第4話 私だけのめがみ-前編-


清潔感あふれる白い壁と天井、

ナチュラルテイストなベージュの床はビニル性で、人工的な光沢がある。



ここは都心部の、ビル一室を間借りした眼科クリニック。


眼科とあるが、

若者が多いこの街での役割の殆どは、

隣接するコンタクトレンズ販売店のための、

診断書作成であった。




早川という高年の視能訓練士は

15、6の少女がオートケラメーターを覗く間、

下まぶたを引き上げたなんとも不愉快そうな表情で、彼女の瞳を映すモニタを見ていた。


温度などないことを承知で書くが、その視線は、細いフレームの眼鏡越しでも、凍てつくような冷たいものだった。



「はい、顔を離してください。」



早川は低く落ちついた声で静かに言った。


患者が顔をあげるのに合わせて、彼は賢く眉間のシワを解く。




少女は背中を軽く左右に揺らして姿勢を直すと、軽くため息をついて数回瞬きをした。



あどけない顔には、肌と合わない色のファンデーションが塗られ、目の周りは濃い赤で縁どられている。


潤んだ目は、アイメイクと同じ色で充血していた。

細く走る血管が痛々しい。




「次は診察があるのであちらの椅子でお待ち下さい。」


関節の凹凸がないしなやかな指を揃え、席に誘導する。

少女はその指先をしばし眺めてから、早川の方へ視線をやった。


彼はそれに気がつき、目尻を軽く下げ

「どうかされましたか?」と問いかける。


彼女は「な、なんでも、ないです。」と小さく上ずった声で言って、

肌色に塗り固められた頬の代わりに両耳を紅く染め、早川の方をちらちら見ながら診察前の椅子へ移動した。


そばにいた別の検査士は、その様子を見て、口端に好奇をやどらせ、書き損じたへの字の如く、にやりと歪ませた。


早川はそれに気がついていたが、それに触れることもなく、次の検査の準備をしたのだった。





早川は、一般の世界では浮いてしまう容姿の持ち主であった。


といっても、耳が3つあるとか足が8本あるとか、そんな突出した特徴があるというわけではない。


彼は、ゾクッとするほどの美貌の持ち主なのだ。


大きな瞳で切れ長の目に高く形の良い鼻、細面で顎先が細くすっきりとした小顔。

白髪一つない真っ黒で艷やかな髪をオールバックで固めているため、横顔の綺麗さが際立つ。


肌は血の色を感じないほど白く、年相応の細かなシワはあるが陶器のように滑らかだ。

肢体は細くすらりと長く、立ち姿はフィギュアスケートの選手と重なる。




そんな美貌を持ちながら、現在まで独身な一人好きの早川は、

時間と頭を持て余した凡人の、恰好な噂の種となっていた。


その噂は大きく2つに分けられた。


目があったから好意があるんじゃないか、あの人と付き合ってるんじゃないかなど心弾ませながら語られるものと、

もう一つ、人を見下したり差別している、といった、人格否定をするものだ。


前者は、先程、少女がしたような反応を関わった人がしてしまうからであり、事実無根なとばっちりを受けているようなものだ。


しかし、後者は、早川の悪い癖からきたもので、正直、彼にも原因があるといえばあったから、嫌な噂が立つのは仕方のないことでもあった。



彼は興味のある人としか目を合わせて話さない。

興味の範囲はしっかり決まっていて、例えば、化粧をしている人とは目をそらし、反対に、全くしない男性とは、よく目を合わせて朗らかに談笑する。


そんな対応なもんだから、自分に好意のある女性をずさんに扱うような男、という不名誉な肩書をつけられてしまっていた。


また、実は男性が好きなんじゃないかといった噂まで出てきてしまっていた。


早川はたしかに、化粧をする人よりは男性の方が好きであったが、それは恋愛感情からくるものではなかった。




今、早川はどぎまぎした様子の青年と対話しているが、彼の瞳孔がとらえているのは、顔ではない。


目、目だ。

きらっと輝く焦げ茶色の青年の目だ。



早川は、綺麗な目に対して、人一倍関心があり、執着している。


化粧などに触れたことのない、炎症とは無縁な澄み切った目が、何よりも好みであった。


眼鏡屋の販売員から転職し、眼科に勤めているのは、沢山の目が見たいという欲望からであった。


相手が理想の目の持ち主であれば、普段寡黙なくせに饒舌になり、笑顔も多くなる。

炎症を起こした目を見ると、先程のような軽蔑した眼差しをためらいなく向ける。


それが、早川という男だ。






ある日、後輩が犯したミスの尻拭いがため、いつもは定時で帰る早川は、一人で残業をしていた。


後片付けも終わり、帰ろうかと振り向いて、早川はぎょっとした。


入り口に、ピンクのポーラーハットを目深にかぶった小柄な女性が立っていたのだ。


帽子は大きすぎて顔が見えず、容貌が分からない。


生成りのワンピースと、帽子同様ピンク色のビニル性パンプスは、上品な印象ではあるが、古臭い組み合わせであった。


袖も裾も長く、肌の露出が殆どないが、唯一見えるカバンを握りしめた手の甲と、ショートボブの毛先の感じから、彼女が少なくとも35歳より上の年齢であることが分かる。



頭の中にいくつか疑問が浮かび、放心する早川。


物音一つしなかったのに、いつ入ってきたのか?

このカビの臭いはなんだ?と。



「すみませんが、もう診療時間は

 終わって…。」


早川は言葉を飲み込んだ。

女性が、鞄の取手を両手で強く、強く握りしめたからだ。

ギシギシっと合皮がきしむ。



「…こちらへどうぞ。」


灰色の座面に腰を下ろす女性を、このベテラン検査士は見下し、「帽子を取ってくださいね。」とだけ言った。


彼は入口の外を照らすライトと看板を消しに離れ、背後から聞こえたスルッと言う音に、残業の延長を察して深く息を吐く。


また、玄関まで来て軽く鼻を鳴らし、カビの臭いは外ではなく、女性からするものとみて、また息を吐いた。



振り返れば、数本の白髪が混ざった艶のない黒髪の後ろ姿が小さくそこにある。

傍らには、やはりサイズが大きすぎるポーラーハットが置かれていた。



早川はいつものように長い手足をしなやかに折りたたんで、小さな椅子へと腰掛ける。

そして、「今日はどうされましたか。」と言い、女性の目を見た。


早川は、息を飲んだ。



「美しい…。」


心の中だけでおさめようとした言葉が漏れる。

それもそのはず。

女性は、早川が長年求めてきた、美しい目をしていたのだ。


血管一つ走っていない象牙のような白い白目に、大きな瞳がある。

明るい茶色で、冬の湖面のように澄み切っていて、僅かな光を受けキラッキラッと輝いている。


眼科に来るからどうせまた荒れた目だろうと思っていた早川にとって、嬉しい裏切りである。


だからこそ、余計に喜びが溢れた。

同時に、ここまで美しい人が、なぜ世間の話題に上がっていないのか、そうしたらもっと早く会えたのかもしれないのにと、変に悔しがった。



女性は目の前にいる男が硬直しているのを見て、ため息を吐き、立ち去ろうとした。


そこでようやく正気に戻った早川は「あ、ああ!すみません。違うんです。」と謝罪しこうつづけた。


「あなたの目があまりにも綺麗だったから見とれてしまって…。」


女性はその言葉に驚いた様子で、頬を赤く染める。

帰るのを取りやめて椅子に深く座り直した。



「それで、その、何でお困りですか?」


女性は指を組み、小さな口を数回パクパクさせて固く結んだ。


その様子から、早川は胸ポケットからメモとペンを取り出し、彼女に渡す。


女性はペンを握り、メモに何かを書き始めた。


『眼鏡が欲しいです』

「ああ、眼鏡ですか。はっきり物が見えなくなってきたのですか?」


女性は小さく頷く。

早川は意思疎通が取れたことに安堵して

「では視力検査しましょう。」と、

彼はランドルト環が整列する視力表まで案内した。



女性はその表を眺め、目を細める。

よほど目が悪いのだろうか。

だが、ただピントを合わせようとしているには、溜まった涙の説明がつかない。



早川はその様子を見て、手に握っていた遮眼器に視線を落とした。



そして、「もう時間も遅いから簡易的な検査をしましょう。」と微笑んで、遮眼器をしまった。


かわりに、側にあったティッシュを取って女性に渡す。

彼女は顔を上げ、そして、早川を見つめると、小さくお辞儀して、目を閉じ涙を拭う。


指にかかる長いまつ毛が涙で濡れてツヤツヤと輝いている。



早川は優しい言葉をかけつつ、ゴミを受け取るなど珍しく世話を焼き、そして、検査を始めた。



一通りの一般検査を終えて、二人は向かい合わせに座った。


「たしかに、視力が0.3と少し悪いです。

 今の視力にあったメガネが必要でしょう。

 当院では眼鏡のご用意もありますから

 すぐにお渡しができます。

 ただ…。」

と早川は言葉をそこで止めた。

「申し訳ないのですが、

 貴方様にあった眼鏡をすぐにお渡しする

 ということはできません。

 その…在庫がなくて。」


女性はがっくりと肩を落とした。

そして、ペンを握る。



『みてくださってありがとうございました。

 眼鏡はあったらいいなと思っていたので

 必ず欲しいわけじゃなかったんです。

 診察料はおいくらですか?』



早川は文章から滲み出る諦めに、強いやるせなさを感じた。

自分が今、女性の力になれないということが、悔しくて仕方なくなった。

なにより、せっかくであったのにこのまま帰したくはないという独占欲も湧いていた。

普段は、他人に無関心だというのに。



冷徹で自分本意なはずの早川は、眉間にシワを寄せ、彼女のために悩み始めた。


女性に合う眼鏡を提供するにはどうしたらいいか…。

そして、ひらめいた。



「私に1週間、明日から数えて

 1週間、時間をくれませんか?」


不思議そうな女性に、早川は熱意込めて話す。


「私は、実は以前、眼鏡屋で長年勤めて

 おりました。

 そこの知り合いもいますし、

 レンズはすぐに手に入れてみせます。

 それに、自分で言うのもなんですが

 私は手先が器用なので、

 あなた好みのフレームも誂えましょう。」


女性はそんなの悪いと手をふるが、早川はそれを遮る。


「このまま貴方様を落胆させて帰らせるのは

 長年眼の仕事に携わってきた、

 私のプライドが許さないのです。

 それに…。」


早川は両の手を伸ばし、女性のこめかみ辺りにそっと薬指で触れ、「お顔が小さいですから、既製品のフレームでは使い心地が悪いと思いますよ。」と笑みを浮かべた。


女性の大きな瞳に早川の端正な顔が映る。

早川の目には、女性のあの美しい目だけが映って、嬉しそうに細めた。


「診察料はメガネ代と一緒に

 支払ってくだされば結構です。

 貴方様さえよければ、ですが。

 いかがでしょう?」


女性は遠慮がちに見を縮こませながらも、こくりと頷いた。


そこから、二人はペンと言葉で雑談を交わした。

最初は何気ないやり取りだったが、徐々に話は女性の人生の話になった。



彼女は、美しい目を持っている。

が、本人はそれを自覚していなかった。

むしろ、目立ってしまう特徴に一人コンプレックスを感じて、物心ついた時から身を隠して生きてきたという。


唯一の肉親である母親は何も言わなかったが、塞ぎ込んで人前に出ない娘に対し、どこか安堵していたようだった。


大人になった今も人が怖く、格安のスマートフォンを使って、ハンドメイド作品を売り、なんとか生活をしているという。


『この服、実は拾ったんです。

 お店行くのも配達員も怖くて。

 カビ臭いでしょう?』

女性は自虐的に笑った。

小さな唇が、静かに震えている。


『ペンを頂きましたが 

 話せないわけじゃないんです。

 ただ人前になると言葉が出なくなるんです。

 唯一できる手芸を仕事にしてなんとか

 生きてます。

 大嫌いなこの目、仕事には使えたのに

 最近ぼやけるようになって、

 ほんと、なんになら役立つんだって』


そこまで書いてペンをぎゅっと握りしめ、ボロボロと泣き始めた


早川も手を握りしめた。

抱きしめたいという衝動を抑えるために。


このか弱く美しい女性を、

このまま暗闇の中にいさせるわけにはいけないと思ったのだ。




「貴方の目は、とても美しいです。

 誰も彼もが簡単に持てるものでは

 ありません。

 治療費をいくら積んだって

 手にできるものではないです。

 生まれ持った、財産だと私は思います。」



その言葉に、女性は顔を上げた。

涙が止まり、希望の輝きが瞳に宿っている。



「必ず貴方にあった眼鏡をお作りします。

 きっと、世界が変わりますよ。

 あ、私が対応したということは

 誰にも言っちゃだめですよ。」


早川の笑顔に、女性は何度も頭を下げ、

カバンからハンカチを取り出し涙を拭いた。


早川はここでようやく自分を客観的に見た。


誰かの力になりたいなんて今まで一度も思ったことがない。

自分が自分ではなくなってしまった気がして、落ち着くために深呼吸する。



「ああ、そういえば、お名前を伺っていませんでした。」


女性はその言葉に、ふふっと息を漏らして笑うと、ペンを握り直し『梔子くちなし仁美』と書いた。


「梔子…もしかして、北海道ご出身ですか?」

『母がそうです。』

「そうでしたか!

 北海道の知り合いにいたなと。

 実は父が東北出身でして。

 10人も兄弟がいるんですよ。

 今でも年末年始にはあっちに帰って…。」


イキイキと嬉しそうにしていたというのに、早川は静かに聞く仁美の顔を見て、話しすぎたと反省し咳払いする。


「梔子仁美、綺麗なお名前ですね。」


その言葉に仁美は、にこっと微笑んだ。



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