第2章
第5話 駅で待ってる
今年28歳になる田ノ上克也は
社会人6年目になる。
中堅を目前にして、
瑞々しさがなくなった日常を嘆く感受性すら失っていた。
彼の仕事は大手企業の製品サポート係である。
簡単に言えば、
日々送られてくる質問にチャットまたは電話で答えるのだ。
最初こそ、役に立てた喜びを感じたり
理不尽な言葉で憤慨したこともあるが
今はただ、仕事だとすっぱり割り切って、
顧客と表面的なやりとりをこなせている。
何故その仕事をするのですか?
と高校生に聞かれれば、
田ノ上は考える間もなく、「生活のため」と嘆かず答えることだろう。
虚しくもないし不満もない日々を365日、
彼は安い革靴で渡り歩く。
急ぎ足で夏が訪れ始めていた5月下旬。
田ノ上は少し残業をして、いつもより30分遅い電車に乗ろうとしていた。
が、駅構内に入った途端、ギリギリとした腹の痛みが襲う。
目的の電車の到着を知らせるアナウンスを聞き過ごしながら、トイレの個室へと駆け込んだ。
胃、というより、みぞおちあたりが引きちぎれるように痛む。
最初こそ、昼に食べた弁当だの原因を考える余裕があった。
しかし、次第に痛みは背中まで広がって、とうとう声が出せなくなり、田ノ上は脂汗と唾液と涙を垂れ流しながら悶えた。
呼び出しボタンを押そうとしても、手が震えてボタンまでたどり着かない。
ようやく治まった頃には、1時間も時間が経ってしまっていた。
さっきまでの痛みはどこへやら、田ノ上の身体は軽くなり、いつも通りの調子に戻っている。
首を傾げてトイレを出て、雑多な汚れにまみれたコンクリートの階段を降りた。
自分の意志もなく重力に任せれば、一段、二段と身体が落ちて、視界の端の壁が、がくっがくっと後方に吸われる。
ふと、田ノ上は、先程から等間隔に現れる黄色い何かに気を取られた。
見なくてもポスターだと分かるが、どうも、そこに写っているだろう、バストアップの人物から、圧を感じる。
田ノ上は、どんな顔か拝んでやろうかと顔を上げ、足を止めた。
ボブほどの長さの茶髪に、少し下がり気味の眉毛、小さな目には儚げな瞳がのぞき、こちらを向いている写真。
彼女は、枯れた田ノ上の心を振動させるほど、彼好みの風貌であった。
アイドルか、女優か、モデルか。
テレビでは見たことのない女性である。
せめて、名前さえ分かれば、どこかにないか、田ノ上は探す。
B2判の下側に、何やら文字が羅列しているようで、ぐっと目を凝らすが、
色合いの組み合わせが悪いのか、どうも文字だけははっきりと見えず、ぼんやりとして読むことができない。
(目が疲れてるのかな…。
ディスプレイの見過ぎだな。)
視力には自信があった彼だ。
突然視界がぼやけるなんて経験は今までに一度もない。
腹痛の件もあり、家に帰ったらすぐに休もうと開いたドアの光の中へ身を埋めた。
さて、一時的だと思った腹痛は
それから何度も起こるようになる。
最初は1ヶ月後に、その次は3週間後に、と
どんどん間隔が狭くなっていた。
しかも、痛みの具合がさらに悪化している。
腹痛だけだったのが、次第に関節の痛みになり、最後には心臓が破裂するかのような衝撃を受ける。
最近はもう、痛みに耐えきれず意識を失ってしまう。
病院に行っても、異常なしと言われ、
気休めの痛み止めか
「心療内科を受けてみてはどうか。」と
紹介状を書かれる始末。
精神科には行きたくないと田ノ上はその提案を断り、結局いつ起こるか分からない痛みに耐えるのを選ぶ。
仕事に悩みがないというのもあるが、
彼は痛みに襲われることを少し望んでいるところもあった。
痛みに襲われる日。
その日だけ、階段にあの女性のポスターが並ぶ。
身体が引き裂かれるような激痛から解放されたあとでは、左右に立ち並ぶポスターが、自身に黄色い歓声を上げているように思える。
(俺の視界にポスターが映り込むのと同時に、彼女に見つめられている気分だ。)
周りに人がいない日なんて、
両手を広げてその眼差しを歓迎したほどだ。
ポスターの女性はどんどん色鮮やかになる。
撮影場所は駅だろうか。
右端には駅名の書かれた看板があるから、
おそらくそうに違いない。
左側は白く光っていて、恐らく強い撮影ライトか何かで照らされているようだった。
目がつやつやと潤む様、ファンデーションの塗りムラと、洋服のシワ、糸菊のごと舞う髪。
輪郭がはっきりとすればするほど、
女性はスクリーンの中の演者なんてものではなく、生生しい一般人であると思える。
ただ、田ノ上は幻滅しなかった。
むしろ、身近に感じられる彼女の容姿に愛おしさをつのらせた。
初めてポスターを見てから、1年は経ったであろうか。
定時ということもあり足取りが軽い田ノ上は、またあの駅の階段を登る。
が、数段上がって、胃が疼き、傷みの前兆が顕れた。
田ノ上は慌ててトイレの個室に駆け込む。
いつもならここで痛み止めが飲めるのだが、鍵を締めた途端に彼は膝から崩れ落ちた。
今までの比にならない、全身の関節が、内臓が破裂するような痛みによって、一瞬にして意識を失ってしまったのだ。
田ノ上が目覚めたのは、深夜の11時をまわったときだった。
「あ、ぐう…。」
絞り出すようにしか声が出ない。
痛みは今も継続していた。
この異常な状態でありながら、
田ノ上は身の安全のために呼び出しボタンを押すでもなく、変に冷静になって終電を心配するでもなく、ただ、このことだけを考えていた。
(あの子に会いたい。)
崩れた化粧で儚げな女性の顔が、田ノ上の心を占める。
ふらふらと立ち上がり、足を引きずりながら、ひっかかりのない壁に無力な指紋を貼り付けて歩く。
ホームへと誘導する案内板が見えた。
曲がり角の先に、彼女がいる。
はずだった。
打ちっぱなしのコンクリートの壁があるのみで、そこにはポスターも何もない。
田ノ上は弾かれたように壁という壁を見るが、どこにも、跡すらない。
彼女だけが理不尽な傷みの救いだった。
彼女だけが癒やしだった。
絶望感がどしんと肩にのしかかる。
階段の手すりを掴み、ずるずると力なく、雨だれのごとくホームになだれ込む。
「は、え、うそだぁ。」
田ノ上の目に、光が灯る。
線路の上に彼女がいたのだ。
ぼんやりと焦点の合わない目、
ものを言いたげに開かれた唇。
田ノ上は、何故、そんな危険なところに彼女がいるのかも考えず、嬉しさあまり点字ブロックまで駆け寄った。
彼女だ。
ポスター越しでしか会えなかったマドンナがそこにいる。
アナウンスが電車の到着を知らせ、遠くで警笛が鳴る。
正気に戻ろうとしたのは、理性よりも反応が早い本能の技。
その針の穴よりも狭い隙に、女性はいとも簡単に滑り込んだ。
両手を伸ばし、「待ってた」とだけ言ったのである。
田ノ上は無言でためらいなく、線路の上へ飛び降りた。
二人が光に包まれた刹那、ドン!という衝突音がした。
腹が裂け、内臓が引きちぎれて、四肢がバラバラに吹っ飛ぶ。
でも、田ノ上はそんな痛みなど慣れっこだった。
死の間際に思考が加速するという俗説があるが、田ノ上はたった今そんな具合で、やけに脳が働いた。
(ああ、あのポスターの光は電車の光だったのか。彼女が線路の中にいたから、右上に駅名の看板があるっていう変なアングルだったのか。)
ゆっくり、ゆっくりと世界が回転する最中にそんなことを考えられていた。
(彼女はどこだろう。僕を待っていた彼女は。名前だけでも知りたい。)
先程から右回転をしていた田ノ上の首が、ゆっくりと先程までいたホームに向く。
見えたのは駅名の書かれた看板と、
透けた女性の足が線路からホームへと乗り上がって去る様。
田ノ上はそれを静かに見ていた。
普通なら感じるはずの、裏切られたという恨みの感情は一切感じなかった。
彼はただ、今まで見えていなかった部分が見られた、という喜びしか感じていなかった。
乾いて何も感じなくなったはずの心が、
とうの昔に忘れ去ったつもりの純な高揚で満たされていく。
それ故に彼は最期、
あははぁと口を開けて笑ったのだった。
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