私だけのめがみ-後編-


「では1週間後、今日と同じ時間にいらしてください。」


早川は仁美をビルの入り口まで案内し、見送る。

仁美は何度か振り返り会釈して、暗い裏路地へとその小さな背中を隠した。




家に帰って、早川は紙に眼鏡の設計図を描いていた。

心にはいくつかの後悔がある。


喋りすぎたという恥ずかしさと引かれていないかという不安、更には、冷静さを失って連絡先を聞くことを忘れてしまったという失態が、神経を逆なでする。


こんな状態ではあるものの、ペンは順調に走っていた。


紙には女性の似顔絵があり、その上に薄く、眼鏡の輪郭を描いていく。


似顔絵の横には『丸顔でありリムレスが望ましい』『優しい雰囲気に合うオーバル型』などいくつかのアイディアが記載されていた。


没頭するうち、早川の脳裏に仁美の幻影が現れる。

優しい笑みを浮かべた唇の上、輝く大きな目が拡大していく。


茶色の虹彩と波打つ黒い線にまで寄り、それは万華鏡のような回転と広がりを見せ、頭の中を埋め尽くす。


早川が気がついたときには、彼は仕事着のまま、机に突っ伏して寝ていた。


幸い、今日は休日であった。





顔を洗い、服を着替えてからの早川の動きは早かった。


どこかに電話をかけ、繋がるやいなやこう言った。


「お久しぶりです。ええ。早川です。

 前の仕事を辞めてからですから、

 もう十年にもなりますね。

 やはり、眼鏡屋がたまに恋しくなりますよ。

 今の職でも、貴方の工場のレンズの評判は

 耳に入ってきます。軽くて丈夫だと。」


どうやら、前職で知り合ったレンズの工場の責任者と話をしているらしい。

電話越しに、嬉しそうな笑い声がする。

それを聞いて、早川は声のトーンを落とした。


「これはちょっと相談なのですが、

 ひとつ、作っていただきたいものが

 あるのです。早急に。」



早川が要望を伝えると、さっきまでごきげんだった相手はいくらか渋った。


早川はめげずに「自分が直接取りに行くから」とか「いくらでも出すから」と、20分も押し問答し、なんとか相手を頷かせた。


電話を切ると、すぐにホームセンターへと向う。

そこで、エポキシ樹脂、硬化剤、着色剤、プラダンボール、ヤスリなどなどを購入した。


説明書と設計図を交互に見ながら、型を作り樹脂を流して、緊張した表情のまま、その日は眠りについた。





約束の日が残り3日に迫った、電灯消える眼科クリニック。


顔色の悪い早川がぬうっと出てきた。

定時であるというのに、以前の残業時より疲れの色が濃い。


ビルから出て、路地裏の側に来た時だ。

ひらっと人影が躍り出た。


大きなポーラーハットをかぶり、生成りのワンピースを身にまとった、梔子仁美その人だ。


服装はこの間会ったときと全く同じで変わっていない。


早川は、はっとして周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、改めて彼女を見た。


仁美も辺りをうかがうと、わざわざ路地裏に身体をひっこめ、帽子を外しあの大きな美しい目でじっと早川を見つめた。


「どうして、ここに?まだ期限は先では…。」


断りに来たのではという不安に、心臓がドクドクと脈打つ。


「ごめんなさい。また、会いたくなって。」


早川は目を見開いて、頬を赤く染めた。

想い人が自分に会いたいと思ってくれていたこと以上に、嬉しいことなどあるだろうか。


それにー…


「初めて、声を聞きました。」


初めて聞いたその声は、小さく細い、可愛らしいものであった。

仁美は嬉しそうに目を細めた。


「あ、ふふふ。」

「いやぁ、可愛らしい声だ…。」


早川は感動を噛みしめるように口をつぐむ。


「あの、お疲れですか?」

「え?」


仁美が自分の目の下を人差し指でなぞる。


「ああ、くまですか。」

「色が白いから目立ちますね。」

「いやいや。そんな…。

 心配いりませんよ。年なだけです。」

「そんなにお若いのに?」

「恐らく貴方と20年くらい違いますよ。」

「ええ!そうなの?」


何気ない話に、二人の心がほぐれていく。


「後3日、楽しみです。では、また。」

「あ…。はい、また…。」


仁美は数歩歩いて、くるっと振り向いた。


「そういえば名前…。」

「あ、ああ、そうでしたね。失礼しました。

 早川冬治です。冬生まれでして。」

「そうですか…素敵。」


仁美は罪深くも、笑顔を早川の目に焼き付けて、去っていった。



夜が深く静けさが包む中、早川は小さな電球が照らす机を揺らし、ガリガリと音をたてて作業している。


完成が見えてきたのか、手にこもる力が強い。

側には頼んでいたであろうレンズが置かれていた。


少し休憩をと背筋を伸ばして

早川は心の中でこんなことを思っていた。


(また連絡先を聞き忘れた。次こそは聞こう。じゃないと、縁が切れてしまう気がする。

 断られたらどうする。)


感傷的な波が押し寄せた早川の心。

そこに、一つの提案が浮かぶ。


早川だけにしか聞こえない自身の声でなされた提案に、早川は口の端を持ち上げた。


先程よりさらに、熱を込めて早川は作業をする。

ガリガリという音は、夜が明けるまでつづいた。



約束の日、誰もいないクリニックで、早川が落ち着きなく歩き回っていると、静かに自動ドアが開いて、仁美がやってきた。



「ああ、お待ちしておりました。

 …え?その格好…。」


仁美は帽子を両手で外し、お腹に当てながら身をよじった。


「似合いますか?初めて、服を買いました。」


白のレースのワンピースは、彼女の動きに合わせてひらひら揺れた。


「ええ。とても。」


言葉だけは褒めているが、感情がこもっていない。


「さあ、こちらへ。あの包がそうですよ。」


仁美は反応が薄いことを少し残念がったが

机の上の包を見つけ、心躍らせた。


「嬉しい…。私ね、今日が本当に

 楽しみだったんです。

 離れて暮らす母にも電話で

 都会で優しい人に作ってもらえるって

 話しちゃいました!」

「はは。そうなのですね。

 さあ、どうぞ座ってください。」


弾んだ声に対して、淡々と答える早川はどこか上の空だ。

仁美も不思議に思ったが、促されるまま椅子に座る。

二人は机を挟んで向かい合った。


「出来上がったのがこちらです。」


早川が長い指でするすると布の結び目を解き、

レンズに光がこぼれると、瞳の住んだ目が輝いた。


「ノンフレームのレンズです。

 つる…耳にかける部分は恥ずかしながら私が作りました。」


早川が夜通し作っていたのは、眼鏡のつるであった。

ガリガリと念入りにヤスリがけしたつるは、滑らかで、べっ甲のようである。


「そうなのですか!すごい…。」

「合うといいのですが…。私がかけましょう。」


早川が丁寧に眼鏡をかけていくー…。






ここで少し場面を変えて、

早川が電話をかけてた、Aというレンズ工場で数日前に行われたやり取りを書かせていただく。


「いや、まさか、本当に来てもらえるとは

 思いませんでした。」

「約束しましたから。お金はこちらです。」

「ありがとうございます。」

「こちらこそ。では。」


早川が去ったあと、若手の技術者が近づき、灰色の頭の男に話しかけた。


「工場長。今の誰ですか?だいぶ若いようですが。」

「俺より年上だよ。あの人は。」

「ええ!…美人は歳がわからないって

 本当ですね。」

「…そうだな。若いよな。」

「それにしても、あれ、なんなんですかね?」

「あ?」

「レンズですよ。

 工場長が作らされたやつ。」

「展示用じゃないか。」

「ええー?だとしても度、入れますか?」


若い男は腕を組んだ。


「横幅14センチ、縦幅9センチのレンズ。

 しかも一枚。全く用途分かりませんね。」





「すごい。はっきり見えます!

 耳も痛くないです。」

「それは良かった。

 お似合いですよ。どうぞ、鏡です。」

「わあ…。」



鏡に仁美の顔が映る。

彼女は大きな目をさらに見開いて、鏡に映る自分に魅入る。

若干楕円形のレンズが覆うのは、

小さな顔の3分の2を占める大きな一つの目だ。


「ええ。素敵ですよ。」


早川はうっとりと仁美を見つめる。


「嬉しい…。本当にありがとうございます。」

「いいんですよ。」

「あ、そうだお金…。」

「いえ、結構です。」

「それはいけません!診察料だって…。」

「本当に良いのです。

 私があなたのためにしたいという

 気持ちがそうさせたのです。

 お金なんて必要ありません。

 この言葉の意味を分かっていただけませんか。」


早川は真っ直ぐ見つめる。

仁美はたじろいだ。


「え?意味…?」

「ええ、お金は必要ないんです。

 お金は…。」



早川が席から離れ、仁美の側により、困惑した顔でこちらを見上げる彼女の頬に両手を添えた。


「ああ、貴方の目は本当に美しい…。」


早川は整った顔を歪めてにたぁと笑った。

仁美はゾッとし、硬直する。


声を出そうにも、恐怖で喉が締まり、何も言うことができない。



「ははは。怖いですね、恐ろしいですね。

 私も自分のことが変に思いますよ。

 ですが、今、こうして貴方と対面している

 ことが、楽しくてしょうがありません。」


ここで早川は生唾を飲み込む。

興奮し血管が走り始めた彼の目は、瞬き一つしない。


「最初こそ、善意でした。

 貴方のためになればと。

 ですが、この1週間、ずっと頭から

 貴方が離れず、私はとうとう、

 貴方を誰にも盗られたくなくなったのです。

 私だけのものにしたい、

 最後はその思いだけでした。

 ええ、お金はいりません。

 ただ、私の家にいらしてほしいのです。

 簡単な話でしょう?」

「い、いや…!」


仁美は無謀にも、身長差があるこのケダモノを突き飛ばそうと、か細い手を突き出した。

が、簡単に、早川の大きく長い指に絡め取られる。


「抵抗しますか?大声を出しますか?

 それは、困るでしょう。お互いに。」


仁美は悔しさに唇を噛みしめた。

人を避け姿を見せないようにしてきた彼女にとってこの言葉は、叫んでも来てくれるのが必ずしも味方ではないという意味を含む、残酷なものであった。


優しく仁美に寄り添っているかと思えた早川は、やはり自分本意であって、今まさに、彼女がコンプレックスにしていることを逆手に、脅しをかけている。


裏切られたという現実に心が割られ、悲しみが一つの目から溢れ出た。


それを見て早川は愉快そうにくつくつと喉の奥を鳴らす。


握りしめられた仁美の指は真っ白になり、爪の先が紫色になり始めていた。





「私は狂ってしまったみたいです。

 貴方という女神に出会ってから。」


早川はそう言って、恐怖にうち震える仁美に、少年のように笑ってみせた。

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