかし、このお腹の二人の女の子には将来機転と強さが求められる時がやって来ます。そう見えています。強い名前を付けてやった方が良いと思います。例えば“龍”と“寅”のようにネ。」とおっしゃいました。
姉妹は仰天してしまいました。
男の子の場合は良いが、女の子に“龍”と“寅”とは…。二人はすぐにそう思いました。
すると神さんは二人の心を読んで、
「その名前が行く末、その子達の力になるように感じられます。」と笑顔でおっしゃいました。
祈祷料は自分達の志で良いと言われ、二人はそれを納め、妙な気持ちを抱えて坂道を下って帰って来ました。
「男の子なら“寅吉”“龍吉”で良いけれど。」
「神さんは女の子だと言ったよネ。」
「先に生まれた方がまずどちらかを選んで付けると良いと言われたよネ。」
最初は半信半疑な御託宣だと思ったけれど、下の海の見える道に出た頃には、不思議な事だがいつの間にかゆっくり温められるような満足したいい気持ちになっていて、二人は元気に分かれてお互いの自分の家に帰って行きました。
果たして二人共、無事女の子が生まれました。
妹の方が少し先に女の子を生みましたので、神さんの下さったうちの龍を“たつ”と読ませて名前を付けました。
その五日後に姉の方も女の子を生みました。
その時はもう“寅とら”という名前を付ける事に迷いはありませんでした。
あの神さんが授けて下さったのだもの。
間違いはないと固く信じるようになっていたのです。
二人の女の子はスクスク元気に利発に育ちました。
しかも親同士が仲が良いので、何かあると行ったり来たり、子供同士も友達以上に、まるで実の姉妹のように気が合うのでした。
だが残念な事に姉の方の夫は漁師だったが、嵐の夜に沖で命を落としてしまいました。
トラが十二歳の時でした。
それ以来トラは気落ちした母親を支えて一生懸命働きました。
母親を支えるのが生き甲斐のように働きました。
他の漁師の家に賃仕事に出掛けて一人前の女としてどこに出しても恥ずかしくない程、しっかり者に成長して行きました。
苦労をかける娘に母親が「すまないネ。」と言うと、
「大丈夫!!私はトラだから強いのヨ。」と元気に答えます。
そういう娘を見るにつけ、神さんがおっしゃった事は本当に当たっていると母親は思いました。
しかも当人のトラもタツも二人共、自分の名前に少しも不満を持った事は無いようでした。
一方のたつも、両親に恵まれていても決してわがままに育った訳ではありませんでした。
機転の利くおきゃんな性格で、誰からも愛される女性になりました。
母親達はそういう娘達をしみじみ眺めながら、この子達の先の幸せを祈り合うのでしたが、特に自分の体力に自信のない姉の方は、自分に万一の事があったら頼むと、妹に言う事が一度や二度ではありませんでした。
自分の先の長くない事を知っていたのでしょうか。
最後に会ってからいくらも経たぬうちに、風邪を引いたと思ったら呆気無く死んでしまいました。
トラは一人ぽっちになってしまいました。
妹は約束通り姉の娘のトラを自分の家に呼んで一緒に暮らそうと迎え入れました。
トラはいつも遊びに来ていて知っている家とはいえ今までとは違います。
少しは遠慮の気持ちもありましたが、タツもタツの母親も父親もまるで本当の我が子が帰って来たように喜んでトラを迎えてくれました。
そして一番喜んだのはやはりタツでした。
殆ど同じに生まれたと言っても性格や立ち振る舞いは今では寅の方が二つも三つも年上のようにしっかりして見えました。
タツは実の姉を迎えるように喜びました。
二人の年頃の娘が揃うと、いっぺんに華やかさが増して家の中が明るくなりました。
タツの両親は二人を分け隔てなく可愛がりましたので、トラも両親を亡くした淋しさを余り思い出す事もなく、タツと娘々した新しい生活を始める事が出来ました。
そういう生活が何年か過ぎた頃には、二人揃って道を歩くと誰もが振り返って見たものです。
実際二人は申し分のない娘達でした。
二人は揃って並以上の美しい娘であり、一目で気立ても賢さも兼ね備えて見て取れましたので、噂する者もあり、その噂はすぐに広まり方々から縁談がありました。
だけど当の二人はお互い近くに嫁ぎたいネと話し合っていたのです。それは、何かあった時や
お互い困った時は助け合えるし、出来たらすぐ行ったり来たり出来る同じ村に嫁ぎたいネと話し合っていたのです。
するとそんな二人の話を汲んだように、世話焼きの婆さんが訪ねて来ました。
「いい若者が嫁の来てを探しているんだヨ。本当に二人共背が高くて逞しくて、それに、いい男なんだヨ。」
と相手の若者達を褒めちぎって同じ土地だから、実家にはすぐ帰れるし、と良い事ばかりの話をします。相手方の名前は鶴吉と亀吉と言う若者だと、言うだけ言うと、
「後日、返事を伺いに来ますので、お頼みします。」と言ってニコニコ顔で帰って行きました。
だが、タツの母親と父親は思案顔をしています。
「さあ、どうしたものかネ。」と頭を突き合わせてひそひそ話し合っています。
それを次の間からタツとトラは息を潜めて見ていました。
やがて、うんうんと二人頷き合うと、タツとトラは親達に呼ばれました。
母親が、
「実はお前達に嫁に欲しいと話があったんだが、相手は二人で二人共この村の若者なんだヨ。名前はネ、鶴吉と亀吉と言うんだヨ。」
そこまで言うと、
親達も娘達も笑ってしまいました。
自分達が龍と寅で話の相手が何と鶴と亀なのだから笑わずにはおれません。
きっとあの世話焼きの婆さんもこの名前を知って丁度良いと考えたに違いありません。
トラが、
「じゃあ、その人達のお母さん達もあの神さんに伺いを立てて、頂いた名前なんじゃろうか?」と聞くとタツのお母は、
「いいや、二人共、お父達は亡くなっているがそのお父達が酒飲み友達で、酔いにまかせて生まれて来る子は男でも女でも鶴と亀にしようと決めたんじゃ。」と言って両親は苦笑しています。
娘達は二人共、何か因縁めいたものを感じて興味を覚えました。
しかも二人共、この村の者だと言うのです。
タツもトラも相手はどんな人達じゃろと思って黙っていました。
「だけどネー、問題があるんだヨ。」と母親が言うには、
「二人共、見栄えは悪くないし確かに背も高い、漁師としても二人お互い競い合って相手に負けじと頑張るから稼ぎのいい立派な漁師だから悪い話では無いし、何といっても同じ村だから嫁に行ってもいつでも行ったり来たり出来るから少し心が動くけれどもネー。」と言って母親は父親の方へ意見を求めました。
父親はさっきからずっと腕組みしたままです。
「うーん。」と唸ったままでした。
タツの母親が、
「どっちも父親が亡くなってははおやだけなんだよ。だけど、鶴吉と亀吉の母親同士は友達という訳でも何でもないんだヨ。だけどねーどちらも問題があってネー。亀吉は無口だけれど、まあまあの相手だと思うヨ。だけどその母親がネー。村でも評判の口うるさいガリガリ者なんだヨ。あそこに嫁に行く娘は姑に毎日がみがみいびられて泣いてばかりいなきゃならないから嫁の来てが無いんだとおかみさん連中が集まると噂する程大変な人なんだヨ。それにまた鶴吉の方だけど、亀吉よりも美男だし、母親も人に気を使いすぎる程、気の弱い優しい人柄で嫁いびりの心配は無いけれどネー。」と言ってまた、亭主の方に同意を求めましたが、またも父親は、
腕組みをしたまま「ウーン。」と唸るだけでした。
「実は本人に問題があるんだヨ。ちょっと見には役者にしたいようないい男で、性格も良く何の問題もないように見えるけれどネ。とにかく大層な話好きなんだヨ。話し好きというより話し始めたら止まらないという話し方で有名なんだヨ。それで二人共、今だに嫁を貰っていないという訳なんだヨ。」
タツの母親は、
「困ったネー。
同じ村だからネー。
一長一短だネー。
断ろうかネー。
少し、もったい無いような気もするけれどネー。」等と言い合っているのです。
親と言うものはどのような相手に対しても欠点を見つけ出して心配する者だという。
タツとトラは顔を見合わせてニヤリと笑って頷き合いました。
タツが、
「お父、お母、この話、私達に決めさせてくれないか?」と言いました。
すると母親が、
「嫁に行くという事は大変な事なんだヨ。遊びに行って飽きたから帰りますと言う訳にはいかないんだヨ。」と言いましたが、
娘のタツが、
「トラがいいと言うのなら私はこの縁談を受けてもいいと思う。」と言いました。
トラも、
「私もいいヨ。」とニコニコ笑って言いました。
父親も母親も呆れて二人の娘のやりとりを見ているばかりです。
「次はどちらがどちらに嫁に行くかという事だネ。」とタツが言いました。
するとトラが、
「私はどっちでもいいヨ。どうせ顔も見た事のない相手だし、どっちにしろ苦労は目に見えてるしネ。タツが先に選んでいいヨ。私は残った方に行くヨ。残り物には福があるというしネ。」と笑っていいました。
実際、そういう事もままある事なのですが、両親達はこの二人の娘のやり取りをただ聞いているしかありません。
するとタツが、
「トラがそう言ってくれるなら、私が先に選んでいいの?」
「いいヨ、いいヨ。どっちにする?」とトラが言いました。
タツが、
「私はネ、しゃべり過ぎる人は男、女に限らず苦手なんだヨ。だから私は亀吉にする。」と言いました。
「それじゃ、私は鶴吉にする。」とトラが言って話は決まりました。
一生の問題なのにこんな風に簡単に決めていいのだろうか?
親達は複雑な思いで見ていました。
タツとトラがその気になったのには、同じこの村で、これからも姉妹のように相談し合い助け合っていける心強さがあったからかも知れません。
それに、神さんから頂いたこの名前が、、何故かどんな困難にも耐えて行けるという強い気持ちを育ててくれたのかも知れません。
それからトントン拍子に話が進み、タツと亀吉、トラと鶴吉の二組の夫婦は一緒の日に三三九度の盃をしたのでした。
「さあ、これからどうなるべーの。」
事情をよく知る村の人達は興味津々で二組の夫婦を見守る事になりました。
タツの場合、亀吉はどちらかというと口数が少ないけれども、真面目な男でタツは一安心しました。嫁入りした次の夜から亀吉は海に漁に出ました。
嫁を貰ったからと鼻の下を伸ばして休んではいられないからです。今まで以上に嫁の食いぶちも働かなければなりません。
亀吉はそういう真面目な男でした。
タツは亀吉の居ない間、姑の刺すような視線を肌で感じながら、一生懸命家の中の仕事をこなしました。
何事も最初が肝心だと思うタツは、掃除も煮炊きも一生懸命でした。
何か隙は無いかと姑がまるで蛇のような目でねめつける気配を感じます。
だが手を抜かないで働く嫁に小言を言う所はなかなか見当たりません。
姑は次第にイライラして来ました。
タツは亀吉が家の中にいるうちは良いのですが、夕方、沖に出た後、姑と二人っきりになると、その姑の圧迫感のある気配を感じるので少しも気が抜けないでいました。
それでも、最初の五日は何も小言を言われる事なく過ぎました。
一日一日が気の抜けない緊張の連続です。
タツは一通りの仕事が終わった後も何か見落としがないか必死に気をつけていました。
六日目の夕方、
亀吉を漁に送り出した後、流し周りもきれいに片付けて、翌日の朝餉の下ごしらえも済まし、寝る前にもう一度雑巾をキリっと絞ったので、板の間をせっせと拭いていると、
後から姑が、
「ねえ、おたつ。お前は何故一日中そのハチマキのような物をしているんだい?これから戦いに行く訳じゃなし、みっとも無いヨ。」と言い出しました。
タツは心の中で、“来たナ!”と思いました。
タツはここに嫁に来てから、外に出る時と眠る時以外は、手拭いを鉢巻のようにきっちり結んでいたからです。
それにはおたつの考えがありました。
おたつは本当は明るくおきゃんな性格の娘でしたが、それを表に出しては姑が気に食わないだろうと感じ取っていたので、
とにかく物静かで口数が少なく、更に何を言われても口答えしないように気を付けていました。
だけれども姑は両腕を組みながら、おとなしそうな嫁をいたぶるように、まるで弱い者を楽しみながら追いつめるような調子で、
「ねえ、どうしてだい?みっともないじゃないか?」と繰り返し聞くのでした。
さすがのタツもこの姑の恐ろしさがだんだん身に染みて来ていました。
その声の調子には少しのいたわりも感じられません。恐い人だナと思っても自分から亀吉の嫁になってしまったのです。
タツはああやっぱりおっかさんの言っていた通りの人だと思いました。
それでも、すぐには答えないで下を向いておりますと、急に怒鳴りつける調子で、
「何か訳でもあるのかと聞いているんだヨ!!返事が出来ないのかい!!」
と今度は本性をむき出しの強い口調が飛んで来ました。その恐ろしさといったらありません。まるで獣がうなり声をあげながらとびかかるように、またうわばみが口を開けて長い舌を伸ばすような恐ろしさです。
これがこの姑の本性なのだと思ったタツは、心の中で自分に言い聞かせました。私はタツなんだ。あの龍なんだと。腹に力を入れて、念じるように言い聞かせました。それから、言いたくないのを言わなければならない事が辛いというような悲しい顔をして、
「本当にお恥ずかしい話なので、お姑様にも話したく無いのですが…。」と大人し気な小さい声で話し始めました。
「実はこれは母親から誰にも話してはいけないときつく言われている事なのです。幼い頃から母は私に、「タツお前は名前の通り親も恐れるぐらい獰猛で恐ろしい性質を持っている。普段はそれを押し隠してはいるが、気に入らない事があったり、人に道理に合わない嫌がらせをされると爆発して手に負えないようになる事が何度もあった。そんな性格を人に知られないように、家にいるうちは庇って来たが、嫁に行ったら庇い切れるものでは無い。道理に合っても合わなくても我慢をしなければならないのに角を出しはしないかと心配でならないんだヨ。我慢できずに婿さんの大事な母親を怒りで食い殺すような事でもあったら大変だ。とにもかくにも角を出さないように、この手拭いで縛っておくんだヨ。そして、その恐ろしい所を見られてはいけないヨ。」と母親から言われたと話しました。
「だからこの鉢巻は取れないんです。」とタツは悲しそうに話しました。
意地悪な姑は、
「フーン」と言いながらこの大人し気な嫁を品定めするようにじろじろ眺め回し自分の部屋に入って行きました。
それからまた、二・三日が過ぎました。
息子の亀吉は嫁を大層気に入ったようでした。それが姑は気に入りませんでした。それに一生懸命非の打ち所のない働きをする嫁がまた憎らしく、姑は増々イライラして来ました。
人をいじめたり悪態をついたりする人は相手が悪いからではなく、自分の心の中に悪い虫を飼っているからかも知れません。
言いたい事をづけづけ言って、相手を傷付けると、特に相手が悲しんだり苦しんだりすると胸がすっとしていい気分になるもののようです。
それとは逆に、うっかり自分が言った事が相手を傷付けたのではないかと後悔して気に病む人とはまるで違う心の構造をしているようです。
とにかくタツの姑は我慢するのが大嫌いな性格で、一日また一日と腹の中に溜まったどす黒い物を誰かに思いっきり吐き出さないではおれない人でした。
ある日、また亀吉が沖に出ていない夕方に、タツがきれいに片付けた流しや土間にわざと魚のハラワタ等汚い物をぶちまいてから何食わぬ顔をして、これから寝につこうとする嫁を、
「タツ!」と大声で呼びつけました。
「タツ!これで掃除をしたと言えるのかい?これをよくごらん。お前のおっかさんはどんな育て方をしたんだろうネ。家の中の掃除もろくすっぽ出来ない娘をよくも嫁に出せたもんだネ。もう一度きちんと片付け直すんだヨ!」と悪口雑言を吐いて、
自分の部屋にプイっと入ってしまいました。
さっき丁寧に掃除しきれいにしたばかりの流しと土間には、どろどろとした裏の畑に捨てた筈の魚の内臓が撒かれていました。これが嫁いびりだなと思いましたが
タツは再びそこを丁寧に掃除し直しました。そして何か考えているようでした。
今頃あの姑は嫁いびりをしていい気分で寝床に入り舌を出しているに違いないと思いました。
タツは、“やっぱりやるしかない”とつぶやきました。
何事も最初が肝心だもの。やっぱりやるしかないと小さく自分に言い聞かせました。
そして掃除が済むと決心をしたように立ち上がり、竹のものさしを持って来ると、あちこち鍋や釜や土間のあちこちを、
カンカン ガンガン ゴンゴン
と思いっきり大きい音を出して叩いて回りました。
カンカン ガンガン ゴンゴン ドンドン
すると案の定、姑は寝巻のまま飛んで出て来ました。
「何やってんだい!気でも違ったのかい!」
するとタツは相変わらずか弱く、大人しやかに、
「おっかさん、申し訳ありません。今、ここに大きなネズミが居ました。あの悪さをしたのはそのネズミに違いありません。本当に悪いネズミです。それで退治しようと戦っていたのです。私はこれでも家ではネズミ捕りの名人だったんです。今見掛けたネズミは人の足に嚙みつきそうな大きな歯を持っていました。サ、サ、おっかさんは危ないですから部屋に逃げて下さい。私がきっと退治してみせますから。」
そう言って姑を部屋に押し戻すと、タツは今度は台所からすりこぎ棒を持って来て、一層ガンガンやり始めました。
すりこぎ棒で思いっきり鍋や釜をガンガン叩きつけるものですから、姑はその音のうるささに耐えきれずガラリと戸を開けて、
「うるさい!いい加減におし!」と叫びました。
でもタツは、
「おっかさんもう少しなのです。ネズミも私に追い回されて大分弱って来た筈です。大きなネズミを捕まえるのもあと少しです。危ないですから。」と大人しやかに姑を部屋に押し戻し、そして、また、
ガンガン ドンドン ガンガン ドンドンと一層、大きな音を立て続けました。
夜明け近くまで大きな音を立てて、ようやく静かになったかと思うと嫁のタツは朝餉の準備をしているのでした。
若い嫁なら一晩寝ないでも大丈夫だろうが、とうとう一睡も出来なかった姑は面白くありません。どうにもこうにもこの怒りは収まりません。この嫁に仕返しをせずにおくものか、と言う気持ちになりました。そして、
嫁がちょっと留守をした隙に、タツが洗濯して干してあった物の中から、タツの肌着をビリビリに破って家の脇に汚水を流すために掘ってあった”どぶ川”にそれを捨てておいて知らんぷりしていました。
帰って来たタツにはすぐにそれが誰の仕業か解りましたが、少しも騒ぎ立てずに知らない振りをしていました。でも心の中では、大変な所に嫁に来てしまったと恐ろしさに震えていました。どうしたら良いだろう?ここを出るかそれとも戦うか、亀吉の優しい顔をおもいうかべました。いろいろ考えてタツは決心しました。
ある日姑がちょっと外に出た隙に、姑が洗濯して裏の物干しに干してあった姑の普段着をビリビリに破いて元の物干し竿の端にかけていつものようにせっせと働いておりました。
すると姑が帰って来てそれに気付き騒ぎ出しました。
「タツ!お前は何て事をするんだ!私の着物をボロボロにするなんて!」
するとタツはさも驚いたように、
「ええっ?どうしたのですか?あら、まあ、大変な事に。そう言えば、さっきやたらにカラスが鳴いていました。カラスが悪さをしたのですヨおっかさん。そう言えば私の肌着も一枚なくなっていました。カラスはよく人に悪さをする鳥です。本当に困ったものです。おっかさんの普段着をこんなにボロボロにするなんて。そのカラスは私がきっと仇を取って退治しますから。」
そう言われると姑は自分にも思い当たる事があるものだから何も言えなくなってしまいました。
タツは家の中の仕事だけじゃなく、浜の仕事も手伝っていて浜では干物を取って行くカラス除けに、見せしめの為、あちこちにカラスの死骸を振ら下げてありました。
その一つをこっそり借りて来て洗濯物を干す杭にぶら下げておいて姑に、
「おっかさん、このカラスに違いありません。さかんにカッカッカと笑って物干し竿とそこのどぶ川を行ったり来たり飛び回っているので見ると私の肌着が落ちているじゃありませんか。おっかさんの仇だ!と思って大きな石を思いっきりぶつけてやると呆気なく当たって死んでしまいました。退治しましたヨ、おっかさん!」
と晴々とカラスの死骸を見せてやりますと、姑の気持ちはそれで収まるどころか、増々、憎らしい気持ちになりました。
どうしたらこの嫁をやっつけてやろうか。泣かせて追い出してやろうか腹が煮えくり返って仕方がありません。
何をさせても仕事が出来るし、出しゃばらずによく気が付く。亀吉も満足しているようで夫婦仲がいいのは見て取れます。
それがまた面白くなくて腹が煮えてくるのでした。
何があっても大人し気に落ち着いていて、少しも亀吉に訴える事をしないようです。泣いて亀吉に訴える事をしないので、亀吉は何も気が付かないであのおふくろと上手くやっていると嫁に満足しているようでした。
「面白く無い!面白く無い!どうにかして追い出してしまいたい!」その事だけを考えている根性悪の姑でした。
そうこうするうちに、タツが嫁に来て三ヶ月が経っていました。
そう言えば先月も今月も来る筈の月のものが来ていません。
もしやこれがおめでたかも知れません。
まだ、つわりと言われる症状もないし、周りに触れ歩く事もで出来ません。
それに一番気がかりなのは、この姑との気持ちの休まらない戦いの日々でした。
だけれども、もしや姑は孫が出来たら喜んでくれるかもしれない?それとも逆にその事を知ったら産まれる前に私を追い出そうとするだろうか?
タツは姑が隣の部屋にいて聞いている事に気が付きながら、仏壇の前に行って手を合わせました。
「観音様、観音様、今日まで角を出さずに来れたのは観音様のお蔭です。そのお蔭で、まだはっきりはしませんが私の体の中に大事なややが宿ったような気がします。これはまだ亀吉さんにも誰にも話しておりませんが、どうかこのまま角を出さずに頑張り通せるように力を貸して下さい。」と声を出してお願いしました。
障子の陰からそれを聞いていた姑は驚きました。とんでも無い。このまま居座られて子供が生まれたら追い出させなくなってしまう。
生まれる前に何とかしないとと姑は考えました。
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