続々
花野にて僕らは分かたれる
もう9月のはずじゃないか。
夏はとっくに過ぎたはずなのに、
眩しい光が肌にささってじりじりと焼いてくる。
父さんに張り倒された時に開かなくなった左目が、じんじんと熱い。
そんな状態で僕は、隣町にある図書館へ行くために、短い雑草が蔓延る土手を歩いていた。
痛みから気を逸らそうと、考え事をするけれど、思いつくのは今の状況につながる、ここ数週間で起きた出来事だった。
「おう!」
2週間ぐらい前の水曜日だったと思う。
僕は図書館の帰りにばったり、たか兄に会った。
その時、僕は無愛想な顔をしていたと思う。
人の姿をした
ずっと着物の勉強をしていた。
じい様、ばあ様が死んだあとは、隣町の図書館に通って、なんとか知識を得ようとした。
それなのに、これ、といったものに出会えずにいる。
そろそろ諦めの気持ちが出てきていた。
「なんだよう。浮かない顔してさ。
あ、そうだ、これ、やるよ!」
たか兄が包を僕の方へ包をなげてきたので、
僕は慌てて受け取る。
「東京行ってきたんだ!
それ、お土産な。
マリリン・モンローが来たってから
こりゃいかねえとってさ!
知らねえか!ははは。
山田の爺さんの畑仕事手伝って
お駄賃もらったんだよ。ははは。」
たか兄は東京での思い出を興奮気味に語る。
活気ある浅草の町、先進的な洋服が並ぶデパートの凄さ、初めて乗った地下鉄の空気の悪さ、カフェーで飲んだ酒の味…
ずーっと話し続けるたか兄に、
僕は相槌を返すことしかできない。
目をギラギラっと輝かせながら、
たか兄は僕をじっと見て言う。
「俺さ、東京行こうと思ってよ。」
「え、東京?」
「こんな田舎村にくすぶっても
仕方ねえだろ!
東京たあ夢があるんだ!
それに、親切な人が東京来るなら
面倒見てくれるって…。」
「ふーん。」
「なんだあ?興味ねえ顔して。
お前はずっとここにいんのか?」
「いや、そんなことは…。」
「だろ?いやんなるよな。
なんもないし。とりあえず金を稼いでから
友達と行くんだ。
お前は?どうすんの?もったいねえだろ。
ここで死ぬのか?」
“ここで” 死ぬ。
その言葉に僕は、僕の目の前で事切れた血まみれの烏を思い起こした。
「じゃ、俺家帰るわ。
ーちっ!蚊が飛んでやがる。
もう秋じゃねえのかよ。」
そう言って苛立たしげに身体を揺さぶらせるたか兄は騒がしく去っていった。
それからしばらく、僕はたか兄の、
「ここで死ぬのか?」という言葉が離れなかった。
中学校にいる時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、頭の中はその言葉でいっぱいだった。
同時に、僕はどうしたいんだと思うようになった。
成果の出ない勉強、薄れていく
そして、昨日の夜だ。
父さんに呼ばれ、成績が順調に下がっていることを叱られた。
学校の勉強よりも、着物のことを優先したつけがまわってきていた。
正論で、何も言い返せなかったけど、僕はふつふつと怒りを募らせる。
言われなくても分かっていたんだ。
そして、とうとう、
「勉強すらまともにできないお前は、社会に出ても何もできない。」と言われた途端、
勉強の不出来だけを叱られているにも関わらず、僕は、自分の無力さまで指摘された気がして、「うるさい!」と怒鳴り返してしまったのだ。
それが、今の僕の左瞼を腫れさせている。
(あの川で洗えば、少しは治まるかな。
いや、傷にしみるだけだ。)
左側には細い川が流れている。
が、山の中の川とは違うから、それなりに汚れていた。
傷が治るどころか、膿んでしまう。
そんな当たり前のことが分からなくなるほど、
僕は正気でないらしい。
だいぶ歩いて、大体中間地点についた。
遠くに見え始めた短い橋を渡れば、
隣町だ。
「ひどいお顔。」
どこからか細い声が聞こえてきて、川の方を見る。
土手から河原に向かう緩やかな傾斜に、
女性が2人立っていた。
一人は、黒地に赤い花の模様が入った袖の短い着物を着て、両手を重ねている。
その人に隠れるようにしているもう一人
少し小柄な女の人がいた。
僕は、彼女を見て右目を見開いた。
白い着物を着た、黒い髪の女性だった。
僕はそれが分かるやいなや、そちらに向かって駆け出した。
彼女に触れようと伸ばした手。
驚いた顔に当てた袖口を確かに掴んだはずなのに、握りこぶしは空中に突き出されていて、前へと倒れた。
斜面を転がり落ちて、河原に横たわる。
僕は息を喘がせて、握った拳を見つめる。
疲れのせいか、右目の瞼が降りてきて、そのまま眠ってしまった。
はっと目が覚めると、僕は橙色の光に照らされた川を見た。
すっかり夕方になっていたのだ。
体を起こして遠くをぼーっと見つめる。
そして、これから何をするかを考えた。
(とりあえず、家に帰ろう。)
ひょいっと顔を土手の方に向け、
僕は、「あ。」と声を漏らした。
僕から見て、河原から土手に上がっていく傾斜に、赤や白の彼岸花が列をなして咲いている。
その中で、あの2人の女の人が立っていた。
赤い彼岸花の模様が入った黒い着物を着た人は、口を一文字に結び、きっと凛々しい表情である。
武家に縁を持つ、女主人のようにばしっとしたまとめ髪は、余計に彼女をキツイ印象に見せていた。
その側に立って心配そうに僕の様子を伺う、下がり眉の女の人を見て、肩を落とした。
彼女は確かに黒い髪に白い着物だったが、
格好が全然違った。
ふんわりとした、顎下ぐらいの短い髪、白い着物には、黒い着物の人と同じように、うっすらと白い彼岸花の柄が入っている。帯の色は黒ではなくて薄い黄色だった。
ー
僕ははああとため息をついた。
白い着物の女の人は、それに合わせて、目を潤ませた。
(こんなところに子供だけで…。
歳から考えると戦争孤児か?
それにしては身なりがきれいすぎる。
いや、そんなことより、謝らなくては。)
僕は何か言わなければと思ったけれど、
言葉が浮かばなかった。
「小僧。」
黒い着物の方が、鋭く低い声で言った。
その威厳がこもった声には、畳針で心臓を貫くかのような威力があって、僕は思わず、傷と痣だらけの足をたたみ、冷たく硬い石の群れの上で正座をしてしまった。
この行動に、きつい顔の女の人は眉をくっと上にそらして驚いた様子だったけど、すぐにまた、無表情になった。
下がり眉は僕とその人の顔をちらちらと見る。
「我が妹への無礼を詫びていただこう。」
「ね、姉様、そんなこと…!」
2人は姉妹らしかった。
「突然飛びかかるとはなんたることだ。」
「ご、ごめんなさい。」
震える声で言って、深く頭を下げた。
「次はない。」
僕はすっかり萎縮してしまって、
動くことができなくなった。
「何をしている。
帰るべき場所へ帰れ。」
帰るべき場所、とは、家のことだろう。
家の、ことだ。
ただ、あそこは僕の帰るべき場所なのだろうか。
喧嘩したからだけではない。
僕はここ最近、あの家にはもう、いてはいけないような気がしていた。
両親の様子からか、徐々に大人扱いされるようになったからか。
僕はなんとなく手を見た。
ゴツゴツとした骨が、父さんのと同じように関節を膨らませている。
「お前、さっきから体が少しも動かないな。
人間ではないみたいだ。
帰らないのはなぜだ。」
「そ、それは…。」
僕は目を逸らす。
「親と喧嘩したんです。
どう謝ればいいのか分かりません。」
「謝ることで帰られるのか。
帰りたいから謝るのか。
それだけ、その場所にいたいのか。
私達に親はいない。顔も見たことがない。
だから分からぬ。問おう、小僧。」
そこでくぎって、彼女はじっと僕を見た。
頭の奥を突くような鋭い目だった。
「親は、お前が死ぬときも
側にいてくれるものなのか。」
それは、彼女の純粋な問いかけだったのかもしれない。
だけれど、その言葉は、稲妻のように僕の体を貫いた。
「いえ、違います。
親は、先に死ぬものです。
長居してすみませんでした。」
僕はそう言って、立ち上がると、
足に食い込んだ小石を払って傾斜を登った。
白い着物の彼女は、下がり眉のまま不思議そうに僕を見ていた。
僕は、また、隣町へと歩き始めた。
隣町が町になったのは訳がある。
駅ができて、人の出入りが活発になり、地方としては珍しく栄えたからだ。
たか兄も、東京に行くためにその駅を使ったという。
『すごいんだぜ。飲み屋もあって、
民宿もあるんだ。結構活気があったよ。』
僕の前に、木造の民宿がある。
(生活をするのも、金を稼ぐのも
なにも、親のもとでなくていいんだ。)
大きな戸を叩くと、ドンという音とは別に、ギシギシきしむ音がした。
「ごめんください。」
何やら話し声がして、中から色黒の腕っぷしが強そうな男の人が出てきた。
その人は僕の顔を見て、顔を引きつらせる。
それに構わず、僕は言った。
「夜分に失礼します。
ここで、働かせてください。」
僕を出迎えてくれた厳つい男の人が、
女将さんと旦那さんに話をつけてくれたおかげで、あっさりと住み込みで働けることになった。
部屋はその人と同じ部屋であった。
こんなにも順調に行くものかと、それに、身元が分からないのに、えらく親切にしてくれるなと驚いていると、それを察してか彼はこう言った。
「俺ぁ足抜けしたんだ。お前ぐらいの歳さ。それでここに拾ってもらったんだ。」
と、袖口をめくりあげて、太い二の腕にある張り詰めた唐獅子を見せた。
僕はびっくりしたけれど、それを顔に出すのは、失礼だと思って冷静を装った。
心臓だけがバクバクと音を立てている。
お礼を言って名前を尋ねると、「須藤でいい。ただ、人前では呼ぶな。」とだけ言った。
僕は彼のことを、兄さんと呼ぶことにした。
力仕事は上手くできなかったけれど、
客室の掃除や、兄さんが出来ない案内係を任された。
一週間ぐらい経ったと思う。
旦那さんと女将さんに呼ばれていくと、そこに、母さんがいた。
黙って出ていったこと、学校にも行っていないことを涙ながら叱られた。
だけど、僕は、申し訳ないとは思いつつも、帰りたいとは思わなかった。
母さんが帰ったあと、女将さんに言われた。
「帰る?」
僕は首を横に振った。
その日はそれだけで終わったけれど、
後日、旦那さんにこう言われた。
「ここに来て一週間だね。
お前が来てから服を洗ってやってるが
だいぶ擦り切れている。
これから一週間に一回は家に帰って、
服をもらってきなさい。」
滅多に喋らない寡黙な旦那さんの言葉に、僕は素直にうなずいた。
服なんて擦り切れてないことは、僕が一番わかってる。
旦那さんは、僕と親の仲を気遣ってくれているのだと分かった。
だから、僕は従うことにした。
家に帰るたび、あの、土手を通る。
そこにはいつも、着物姿の姉妹がいた。
初めて会ったときから変わらぬ姿で、
彼岸花が咲き乱れる傾斜の中、
妹が姉によりかかり、姉は凛と立っている。
妹の方はちらちらと、僕の方を見てくるが、目を合わせるとそらされてしまうので、
まだ、嫌われているんだなと、近づくことはしなかった。
だから、脇目でちらっと見て、今日もいるなと思って通り過ぎる。
そして、一人、家の勝手口を叩いて、こそこそと家に入るのだ。
「また平日に来て…。
お父さんに顔見せなさいって
何度も言ってるでしょう。」
お母さんは外に声が漏れないように小声で叱る。
「休日はかき入れ時なんだ。」
「なーにが…!かき入れ時、よ!
ただお父さんと
会いたくないだけでしょうっ!
いいかげんなかなお」
「服、持ってくね。」
「あ、ちょっと…!」
(僕はいつまでも子供じゃないし、
そんなに世話をやかれる必要もない。
ここに来ているのは、旦那さんに言われて仕方なくなんだ。)
僕は、口にこもった「ありがとう」が言えない理由を心の中で唱えて、唱えて、
家から走り去った。
橋をめがけて土手をゆく。
彼女達は相変わらず、そこにいた。
そういえば、2人の歳はどれくらい離れているだろうか。
同じくらいだろうか。
今は兄さんがいるけれど、兄さんは実の兄さんではない。
一人っ子の僕には、寄り添う人がいることが、少し羨ましく思えた。
月は変わって10月が始まった。
顔のあざはすっかり綺麗になった。
兄さんは、「綺麗に治るもんだな。体には何もない方がいい。」と、笑ってくれた。
新しい業務を任されたりと、仕事も順調で、足取りは軽い。
土手を背伸びしながら歩く。
彼岸花がまばらに咲く傾斜には、いつものごとく姉妹がいる。
相変わらず、2人は川の方を向いて寄り添っていたけれど、僕は思わず足を止めた。
姉の方が、妹に寄りかかっていたのだ。
どこか体調が悪そうである。
妹が僕の方を見る。
潤んだ目が、初めて会った日の時と重なって、
僕は目をそらした。
今日は、母さんが珍しく何も言わなかった。
思えば、服をもらいに来るようになって、もう一ヶ月は経ったと思う。
母さんは諦め始めているようだった。
僕はその顔が、一人立ちを容認してもらえたような気がして、ようやく一人の大人になれた、そう感じた。
帰り道、僕は真正面で、姉妹の姿をとらえた。
姉の方が、とうとう座り込んでぐったりと、妹にもたれかかっている。
こちらに背を向けているから顔は見えないけれど、相当苦しそうだ。
きっと、気丈な彼女であっても、苦悶の表情を浮かべていることだろう。
一週間おき、必ず姿を見ているから、変化に気づけなかった?
だとしても、初めて会ったのはつい一ヶ月前だというのに、髪の量も減り、黒い着物は色あせて茶色くなっているのに、気づかないなんてことがあるもんか。
「小僧。」
何か声をかけようと考えあぐねていたら、彼女の方から、話しかけられた。
「お姉さん、一体どうしたんですか。」
「また、この道を、通るようになったな。」
質問には答えず、とぎれとぎれに言う。
「家が、あるのだな。
親が、いるのだな。」
その後、ぼそぼそっと何かつぶやいたけれど、なんて言ったかは聞こえなかった。
ただ、あまりにもさみしげな声だった。
「今も、お前は、親の手の中だ。」
その言葉に、僕はムッとして、相手は弱っているというのに、少し荒い口調でくってかかった。
「僕はもうすでに、親元を離れています。
仕事だってしています。
言わせていただきますが、
とっくに一人立ちしていますよ。」
姉の方はハハッと笑った。
「親の中に、お前がいるのさ。」
そう言うと、ゲホゲホっと咳き込んだ。
慌てて近づこうとすると、「来るな。」と、あの、凛とした声で制された。
「小僧。」
「は、はい。」
「私は、もうすぐ消える。
そしたら、この子は孤独になる。」
妹の方が、わっと涙を溢れさせて、
「そんなこと、言わないで姉様。」
と、すがりつく。
「この子のこと、
気にかけてやってほしい。
名を、教えてくれぬか。」
妹がくるっと僕の方を、濡れたまつげの隙間から見た。
僕は、何も、何も言えなかった。
頷くことと、名前を教えることもしなかった。
突然名前を聞いてきたことに対する戸惑いと、足裏から這うような悪寒がした。
「そうか。
足を止めて、すまなかった。」
黙ったままの僕に彼女はそう言うと、妹の方にぐっと体をもたれさせ、肩を上下させ眠り始めた。
非情かもしれないけれど、僕は、黙ってその場を離れた。
民宿には、様々なお客が来る。
ある日の夜、珍しく旦那さんがお客を出迎えた。
よほど特別な客でないと、そんなことはしない。
つるっぱげで恰幅のいい男の人のあとに続いて、入ってきた女性の姿に、僕は目を見開いた。
茄子紺の地色にところどころ、白く細長い雲のようなぼかしが入った着物の中に、烏が描かれていた。
まるで、日本画をそのまま身につけたかのようだ。
色や、風合いが、ぴったりと彼女に馴染み、くっつき離れる裾の動きに合わせて、烏が飛んでいる。
旦那さんとお客さんの、他愛無い会話から、「京都で染めてもらいましたのや。」という言葉が、深い、艶のある声とともにこぼれてきて、耳に入り込んだ。
眠れぬ布団の中、僕は目を輝かせていた。
京都に行きたい、行かなければ、本物を見なければ。
僕が行くべき場所だと思った。
そこに、銃弾で散った
(僕はもう、
考えられないんだろうな。)
兄さんの寝苦しそうな「ううん。」という声に、頭が少し冷える。
(京都に行くとなると、それこそ本当に
親には会えなくなるな。)
ー親の中に、お前がいるのさー
頭に浮かんだ、僕がするべきこと。
それは、今まで避けてきたことだった。
だけれど、前のような、億劫さはない。
(明日、旦那さんに話をしよう。)
僕はゆっくりと、目を閉じた。
興奮しているにも関わらず、不思議なくらい、ぐっすり眠ることができた。
紅葉が赤くなり始めた10月下旬。
僕は、家の玄関を叩いた。
出てきたのは、母さんだった。
母さんは驚いた様子だった。
いままで、勝手口からこそこそ来ていたから驚くのも無理はないだろう。
「休日に来るなんて、珍しいわね。」
「旦那様にご無理を言って
お休みをいただきました。
父さんはいますか?」
母さんは、少しぎょっとした顔をして、
それでも、「呼んでくるわね。居間で待ってなさい。」といつもの調子で言ってくれた。
正座をして待っていると、奥の部屋から大きな足音がして、父さんが来た。
どかっと
僕は手をついて、頭を下げた。
「黙って家を出ていって
申し訳ございませんでした。
中学校にも通わず、ご迷惑を
おかけしました。
今は、隣町の民宿で、
旦那さんと女将さんと兄さんに
面倒を見ていただきながら、
仕事に励んでおります。
ご報告が遅くなって、ごめんなさい。」
父さんは黙っている。
僕はぐっとつばを飲み込んで、
考えていた言葉を口に出した。
「僕は、僕は、働くようになり
夢を見つけました。
それが何かは言えません。
父さんと母さん、そして、
世間からしたら
あまりにも、馬鹿馬鹿しいものだからです。
でも、それは、僕にとっては
なににとっても
かけがえのないことなのです。
そのために、僕はお金を貯めて
春には京都に参ろうかと思います。
もう、父さんにも、母さんにも
会うのはこれを最後にしようと、
ご挨拶しに参りました。」
僕が言い終わらぬうちに、
母さんは「あんた、何言ってるの!」と叫び
父さんは体を震わせ、とうとう、
「てめえは黙って聞いてればぁ!!!」
と怒号を発し、背の低い机を足で蹴飛ばして、
僕の方に詰め寄った。
「お前は散々、勝手なことをしといて
何この!!」
「お父さん、やめて!」
母さんのことを無視して、父さんは僕の胸ぐらをつかみ、前とは逆の、左手を振り上げる。
非力な僕が
「出ていきます。僕は、この家を、この村を。そして、京都に行きます。」
そう言い切って、ぐっと歯を食いしばる。
親父に殴られる覚悟がためだ。
構えられた父のまめだらけな手がわなわなと震えている。
怖くなんてない。
それが親父の仕事なんだ。
さあ、殴れ!と僕はいっそう顔に力を入れた。
「…。」
父さんはゆっくりと手をおろし、僕を突き放した。
そして、立ち上がり、襖をバンっと開けて
「二度と帰ってくるな。」とだけ言って、また乱暴に襖を閉めた。
僕は、母さんの方に向き直り、手をついて深々と頭を下げた。
「今まで散々心配をおかけしました。
申しました通り、僕は京都に行きます。
こちらに戻ることはありません。
必ず、毎月仕送りして、手紙も書きます。
本当にお世話になりました。
これは、僅かですが、僕が働いて
稼いだお金です。」
顔をあげると、母さんは目の周りを赤く腫らして、鼻をすんっと鳴らしていた。
僕は母さんが何か言う前に
お金が入った封筒をぐっと手に握らせて、
まっすぐ目を見て言った。
「受け取ってください。
僕はこれでけじめをつけたいんです。
親不孝なことをしてごめんなさい。
どうか、元気に暮らしてください。」
母さんは、「バカ息子。」とだけ言って僕をキッと睨んだ。
僕はもう一度頭を下げて、風呂敷を手にまとめて、早足で家を出ていった。
一人、土手を歩く。
夕日に照らされたアキアカネが、
より、赤を濃くして飛んでいる。
僕の側を一匹、ついーっと飛び去ったアキアカネを目線で追って、僕は、足を止めた。
白い着物を着た妹さんが
手で顔を覆い蹲っている。
艶っ気のなくなったパサパサの黒い髪が垂れて、彼女の周りだけ、黒いもやに包まれているようだった。
彼女の前を通ろうとした時だ。
「気づいていたのよね。」
僕はぎょっとして、彼女を見た。
「気づいていたのよね。
私が人間じゃないってこと、
気づいてたのよね。」
「…。」
「だから、名前を教えてくれなかったのね。
私が、私が、人じゃないって…
おかしいって思ってたんでしょう。
近づいちゃだめだって
分かってたんでしょう。」
細かに震える、蚊の鳴くような声で、息継ぎもせず、恨みがましそうに言う。
「だから、私に近づこうともしない!
私が人間じゃないから!
おかしいから!」
「それは…!」
(違う、君が僕を怖がってたんじゃないか。)
そう伝えようと伸ばした手は、顔を覆う彼女には見えていないはずなのに、
「触らないで!」と金切り声を上げる。
「だめ…近づかないで…
違う、ソバにいて…だめ…違う…。」
二つ折りになるまで背中を丸め、
大きく息を喘がせて、不安定な抑揚で彼女はぶつぶつ呟く。
「あなたがいい…違う、だめ、
触れて、触らないで…うあ、
ああぁあ!」
うめき声をあげて、さらにぐうっと体を縮こませたかと思うと、数秒動きを止めて、勢いよく顔を上げた。
「あ゛だしをみ゛ないでぇ。」
その顔はポッカリと大きな穴が空いていて、
目、鼻、口の変わりに、光一筋通さぬような真っ黒な闇だけがある。
上を向き、力なく開かれた指が、指先から灰色になり、ボロボロと崩れ落ちていった。
「うわあっ!」
僕が悲鳴を上げて尻もちをついたときにはもう、彼女は跡形もなく消えていた。
しばらく何も考えられずに遠くを眺めていた。
夕日はいよいよ沈み始めて、眩しい黄色の光を川に反射させる。
その時、僕はようやく、あ、と思い出した。
(そういえば、ここは数日前まで彼岸花が咲いていたなぁ。)
今はただ、枯れ始めた背の低い雑草が生い茂る中、彼岸花の茎だけが残る味気ない斜面を、
日が完全に沈むまで、僕は切ない気持ちで見つめていた。
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