最終話 思い出のなかで

 出会いから四年ほど経ったあたりからだろうか。智昭ともあきへの気持ちが、ことごとく反転しはじめたのは。

 恋愛の賞味期限は三年だというけれど、明子あきこは彼とのつきあいで、驚くほどはっきりとそれを体感した。

 単に智昭と出会うまで、三年以上つづいた相手がいなかったからかもしれないが、あんなにも急激に冷めるものなのかと。冷めただけじゃない。急速冷凍された恋心が、粉々に砕かれたようだった。


 無邪気に、自由に音を楽しむ彼に惹かれたのに、無邪気に、自由に音を楽しむ彼に苛立つようになった。

 結婚なんてできなくても一緒にいられればいいと思っていたのに、結婚できないなら一緒にいる意味があるのかと考えるようになった。


 そうなると、それまで見ないふりをしてきたことも無視できなくなってくる。


 智昭にとっては、ギターこそが最愛の恋人でパートナーだった。

 たとえばなにか危険が降りかかったとき、彼がとっさに守るのは明子ではなくギターだ。

 それくらい、いつでも、どんなときでも、彼にとっての一番はギターだった。

 つきあえばつきあうほどに、いつまでも変わらないその事実を思い知らされる。

 明子はすこしずつ、自分でもわからないくらいすこしずつ傷ついて、いざそこに目を向けてみればもう、手のほどこしようがなくなっていた。


 最初から未来を否定されていた恋愛だ。

 恋心が消えてしまえば、ふたりですごした時間すら幻のように思えた。

 もっと早く、明子か智昭、どちらかでも、ふたりのことを真剣に考えていたなら。恋人でも夫婦でもない、第三の道を模索する未来も、もしかしたらあったのかもしれない。

 けれど――

 去る者は追わない智昭と、彼への気持ちが冷めきってしまった明子。

 粉々になった恋の残骸では、新たな関係性をつくる材料になど、なるはずもなかった。


 ♭


 曲の余韻とともに、よみがえった過去も遠い思い出のなかに帰っていく。


 とても懐かしい旧友に再会したような――なんだろう。普段は見ることもないのに、引っ越しや大掃除などで古いアルバムが出てくると、つい時間を忘れて見入ってしまうような、そんな感じだろうか。


 こうして振り返ってみれば、やはり特別な恋だったのかもしれない。

 こんなにも鮮明によみがえってくるなんて。


 そういえば、智昭と別れてしばらくは、ブルースとかロックとか、彼が演奏するような、それらしい音楽はあまり耳に入れないようにしていたのだった。

 もともと音楽そのものには、たいして興味がなかった明子である。それはさほど難しいことではなかった。

 それに、バーやライブといった、あの独特な世界と明子をつないでいたのは智昭だ。だから別れてしまえば、またそういうものとも無縁の生活になる。そして、そのまま二十年がすぎた。

 そう。それだけの話だ。


 明子は残りのコーヒーを、ゆっくりと飲みほした。

 そろそろバスがくる時間だ。


 一杯のコーヒーとクッキーのおかげで、すこしばかり軽くなった腰をあげようとしたとき、カランと入り口のカウベルが新たな来客を告げた。

 はいってきたのは若い女の子。

 意図せず目があって、会釈を交わす。

 彼女の口角はあがっているけれど、明子を見る目は笑っていない。敵か味方か見極めようとしているようだ。

 イケメンくんいわく『大学の後輩』らしい。


 明子は心で苦笑して、今度こそ腰をあげた。


 彼らのあいだに流れる、とろりと甘い空気が、ふたりの仲を如実に物語っている。それに、彼女のほうはおそらく意図的にそういう空気をだしている。

 明子相手にそんな必要ないのに。

 それこそ、イケメンくんを息子といってもおかしくないような年齢なのだ。

 だが、それでも牽制せずにはいられないのだろう。その気持ちもわからないではない。

 恋する女の子はいじらしい。

 とりあえず、彼が真のイケメンであることを願っておこう。


「ごちそうさま」

「あ、バスの時間ですね」

「ええ。今度はおじいさまのコーヒーをいただきにくるわね」

「はい。ぜひ」


 ああ、そうだ。せっかくなら朝一番にきてみよう。明子を見てどんな曲を流してくれるのか、とても興味がある。


「ありがとうございました。お気をつけて」


 イケメンくんの声と、恋する乙女の視線に見送られて、明子はコモドをあとにした。

 空には月が、ぼんやりと雲に滲んでいる。


 そういえば――


 あの曲の原詩は失恋男の未練節だといっていたっけ。

 智昭が歌っていた訳詞の『光』は、夢とか希望とか純粋な心とか、大人になっていくにつれて、失くしてしまった『なにか』で、それをとり戻そうという内容なのだけど、仮に原詩の通り『光』を別れた恋人とするなら、明子は頼まれてもとり戻したくないと思う。

 たとえそれが、どれほど素敵なものだったとしても、あるいは、どれほど悔いが残っているものだったとしても。

 過去の恋が輝けるのは、思い出のなかだけだ。


 そんなことを考えていたら、なんだかおかしくなってきて、明子は知らずしらずのうちに、懐かしいメロディを口ずさんでいた。『光』に、なにをあてはめるかによって、印象がくるくる変わる。いい曲には違いないのだけれど。


 コモドから徒歩数十秒のバス停に到着する。それとほぼ同時に、こちらにやってくるバスが見えた。

 いいタイミングだ。



     (おしまい)


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初夏色ブルーノート 《Barライブ編》 野森ちえこ @nono_chie

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