第3話 村の衆が狂った話


寛保■年■月■日。



空はどこまでも澄み渡り晴天であった。


穏やかな天とは対照的に、人間が生活を営むこの土地は悲しみに包まれていた。





複雑且つ精巧に竹で組まれた高い柵の中、

むしろの上で正座をしている

歳は50程の女がいた。




女の両手は荒縄により後ろで縛られ、

みすぼらしい着物一枚しか着ていないところから、彼女が罪人であることが分かる。




結われていない髪は、

白髪が混じって灰色になってはいるものの、

縮れることなく真っ直ぐと腰辺りまで伸びていた。

若干脂を含んでおり、女の頭部、顔、背に量の少ない長髪がはりついている。


それを払うことも、梳くことも、

今の彼女にはできないことであった。



柵の周りに集まる人々は口々に

「なんで彼女がこんな目に。」と言い

憂いの表情を浮かべていた。



彼らはみな、彼女のことを母のように慕う気持ちがあり、心がぐっと締めつけられていた。




女の側に、屈強な男が3人立っている。




二人は女の後ろで袖まくりをしており、

一人は抜身の刀を手にしていた。


男が軽く刀を持ち直すと、

刃区はまちが受けた日の光が

刃の上をすーっと滑っていき、切っ先に溜まってキラッと消えた。





柵に詰め寄っていた人混みのざわめきが

水を打ったように静まり返る。


いつもは力自慢する大男が

目を見開いて生唾を飲み込む程の脅威を、

女は静かにその目に映していた。





皮ふはたるみ痩せているものの、

若い頃、数多の男を翻弄した美貌の面影を見ることができた。




細面で鼻筋がすっと長い。

まぶたが落ちて垂れ目のようになっているが、

切れ長の涼やかな目である。




年を幾何年も重ねているはずなのに、

この世は味方ばかりと信じきる純粋な子供のような様相で、

紡錘状の隙間から覗く、黒い瞳は澄んでいて、恐怖の色など微塵も感じられず、穏やかであった。



その姿はまるで、観音尊である。





さて、ここは土壇場。

女を囲む男達が動いた。

顔に白い布をかける。



着物を肩まではだけさせ、

背後に回った二人の男が女をぐっと抑えた。



四角く掘られた血溜まりの深淵へ

女の首が誘導された。




女は一切抵抗しない。




執行人が刀を強く握りしめる。


母のような存在の彼女が失われてしまう、

その気持ちが抑えきれなくなったか人々は号哭ごうこくした。



大の大人も老人も、子供も…

みな顔をくしゃくしゃにして涙で顔を濡らしている。



彼らは一人走ったのを皮切りに、一斉に柵へとはり付いて、刑の執行を止めるように訴えた。




小さい頃から育ててもらった、

思い人だった、命を助けてもらった…

理由は違えどみな彼女に恩を感じていて

それだけの善人だから殺すなというのだ。





ここまでの騒ぎは役人のお咎めが入りそうだが、それはないだろう。




女の背を押さえる二人の男の目に浮かんだ涙の粒が、それを物語っている。






さすが冷徹というべきか、執行人は表情一つ変えずにいる。


男はただただ女の青白いうなじを淀んだ目でじっと睨め、そして、浅黒い腕に力込め刀を構える。



唸り立った人々が大声を上げ、抗議と罵声を執行人に浴びせた。




執行人のこめかみに血管が浮き出て目がぐりょっと見開かれたかと思うと、

きしむほど握りしめられた日本刀が、ぶおん、と振り下ろされた。



細く短い髪の毛が散って、鮮血が噴き出ると、女の体は力なく地面に倒れた。


叫喚が刑場を揺らす。



悲しみ、怒りが満ちた奈落の底へと落とされた彼らは、感情のままに体を震わせた。




やがて、線香花火が牡丹から散り菊へと至るように、静寂が歩みを進めた。



囁き声ぐらいしか聞こえなくなったところで、一人の青年は涙を拭いながら、腹の底から湧く違和感に気づいた。




青年は三吉というのだが、

涙を拭う手の中に“何か”が握られているのに気づく。



瞬きをして見れば、それはくわであった。


三吉はいぶかしんだ。

ここは栄える江戸の町、自分は商人で恩人の斬首を止めに、仕事を放り出して来たはずなのに、なぜ、鍬が握られているのかと。



とにかく店に戻らねばと見下げた足元、

着物を見れば商人とは思えないほど土で汚れた

藁草履と、お世辞にも高価とは言えない木綿の着物。



三吉の目がカッと見開かれ、煙のように商人である偽りの記憶が消えていった。



他の者もそうなのだろう。



ぽかんと口を開け、辺りを見渡していた。




「あ、あれ!」と誰かが大きな声を出して、刑場を指した





確かにあったはずの、竹で精巧に組まれた柵は消え失せており、役人だと思っていた身なりのいい男たちは擦り切れた着物をまとっていて、膝からがくりと地面につき、天を見上げ泡を吹いていた。



一番体格の良い執行人であった男の手には、刀ではなく、血がついた木の棒を握られている。





放心する3人の男の中心に、死体が一つ。





それは、顔を苦痛に歪ませ、口から舌をだらりと出した、大きな老狐であった。






後に正気を取り戻した農民によると、

あの日、皆が稲刈りをしているところへ

近くの山から一匹の大きな狐が降りてきた。



その大きさと、都市を刻んだ顔の凄みから

農民の中でも力に覚えがある3人の男が手に手へ棒を持ち、狐を殴りつけた。




狐はこと切れる前、ギャーンと叫んだのだが

その声を聞いた途端、

自分達は商人や町人のような姿でいて、江戸の町にいたという。




それ以降は前述した通りだ。





農民たちはしばらく、恩人を見殺しにしてしまったかのような罪悪感が拭えず、鬱々としていたが、3日後には元通りの生活を遅れるようになった。







が、3人の男達はというと、

一人は川に飛び込み、もう一人は首をくくり死んでしまった。




最後に残った男はというと、

生涯を閉じるその時まで、人の言葉が喋られず、気が狂ったままだったそうだ。




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