巡り巡る魂

古都里

巡り巡る魂


 夫が死んだと知らせを受けたのは戦争が終わってから三日後の事だった。

 隻腕の男が、夫の鳶色の髪の毛を持って家を訪ねてきたのだ。


「あいつは俺を庇って死んだ」


 と。


 私が何も言えずにいると、その男は夫の遺髪を私に押し付けてから土下座した。


「すまない。本当にすまない」


 ああ、この男は何を言っているのだろう。

 シュンが死んだなんて。

 彼が私を置いて逝く筈ないのに。


 決して一人にはしないとシュンが誓ったから、だから私は彼と結婚したというのに。


 私は軽い眩暈を覚えた。

 だけれども土下座している男にそんな事をしなくていいと言わなくてはならない。

 シュンが死んだなんて冗談の為だけに大の男が頭を地面にこすりつける必要はないのだ。


 だから言わなくては。


 そう思った瞬間、私の世界は暗転した。




◆◆◆

 大体私は結婚する気などなかったのだ。

 と、言うより出来ないものだと思っていた。


 私の職業は娼婦だったから。


 男達に人気はあった。

 娼館の『お母さん』も私が一番客を取ると言って何度も何度も褒めてくれた。


 実際休む間もないほど沢山の男達を受け入れていて、私は酷く疲れていた。


 でも。


 戦争が始まって娼婦という娼婦は皆忙しくなった。

 今までなら一日一人客が取れるか否かというまで男にあぶれることはなくなったのだから私達娼婦にとっては戦争様々だったけれど。

 でもその反面、馴染みが死んで泣いているもいた。


 何もかもにも裏表があるのだと思っていた矢先、私はシュンに出会ったのだった。


 シュンは最初友人たちに無理やり連れてこられたのだという。天涯孤独のシュンは金だけは持っていて払いを持ってくれるからだというのは後から彼の友人についたに聞いた話。


 私はあの娼館では一番高い娼婦だった。

 だからシュンについた。


 シュンが部屋に入ってきた日の事を私は決して忘れないだろう。


 だって彼、阿呆みたいな顔をしていたのだもの。鳶色の髪に榛色の目。容姿端麗眉目秀麗などという言葉があるが、それはまさしく彼の為にあるような言葉なのにその表情があまりに間抜けで、其の所為でシュンの事は一気に脳裏に刷り込まれた。


 私は彼とはその日、寝なかった。

 娼婦としてのプライドは、彼が私の体を求めてこない事で少々傷ついたが、一人の女『リーナ』にとってはとても嬉しい事だった。


 阿呆のような表情をすぐに引っ込め、シュンは扉を閉じた。

 そして私の顔に触れて言ったのだ。


「今晩はもう客を取らなくていい」


 最初その言葉の意味が解らなかった。だがシュンは続けた。


「今晩は僕が買い上げる。だから化粧を落として眠りなさい。化粧でもその隈は消し切れていないよ」


「眠りなさいって旦那様、それでは何の為に私をお買いになったんです?」


 私の質問にシュンは笑った。


 その時、私はシュンに恋をしたのだ。


 殊もあろうに娼婦が客に一目惚れなど、笑えない話だ。だがその陳腐な事実が真実なのだ。


 いけない、リーナ。その人は普通の人。

 娼婦の恋など実らない。


「悪友どもに連れてこられたんだが、その広いベッドは良いね。隣で寝ても構わないかい? 最近眠れなくてね。疲れているのに」


 シュンはそういうと私の手をとった。


 その夜は結局眠れなかった。私はシュンに言われたとおり化粧をとり布団に入ったのに。

 シュンが腕枕をしてくれたことに私は驚いた。娼婦にそんな酔狂な真似をする男を見た事がなかったからだ。

 だけれども、男の腕というのは心地良かった。


 そして私達は色んなことを話した。

 私は娼婦の『アリス』ではなく本名の『リーナ』を名乗り、アリスの過去として作り上げている話ではなく、本当の私の話をした。


 シュンも色んなことを話してくれた。幼いころから今までの事。たくさんの物語。


 気がついたら朝になっていて、シュンは部屋から出て行った。と、思ったら戻ってきた。


「もう一日君の時間を買わせてもらった。いい加減眠ろう。起きたらまた話をしよう」


 そして私達は明るくなった部屋で眠ったのだ。


 起きたら夜で、隣にシュンはいなかった。

 久方ぶりに眠りたいだけ眠ったのに、心に穴が開いたようだった。


 あれはシュンの酔狂。彼はもう私を買わない。だって抱かなかった。女としての魅力を私には感じなかったのだろう、そう思った。


 だけれども、シュンはすぐに部屋に戻ってきた。


「おはよう。夕食を手配してきたよ」



「お帰りになったんじゃなかったんですか?」


「今日一日は君は僕のものだ」


「では、──貴方のものだと仰るのなら抱いて下さいませ」


 この言葉を言った時の惨めさは忘れられない。奴隷のように扱われるのも女王のように扱われるのも慣れている。だけれども、私は対等な存在として扱われることに慣れていなかった。


「とりあえず食事にしよう。昨日の夜から何も食べてないのだから」


 シュンははぐらかした。あっさりと。


 私のプライドはずたずただった。

 食事の味など覚えていなかった。

 化粧もしていない寝起きの娼婦など、客に逃げられて当然だと思っていたら涙が出てきた。


 こんなことで泣くなんてどうかしている。

 シュンは途端におろおろし、涙を拭いてくれた。


 そんなシュンが愛おしかったのに、やはり彼は私の体に手をつけなかった。


 そして食べ終わり私が涙を流すのをやめるとシュンは帰った。


 今度こそ最後。

 『お母さん』によく言われたものだ。

 客に恋をするな。他の男に抱かれるのが辛くなるから。


 『お母さん』は正しかったのだと知った。


 明日からまた色んな男を受け入れるのだと思うと吐き気がした。だけれども、娼婦の私にはそれしか生き方がない。


 ところがシュンは来た。

 それも毎日、一日買い上げを繰り返した。

 シュンは私の体ではなく私の時間と心を買ったのだ。


 私はもう抱いてくれなどとせがむことはなかった。シュンには失礼だが男性として不能な男が酔狂な遊びをしているのだと思い込んでいたのだ。


 私は知らなかった。『お母さん』とシュンが私の身請け話をしていた事など。

 私はまだまだ稼げる。だから『お母さん』は私を手放したくなかったのだ。

 それでも最後には『お母さん』が折れた。


 その日は唐突にきた。

 『お母さん』が荷物をまとめるようにと言ったのだ。

 私は娼館を追い出されるような不手際を犯してなどいないのに。


「『お母さん』、私に悪い点があったならなおしますから……!!」


 すると『お母さん』は言ったのだ。


「幸せにおなり」


 意味が解らなかった私は、泣き出してしまった。その時、シュンが迎えに来たのだ。


 そこで初めて私は身請けされた事を知った。


 馬車に真っ赤な薔薇を馬鹿みたいに詰め込んでいるのを見て、私はシュンの気持ちを初めて知った。

 いつか寝物語に、赤い薔薇で一杯の馬車で迎えに来てくれる人がいたら何処までもついていきたいと何気なしに私は言ったのだ。


「御免、リーナ。君の気持ちを確かめている時間がなくなった。もっと時間をかけるつもりだったのに。嫌なら嫌でいい。でも僕でもいいなら妻になってくれ」


 シュンの言葉に、私は頷いた。

 夢みたいなことが起きた。


 もう私は娼婦じゃないんだ。

 そして金持ちの爺の後妻に入るわけでもなく好きになった男の妻になるんだ。

 でもこれは夢じゃないんだって薔薇に包まれながら思った。


 初めてシュンにおとがいを持ち上げられた時、私は恥ずかしくて目を伏せた。

 初めて唇が触れ合う。シュンの唇は熱くて、舌を絡めると煙草を吸わないシュンの舌は甘くて。


 一通り味わい尽くしたかと思うと、御者が「教会に着きました」と言った。

 教会?


「もう、結婚式を挙げるの?」


「一週間後、僕は戦地に召集された。時間をかけて君の気持を僕に向かわせたかったのに、すまない。だけれども、絶対僕みたいな思いはさせない。肉親が一人もいないなんて天涯孤独な身の上には絶対にはさせない。生きて帰ってくる。だから、結婚してほしい」


 時間はたくさんあった。シュンと過ごす時間は。

 それなのにそんな気持ちをおくびにも出さないで、いや、出せないで、ただ私を買い続けた不器用な男。それも半年間、一日も空けることなく。


「生きて帰ってくるのね?」


「ああ」


「約束よ」


 力強く、シュンは頷いた。

 結婚式はシュンのお母様のドレスとヴェールで執り行われた。


 そしてその夜、シュンは初めて私を抱いた。宝物みたいに、大事に大事に。




◆◆◆

 気がつくと、面白くもない冗談を持ってきた隻腕の男と、見慣れた医者がいた。


 娼婦などをしていると病に罹りやすくなる。

 医者とは嫌でも親しくなった。


「私……一体」


 隻腕の男が泣きながら無事な左手で私の手をつかんだ。


 そして医者は淡々と言ったのだ。


「ご主人の事はお気の毒だったが、強く生きて下さいよ。貴方は人の母になったのですから。おめでとうございます。三か月ですよ」


 ああ、シュンは私のお腹の中に帰ってきたのだ。


「シュンは、死んだのね」


 必ず生きて帰ってくると約束したのに。


 だけれども、もう一つの約束は守った。

 私を天涯孤独の身の上にはしないと。


 そしてその言葉通り、私のお腹には子供が宿っている。


 半年間も誰とも寝なかったのだ。シュンの子に間違いはない。

 たった七日間睦みあっただけなのに。


 今、確かにお腹の中に一つの命がある。

 その奇蹟。




 おかえりなさい、シュン。

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