水面の月に雁が落ちる
遊安
はじまり
黒羽、天空に散る
朝は寒くて、昼は温かい。
道端一面にタンポポが咲いている。
「もうすっかり春ねえ。」なんて母さんが、
お櫃から麦飯をよそって言っていた。
4月になったばかりだというのに、家には鯉のぼりが上っている。
大人って本当にせっかちだなぁと、
忙しなく身をくねらせる、
空を泳ぐ鯉を見て思う。
僕にはそれが苦しそうに見えるのだけど、
近所のおっちゃんやじい様達がみれば、
元気な姿に見えるらしい。
10歳になって、父ちゃんが肩車をしてくれなくなってから、
小さい頃には、あんなにも大きくて何でもできると思っていた大人達にがっかりすることが増えた。
一番の味方だと思っていた母さんにまでも、
分かっているふりをしているだけで何にも分かってない、と思うようになった
近所のたか
僕は大人になってしまうのだろうか。
ということは、こんなにも楽しいベーゴマもチャンバラごっこも竹馬も、突然つまらなくなってしまって、
服が汚れることの方が嫌になるのかな。
「大人になったらできることが増えるんだぜ。夜更かししてお酒だって飲めるんだ。きっと楽しいに違いない。」とたか兄は嬉しそうに言っていたけど、そうなのかな。
子供のままでいる方が楽しいのか、それとも大人の方が良いのか、正直僕は分からないでいた。
ある日、僕は酒を買いに行くようにとお金を持たされた。
なるべく急いで、なんて言うもんだからわき目も振らずに路地裏に入った。
酒屋のある大通りに行こうと右に曲がって立ち止まる。
道を遮るように、一匹の烏がとことこ歩いていた。
それは今まで見たことないほど大きな烏だった。
大きさは鶏ぐらいあった。
尾っぽが異様に長くって、それをずるずる地面に引きずりながら右から左へと歩いている。
(鳥なんだから飛べばいいじゃないか。)とやきもきしつつ、その大きな烏に襲われたらどうしようと怖くなって、お金をぎゅっと握りしめながら突っ立ち、じーっとそいつを睨みつけていた。
そいつは、道の端まで来たかと思うと、グルんと首を真後ろに曲げて振り返った。
と、同時に、烏はぐんぐん首を上に向かって伸ばしていく。
(え!?)と呆気にとられた。
声も出せずに目を点にする。
そいつの首が伸びると同時に、
顔の毛が禿げて白い肌がむき出しになり、
つんっと突き出た嘴はするすると引っ込んで薄い唇になった。
見上げる程の高さになったそいつはすでに烏でなくなっていた。
足先まである長い黒髪の女の人がそこにいた。
白い着物に黒い帯を締めていて、
その着物と境目が分からないほどの真っ白い腕がぬうっと袖からのびていた。
僕は何が何だか分からず、口をぽかんと開けて女の人を見た。
視線に気づいたのか、くるっとこちらを向く。
左右にぴっしりと分けた前髪のせいで、顔立ちがはっきりと分かる。
細い面長の顔で、とにかく肌が白い。
黒目がちなくりくりっとした目で、鼻は小さい。
薄くて幅の広い大きな口は、きゅっと口角だけが上がっていた。
彼女は顔をくっと斜めにして首を傾げ、そのまま何食わぬ顔で僕の目の前を歩き去り、家の裏へと姿を消してしまった。
しばらく動けずにいたけれど、僕はとんでもないものを見てしまったと慌てて家に帰った。
今見たことを伝えようとするけれど、息が上がっているし、何より言葉がまとまらなかった。
ようやく出たのは、「あのあのえっと。」と意味のない言葉ばかり。
母さんは大きく肩で息を吸ってため息を吐くと、
「神田っていう酒屋さん!よく母さんと行ったでしょ?買ってくるのは日本酒一ビン!さ、早く行った行った!」とぴしゃっと僕のお尻を叩いた。
(別に買うものを忘れた訳じゃないのに…。)と言い返したかったけれど、お母さんの険しい顔におされて、僕は黙って酒屋に行った。
その道中、あの女の人、もとい烏に会うことはなかった。
(見間違いだったのかな。いや、僕は確かに見た!次会ったら母さんに見せてやるんだ。)
僕は布団の中、鼻息を荒くした。
意地悪いことに、女の人は僕が一人の時にだけ現れた。
ある時は学校から帰る途中、田んぼのあぜ道で向こうから歩いてくるところに出くわした。
あの口角が上がった大きな口には見覚えがある。
僕は「あ!」と口を開けて呼び止めようとした。
が、次に続く言葉が思い浮かばなかった。
(母さんに会わせたいからここを動くな、いや、家に一緒に来てもらうべきか?そもそも、あなたは何者なの?)
初めて会ったあの日から何度も、頭の中で出くわした時の練習をしたというのに、いざ、会うと言葉がでなくなってしまう。
そうこうしているうちにその人は、白い着物の裾をずるずる引きずりながら僕の側までやってきて、不思議そうに僕をまん丸い目でじーっと眺めながら、悠々と僕の側を通り過ぎた。
「待って!」と振り返った時にはもう、その人はどこにもいなかった。
また、別の日。
神社に生えている大きな木に登って遊んでいた。
神主さんに見つかると怒られるから、誰も見ていない時を見計らって一人で。
最初こそ快調だったが、だんだんと疲れが出てきて、幹を抱きしめる腕の力が弱くなった。
(そろそろ降りようかな。こんなにも高く上ったのは初めてじゃないか?)
僕はどんな景色が見れるだろうとワクワクして周りを見渡した。
「…え!」
僕は驚き、腕を離しそうになって慌てて木に抱き着いた。
どっどと心臓が早鐘を打つ。
僕が今抱き着いている所から、真っすぐ横に伸びた太い枝の先端に、あの女の人がこちらに背を向けて腰を掛けている。
足をぶらぶらとさせて、暇そうにしながら首を気まぐれに左右にかしげていた。
(どうやって、いつ、登ったんだろう。いや、烏だから飛んだのか。気づかなかった。)
何故か分からないけれど、僕はすっかり無防備なその人を、驚かせたくて仕方なくなった。
初めて会った時の仕返しがしたかったから、だと思う。
僕に気づいていないのは今だけだから、驚かすのはこれが最後のチャンスだと思った。
僕はなるべく音を立てないようにと、慎重に彼女ににじり寄った。
“だるまさんがころんだ”をしている時みたいに緊張する。
けばだった木の皮に爪が引っかかると、カサっと音がしてしまうため、なるべく指の腹を使う。
ヤモリになった気分だ。
そろりそろりと忍び寄り、あと少しというところで、彼女は音もなく立ち上がり、腕を左右に広げて垂直に飛び降りた。
「危ない!」
僕は咄嗟に叫んで、枝を激しく揺らしながら、今まさに落ちようとしている彼女の手首に掴みかかる。
僕よりも大きなその体は、ぞっとするほど軽くて驚いた。
手首しか掴んでいないのに、彼女は地面に落ちることなく、ぶらりと垂れ下がった。
彼女がようやく僕のことに気づいて、ばっと僕の方を見上げた。
ばちっと彼女と目が合う。
僕はこの時初めて、彼女の顔を真近で見た。
黒目はつやつやと輝いていて、見開かれた目の周りを囲うように長く揃ったまつ毛が生えている。
細く長い絹糸のような髪の毛が、木漏れ日に反射して光りながら、驚く彼女の顔に張り付いていた。
僕は、こういう人を美人というのだろうと、まじまじと見つめた。
(ばあ様が大切にしているお人形みたいだ…。)
彼女は、手を離さない僕に怒ったらしく、ぐっと眉間にしわを寄せて、両膝を胸のあたりまで引き上げて、つま先を木の枝に引っかけ、思いっきり蹴った。
「わ!」
彼女の身体が離れる勢いが強く、僕の手からするりと彼女の手が抜けた。
地面に落ちるかというところで、彼女は半身を翻すと、あの大きな烏の姿になって、二、三度羽ばたきどこかへと飛び去ってしまった。
(ああ、そうだった。彼女は烏だった。)
僕はそんな妙なことに納得して、助けようとした自分が馬鹿らしいと思った。
そして、彼女の手が抜け去った手をしばらく眺めていた。
その後すぐに神主さんに見つかって、僕は箒ではたかれこっぴどく叱られた。
最近、僕が彼女を見るようになってから、大人たちが田んぼ周りに集まってひそひそ話をするようになった。
僕らには、人の悪口を言うなというくせに、ずいぶんと勝手だ。
秘密にされればされるほど、なんとしても聞きたくなってしまう。
側に寄ると、あっちへ行けって追い払われてしまうので、僕は大人の前では諦めたフリをして、側の家の裏に隠れて、聞き耳を立てた。
「またあいつら巣をつくってやがる。」
「まあこの時期だしね。」
「フンが酷いんだよ!最近なんて我が物顔でそこらじゅうを歩いてんだ。」
「このまま数が増えれば、きっと畑が荒らされるぞ。」
「その前に手を打たんとな。」
「全く、烏ってやつは図々しくていかんな。」
烏。
その言葉を聞いて僕はドキッとした。
真っ先に、あの人の姿が思い浮かんだ。
僕の気持ちとはよそに、大人たちは真剣に烏の悪口を言っている。
居心地が悪くなって、その場から立ち去った。
(家に帰ろう。)
とぼとぼ歩いていると、どこからか烏の鳴き声がした。
見上げると、一本の木の枝に、彼女が腰を掛けていた。
悠々と、鼻歌でも歌っているような顔だった。
僕の心配なんて、知りもしないで。
僕は何とも言えない気持ちになって、ただ彼女を眺めていた。
彼女はしばらく何もせずにぼーっとしていたのだけれど、突然、ぐっと前のめりになった。
澄ました顔に緊張が走っている。
なんだろう、と視線の先を見ると、別の木があってそこに一羽の烏がいた。
普通の大きさの烏で、羽のツヤがよく、他の烏よりは骨ががっしりとしている。
(警戒しているのかな。)と思って彼女に目線を戻し、目が点になった。
真っ白な肌の彼女。
その頬が、シソの葉で染めたみたいに赤くなっている。
烏と彼女はお互いに見つめ合って身動き一つしなかった。
烏の方が先に動いた。
枝を蹴って彼女のいる枝に飛び移った。
ぴょんぴょん跳ねるみたいに歩いて、側に近寄っていく。
するとどうだろう、彼女は身をよじって幹に身体をもたれ、口元を袖で隠し、顔をそむけた。
先程よりも更に顔が真っ赤に染まっている。
その姿は、今まで見たどんな姿よりも、うんと彼女のことを魅力的にしていた。
だけど、僕はその照れた顔を見ることが、とんでもなく嫌で仕方なくなって、その場から走って逃げた。
大人たちがまた集まって話をしている。
もう、隠す気もないのか大きな声だ。
それでも僕は、大人から見えない場所に隠れて、聞き耳を立てた。
「また烏の数が増えてきたぞ。」
「何なのかしら。不吉だわ…。」
「そういえば最近、大きな烏がこの辺を飛んでいないか?」
「ああ、見たことあるよ。」
「あんなのに子供達が襲われたらと思うと、心配でしょうがないわ…。」
「きっとあいつが烏の主だよ。あいつをやっつければ、大人しくなるんじゃないか?」
「よく他の烏と一緒にいるところを見るし、違いないね。」
「そうだな。よく、俺がキジ狩りに使ってる猟銃があるから、それで仕留めよう。」
僕は、全身の血の気が引いた。
(銃で撃つ?彼女を?)
そこに、おじさんが寄って来た。
「バカでかい烏か?さっき林の方で見たぞ。」
「そうなのか。ちょっと行くか。」
猟銃を持っている、と言ったおじさんが、近くの家に入っていった。
僕は考えるより先に、林へ向かって駆け出した。
(早く、早く行かないと!あの人が殺されちゃう!)
胸がぎゅっと締め付けられて苦しい。
鼻の奥がつんと痛くなる。
(泣くなよ、まだ、とにかくあの人の所へ!)
僕はかけっこの時より、うんと足に力を込めて走った。
林はこんなにも遠かったかな。
もう見えているのに、全然近づいていないように感じる。
唯一の救いは、まだ大人たちの姿が見えないことだ。
もう息が上がって苦しいけれど、僕は足を止めなかった。
ようやく林の入り口に着いた。
僕は、ようやく足を遅めて、よろよろと歩いた。
はあはあと息をからしながら、上を見上げて彼女を探した。
少し丘になったところ、一番背の高い木に、彼女はいつものように腰を掛けて座っていた。
僕は彼女の姿を見てほっとしてしまって足を止めた。
膝に手をついて体重を預けて、肩で大きく呼吸をした。
ようやく息が出来た、そんな気がした。
僕は体を起こして、彼女の方を見上げた。
彼女は僕をいつもみたいに、あのくりくりとした丸い目で不思議そうに見ていた。
僕は周りを見て誰もいないことを確認した。
(良かった、誰もいない。今なら…。)
僕は、彼女に話しかけようと、一歩足を踏み出し、口を開いた。
彼女は真っすぐ、僕を、僕のことだけを見つめている。
どぉん!
地面が揺れるような破裂音が、静かな林の中に響いた。
同時に、彼女の目が大きく見開かれて、真っ白な着物がじわーっと赤く染まっていった。
身体が左に傾き、そのまま木から落ちた。
枝にぶつかるバサバサっという音がする頃には、僕は、両膝を地面についていた。
伝えたかった言葉が喉にひっかかったまま、口を閉じることが出来ず、情けなく涙だけがあふれ出た。
ざっざっと音がして、木の根元に大人たちが集まって来た。
彼女の周りを囲むと少し話をして、そして、笑って、大人たちは来た道を戻っていった。
木の根元には、大きな烏が横たわっていた。
僕は、呆然と見ていた。
そして、ようやく立ち上がって、よろよろと歩く。
嘴をぼっかりと開き、翼を歪に広げた彼女の姿を見て、僕の目からまた涙が噴き出た。
「ぐひっ。」と情けない声が出て、激しく嗚咽した。
言葉があふれて、頭の中を台風のように荒らす。
もっと早く着いていれば。
呼吸を整える前に「逃げて!」と叫んでいれば。
自分を責める声が止まない。
抱えきれなくなった自分への怒りは、彼女を殺した大人たちに向かった。
彼女は何かしただろうか。
いや、しなかった。
大人たちは勝手な想像で、殺したんだ。
「祟ってくれ。あいつらを。あんた、人に化けれるじゃないか。祟るぐらい、簡単だろ…。」
そこまで言って、また泣いた。
涙が乾いて、呼吸が落ち着いたのは、日が暮れてからだった。
林から村に続く、夕焼けに染まった一本道を1人で歩いて帰る。
村の入り口に、たか兄がいた。
たか兄はしゃがんで煙草を吸っている。
僕に気づくと、口から煙草をとって立ち上がった。
「おい!どこ行ってたんだよ!膝にこんなに泥つけて…。お前のお袋さん探してたぞ!」
「…。」
「何があったんだよ。な?」
「…なんでも、ない。」
「そっか。」
黙って側を横切ろうとする僕にたか兄が言った。
「あ、俺がタバコ吸ってたって言うなよ!親父から盗んできたんだ。へへっ。」
僕は小さく頷いた。
悔しいことに、彼女が死んでから村の雰囲気はとっても明るくなった。
僕はずっと、罰が当たるのはいつかと身を焦がしていたけれど、何事もなく行く月も過ぎ、季節は夏になっていた。
村に烏は一羽もいなくなったし、どの畑の野菜も傷一つなく立派になっている。
大人たちはいつも笑っていて、美味しい野菜をもらった母さんは、今までよりも明るくなった。
川をメダカがのんびり泳いでいる。
誰かに食べられる心配もしないで。
たか兄が煙草を吸っているところにまた出くわした。
「よっ。お前、本当に告げ口しないでくれたんだな。ありがとよ。」
「…。」
僕はじっとたか兄を見た。
「あ?お前は駄目だよ!まだ早すぎる。」
「それって、うまいの?」
「ああ。いや、うまかないけど、ほら、大人の味ってやつだよ。そういえば、なんかお前、落ち着いたよな。うん。成長した証だな。
背も伸びたしさ!」
たか兄は嬉しそうに笑った。
「たか兄。」
「うん?」
「大人になったら、自分が笑うために、楽しみのために、躊躇なく生き物を殺すようになるのかな。」
「えっ。」
たか兄は、度肝を抜かれたようだった。
煙草からぱらぱらと灰が落ちた。
僕は呆気にとられているたか兄のことをじっと見て言った。
「僕は、大人になりたいとは思わないよ。この先、大きくなっても、大人になってしまったとしても、僕はそう思うと思う。」
ぽかんとしたたか兄を置いて、僕は踵を返した。
あの人が死んでから、何度も何度も姿を思い浮かべようとするのに、正確に思い出すことは出来なかった。
もう死んでしまって、居なくなってしまった彼女に会うには、記憶に頼るしかないのに、僕はそれが上手く出来なかった。
彼女のことを、美人とか綺麗とかでしか表現できなくてとてももどかしい。
彼女の美しさを、的確に表せるような言葉を知らないことが悔しくて、悲しくて、僕は本を読むようになった。
彼女が着ていた着物だって、ただ白色だった訳ではないし、細かい模様が入っていた気がする。
帯もただ黒いだけじゃなくって、柄が入っていた。
僕はばあ様やじい様に聞いたりして、着物のことを色々調べるようになった。
部屋の隅へ放っておいたベーゴマに埃が被っていることに気がついたのは、
僕が学校を卒業する歳になった頃であった。
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