最終話 水面に映る影
――醜悪な感触が、全身の毛を逆立てる。
人の肉を断つ、濡れた感触。それがナイフを通し、腕を、脳を震わせた。内臓をぶつぶつと切り裂いていく感覚が、沸騰した僕の脳みそを急速に冷やしていく。ナイフの先端から、ぐちゃりと醜い感触が伝わってきて、どこかの臓器を潰したことがわかって。腹の中身がせり上がる感覚に、僕は思わず口元を押さえて座り込んだ。
「……あ……う、あ」
言葉が出てこない。体温が下がっていくのが手に取るようにわかる。目に涙が溜まっていって、冷たい朝の風が全身を引き裂くようで、情けない声だけが馬鹿みたいに空気を震わせて。
人を、殺した。
唯一助けてくれようとした人を。
この手で、刺して、殺してしまった。
全身にかかる重力が倍になったようだ。抗うこともできずに、僕はただ地面に身を投げ出す。隣で黒い少女が仰向けに倒れて、ばさりと軽い音がした。陶器のような真っ白な肌が、血の気を失って、粉薬みたいな無機質な色に変わっていく。
僕の肩が、脚が、腹が、真っ赤な血を石畳に振り撒いていた。僕の命が、石畳の上に流れ出ていく。靄がかかっていく思考の中で、ただひたすらにそれを見つめていた。全身に力が入らなくて、命だったモノをかき集めることもできなくて。
……普通になれる、最後のチャンスだったのに。
もう、僕の望みは叶わない。万一生き残ったって、人を殺した事実からは逃げられない。白く濁っていく思考の中で、その事実が重くのしかかって。
「……所詮は、お前も……はぁっ、私と同じだろう……?」
死んだはずの黒い少女が、呪詛のような言葉を吐き出す。顔を上げることすらできないのに、僕の鼓膜は馬鹿みたいに音を拾い続ける。
「お前にとっての正義は、私のものとは違ったようだ。……だが、私にとっての普通も、ふっ……お前のそれとは、かはっ、違う」
耳を塞ぎたくなるような言葉を、黒い少女は延々と吐き続ける。耳を塞ごうと両手を動かすけれど、撃たれた左肩は焼けるように痛くて、動かせる気がしなくて。右耳だけを塞いでも、左耳の鼓膜は勝手に少女の呪詛を拾う。
「……お前はいつも、自分のことしか……ふぅっ、考えていなかった。自分に都合がいいように、周りが動くことを望んで……自ら、はっ、変わろうとせず……げほっ、逃げ続けてきたな。……それは、ふっ、お前が切に望む……普通というモノ、だったのか……?」
呪詛のような低い声は、どこか糾弾のような響きを帯び始めた。爆発するような痛覚信号が脳を占領しているはずなのに、『ハーツ』の声はあまりにも明瞭に脳に届く。まるで、降り積もる雪を割って伸びる一本の木のように。僕の心に深く根を張って、養分を根こそぎ吸い取っていくように。
「……ゆめゆめ、忘れるな……お前の、救いようのない……みにくさ、を……っ」
永遠に解けない呪いのような言葉が、僕の鼓膜を優しく叩く。睡眠薬を込めたハンカチが鼻に押し当てられるように。自嘲するような、糾弾するような声が、鼓膜から脳を通じて、毒のように全身に回っていく。……そして、僕の片手がぎこちなく動き出した。
死にかけのミミズみたいに、ゆっくりと這いずる。ナメクジが通った跡みたいに、流れた血が道筋を示していく。少し進むたびに傷口が擦れて、無事な肌も石畳に容赦なく傷つけられて、腹の傷口が醜く剝けて、なのに痛みは感じない。あらゆる感覚が濁っていって、すぐ下の石畳すら脆く崩れていくみたいで。
遠くなっていく意識の中で、醜い毛虫のようにただただ這いずる。石橋の手すりに向けて、真っ直ぐに。一メートルもないそこまでの距離が永遠のように長く感じられた。片手が石橋の縁に触れると、僕は血を求めるゾンビみたいに手すりを抱きしめる。無理に起き上がり、喉を這いあがった血を下界に吐き出した。汚い紅色は、荒れ狂う川の流れに音を立てて落ちて、溶けていく……消えていく。
零れ落ちそうな力を必死で腕に集めて、僕は冷たい手すりから身を乗り出す。
泣き叫ぶような流れに映る僕の姿は……白い靄がかかって、もう見えなかった。
水面に映る影 東美桜 @Aspel-Girl
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