下巻  第3話 朗読会の集い(2)

 古い石畳の道に、黄金色の銀杏の葉や紅葉した桜の葉が、はらはらと散っている。革靴で踏むと、枯れかけの葉がくしゃりと音を立てた。

 石畳の道を冷たい秋風が通り抜ける。十一月になって随分冷え込むようになった。すっかり秋めいたようだ。

 絢人は隣を歩く百合恵に目を向ける。

「随分、冷え込んできたな」

「もうすぐ冬ですもの。貴方は、寒いのは苦手でしたか?」

「都会暮らしが長かったからな。ここの気候は久しぶりだから、少し寒く感じる」

 月夜野町の周囲はほとんどが山だ。西側の一部が海に面していて、夏は蒸し暑く冬は底冷えする。冬は雪が薄く積もる。

「……今は秋薔薇がどこでも綺麗に咲いていますわね」

 笑みに影を作りながら、百合恵は歩みを速めた。

 百合恵は赤い薔薇が苦手だ。九年前のあの事件以来、目の前で知り合いが殺されたショックは、今も百合恵の中に深い根を張っている。絢人も歩く速度を上げた。

 月夜野町には花壇や植え込み、民家の庭、あちこちに薔薇が植えられている。赤い薔薇を見ずに町を歩くのは難しい。少しでも速く通り過ぎる方がいいだろう。

 今日は月に一度の朗読会の準備をするため、全員で集まる予定になっていた。朗読会は大学生以外のメンバーもいるため、全員で集まれる広い部屋がある桂月家で集まるのが常だった。

 惣史の屋敷は丘の上の教会の近くにある。

 桂月家は町の旧家の宗家で、住民の戸籍管理と冠婚葬祭を司る家だ。町で一番立派な屋敷に住んでいる。

 しばらく住宅街を歩くと、立派な門構えの屋敷が現れた。

 黒い鉄柵の門扉、その向こうに白い壁に暗い色の木組みが模様になったシックな雰囲気の洋館が建っている。

 門の隣には桂月という表札と、明らかに後づけ工事で取りつけられたであろうインターホンがある。この外観の洋館からはかなり浮いているが、必要に迫られてつけたのだろう。

 月夜野町は明治時代の古さを随所に残した町だが、所々にこうした現代的なものが入り混じっているちぐはぐな町でもある。

 インターホンを押すと彼の妻が出て門扉の鍵を開けてくれた。

 普段そうしているように玄関へ向かう。ドアノッカーを叩くとすぐに彼の妻が出てきた。

「いらっしゃい、二人とも。さあ、入って」

 明るく気さくな惣史の妻――桂月れみが微笑む。

 サイドテール風に結わえたマロンベージュの髪に、今日は薄手のニットにミニスカート姿だった。シンプルな格好なのに洗練されて見えるのは、彼女の垢抜けて大人びた雰囲気によるところが大きいのだろう。百合恵と同い年で若々しいのに、三つも四つも年上に感じるときがある。

 彼女が招き入れるまま、絢人たちは屋敷へ入る。

「お邪魔します、れみさん」

 百合恵が絢人に続いて中へ入り、扉を閉めた。

「どうぞ、いつもの場所よ。お茶の用意をしていくから先に行っていてね」

 れみは身を翻して軽やかに奥へ引っ込んでいく。溌剌としたれみは、朗読会のムードメーカーだ。

 桂月家の床や柱、扉はみんな艶やかな飴色で、壁は白。内装は落ち着きがあり、豪華さとは縁遠い。飾られている絵や、花瓶に活けられた花がシンプルな内装に色どりを与えている。

 玄関からすぐのところにある応接間の扉を開けた。広い部屋の中央にテーブルと、それを囲う何脚かのソファがまず目に入った。

 大きな窓から光が入るせいか、明るい色の絨毯があるせいか、この部屋はいつもあたたかさを感じる。

 応接間には先客が二人いた。朗読会のメンバーだ。

 絢人たちが入ると、すぐにひとりの少女がソファの背もたれに手をかけて振り返った。癖のあるマロンブラウンのショートヘアが揺れる。紫がかった大きな瞳の、十四歳の少女だ。

「あ、二人とも、いらっしゃい!」

 月島真夜(つきしままや)は今日も元気そうに声を張った。その隣には赤い髪の目つきの悪い青年が座っていて、真夜の言動に溜息を吐く。

「お前の家じゃないだろうが」

「そういう細かいところはいいの」

 真夜は赤髪の青年小牧緋色(こまきひいろ)を一度睨むと、再びこちらを振り向いて「座って座って!」と言った。

 絢人と百合恵が並んで空いているソファに座ると、ちょうどお茶の用意を終えた桂月夫婦が揃って入ってきた。れみが扉を開け、ワゴンを押してきた惣史を応接間へ入れる。

 惣史はいつものように右目を黒髪で隠している。全身黒ずくめの格好に、黄金色の十字架の首飾りをかけていた。

「みんな、お待たせ」

 言葉を発しない惣史に代わり、れみが全員に声をかける。

 惣史はワゴンをテーブルの近くで止めた。百合恵と真夜が進んで手伝い、テーブルの上にお茶の用意がすぐに整えられる。人数分のティーカップと、切り分けた洋ナシのタルトが配られた。

 全員が席に着いたところで、れみが口火を切る。

「さあ、みんなどうぞ。ゆっくり食べながら今月末の朗読会について話し合いましょう」

 屋敷の主人である惣史ではなく、妻のれみが話を進めるところがこの夫婦らしいと思う。

「次の図書館での朗読は、いつも通り二冊ね。絵本を見繕ったのだけれど、みんなの方はどうかしら?」

 れみが膝の上に二冊の絵本を立て、みんなに見えるように持つ。続いて真夜と百合恵も、持ってきた絵本を同じように膝に立てる。

「今までは『狼と七匹の子ヤギ』とか、けっこう童話の絵本が多かったでしょ。今回辺りからこういう、メジャーな絵本、どうかな?」

 真夜は何冊かの絵本を全員に見せるように掲げて見せた。

 トロールがいる谷を渡る三匹のヤギの絵本、きつねの子が買い物に行く絵本と、どちらも長く読まれてきた有名な本だった。

「まあ、昔読んだ絵本ばかりですわ」

 百合恵は真夜が持つ絵本を懐かしそうに見つめた。

「いいんじゃないか。今まで読んできた絵本とはまた少し違うから、子供たちも聴き入ってくれそうだな」

「やったあ。アヤたちならそう言ってくれると思った!」

 絢人も所感を述べると、真夜は嬉しそうにガッツポーズを作る。

「私はアンデルセン童話の絵本を持ってきました。こちらもどうでしょうか」

 百合恵も真夜のように持ってきた本を見せる。『ナイチンゲール』と『親指姫』だ。あまり長くないし読みやすく、子供も興味を持ちやすい話を選んだ。

「全部で六冊かあ。悩むわね」

 れみが百合恵から絵本を受け取って中をぱらぱらと捲る。百合恵も真夜から絵本を受け取って軽く読み始めた。

 絢人は百合恵が開くページを覗き込みつつ、タルトをフォークで切り分けて口に運ぶ。甘く煮た洋ナシが紅茶によく合う。

 百合恵も料理やお菓子作りが上手いが、惣史もかなり料理上手だ。不愛想だが真面目で礼儀正しく、こうして朗読会の集まりがあるときは手作りのお菓子を振る舞ってくれる。

 絢人がタルトを堪能していると、真夜が緋色に絵本を見せてどれがいいか意見を聞いていた。

「あなたはどれがいいと思う?」

「どれでもいいだろ。選ぶのはあっちの二人だ」

 緋色は本選びにはほとんど興味がないようで、真夜を適当にあしらって紅茶を飲んでいる。真夜は大きな瞳で緋色を睨んだ。

「あなたもメンバーなんだから、少しは協力してくれてもいいと思うな」

「俺をメンバーに入れるなって。ただのつき添いだ」

 緋色は目つきを一層険しくした。

 緋色は朗読をしない。中学生の真夜を案じ、つき添いで集まりに参加しているのだ。目つきも悪く言動は一見粗雑だが、第一印象に似合わず優しいところがある。

 身寄りのない真夜を引き取って暮らしているらしいし、ごく稀に発生する力仕事なども進んでやってくれる。

 緋色は自分をメンバーに数えていないが、そう思っていないメンバーはこの場にはいない。

 惣史はといえば、黙って成り行きを見守りつつ、静かに紅茶を飲んでいる。女性陣三人が中心になって話を進めている間はほとんど口を開かないし、この場ではまだ一度も喋っていない。

 次の朗読担当は惣史とれみ。惣史は、感情を込めた読み方はあまりしないものの、明朗で聴きやすい朗読をする。れみは、感情や緩急をたっぷり込めて、子供たちとコミュニケーションをするように語る。絢人から見れば彼女は理想的な語り手だった。

 子供たちのための朗読会をやりたいと言い出したのはれみらしい。子供たちに寂しい思いをさせず、喜ばせ、親子のコミュニケーションの仲立ちのような活動ができればいいと、れみは絢人に以前話してくれたことがある。

 そのとき見せた彼女の寂しそうな横顔に、彼女にも家族に関わる悲しみを持っていることに気づいた。

 絢人は初めて百合恵以外の人間に共感した。

 最初は百合恵がやりたいと言ったから参加した朗読会だが、他の親子を絵本で繋ぐことで、悲しみを乗り越えようとする彼女の取り組みに素直に敬意を持ってから、絢人は熱心に朗読会の活動をするようになっていた。

 女性陣が持ち寄った絵本を広げつつ、たまに脱線しながら盛り上がる。絢人もその輪に混じって話し込んでいると、時間はあっという間に過ぎ去っていった。

 初冬にもなると陽が沈むのが早くなる。少し薄暗くなった部屋を顧みて、時間が経ったことを絢人は認識した。中学生の真夜もいる。あまり遅くまで残るわけにはいかないだろう。

 惣史が立ち上がった。彼もそろそろお開きにしようと思ったのか、持ち寄った本の中から一冊を迷いなく選んだ。集まりの際は大抵黙っているが、話はしっかり聞いているのだ。

「僕はこれにする」

 惣史は生気が薄い、暗く沈んだ瞳をれみへ向ける。

「君はどうする」

「えっ……、惣史、もう決めちゃったの?」

 すんなり絵本を選ばれ、取り残されたれみは慌てた様子で、真剣な表情を並べた絵本に向け始めた。

「えっと、ど、どうしようかな……」

 顔を強張らせ、絵本と睨めっこするれみ。

「あなた、本当にもうお開きにするの?」

 れみが珍しく惣史を「あなた」呼びする。一気に二人の雰囲気が初々しい若夫婦のようになる。

「お喋りもいいけど、もう暗くなるから駄目だよ」

 家主の惣史の答えは変わらないようだ。

 れみは口を開きかけたが、結局は口を噤んだ。その表情はどこか不安を押し殺したようにも見えた。

「れみさん。どうかしたのですか?」

 百合恵が小首を傾げる。

「え? ううん、何でもないわよ」

 取り繕うれみの顔は笑顔を作っていたが、若干引き攣っていた。

 いつも明るい彼女があまり見せない表情なので、絢人は百合恵と顔を見合わせた。彼女もれみの様子に困惑しているようだった。

 絢人は助け舟を出した。

「まあ、朗読会はまだ先だし、すぐに選ぶ必要はないんじゃないか。絵本は置いていくから、決まったら連絡をくれればいい」

 れみがほっとしたように笑った。

「そ、そうよね。今夜、じっくり選んでみるわ」

 先程より表情は和らいでいるが、いつもの彼女に比べると纏う雰囲気は暗い。絢人はその様子を横目で窺うが、そのことに何も言えない。明るい彼女の内にある暗い部分には容易に立ち寄るべきではないし、何か言ったところでどうにかなるものではない。

 ちょっとした雑談を交えながらも、ゆるゆると朗読会の集まりはお開きになった。

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試読「魔女たちに薔薇の花を 」 葛野鹿乃子 @tonakaiforest

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