月へ行くそのいまひとつの方法

長々川背香香背男

孤児たち・屋上・手紙

1 孤児たち


 月を見て泣く女のことが僕はあまり好きではなかった。月を見て泣く女たちのほとんどは誰にでも簡単に股を開くからだ。

 月を見て泣く女が写真棟の屋上で泣いていると聞いたのは確か学園祭の二日目のことだったと思う。

 まだ宵の口だったが僕はすでにかなり酔っぱらっていて、キャンパスの中央に空いたクレーターと呼ばれる空洞の淵から、吸い殻の浮いたプラカップや紙食器や空き缶なんかを、片っ端から蹴落としていた。クレーターの下に誰もいなくてよかったと思う。僕は飲み終えた青島ビールの瓶なんかも無造作にクレーターの中へ放り込んでいたから。瓶を投げ込むとクレーターの底からは万華鏡のような音が聞こえてくるのだ。

 僕が万華鏡の音に耳を澄ませているところへ末森がコンタックスを首から下げてやってきて屋上へ行かないかと僕を誘った。写真棟の屋上で月を見て泣く女が泣いているから写真を撮りに行かないかと。

 僕はクレーターに物を放り込む作業を中断して空を見上げた。なるほどきれいな月が出ていた。

「邪魔をしちゃ悪いな」と僕は言った。

 末森は僕とは違って、月を見て泣く女たちが好きだった。月を見て泣く女たちの多くも末森のことが好きだった。

 クレーターを囲むように並んだ出店では実に色々な物が売られており、実に様々な大きさのプラカップや簡易食器が、クレーターの淵に置き去りにされていた。

「それに、僕は孤児たちの面倒をみなくちゃ」

 僕は一番手近な、まだ中身が残っているプラカップをクレーターに蹴落とした。

 末森は穴の底を覗き込んでから、こちらに向き直って右手を差し出した。握手のために僕が右手を差し出すと彼は掌をすっと引き、声を出して笑いながら僕の肩を軽く殴って、それから写真棟の方へ歩いていった。

 僕はそれかれらしばらく淵に沿って歩きながら、孤児たちをクレーターに蹴落としていった。

 一通りの作業を終えた僕は、知り合いを探して歩いてみることにした。しかし屋台のベンチにも文芸棟のテラスにも野外ステージの客席にも知った顔はなかった。

 ステージではハムレットが上演されていた。女が川に浮かんでいたから多分ハムレットだったんだと思う。

 正門まで辿り着いてしまうとすることがなかった。仕方なく僕は門扉にもたれて煙草を吸った。教室棟のどこかの窓からコントラバスの音だけが漏れていた。

 煙草を吸っていると、去年同じゼミだった女の子が通りかかって僕に気づいて近寄ってきた。彼女もすでに相当酔っぱらっている様子で、四文屋で打ち上げがあるから一緒に行こうと僕を誘った。

「あと一日残ってるじゃん」と僕が言うと、

「今日の分の打ち上げよ」と女の子は言った。

 断る理由も見当たらないので女の子と腕を組んで駅の方へ歩いた。首が寒いと僕が言うと女の子は自分のマフラーをほどいて僕の首に巻いてくれた。




2 屋上


 わたしが月を見て泣く理由をこの男は聞いてこなかった。ただニコリともせず吹き出してしまいそうなほど真剣に、ぎゅっと片目を閉じてファインダーをのぞいていた。シャッターを切るときにだけそれまで瞑っていた左目をぱちっと見開くのが、ちょっと怖くて、ちょっとおかしかった。

 わたしは泣きながら男のそんな様子を観察していた。そうしているうちにだんだんと憎らしいような気持ちになってきて、わたしは彼にわたしが今までに出会った男たちの話しをした。彼らの愛撫の仕方や彼らのペニスのサイズ、それから一度そういうふうな関係になると、彼らがどんなにひどくわたしを扱ったかというようなこと。

 男はわたしが話している間もずっとファインダーから目を離さなかった。

 黒い塗装がところどころはげているコンタックスの一眼レフで、ずっとわたしの写真を撮っていた。

 フィルムを入れ替えるときでさえ彼は口をきかなかった。



3 手紙


 月を見て泣く女たちは人生のある時期を月を見て泣いて暮らす。そしてその時期を過ぎると女たちはそれまで出会った誰の前からも姿を消してしまう。

 月を見て泣く女たちというのはそういうものなんだ。

 だから俺は出来るだけ多くの月を見て泣く女たちの写真を撮っておくことにした。そして写真を撮った女たちと俺は寝る。

 月を見て泣く女と寝るのというのはとても不思議な気分がするものなんだ。彼女たちの肌は往々にして透き通るように白くて体臭がしない。脇も足の裏も股の間も。

 ここからは俺の推測でお前がこれを読んだら子供じみているとか、あるいは厨二だとか言うかもしれない。けれどこれをお前が読むときには恐らく俺はもうお前たちの前から姿を消している筈だ。だから笑われたり、馬鹿にされるのも覚悟の上で、俺は俺の考えをここに書いておく。

 月を見て泣く女をお前は馬鹿にするが、その気持ちは俺にも分かる。月を見て泣く女たちのほとんどが単なるメンヘラか少しばかり自己肯定感の乏しいだけのいわゆるビッチだからな。そういう女たちが泣く理由は月でなくたっていいのだ。朝焼けだろうが星空だろうがたった一羽で佇む水鳥だろうが芸能人の半生だろうが従兄弟の結婚式だろうが、のべつ幕無しに泣きまくる。

 俺は何度かそういう女に引っかかったが俺はお前みたいに彼女たちを嫌ったりはしない。たしかにそういう女は面倒なパーソナリティーを抱えているけれど、概ねいい奴らだ。それにそういう女たちっていうのはなかなかセックスがうまいんだ。

 それじゃあそうでない女たちはどうか。つまり本当に月を見て泣く女たちとのセックスとはどういうものなのか。あんまりお前に俺のセックスがどうのこうのって話しをするのもアレだけど、これがこの話しの核心なんだから仕方ない。お前も仕方ないと思って読んでくれ。

 本物の月を見て泣く女たちとのセックスは、表向きは他の女たちのセックスと変わらない。それでも初めから終わりまでオーソドックスで当たり障りのないセックスをしたとしても、月を見て泣く女たちとのセックスはその根本からして普通のセックスとは別の現象なんだ。これは言葉で説明するのは難しいんだが、セックスをしているうちに俺は自分の身体がどんどん軽くなっていくような気がするんだ。自分だけじゃなく女の身体も俺たちのまわりにある何もかもがどんどん軽くなって宙に浮いていくような感じなんだ。

 お前はひねくれている上にロマンチストだからそれが愛だとか抜かすかもしれない。だが断っておくが、これはそんな感傷的な話しじゃない。言ってみれば物理のお話だ。

 実際に俺は何人かの本当に月を見て泣く女とセックスをした。一人につき一回ってわけじゃないし一々カウントしているわけじゃないから正確な回数はわからない。今となっては数えておくべきだったと思うよ。とにかく一回女たちと寝るたびに、俺の体重は減っていった。やりすぎで痩せたとかそうんじゃない。もっと非現実的な減り方だ。

 笑い事じゃなく最近ではちょっとの風でもふらついてしまうんで、一眼レフを重石代わりに首から下げて歩いてる。まあ思い立ったときに写真も撮れるしなかなか悪くないよ。

 ただこうなってくると、もうここにはいられないような気がしているんだ。

 体重のこともそうなんだが、女たちとのセックスの後は、決まって頭がぼんやりして色々な現実的なこと、例えば大学のことやバイト、現像に出したままのフィルムや借りたままのDVD、そういった日常のあれこれがどうでも良くなっていくんだ。そうちょうどいつだったか為貝君がくれた紙巻き煙草を吸った後みたいに。

もう俺は起きているときのほとんどが、そういう気分なんだよ。

 だけどこのままなにもせずにいるのはちょっと格好がつかないから、ふやけた頭をなんとか回転させて、俺はある仮説を立てた。月を見て泣く女たちに関しては俺は誰よりも観察を重ねてきたつもりだ。だからこの手紙が何かお前の役にたてばいいと思う。

 たぶん俺はこのまま月へ行くんだ。

 ほんとうに月を見て泣く女たちの体内には月の海が宿っていて、月を見ることで女たちの中の海が月の潮力に引かれて溢れてくるんだ。だから女たちはある時期になると月の引力に引かれて俺たちの前から姿を消してしまう。そして俺は月を見て泣く女たちとあまりに何度もセックスしたもんだから、そういう女たちの影響がアレして俺の身体も引っ張られるようになったんじゃないか。

 まあ推測云々とかえらそうなことを言っておきながら、最後がアレがアレしてとか曖昧な感じで格好がつかないが、お前なら多分なんとなく飲み込めるんじゃないかと思ったから、こうして慣れない手紙なんてものを書いてる。


 お前好みに言うならそうだな、月世界旅行でシラノが月へ行く方法を並べたてるところがあるだろう。これはその今一つの方法だよ。



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