第2話 ユミコのショー
やつれた青年が白い息を吐き出しながら
雪が溶けて水びたしのビル街を歩いている。
向こうから歩いてくる若い派手なカップルの
女の方が、
ピンク色のヒールを滑らせた。
もうやだあ、なんて言ってはいるが、
男の胸にあずけた顔の赤さに、
不幸に乗じたあざとさが透けている。
男は、気をつけろよぉ、なんて言いながらも
女の腰辺りへ片腕を軽く添えた。
甘える女の文句を下品な笑いで流しながら、
男は、道の端ギリギリまで寄って歩いていた
青年の肩に腕をぶつけ、
気づくことなく通りすぎる。
青年は振り向くことも、
立ち止まることもせず、ただ、先程よりも長くぼわあと白い息を吐いた。
テカりが出てよれているスーツに、
黒いダウンコートを羽織っているのだが、
サイズがあっておらず、
着ている、というより、着られている。
寒さでコートに顔を埋めるもんだから、
服に呑まれているようである。
カップルは態度こそ悪く、組み合わせも下品であるが、それぞれブランドものを身につけていて、青年よりは電飾の賑やかな繁華街に馴染んでいた。
そのことを自覚している青年は、
肩をぶつけられても文句が言えなかったのだ。
青年は仕事納めで、
折角だから夕食に好物をと飲みや街に来たものの、どこも満席で途方にくれていた。
今は腹を満たすより、
体の冷えを何とかしたいところ。
ビル風を避けて歩きたどり着いたのは、
鰻の寝床のように細長い路地裏であった。
建物の壁からにょきっと生えた数々の壁面看板のうち、内照式でぼんやり菫色に灯っているものがある。
『jazzbar こうのとり』
青年は唯一営業していそうなその店に足を踏み入れた。
すりガラスがはめられた押戸を開くと、
暖かな空気に青年は包まれる。
「一名さん?どうぞ、こちらの席へ。」
青年は年配の店員に目を合わせず「あ、はい。」というと、促されるまま、深紅の皮が張られた、大きなソファーに腰かけた。
今時見ない大きなソファーは、
相当バネが弱っているらしく、
体重が平均より軽い彼でも、深く体が沈んでしまう。
中のクッション材がへたれてるのかと座面に手を沿わせる青年。
その指先にざわっと何かが触れた。
見るとそれは、灰色のスーツである。
ソファにはなんと、青年以外にもう一人先客がいたようだ。
年齢は60代前半だろうか。
薄くなった頭に撫で付けた灰色の髪、
下膨れのシミがある顔、
ふくよかな体型で、ウエストの無いアイビースーツを着ているものだから、座る姿は樽のようである。
男はふんふんと何かを口ずさみながら
膝を叩いてリズムをとっていた。
相席ならなんで言ってくれなかったんだと、
青年は心の中で悪態をつき、
ソファの隅っこによって、身を縮めた。
このぐらいの年代の男に説教を食らってきた青年は、なるべく関わらないようにと、
正面の舞台に目を向けた。
少し狭い舞台の上に、ピアノ、サックス、トランペット、ベース、ドラムが並び、しっとりと“Just Friends”を演奏していた。
ただ暖をとるために入っただけであり、
青年はジャズに詳しくない。
ただ、楽器が弾ける彼らに尊敬の眼差しを向けていた。
「お客様、すみません。」
「え、あ、はい。」
突然声をかけられ、青年は体を強ばらせた。
「当店はワンドリンク制となっております。
注文いただきたいのですが…。」
「あ、はい、すみません。じゃあ…。び、ビールと…あ、あと!バゲットを、おねがい、します…。」
「かしこまりました。失礼します。」
店員が一礼して去り、青年はほっと息を吐く。
さて、曲目は変わって力強い女性の歌声が聞こえてきた。
色気より食い気か、青年は舞台をちらっと見ただけで、届いたバゲットにかじりついている。
「ナイトアンドデーか。悪かないな、うん。」
青年は動きを止めて、男の方を見た。
男は青年に目を向けず、リズムに合わせて頭を振っている。
大きな独り言だと分かると、青年は肩の力を抜いてビールに手を伸ばした。
「ユミコはまだかな。ユミコは。ユミコの歌を聞きに来たんだがなぁ。全然現れねえな。」
ユミコとは聞いたことの無い歌手である。
ジャズ界では有名なのだろうか、と首をかしげる青年。
男は体をテーブルの方に向けて、つまみか何かをつかんで口に入れた。
ほっぺたが膨れた顔は、少し愛嬌がある。
男は顔をあげると青年に唐突に声をかけた。
「あんた若いね。誰が好きなの?」
「…えっ!ぼ、僕ですか?
いや、何も知らずに来たんで…。」
「そっか。もったいねえな。
ユミコはいいぞ。ユミコは。
ほんとにいい声だし、
何しろべっぴんだ。」
「そ、そうなんですね。」
演奏が終わる。
男は手のひらをパンパンと2回だけ打った。
ガタガタと楽器が動き、しんと静寂に包まれる。
聞こえてきた曲に、青年は顔を上げた。
音楽に疎い彼でも、その曲がジャズとは異なることが分かり、違和感を覚えたのである。
舞台には、ギターを弾く男と女性が立っていた。
女性は背が少し低く、丸顔で鼻がつんと高い。
口をへの字に結んで気取った表情は可愛げがない。
軽くウェーブさせセットしているショートヘアー含め、お世辞にも美人とは言えなかった。
青年は、これがべっぴんなのか?と思わず鼻で笑ってしまい、慌てて男の様子をうかがった。
幸い、男の目線は女性をとらえていて、青年のことは見ていない。
青年は、あれが恐らくユミコだろうとふんで、男にならい、舞台の女性に体を向けた。
女性が口を開く。
小柄な体からは想像もつかない、
太くのびのある声だ。
和訳された哀愁香る“朝日の当たる家”によく合う歌声に、青年は口を開けて聞き入った。
彼女が歌い終わると男はまたつまみを頬張りながら、上半身だけひねって舞台に向け、三回ほど拍手をし、すぐにテーブルに向き直った。
「そろそろユミコが来るな。うん。」
「え?今のがユミコなんじゃないんですか?」
「ユミコじゃないよ。あれはサチコ。
歌はうめえよ?でも、ちげえんだ。
ユミコの真似なんだよ。
ユミコはすげえぞ。
情景が目にうかぶんだ。
次がユミコのはずだ。うん。」
男は最後の一口を突っ込むと手のひらをはらって、舞台に正対した。
「ユミコー、まだかな、ユミコー。」
酔いが回ってるらしく、男は子供みたいに体をゆらゆらとゆらしている。
が、相変わらず、舞台には小柄な女性が立っていて、また別の、流行歌を歌いはじめた。
すると、男はこんなことを言った。
「なんだあ?
さっきからこいつばっかりじゃないか。」
青年はその言葉に首をかしげた。
ずっと、と言うが、この女性が現れたのは“朝日の当たる家”からだったはずだと。
「ずっと、ですか?」
「そうだよ。
俺はぁユミコの歌を聞きに来てんのに、
さっきからこの女しか
歌ってねえじゃねえか。」
男の大きな声は舞台にも届いているだろうに、
サチコは変わらぬ調子で歌い続けている。
「ユミコー。まだかー。
ユミコー。」
さて、青年はここで冷や汗をかき始めた。
隣のソファ席に座る、細身でメガネをかけた紳士がこちらをじっと見て、とうとう立ち上がり、こちらに向かって来ていたのだ。
紳士は男の側まできた。
喧嘩が始まることを覚悟して、青年は逃げ出す準備をする。
が、紳士の行動は斜め上をいくものだった。
なんと、男の上に腰を下ろしたのである。
青年は目を見開いた。
紳士は男が座っているところに座っている。
男は紳士に重なるようにして、半透明に透けていた。
その姿は、徐々に、徐々に薄くなり、
そして、消えた。
唖然とする青年に、紳士はにこにこと話しかける。
「見ない顔だね?初めて来たの?
嬉しいねえ。若い人が来てくれるなんてさ。
私はここができた頃から来ているんだ。」
紳士の声に重なるようにして、
男のユミコを呼ぶ声が聞こえている。
青年は頭がおかしくなりそうだった。
「ここができた19…63年だったかな?
その時から通っててね。
最初はナイトクラブだったんだよ?
知ってるかな?ははは。」
紳士が朗らかに笑っているが、
青年は体の強ばりを手放すことができない。
「その時は、すごかったよ。
ユミコというスターが生まれてね。
ちょっといじってたけど、
顔がよくて、歌も上手いから大人気でさ。
そしたら、彼女に憧れてか嫉妬してか
サチコって子がおかしくなってね。
整形を繰り返して、
ユミコになろうとしたんだ。
歌い方もね。だけど、とうとうある日、
ヤジに耐えられなくなって自分で命を…。」
青年は最後まで聞くことなく立ち上がると、紳士の静止も聞かずに上着と鞄を腕に抱えて駆け出した。
彼はレジで店員につかまり、なんとかお金を払ったが、混乱を極めており、お釣りを受け取らずに店を飛び出した。
この寒さの中、
上着を着ずに手で持って革靴で走る青年は
好奇の目にさらされる。
が、青年はそんなことお構いなしに繁華街を走り抜けた。
jazzbarこうのとりの舞台には、
サチコの姿など、どこにもない。
そこには、ナイト・アンド・デーを演奏したのと同じメンバーが立っており、
色気のあるムーンライト・セレナーデを穏やかに演奏していた。
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