第1章

第1話 近所の女の子の話


新田明美は1限目の講義を受けたあと、

一駅だけ電車に乗り、

民家が犇めき、煮物の匂いが漂う見慣れた道を歩いて、家へと向かっていた。



5月の頭らしい、穏やかな陽気である。



家まであと数メートルというところで、

明美は足を止め、すぐ右手に建っている古民家へと視線を向けた。



竹で組まれた簡素な生垣には、

細い植物がちょろちょろと生えているだけだ。


はっきりとは見えないものの、

隙間から向こうの様子を覗くのは容易である。




雑草がまばらに生えた広い庭に、

紫色の服を着た線の細い女性が立っていた。


こちらを背にして立つ彼女のまとめあげた髪の下、見とれるような白いうなじがある。


随分ゆったりとした様子の女性のすぐ側に、

黒髪のおかっぱ頭がちらついていた。



明美はそのおかっぱ頭をしばらくじっと眺めると、首をかしげながらその場から去った。







「お母さん、吉住さんとこのお姉さんってさ、妹いたっけ?」


明美は昼食を口に運びながら、居間でテレビを見ている母親に尋ねた。


「…ん、え、えっ。吉住さんとこ?」


母親はよほどテレビに集中していたのか、

はっと頬杖に埋めていた顔をあげて少し考えたのち、こう返した。



「あの綺麗な人ね。あんたが小さい頃から憧れてた人でしょ。…一人だったと思うけど…。どうしたの?」

「そうだよね。お姉さん一人っ子だったよね。じゃあ、あの子は何だったんだろう?」



兄しかいない彼女は、

吉住宅のご令嬢を実の姉のように慕っている。


明美がまだまだ幼かった頃、

吉住宅に遊びに行く度に

ご令嬢は口角をきゅっと上げる愛らしい微笑みを浮かべ、彼女の遊びに付き合っていた。


中学校に上がる頃には交流は途切れてしまったが、それでも、明美は時々吉住宅の生け垣から聞こえる柔らかな笑い声や、

ほんの少しのぞいてゆらめく紫色の服で、ご令嬢の存在を側に感じていた。



今日も生け垣から彼女が見えたのだが、

その周りをうろつく見慣れぬおかっぱ頭の存在に、明美はどうも胸がざわついていた。


ただの女の子だと思うのだが、

どうも嫌な予感がするのだ。



「子供?いや、結婚なんてしてたっけ…。」

「結婚なんてしてるわけないじゃない!」


母親はぴしゃっと言いきる。


「ええ?なんでそう言いきれるの?」

「だ、だって、そりゃあね。

 あんな綺麗な子が結婚したなら

 すぐに話題になっちゃうに

 決まってるじゃない。

 知らぬ間に結婚なんてあり得ないわよ。」


彼女は、あははは、と笑って見せた。


「そうだよね…。

 いや、ね、お母さん。

 ほら、駅からうちに帰る道、

 必ず吉住さんの家の側通るでしょ?

 何気なく庭を見たら、

 お姉さんの側に小さい女の子がいたの。」

「ええ?小さい女の子?」

「そう。小さい女の子。

 生け垣で途切れてて頭しか

 見えなかったけど。

 髪の感じが女の子だったよ。」

「あら、そう…。

 近所の子かしら?」


母親はそう呟いてうーんと考え出した。


「近所にはいない子だよ。

 見たことない子だったし…。」

「じゃあ、親戚の子じゃないの。

 吉住さんは遠いところに

 親戚の人がいたらしいし、

 遊びに来てたのよ。」 

「うーん…。そうなのかな?

 なんか、こう、嫌な予感がするの。

 顔は見てないけど雰囲気が違うって言うか。

 あーあ。

 ますますあの子がなんなのか

 分かんなくなっちゃった!」



明美は子供が拗ねたかのような口調で言うと、両手を上げてお手上げのポーズをとった。


ご令嬢に関する話になると子供っぽい話し方になるのは、明美の昔からの癖であった。



明美の様子を見て母親は

「またか…」と聞こえないぐらい小さな声で呟き、テレビを見る。



「うまく言えないけど、

 お姉さんの身に何かあるような

 嫌な予感がするの。

 こんなこと考えるなんて、

 私、おかしいのかな。」

「考えすぎ!

 さっきも言ったけど、

 ただの親戚の子に決まってるって。」



テレビを見たままあしらう母親に、

これ以上聞いても無駄かと黙る明美。


本当にただの親戚の子なのだろうか。

もやもやとした気持ちが募る。


コップに反射する明美の顔は

指紋と重なり曇っていた。







数日後。


大学が休みの明美は、

母親にちょっとしたおつかいを頼まれて

昼下がりに銀行へ行っていた。





線路が横切り、

細い道が入り組んだ駅周辺とは異なり、

大通りに面した交差点にあるこの銀行から家へは幾本もの道がのびている。



つまり、大学の帰りとは違い、

決まった通り道はなく、

どのように帰宅することも可能であった。




だのに、彼女は気がつくと、

わざわざ駅近くまで遠回りして細い道に入り

吉住宅の生け垣の前にいたのである。




なぜ、自分でもここに着てしまったのか

分からないでいる明美は

その理由を考えようとしたが、

頭にもやがかかったかのように、

目蓋が重くなり、思考が止まった。



その耳に、女性の笑い声が微かに聞こえてきた。



明美の顔が、隙間だらけの生け垣に引き寄せられていく。



彼女の右目が、竹の枠にぴたっとはまる。






ふふ。


あははは。




なんとも楽しげで柔らかい笑い声だ。



ご令嬢は明美に背を向けながら縁側に腰をかけ、隣に座る見知らぬ男にもたれていた。



意地の悪い枯れた木の枝のせいで

顔が見えないが、わずかにのぞく縮れた髪と

水気のない肌から、それなりの歳で

あることが分かる。




男の筋張った腕は

ご令嬢のしなやかな背にまわって服を掴み、

よった深いシワが切なさを訴えている。






御令嬢はくすくす、と嘲るような声をもらした。




耳の奥をくすぐるような甘い声に

男は服を離すや否や、

両腕で体を抱き寄せると、

そのまま二人で部屋の奥へと消えた。






あはは、あはは。




弾むような笑い声が部屋の奥から聞こえ始めた。




明美だって年頃である。

彼らが何をするかの検討はついていた。



気まずさを感じつつ吉住宅から目を離せずにいる彼女の眼下から、

ぬっと黒いものがせり上がる。




それは、あの、おかっぱ頭の女の子であった。



血の気の引いた真っ白な肌、

感情のない黒目がじっとこちらを見ている。





明美は目を見開き飛び退くが、

膝の力が抜けてしまい尻餅をついた。






突然現れた少女の顔への驚きと、

覗いていたことが筒抜けだったのではという羞恥心が、明美の心臓を高鳴らせている。



とにかく居たたまれなくなった彼女は、立ち上がると駆け足で家に帰った。






家に帰っても明美の心臓は騒がしかった。


自室のベッドでうつ伏せになり

スマホをいじるが気分は変わらない。


他人の家を覗いてしまった罪悪感がためか

背中にずしっとのしかかるような重さがある。


寝返りをうとうとしたが、

気だるさが強く、

すぐに諦めため息を吐き、

スマホを手から滑り落とす。


その上に力なく利き手を落として、

でたらめに爪でタップする。


どうやら何も考えないことにしたらしい。


遠くを眺める明美。


ボーッとしているとだんだん後ろめたさが

和らいできたようで、

顔の緊張が緩み、こめかみのはりが失せた。



思い出す令嬢の背中とそれを抱き締める男の姿、そして、柔らかで誘うような笑い声。



彼らは結婚しているというよりは

知り合ったばかりの初々しさを感じられた。



結婚はそもそもしてなくて、

私に隠し事をしていた訳じゃない…

そう解釈して安堵する明美。


が、表情はすぐに緊張の色を強めた。



「だとしたら…

 あの子がいるのは変だ。」



ぽつりと呟く。


たしかに、カップルのデートには不釣り合いな存在である。


仮に親戚の子だとして、

そんな幼い子がいる側で、抱き合ったりするものなのだろうか。


今時綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭というのも、違和感である。


あの子だけ、浮いているような気がしてならない。



「幽霊?いや、まさか…。」



考え事をしているうちに眠くなったのか

そのまま瞼が重くなり、

明美は眠りについた。






明美は、夢の中でまた、あの生け垣を覗いていた。



縁側に座っていた令嬢…お姉さんがこちらを向き、明美にいつもの微笑みを見せた。



目がぱっちりとしていて大きくて

眉は柳のように形が良く、

鼻筋がすっと通っている。


肌はつるんと滑らかだ。


おちょぼ口の口角だけをきゅっとあげる、

彼女特有の微笑みをそのままに

こちらに手を振る。


もう片方の手は家の方に伸ばしていて、

その手をごつごつとした男の手が握っていた。


植物に阻まれて、

その男がどんな様子かは分からない。


そんな彼女に“お姉さん”が話しかける。



ー明美ちゃん

 私、この人とずっと…ー



夢だからか、肝心なところが聞こえない。

ただ、男の手をぐっぐっと引っ張るところから、誰かを紹介したいようだ。


あの柔らかい笑い声が増して反響する。



一体どんな男の人だろう、と頬をびったり生け垣につけ、釘付けになる明美の眼前に

ばっとあのおかっぱ頭が現れた。



なにも言わず、こちらをじーっと見てくる少女。


同時に、お姉さんの姿が見えなくなり

笑い声がピタリとやむ。



完全な無音である。

急に恐怖心が込み上げてきた。


目を合わせることが恐ろしく、逃げようとしても、体を動かすことはおろか、目を閉じることすら出来ない。



至近距離で見れば見るほど、その子が余計に人ではないなにかにしか見えない。



増していく恐怖心、早まる心音。



やっぱりこの子は人間じゃない、と

明美が思った瞬間だった。



ぴき、ぴきぴき…。



女の子の顔にヒビが入り、

ぼろっと顔の一部が崩れ落ちたのである。






「いやあああ!」


明美は叫びながら目を覚ました。


「はあ…はあ…。」



うつ伏せのままで寝てしまったため、

体を起こそうとするとあちこちが痛む。


変な時間に寝たせいか頭がずきずきと痛むようで、頭をさすっている。


外はすっかりまっくらだ。


ベッドの上で座り込み、夢のことを思い出し、身を震わせた。



幽霊かどうかは分からないが、

女の子に対する疑心は確信へと変わった。


“お姉さん”に危険が迫っている、

今からは…もう遅いか?

明日になったらすぐに?

でも、なんと伝えればいい?


頭のなかをぐるぐると考えが忙しなく巡る。





突然、ガチャンと玄関のドアが開いた。





「ただいまー!明美ー?…明美ー!」

と聞きなれた母の声にほっと息を吐く明美。



途端に冷静を取り戻した明美。


ただの考えすぎかもしれないが、

またご令嬢に会ったときそれとなく

様子を聞いてみよう、と深く考えることを止めたらしい。



「ごめん、寝てた!どうかしたの?」


彼女は立ち上がって部屋から小走りで去った。







翌日、明美は講義を終えて

昼過ぎごろ、駅に着いた。



いつものごとく細い道に入った時、

騒がしい音に明美は思わず眉間にシワを寄せた。



ガヤガヤとがさつな男達の話し声と

木材がミシミシきしむような

荒々しい音である。



普段は穏やかな昼下がりのこの町には

不釣り合いな騒ぎだ。


音の出所に向かうと、

なんとそこはあの吉住宅である。


明美はお姉さんに何かあったのではと

生け垣に近づいた。




そこから覗ける庭に、

恐らく建設作業員だろうか、

図体が大きい男達がしゃがれた声で話している。


ところどころしか聞こえないが

なんとか拾った単語から

彼らはどうやら吉住宅の解体作業を

しているようだった。


建物の半分はもう壊されて屋根も壁もなくなっていた。



明美は混乱した。



家の様子から、

一日二日で出来る作業ではないことは明白である。


だが、たしかに昨日は

綺麗な庭と家がそこにあったのだ。



家の奥からだろうか、

男が「うわぁ!」と短い悲鳴を上げ仲間を呼んだ。



庭にいた数人が家の中へ上がると

口々に「わっ!」「なんだこれ。」と

不思議がり、そこからぼそぼそ何かを話し合っている。



少しして

「まあ、どかさないことには何も出来ねえし。」

「依頼人も何か出てきたら

 相談せずに捨てていいって

 言ってたしさ…。」

「ここは何十年も放置されてたからな…」

とかなんとかぼやきながら、重い表情の男達がどやどやと出てきた。



最後に出てきた男は

両手で掴んでいる何かを軽く持ち上げ

一瞥し、顔をひきつらせている。




それは、

妙に手入れの行き届いた

紫色の衣裳を身に纏った尾山人形と、

もう一つ、頭だけとなり果てたぼろぼろの市松人形だった。




男が腕を下ろすとかくんと

尾山人形が傾き、

明美はばちっとそれと目が合ってしまった。




刹那、明美の頭の中に次々と

“憧れのお姉さんと遊んだ思い出”のシーンが引き出される。



が、それらにうつるご令嬢はぐにゃぐにゃと姿を変え、とうとう無機質な人形と成り果てた。






明美は目を見開き頭を抑え

やっとの思いで言葉を吐き出す。


「そうだ…私はまだ小さい頃

 ここに忍び込んで、

 あの人形と遊んでた…。

 …お姉さん、じゃない、人形と…。」




明美は思い出した。


憧れのお姉さんはいつも同じ服であったこと、

子供の頃から一切歳をとっていなかったことを。


明美はようやく理解した。

母親がなぜ、自分が吉住宅のご令嬢の話をする度に、ひきつった顔をして話を濁らせるのかを。



異常なのは女の子ではない。

おかっぱ頭が現れてから異変が生じたのではない。

ずっと前から自分自身がおかしくなってしまっていたことに、彼女はようやく気づいたのだ。







愕然とする明美の耳に、あの、柔らかく弾む声が反響する。






あはは。



あははははは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る