第9話 縋りつく
「う……、ぁ、あぁっ」
冷たい風が肌を刺す。石橋の手すりが体温を奪う。茜色から群青色に沈んでゆく空だけが、泣きじゃくる僕を見下ろしていた。雨は止んだけれど、石畳はまだ濡れている。遥か下を流れる川も、心なしか普段より荒れているようだ。
……息をする度に肋骨が軋んで、それが次の涙を誘う。あちこちにつくられた打撲痕が今も僕を苛んでいた。指先を少し動かすだけで、全身に電撃が走るみたいで……もう、ここで死んでしまった方が、楽な気さえするよ。
痛みを発する腕に力を込め、橋にしがみついて下界を見下ろす。雨が降ったあとの川は、どこか泣き叫ぶように流れていた。そこに映る僕の姿は、ひどく小さくて……群青色の流れの中で、化け物のように歪んでいて。
『テメーさ、自分の立場わかってんの?』
……桐原さんの声が耳元に蘇る。針が鼓膜を貫くみたいに、鮮やかに。
『……ふざけんじゃねえぞ。逃げてんじゃねえぞッ』
憎悪を孕んだ声が耳を侵す。即効性の毒みたいに、痛みを伴って。
『不満垂れるしか能が無ぇザコだから……っ、ウチは! テメーのことが嫌いなんだよッ!』
憤怒に満ちた声が耳の中に反響する。炸裂する爆弾みたいに、高熱を宿して。
『いい加減、認めろよ……テメーは、誰にとっても、どうでもいい存在なんだって』
侮蔑を隠さない声が、耳を、脳を焼く。耳を塞いでも、ずっと響き続ける。
冷たい石橋に身体を預け、僕はひときわ激しく嗚咽を漏らした。桃色のボブカットが脳裏で揺れて、ノイズが走るみたいに掻き消える。……桐原さんの言葉を、日和ちゃんは否定しなかった。手を伸ばそうとしたのに、助けてくれなかった。思い出すだけで血液が逆流して、死んでしまいそうだ。津波に攫われて溺れる人みたいに、僕は虚空に手を伸ばす。……もう、耐えられないんだ。ほんの数日すら、忍ぶこともはできそうにない。全身に電撃が走って、今にも身体が壊れてしまいそうだ。
不整脈を起こしたみたいに胸が痛んで、僕はまた石橋に身体を預ける。荒れ狂う川の流れが、僕の影を引き千切らんとばかりに歪めていた。ひどく乾いた両眼でそれを見つめ、僕はひたすら嗚咽を吐き出す。……そうでもしないと、全身が千切れそうなんだ。いろんな感情が滅茶苦茶に混線して、気を抜くと身を投げてしまいそうで。散乱したパズルのピースをかき集めるみたいに、僕は冷たい石橋の手すりにしがみつく。
……と、制服のポケットが震えた。思わず尻餅をつき、慌ててポケットからスマホを取り出す。急かすようにバイブを鳴らす小さな端末は、その画面に福音のような文字を表示していた。……『ハーツ』。
「……っ!」
スマホを持つ指先から、全身の震えが収まっていく。まるで温かい水の中に飛び込んだみたいに。無意識に強張っていた目元が、口元が、少しずつ緩んでいく。不確かだった呼吸が、少しずつ僕の身体に戻ってきた。脈動する恒星みたいに心臓が高鳴って、全身の痛みすらも消えてしまうようで、僕は促されるように通話を受信する。
「……『ハーツ』、さん?」
『ああ。……早速だが、本題に入る』
あっさりとした声が大粒の雨のように耳を打つ。弾かれたように顔を上げ、僕は縋るようにスマホを耳に押しつけた。……僕の身を案じる言葉はなかったけれど、その方が良かった。下手な言葉を投げかけられたら、逆に壊れてしまいそうだったから。
「……はい」
『協力者の目途が立った。事はすぐにでも起こせる』
「っ、本当ですか!?」
『ああ。……お前も協力しろ。まず、お前には
「……はい!」
荒々しかった川の流れは、いつのまにか穏やかさを取り戻していた。返事をした声がどうにも弾んでしまって、僕はかすかに顔を赤らめた。……『ハーツ』は僕の願いをちゃんと叶えてくれる。僕がこの手で人を殺して、普通の女の子に戻れなくなるなんてこと、しないでくれる。さっきまで乾いていたはずの目が、どうにも潤んで仕方ない。紅潮した頬に、温かい雫がこぼれ落ちる。
『一応確認する。異論は?』
「ない、です……あるわけ、ないです! 本当に、っぐ、感謝してます……」
『……言っただろう。これは利害一致だ。礼を言われる筋合いはない。そんなことより、作戦開始時刻と目的地を伝えておく。一回しか言わないから、よく聞いておけ』
彼女の声は相変わらず淡々としていたけれど、どこか弾んでいるように僕の耳には届いた。心臓が痛いほど高鳴って、熱した砂糖菓子みたいに溶けてしまいそうで。一言も聞き漏らさないように、僕は必死に彼女の声に縋る。
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