第10話 橋の上で

 ギィッ……と、重い音を立てて鉄の門扉を開ける。朝の冷たい風が全身を打つ。協力者の方が一時的にセキュリティシステムを乗っ取ったようで、ちらりと監視カメラを見上げても反応はない。胸を押さえ、ゆっくりと深呼吸をすると、僕は冴えた空気の中に駆け出した。煉瓦造りの地面を踏みしめ、昨晩聞いたポイントへと走り出す。背後で門扉の金属がぶつかる激しい音が耳を侵した。


 軽い足音を立て、石橋を駆け抜ける。遥か下から川の水音が心地よく耳に響く。川沿い特有の爽やかな風が、僕のポニーテールをふわりと揺らす。一歩、一歩、足を進めるたびに、全身に絡みついた鎖が解けていくようだ。気付くと僕の脚は、まるで踊るように軽くなっていて。まるで野を駆ける兎のように、僕は長い橋を渡っていく。


「ミハルちゃん……っ!」

 聞き慣れた声が耳を打って、僕は思わず足を止める。解けたはずの鎖が、再び全身に絡みついたみたいだ。その鎖に導かれるみたいに、僕はぎこちなく振り返った。見開いた瞳が、瞬きもできずに乾いていく。

「……日和、ちゃん」

 呼びかけた声が、耐えきれずに震える。桃色のボブカットが震え、時おり滲んだ。愛らしい寝間着姿の腰元に、護身用らしき長いナイフが覗く。……肺が酸素を欲するように収縮して、喉が情けない音を立てる。気温が一気に下がっていくような感覚の中で、僕の鼓膜だけが、少女が息を整える音を拾い続ける。

「はぁ、はぁ……っ」

「……なんで、ここに」

「……ごめん。なんか、昨夜、眠れなくて。そしたら、さっき、足音が聞こえて……ミハルちゃんが、どこかに行くの、見ちゃって。どうしても……放っておけなかったの」

 息を整える音に混じって、血を吐くような言葉が鼓膜を刺す。……だけど、僕は一歩後ずさってしまった。耳の内側から、昨日の言葉が鼓膜を突き刺す。拳銃のセーフティが戻される音が、繰り返し繰り返し鼓膜を殴りつける。胸のリボンを握りしめ、僕は目を逸らすこともできずに彼女を見つめ続ける。

「ミハルちゃん……昨日は、本当にごめん。わたし、本当は……本当に、仲良くしたかったの。……友達に、なりたかったの」

「……日和ちゃん」

「ねえ、ミハルちゃん……戻ろう。逃げたりなんか、しないでよ」

「……っ」

 日和ちゃんの瞳が僕を突き刺す。まるで、拷問器具の針みたいな視線で。もう一歩後ずさって、僕は子供みたいに首を横に振った。リボンを強く握り、喉を押さえて、僕は張りつめた声を無理やり押し出す。

「いや、だよ……僕、これ以上こんなところにいるなんて、無理だよ! ここにいたら、僕は絶対、『普通』にはなれない……絶対、願いが叶わないんだ! なのに……どうして、ここにいろって言うのさぁ!」

 昨日の記憶が鼓膜を殴る。桐原さんの声が脳裏を蹴りつける。……日和ちゃんは、皆が平穏に過ごすことを望んでいた。その『皆』に、僕は入っているの? 僕以外の皆を平穏に過ごさせるために、僕を犠牲にしているって言うの? もしそうなら……僕は耐えられないよ。朝の冷たい風に、全身を切り裂かれて死んでしまいそうだよ。

「ねえ……日和ちゃんにとって、僕はなんなの? 桐原さんが言ったとおり、僕はただの舞台装置でしかないの? ……お願い、教えて。答えて!」

「……わたしはっ!」

 鋭いナイフが空気を裂くような声が、明瞭な朝の風にのって響いた。はっと顔を上げると、日和ちゃんが僕の瞳を真っ直ぐに見つめている。丸い瞳に透明な涙を湛えて、彼女は津波のような声で僕に語り掛けた。

「わたしは……今度こそ、ミハルちゃんを守りたいんだよ。今までみたいなやり方じゃなくて……もっとちゃんと、ミハルちゃんに寄り添って、周りから、守ってあげたい! わたしのこと、優しい人だって言ってくれたから! ……だから、一緒に戻ろう。今ならまだ、やり直せるから……」

「……っ」

 制服のスカーフを両手で握りしめ、僕は日和ちゃんをじっと見つめた。彼女の瞳はあまりにも真っ直ぐで、まるで銃口を向けられているみたいで。いつの間にか震えていた脚を叱咤し、僕は――……


 ……――ばん。


 聞き慣れてしまった銃声が耳を打った。嗅ぎ慣れてしまった硝煙の香りが鼻をかすめる。日和ちゃんが呆然としたような瞳で、僕を……いや、僕の背後にいる人を見つめていた。その小さな手が、薄い胸に伸びて……骨ばった指先が、ぬるりと赤く染まって。

「……なん、で」

 日和ちゃんが視線を指先に落として、赤々とした液体に濡れた指を見つめて。寝間着に包まれた脚ががくがくと震えて、ふっと力が抜けて。数歩後ずさったと思えば、ばさりと音を立てて石橋の上に倒れ伏した。

「そんな、そんな……」

 呼応するように、僕の膝からも力が抜けた。視界が揺れて、ぶれて、まるで壊れたカメラみたいに。ただ、僕の鼓膜だけが、馬鹿みたいに背後の足音を捉えていた。振り返ることもできぬまま、僕はただ自分の肩を抱きしめる。


「勘違いするな。そいつは悪だ」

 冷淡な声が耳を打つ。僕の全身が、冬の空気に放り出されたように震えだす。

「守りたい? 寄り添う? 所詮は詭弁だ。ただの自己保身だ」

 冷酷な声が風に乗る。爽やかだった朝の風が、死神の鎌のように首を撫でる。

「ここで謝ったのは、自分の中の罪悪感を消す免罪符にするため。そして、自分が次の犠牲者になることを防ぐため。……所詮は悪だ。自分のことしか考えていない……自分さえよければそれでいいなどという、救いようのない悪でしかない」


 僕の隣に、カラスのような真っ黒な姿が立つ。朝の眩しい光の中で、不釣り合いなほど黒い髪がなびく。

 ――その手元には、今も銃口から煙を上げ続けるライフルがあった。

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