第11話 決裂

「自分さえよければそれでいいなどという、救いようのない悪でしかない」

 冷酷な声が鼓膜を貫く。隣で、カラスのように黒い姿が淡々と言い放つ。……僕の瞳は、目の前の死体に釘付けだった。寝間着に包まれた薄い胸から、どくどくと真っ赤な血が流れだす。


「……どうして」

「は?」

「どうして、殺したんですか」

 震える喉が、勝手に糾弾のような言葉を吐き出していた。のろのろと立ち上がり、幽鬼のような足取りで日和ちゃんに歩み寄る。細い手首を手に取り、その内側に指を当てるけれど……本来ならあるはずの脈動は、そこにはない。人肌のぬくもりはまだ残っているのに。

「……わからないのか? あいつは正しくない。本当にお前のことを思っていたなら、あの時、あの茶髪を殺してお前を助けるべきだっただろう? あいつはそうしなかった。それにさっきの問答でも、あいつは昨日の女の言葉を否定しなかった。……そういう人間だ、あいつは。ならば生かしておく価値などない」

 抑揚のない声が、淡々と言葉を紡ぐ。だけど……その意味を、僕は理解できなかった。だって、そうでしょ? 日和ちゃんと一緒にいる時だけは、僕は普通で居られたはずなんだ。少なくとも、僕は……日和ちゃんのことを、友達だと思ってた。信じていた。そのはずなんだ。

 なのに、今、鼓膜を殴りつけるのは……拳銃のセーフティを、静かに戻す音。


「……あれは、仕方なかったんだよ」

 日和ちゃんの手首をそっと石畳に置いて、僕は静かに口を開いた。ひび割れそうな喉から、震える声が朝の空気に広がる。……どこか、自分に言い聞かせるように。

「あの状況で、助けるなんて絶対できなかった……本当は傷つけたくなんかなかったはずなのに。だからこうやって、謝りに来てくれはずなんだよ……なのに。ひどすぎるよ、こんなのッ!」

「……甘い」

 遮るような叫びが鼓膜を引き裂いた。弾かれたように振り返り、僕は見開いた瞳で彼女を見つめる。……今朝、初めて見た彼女の表情。黒曜石の瞳は黒い炎のような光を宿し、彫刻のように整った顔は般若のように歪んでいた。あの日の『ハーツ』とは別人のように、彼女は荒々しい声でがなり立てる。

「人の悪意は簡単には消えない。卑怯さも、自分可愛さも、そうやすやすと治りはしない! この世から悪意を消し去るには、悪意の宿主を消すしかないんだ。そうしなければ……そうしなければ、正義を成すことはできないんだッ! お前も本当はわかっているんだろう? あいつは、お前のことを友達だと思っていなかったと!」

「そんな……そんなわけないよ!」

 気付いた時には金切り声を上げていた。震える脚を叱咤して無理やり立ち上がり、黒い少女の歪んだ瞳を正面から見据える。握りしめた右の拳を胸に当てて、僕は腹のうちの炎を吐き出すように声を上げる。

「日和ちゃんは……優しい子なんだよ! ここじゃありえないくらい、いい子なんだよ! そりゃ、誰だって一度は間違えることはあるよ。日和ちゃんだって、たった一回、僕を助けることができなかっただけで。……たった一度なんだよ! 一回、間違えただけなんだよ! そのたった一度の過ちだけで、生きてちゃいけない悪人だなんて決めつけないでよ。そんなの、ないよ……おかしいよ。普通じゃないよ!」

「うるさい……そうじゃない。お前は何一つわかってない!!」

 震える叫びが、揺れ動く瞳が、僕の心臓を太い剣みたいに貫いた。思わず胸を押さえ、再びしゃがみ込む。……何も考えないまま、僕は日和ちゃんの遺体の隣に手を伸ばしていた。彼女が持っていた長いナイフを掴み、幽鬼のように立ち上がる。

「お前は何も知らないだろう? 正しく在れといくら願っても、悪意は消えない。少し情けをかけてやれば、それが仇になってまた悪を育てる羽目になるんだ……綺麗事じゃ、何も成せないんだよッ!」

「……ああ、そうだよ。僕は何も知らない。あなたがどうして正しさなんていう曖昧なものにこだわるかなんて、僕は知らない。……だけど、これだけはわかるよ。。正しくないから殺すだなんて、そんなの間違ってる! 勝手な正しさを振りかざして人を殺して、やり直すチャンスすら与えないなんて、そんなの、子供の癇癪より質が悪いよ!」

「……黙れ……私は、何も間違えない!」

 一瞬、強い風が吹いて、長い黒髪がカラスの羽根のように広がった。遥か下界を流れる川が、逆流するように激しい水音を響かせる。僕は日和ちゃんのナイフを握りしめ、黒い少女に向けて走り出す。頭が沸騰したように何も考えられなくて、ただ子供みたいに滅茶苦茶に絶叫しながら。


 銃声が轟く。避ける間もなく、銃弾が僕の左肩に埋まる。反動で半身が持っていかれそうになって、ギリギリで踏みとどまった。焼けつくほどの痛みが思考を侵して、視界が生理的な涙で滲む。それでも僕は、無心で地面を蹴りつける。

 銃声が轟く。左の太ももを銃弾が貫く。耐えきれずに金切り声を上げながらも、僕は無理やり足を進める。左脚を半ば引きずりながら、ただただ黒い少女に向けて突進する。……止まるわけにはいかない。間違った正義を振りかざす人を、日和ちゃんを殺した奴を、何としても生かしてはおけなくて。

 銃声が轟く。薄い腹を銃弾が滅茶苦茶に捩じくり回す。脳を焼き切るような痛みに、喉は勝手に金切り声を上げる。……あと数分も耐えられそうにない。だけど、すぐ目の前なんだ。日和ちゃんを殺した奴は、絶対に生きていてはいけない人は。こんなところで、止まってたまるか――!


 滅茶苦茶に絶叫しながら、僕はナイフを構え直した。全身から血が流れて、制服が真っ赤に染まっていく。黒曜石の瞳を見開く『ハーツ』を、僕は憎悪を込めた視線で刺し貫いた。血走った目で軍用コートの隙間を探して――そこに無理やり、長いナイフをねじ込んで――。

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