第6話 櫛

夏休みも終盤に差し掛かった8月のある日。


冷房の効いたモダンな造りの平屋で、孫とその祖母が楽しげに会話をしていた。



孫こと安西京子は、名門の女子大学に入学したばかりの大学生。


彼女は大のおばあちゃん子で、特に用事もなければ、実家から少し離れた祖父母の家へよく遊びに行っていた。


祖母の名前は春子。

彼女は世間一般がイメージするような、優しいおばあちゃんというのとは少し違っていた。


貴婦人、麗人という言葉がぴったりくるほど品のいい人で、若い頃は女優をしていたのではと噂されるほどだ。


74歳の彼女は、年相応にシワがあり、もともと痩せ型なのもあって骨が目立つ四肢であるが、若い頃から嗜んでいた日本舞踊のたまものか、花びらを撫でる春の風のように仕草が優雅であった。


今だって、白い越後上布の着物に黄色いからむしの名古屋帯を合わせ、上品に着こなして化粧台の前に腰掛け、手のひらでまとめ髪の仕上げをしているが、その動作一つ一つの美しさたるや、きりとれば絵画になりそうである。


茶道や華道にも精通し、小さな教室で礼儀作法を教えていて、彼女を慕うものは多く、老若の品の良い女性たちが訪れては、鳥がさえずるような優雅な談笑をしていた。


京子がそんな春子を自慢に思う理由は様々あれど、とくに羨望を向けるものがあった。



黒く艷やかな髪。

それが何よりも美しかったのだ。



「京子さん。そんなに見てどうされたの?」

鈴を転がすような声で言うと春子は笑った。


「おばあちゃんってやっぱり髪が綺麗だなーって思って。」


座椅子に座り頬杖をついてこちらをじっと見る京子に、春子はただ笑ってみせた。



「貴方だってきれいじゃない。私はそんな綺麗な色に染められないわ。」


京子の髪はライトブラウンだった。

丁寧にケアがされていて、つやつやとしている。

ヘアクリップで今風にまとめて、なんともおしゃれだ。

だけれど、京子は気に食わないらしい。


「私はもともと色が薄かったもの。そんな綺麗な黒色じゃなかった。お母さんもそうだよね。おばあちゃんだけの特権だよ。」

「はははっ。そんなことないわ。」

「だってそれ、染めてないんでしょう?」



その言葉に春子は何故か少し言葉をためて、

「ええ。」とだけ言った。


その言葉尻が冷たく感じて、京子はぎょっとしたが、微笑む春子の顔がそれを気のせいだと諭してきた。



「京子さんたら最近えらくわたくしの髪をお褒めになるけれど、どうかしたの?」


その質問に京子はキラッと目を輝かせる。


「ほら、先週に成人式の前撮りに行ったじゃない?大人になって着物をちゃんと着たのはその時が初めてだったんだけど、出来上がった写真を見て思ったんだ。

やっぱり着物には黒髪だって。」


京子はため息を吐きながら指先に茶色い髪を巻き付ける。


「あらあ、そんなこと。」と、着物好きな春子は孫が着物に興味を持ったことに喜びながら、

「でも、京子さん…。貴方前撮りの写真は黒髪だったじゃないの。」と突っ込んだ。


「染めた。染めたよ?ワンデイのやつでね。一日で落ちちゃうやつ。でも、おばあちゃんの髪を見てると、やっぱりさ、染めた黒と天然の黒って違うっていうか…。

今も納得してないの。はーあ。私もおばあちゃんみたいな髪が良かったぁ。」

「はっはっは。…京子さんがお悩みの間におばあさんは支度が整いましたよ。」


春子は笑ってさらりと流し、柳のようにしなやかに立ち上がった。


「では、伝えた通り、私はお友達とお茶しに行ってまいりますから、京子さんはゆっくりなさってね。」

「はぁい。」



すねたような態度の京子に、春子はそっと近づいて白魚の手を重ねると、「ごめんなさいね、先客ですの。お土産買ってくるわね。」と優しく囁いて離れた。


その行動に京子はどこか安堵して、いつもの無邪気な笑顔を浮かべてみせ、「うん。行ってらっしゃい。」と、同じように小声で言った。



さて、最初こそスマートフォンをいじったり、テレビを見ていた京子だが、すぐに飽きてしまった。


アンティークの振り子時計を見れば、10時を示している。

春子が帰ると言ったのは11時半頃だった。


時間の余裕と退屈さが、好奇心旺盛な京子を化粧台へ向かわせた。



手入れと掃除の行き届いた木製の化粧台は、アール・ヌーヴォーの装飾が施され、ゴブラン織りの布が座面にはられている。



その椅子に腰掛けると、ふわっと春子愛用の香水が香った。


引き出しを開けると、日光に当たってコスメがキラキラと反射する。


思わず手に取ってしまいそうになったが、万が一壊してしまったらと思うと怖くて、慌てて締めた。


すべての引き出しを開けたかに思えたが、一箇所、見ていないところがあることに気がついた。


鏡のすぐ下にある、小さな引き出し。

そんなところに化粧品は入らないだろうと、無意識に無視してしまったようだ。


特に期待もせずに開けた京子は大きな目を見開いた。


白いシルクのハンカチが敷かれた上に、年季の入った、飴色の柘植櫛が寝かされていた。


半楕円形のその櫛の持ち手には、繊細な彫りによって月下美人が咲いている。


細工にも惚れ惚れするが、京子は、髪の綺麗な祖母が使っている、というところに心が強く惹かれ、手は迷うことなく櫛へとのばされた。 


片手でお気に入りのヘアクリップを外せば、柔軟な髪がすとんと落ちる。


そこへそっと櫛が触れると、細い髪が歯の間に行儀よく滑り込んだ。


乾いた櫛は上から下へ、サラサラと音を立てて、髪をなでていく。




「ん?」


京子は違和感に眉を潜めた。

そして、もう一度同じところに櫛を通す。


「あ。」


疑惑が確信に変わった。

櫛を通したところだけ、色が暗くなっているのだ。


京子は、まさかカラー剤か何かが櫛についていたのかと慌てて、歯と歯の間を見るが、それらしきものはついていない。


そんなばかなともうニ、三度通すと、髪はとうとう、柔らかな黒色になった。


顔を左右に振り、といた場所とといていない場所の髪の色を見比べ、その差に唖然とした。



自分が知らないだけで柘植櫛には髪を黒くする効果でもあるのだろうか、と京子は思った。



櫛を置き、黒くなった髪を触って指を見るが、色は移らない。

喜んで触ると次第に色が薄れて、色は元通りのライトブラウンになった。



なぜ、どうしてこうなったのかが分からない。

普通ならここで気味悪がるところだろうが、一瞬見えた黒髪は京子にとって理想の色だったので、彼女から簡単に良識をうばってしまった。


京子はまた、時計を見る。


時刻は10時45分。


彼女はまた、櫛に髪を触れさせた。








「ただいま戻りました。京子さんっ、お土産持ってきましたよ。」


返事がないことに首をかしげ、晴子はまた声をかけた。


「京子さん?」


外が太陽の光で眩しかったからか、家の中は暗く感じる。


誰もいないかのような静寂は、不安を煽る。


「はーい。」


少しして、間延びした静かな声が返ってくると、つづけて足音が聞こえてきた。


ほっとした春子だったが、廊下に出てくる京子の姿を見るなり、肩をびくっとはねさせた。


廊下と居間を仕切る扉から出てきたのは、出かける前に見たのとは違う、長い髪を下ろした孫。


その髪の色は暗く、沈んだ色である。


体の向きを変え、春子の方へゆっくり、ゆっくり歩いてくる京子の顔は、伏せ目がちで口元に静かに微笑をたたえている。


春子は、京子じゃない、と思った。


いや、彼女は紛れもなく京子なのだが、まとっている空気が別の人のものでしかない。


春子は動けず、声が出せなかった。


一歩ずつ近づいてきた京子が、

玄関からの光が差し込むところへ入る。


それに合わせて、足先、服、そして、顔と髪の毛の色が少し明るくなった。


髪の色はあの艷やかなライトブラウン。


そこでようやく京子は、顔を上げていつものような明るい笑顔を見せた。


「おかえりなさい!」


春子は、なんら変わりない京子を見て、体の力が抜け、どうやら自分は見間違えたようだと笑った。


「ただいま戻ったわ。髪を下ろして、お昼寝でもされてたの?廊下を歩いてくるとき、なんだかぼーっとされてたし。」

「え?ああ、そうなの!ちょっと寝ちゃった。ねえねえ、お土産なあに?」


京子は荷物を預かって、着物の祖母が上がりやすいようにサポートした。


「あら、親切ね。何かおばあさんにお願いごと?それとも、隠し事でもしてるのかしら。」


楽しげに笑う春子に京子は

「ははは!なんもないよ!」と、目を合わせずに言った。



ーーー


この日以降も変わらず京子は祖母の家に遊びに行ったのだが、前と変わったことが一つ増えた。


春子が側を離れると、京子の頭はぼんやりしてきて意識が薄れていく。


意識がはっきりしない状態で、体をゆらゆら揺らしながら歩く。


はっと気がつくと、京子は春子の化粧台の前にいて、目線の先には、すでに引き出された小さな引き出しの中に、あの、月下美人の装飾がある櫛がつやつやと輝いている。


勝手に使ってしまったのかと不思議に思って顔を上げると、鏡に映る口角が、歪につり上がっているのを見つけ、一人ゾッとして櫛が入っている引き出しを閉める。


最初こそ、立って櫛を眺めているだけだったのだが、京子の意識が飛ぶ時間が長くなるにつれ、椅子に腰を掛けるようになり、とうとう先日、春子が長い時間家を空けた時のこと。


はっと気がついた時にはもう

椅子に深く腰を掛けていて、手には櫛を握っており、元の髪色の痕跡がないほど、全体が真っ黒に染まっていた。


その時、京子は不気味ともいえるこの現象に陶酔し、すっかり魅了され、黒髪に取り憑かれてしまった。


どんな染髪剤でも染まらなかった、憧れの祖母の黒髪の色が、今まさに現実のものとなっているのである。


何もせずうっとりと眺めていると、意図も簡単に茶色に戻ってしまった。


どれだけとげば、どれだけ櫛に触れさせていれば、この黒髪を保ち続けられるのだろう。


そこまで考えて、いや、祖母のものを勝手に使うのは駄目だろうと、引き出しに櫛をしまって閉めた。


ただ、京子が使うまいと決めたとしても、彼女の意識が飛ぶことはかわらず、気がついた時にはまた、髪の毛が真っ黒になっているのであった。



春子が京子の異変に気づいたのは、一ヶ月経った秋頃。


春子が二人分の昼食を準備していると、自分の部屋あたりからコトンと何かが落ちる音がした。


妙だ、京子は居間にいて、自分の部屋には誰もいないはず、と持っていた包丁を置き、手ぬぐいで手を拭きながら音のした方へ向かった。


まず、居間を見ると京子の姿がない。


私の部屋で何してるのかしらと嫌な予感に胸をざわつかせながら部屋へ駆け足で向かう春子。


「京子さん?」


部屋の扉が開いていて、ちらっと見える化粧台の前に、誰か立っている。


「京子さん?」 


春子はもう一度声をかけながら足を踏み入ると、「ひっ。」と小さく悲鳴を上げた。


鏡の前に、髪をだらりとたらして微笑んでいる京子がいたのだ。


足元には髪をまとめていたヘアクリップが落ちている。


「な、何してるのっ。」

「はっ!」


春子の声に、京子は意識を取り戻して、周りを見渡した。


「ごめんなさい。私…どうしたんだろう?あ、ご飯できたの?」


京子はにこっと笑ってみせた。



春子はこの日以降、京子が家に来ようとすれば「体調が優れないの。」と断るようになった。


京子はその行動が、自らの奇行によるものだとは分かってはいたものの、大好きな春子への気持ちが抑えられず、何よりも、憧れの黒髪になれる櫛のことが惜しくてたまらず、京子は母親の沙耶に頼み込んだりもした。


それでも春子は頑として京子が家に来るのを断り続けるので、京子は日々うつうつとした気持ちで日々を過ごしていた。




年が明け、新鮮な空気が漂う1月のはじめ。

京子は春子の家の和室で、楽しげに笑っていた。


春子は、京子の行動が心配ではあったものの、実の娘である沙耶から、新年の挨拶と成人式の準備をしたいと言われて、断るに断れなかったのだ。


久々に会う京子は無邪気で、笑顔も明るく、桐箪笥から出されて広げられた赤い振袖をキラキラとした目で見ている。


子供のようにはしゃぐ京子を見ているうちに、

あの時は大学に入学したてで疲れも溜まっていたのだろう、と考えが変わり、手放しで孫のことを愛しく思えた。


「お母さん、これかしら。」

「はい?あら、沙耶さん。それはお振袖の帯じゃなくてよ。その下だわ。」

「ああ、そうなの?でも、本当にお母さんたらいいお着物持ってるのね。これって金子屋でしょ?」

「そうよ〜。貴方の留袖だってそこで買ったわね。」

「金子屋って振袖ショップのKANEKOのこと?SNSで見たことある!」

「まあ、今はそんなお店もやってるのね。半世紀ぐらいしか経ってない新しいお店だけど、なかなかいいところよ。…帯揚げに帯締めに…これで準備はいいかしら?」

「そうね…。あら、髪飾り!すっかり忘れてた。」

「忘れていたっていうより、ママが年明けでいいって言ったんじゃない。」


京子が沙耶の肩を軽く叩きながら笑う。


娘が母と慕われている姿に、春子はなんとも言えない微笑ましさを感じた。


この小さい和室を、原っぱのように駆け回っていた孫は、長い足を折り曲げて正座して、服が捲れればそれをなおす仕草をして見せている。


畳に接する足は底冷えするが、心にじわりと温かさが広がった。


「あ、そうそう。」


沙耶は娘の京子の茶色い頭に触れた。


「京子、結局どうするの?髪は黒色がいいんでしょう?」


春子は蘇芳色の薄い唇を引き結んだ。


思い出すのは、うつろな目で化粧台の櫛が入っているであろう引き出しをじーっと見る孫の姿。

櫛のことを言われたらどうしようかと、怖くて、膝の上で拳を固く握る。


「髪、そうだなあ…。」


京子は口元に手を当てて目を閉じると、

あー、と悩ましげに呟いてから、花がいけられている床の間がある右側へと丸い瞳を滑らせて、「やっぱり、染めようかなー。」と言った。


そして、つづけて「やっぱり、おばあちゃんみたいに、黒髪で着物着たいし!」と、眉を下げてうっとりとした表情で言った。


春子は吹き出して笑った。

心配しすぎていた自分が恥ずかしくなったのだ。


「やだわあ、京子さん。照れちゃうじゃないの。」

「だって本当なんだもん。」


そう言って二人は笑いあった。


三人寄ればなんとやらで、準備は早く終わった。

だが、いざ、帰ろうというときに京子がスマホを置いてきたと騒いだせいで、

結局帰るのは夕方になってしまった。


「もう忘れ物はない?」

「うん!じゃあ、また成人式のあと来るね!」


風呂敷を抱えて手を振る京子の、肩から下げた鞄が、何かに掴まれたかのようにくっと引き下がったのを、誰も気づかないでいた。



ーーー



成人式当日、京子は懐かしい同級生との再会も早々と切り上げて沙耶が運転する車で、春子の家に向かっていた。


「ほんとに良かったの?二次会とかに参加しなくて。みんな寂しがってたわよ?」


沙耶はルームミラーにうつる赤い振袖に話しかけた。



「いいの。早くこの姿を見せたいから。」


抑揚のない声で単調に答える京子に、違和感を覚える沙耶。


そういえば今日の式だって、あれだけ振り袖を着るのを楽しみにしていたというのに、終始すまし顔で笑顔の一つも見せなかった。


慣れない着物で長時間いたから疲れたのだろうと、沙耶はあっさり運転に集中した。


さて、春子の家の庭先に停められた車から、母親に手を支えられながら降りてきた京子は、赤い振り袖に寄り添うような輝くみどりの黒髪であった。


彼女が欲しがった、上品な光沢があるしなやかな黒髪である。


「おじゃましますー!お母さんっ京子を連れてきましたよ。」


沙耶は、うきうきして声を上ずらせていた。

春子は常々、自身のお見合いや娘沙耶の成人式にと、代々受け継がれた赤い振袖を、孫の京子に着せたいと言っていたからだ。


振り袖の準備をしている時なんて、

「まあ、本人の自由ですから。」なんて言いながら、合わせる帯はこれがいいだの、最近はこんな髪型が流行ってるだの、誰よりも積極的に動いていた様子であった。

そんな春子のことだからきっと喜んでくれるに違いない、と胸を弾ませた。


「はーい!いらっしゃーい。」


元気のいい声がして、沙耶はいそいそと京子の襟やらを整えていたが、

着物の衣擦れと足袋のすれる音をさせながら近づいてきた春子の姿を見て、顔をこわばらせた。


紺色の色無地に薄茶色の帯を締めた渋い装いの春子。

美しい黒髪だった彼女は、ところどころ灰色が混じる、白髪頭になっていたのである。

実の母のことを、亡霊のようだ、と沙耶は思った。


そんな祖母の姿を京子は驚きもせず、無表情で見ている。


「お疲れ様でした京子さん。お振り袖、お似合いだわ。前撮りの時以上よ。」

「ね、ねえ、お母さん…。その頭、どうしたの?」

「ああ、これ?」


春子は、ぴんと伸ばした指を、まとめた髪にそわせる。


「グレイヘアっていうのよ。

どう?素敵でしょ。」


沙耶は初めて見た母の白髪に、一瞬肝を潰してしまったが平然と言う春子にほっとして、「うん、似合ってるね。」と穏やかな調子で返す。


「さ、私のことはいいんですの。今日の主役は京子さんですから。ほら、上がり框がありますよ。」


春子が差し出す手に、京子はにっこり笑って応じた。

それはこの日、彼女が見せた初めての笑顔だった。

春子は微笑む京子の目の奥をじっと見て、手をぐっと握った。


3人は居間でしばらく談笑していたのだが、

やはり、京子の様子は大人しく、まるで別人のようである。


特に、笑う度、口元にそっと薬指を添える上品な仕草は、母親の沙耶の笑いを誘った。


が、何故か春子だけは、その仕草が出る度に、唇をぐっと閉じて顔をひきつらせた。


四度、五度と京子が口元に手を添えるのを見るなり、春子は「沙耶さん、あんまり長く振袖を着ていると疲れてしまうから脱がせましょう。」と言い放った。


「それもそうね!だけれどもったいないから写真撮りましょうよ。ほら、そこで2人並んで!」

沙耶は、春子が強い口調になったのを、

着物にこだわりがある彼女がよくする癖と解釈して、さらっと流し、手際よく2人を並ばせてスマホで1枚写真を撮った。


「はい、おしまいね。」

「そんな、お母さん、せっかくなんだから。もう3枚くらい…。」

「ほんとにいいですから。2人は撮ったの?」

「え?ああ、会場で撮りましたよ。」

「なら良いでしょう。私は結構です。

振袖はほんとに重いんですよ。すぐに脱がないと。

沙耶さんはここで待ってて。私がやりますから。朝から大変でしたでしょう。お着替えはこれね?持っていきますから。

ほら、京子さん、和室に行きますよ。」


立ち上がろうとする沙耶を制止して、春子は静かに微笑んでいる京子を促し、和室へと向かった。



京子を先に通し、後から入った春子がピシャリと襖を閉める。


京子はしばらく赤い振袖を眺めて、鏡に映る自分の姿をまじまじと見ていた。


「早く、お脱ぎなさい。」


春子が鋭く言い放つ。

京子が笑う。


「酷いわ。私は貴方の孫なのに。」


春子は手を重ね、口を一文字に結び、じっと京子を睨んでいる。


明かりもつけない和室は昼間でも暗く、春子の青い色無地を鈍く冷たい灰色へとくすませていた。


お互い何も言わず膠着状態がしばらく続いたが、観念したように京子は手際よく帯をほどいていった。

あっという間に長襦袢だけになった京子を見て、春子は口を開いた。


「京子は、着物を自分で着れない子だわ。」


京子の手が一瞬、ピタッと止まる。

そのまま何も言わずに長襦袢を畳の上に落として肌着姿になった京子に、春子は着替えの洋服が入った鞄を、畳の上を滑らせるようにして、投げ渡した。


彼女は黙ってワンピースに足を通して、袖に腕を差し入れて、背中のチャックを上げた。

裾をふわっと広げて振り返り、こちらを見て微笑む京子に、春子は重々しく口を開いた。



「私の化粧台から櫛がなくなったわ。」



そう言うと、さらに鋭く怒りのこもった目で京子を見た。

いつもなら動揺するはずの、無垢な孫。


しかし、この日は違った。



「あんな大昔のものをまだ持ってたの?」

と、愉快そうに笑って言ったのである。


その声と調子に、春子は眉尻をつり上げて、火を吐くごとく、強い口調で京子を責め立てた。



「…ええ、ええ!そこを触るなと言わなかった私が悪いのかもしれません。でも、京子は他人のものに手を出してはいけないという分別ぐらいつく子なんです…!」


春子は、赤く充血した目でキッと化粧の濃い女を睨みつける。


、何てことをしてくれたの…!」


「…くっくくっ。ははは!」


京子は、いや、京子なのだろうか。


正月の時のあどけなさなど全くないその女は

奥歯が見えるほど口を大きく開けて、焦点の合わない目で天井を見上げながら、ただ耳障りな声で笑い続けた。 



「京子?京子大丈夫!?」


尋常じゃない笑い声に驚いた沙耶が和室へと乗り込んだ。


「あらぁ、ママ、ママじゃないか!

 ははははは!この娘の!」

「きょ、京子?」



春子は混乱している沙耶のことを睨みつけ、

「沙耶さんっ。この子を連れ帰って。お疲れみたいですからっ。」と叫んだ。



「は、はいっ。京子、京子行くよ!」


沙耶は慌てて京子の肩を抱いて玄関へと引っ張っていく。


京子の、襖も揺らさんばかりの笑い声は、ガラス戸がピシャリとしめられて、ようやく消えた。


春子は、足の力が抜け、その場にへたりこんだ。

身体が痙攣のように震えていることに気がつくと、筋張った指で綺麗にまとめ上げた白髪を掴み、激しく乱しながら、「ああ…!ああ!」と声にならない声で泣いたのだった。




ーーー


数週間経ってようやく、京子はいつもの彼女に戻り始めた。


周りから見ても様子がおかしかった京子だが、一番違和感を感じていたのは彼女自身であった。


振袖を準備に行ったあの日のこと。


京子はどうしても理想の黒髪になれる櫛が欲しくなり、スマホを置いてきたと嘘をつき、こそっと春子の化粧台から櫛を盗んでしまっていた。


ここまでは自分の意志であったし、悪いという感情はあったが、あとで謝ればいいと甘い考えもあった。

ただとぐだけで綺麗な黒髪が手に入り、放っておけば染め直さなくても元の髪色に戻る不思議な櫛。

罪悪感も帳消しにするほどの魅力であった。


櫛でとく時間が長ければ長いほど、髪は深い黒色になり、なおかつ黒髪の状態を長く保てることが分かっていた京子は、

本番までの一週間から、髪をとき続けていた。


ほどなくして、ぼんやりとする時間が増えるようになった。


ただの寝不足かと思っていたが、その時間はどんどん長くなり、日中でも夢の中にいるような、現実味のない感覚で満たされる。


手足の感覚は鈍くなり、耳も聞こえづらくなり、そして、とうとう成人式当日には、自分の意志が全くなくなってしまって、気がついたら翌日だった。


ただ、ほんのりとではあるが、祖母と喧嘩したような記憶があり、母に確認したらば「まあ、あの時は疲れていたかもね。」と、何かあったことを知らされた。


京子は、ようやく人の物を勝手に盗った罪悪感を覚え、

ほとぼりが冷めたら櫛を返しに行こうと、

綺麗に手入れをして、勉強机の奥へとしまっておいた。



寒さ極まる冬の夜。


あたたかな毛布と布団にくるまれて、すやすや寝ていたはずの京子は、突然目を覚ました。


寝る前には体を横にして、寒さがために丸まっていたはずなのだが、今は両腕をぴったり体の横につけて、足をきちんととじ、気をつけの姿勢で天井を見ていた。


あたりは全く音がしない。


暗闇に目がなれて、今は何時かと時計を探そうとしたとき、京子は息を呑んだ。


体が動かない。

かろうじて動くのは頭だけだが、声を出すことはできなかった。


同時に感じた誰かの視線に、悪寒をおぼえて、周りを見渡す。


そして、京子の頭が足元へ向けられた瞬間、とうとう、頭も動かなくなった。


混乱して呼吸が浅くなるなかで、彼女は足元にゆらめくものをみつける。


最初は家具の影かと思われた黒いもや。


それは徐々に濃くなり、体を左に傾けてこちらを見る、真っ黒な人の姿になった。


黒い人はがくんがくんと体をきしませながら、今日この方へゆっくりと近づく。


来ないで!という叫びはううという悲痛なうめき声となって口の端からもれるばかり。


とうとうそれが四つん這いになってベッドに上がると、京子は涙をにじませた。


恐怖もあったが、それ以上に嫌な臭いが鼻に入り込んできたのである。


肉や髪の毛が焦げた時にする、酸っぱさも感じるような臭い。


黒い人が覆いかぶさると、余計に強く感じられた。


近づいてようやく分かったのだが、黒い人はどうやら女の子らしかった。


というのも、破れてほぼ布切れ同然にはなっていたが、恐らくセーラー服と思しきものを着ていたのだ。


そして、これも近づいたから分かったのだが、それには赤く充血してぶよぶよふくれた目玉があって、それでこちらをとらえてずっと逃さないでいた。


黒い少女は、京子の両肩に手を添えて、ぐぐぐと顔を近づけて、ひび割れた唇を上下に開いた。

顔の真ん中に、ぼっかりと洞穴が空いたようだ。


そして、そこからふっと風が、いや、吐息が漏れて京子の顔に吹きかかったとたん、声が頭の中で響いた。



「とかないの?」



異形の存在から出たのは、可憐な少女の声。


その不釣り合いさたるや気味悪く、京子は白目を向いて意識を手放した。



ーーー


庭を真っ白にするほどの雪が積もった日。


春子の家に、久方ぶりに京子が来た。


春子は黒い結城紬に赤黒い名古屋帯を締めた姿で彼女を出迎えた。

底冷えする玄関で、まるで寒さなんて感じていないかのようにまっすぐ立って。


両手は腹の前で重ねられている。

前述したが、春子が話したいことがあるときの癖だ。


京子は、祖母の姿に怯えた。

それは、春子の怒りに触れるのが怖いと思ったのが一番だ。


ただ、それ以上に、あの不気味な櫛を持って平然と過ごしていた春子という存在が京子のなかで、憧れの女性から一転、得体のしれない恐ろしいものにすっかり変わってしまっていたのだ。


春子は「上がって。」と言うと、背中で京子を居間へ誘導した。



向かい合って座る二人の間には、隔てるように幅の広い木製の机が一つ。


その上には、京子が今しがた鞄の中から取り出して置いた、光沢のない黒ずんだ櫛がある。


静かに眺める春子の心の中が読み取れず、京子はただ震えていた。


謝らなければ、という気持ちと、これが一体何なのか問い詰めたい気持ちが入り混じって頭の中をかき乱す。


簡単にまとめられていた春子の、白くぱさついた髪が、パラッとほぐれて片目にかかった。


静まり返ったこの空間では、かすかな髪の動く音が聞こえるかのように錯覚する。


春子は、落ちた髪を払うこともせず、ただ、じっと櫛を見て「京子さん。」と言った。


「はっ。」


返事をするつもりが、喉が震えて声が出ず、溶けるように消えた。


春子はそれに構わず、京子の目をじっと見て続けて言った。


「私が死んだら、これ、一緒に焼いてちょうだいね。」


京子は呆気にとられた。

責め立てられると身構えて、そこから、この不気味な代物のおぞましいを聞かされるとばかり思っていたからだ。


分かった、

黙って盗んでごめんなさい、

ところでこれはなんなの?

と聞こうとした京子。

それを春子の鋭い眼光が遮る。


「絶対、よ。」


春子はぐっと体を前に傾けて京子のことを圧する。

そのすごみに、京子は激しく頭を上下にふった。




数日後。


春子の髪がまた美しい黒色になった、と京子は母から聞かされた。



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水面の月に雁が落ちる 遊安 @katoria

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