国である男の言葉

夢星 一

独り言

 丘の上で紫色に輝く光が見えてくると、男はボートをこぐ従者に、ここでいいと

一言言った。


「ここからは一人で行く」

「わかりました。お気をつけて」


 慣れた様子で従者は首を垂れ、男はボートのふちを手で押して体重をかけてボートから降りた。人一人の重みが消え、ボートは大きく跳ねて水滴を飛ばした。


 男の膝まで濡らす湖の水は透明で、足元の、色とりどりの小石や男の靴が透けて見えるほどだった。今日は月が新月で、月明かりがない。それでもこうもはっきりと見えるのは、やはり丘の上のその人のおかげだった。


 従者の乗ったボートが離れていくのを確認して、男は丘に向かって歩き出した。抵抗を感じさせずに、さらさらと水が割れていく。


 湖の真ん中にポツンとあるこの場所を、果たして丘と呼んで良いのかは、男にはよく分からなかった。……島?

 

 男が首元の金具をパチンと外すと、するりとマントが地面に落とされた。軽い音を立てて地面に倒れこんだマントをそのまま放置して、男は丘を登る。すぐに、木が二本見えてきた。

 男から見て右側に立つのは、長年の生を感じさせる、ごつごつとしたダークブラウンのたくましい幹を持つ木。青々と茂った葉が、風に揺れて歌う。一本の枝にはオレンジレッドのハンモックが括り付けられている。

 そしてそのハンモックの残る反対側が括り付けられている、左側にある木。この木こそが、男の一番の目的であった。男にとって、特別な木。木と呼ぶのも間違っているかもしれない。精霊。白銀の木の精霊。


 その木をこうも特別なものにするのは、その輝かしさ、美しさ、慈しみ感じさせるたたずまいと笑み。しなやかな曲線を描く体は銀色に輝き、時折青色、紫色の姿を見せる。だらりとリラックスして投げ出された手はすらりと細く、美しかった。

 彼女の髪ともいえる枝には、紫色の小さなまぁるい花が無数に咲いている。紫色と言っても単調なものではなく、青紫、赤紫、うすむらさき……かすかに違う色とりどりの紫色である。そしてその花は、不思議なことに金色に輝くのだ。


 男が近づいてくる足音が聞こえたらしい彼女は、耳元の枝を揺らして、閉じていた瞼を開いた。ガラスのような瞳を男に向けると、彼女は微笑み、腰を下ろした。

 しなやかで、それでいて丈夫な幹がぐにゃりと曲がっても、不快な音は全くしなかった。


 男は彼女に近づき、ハンモックに体を横たわらせた。ハンモックは彼女の胸下に括り付けられている。


 彼女はそっと男の頭を手繰り寄せた。右手は男のほほに、左手は優しく、男の髪を母親のようにさらさらとなでている。


「今日ね、新しい国の子が来たんだ。お供の人を一人連れて、見学に」


 安心したような笑みを浮かべて、男は話し出した。


「僕のところに来たのは最後みたいだ。もうほかの国は見て回ったらしい。3つか4つらしいけど、ずいぶんと見て回ったなあ、って感心したよ。僕は両隣にしか行かなかったからね」


 話しながら、ふぅわりと広がる彼女の髪に咲く花に手を伸ばして男は戯れる。あんなにもきらきらと輝いていた彼女の光は、こんなにも近づいた今では全くまぶしくない。


「それで、いろいろとお茶をして話をしていたんだけど、その子が僕に聞いたんだ。『いい国になるためには、何が大切だと思いますか』って。それで、僕は、ちょっと考えて『誰よりも健康でいること』って答えたんだ。そしたらその子――体格の小さな子だったんだけど――きょとんとしててさ」


 思い出したように男はふふっと笑った。しかし、すぐにその笑みを消すと、伸ばしていた腕を下ろし、過添えられた彼女の手に頬を摺り寄せた。



「でもさ、僕らってそういうもんだと思うんだ。国であるって、そういうことだよ、きっと」


――「僕たちは国そのものだから。王冠をかぶって、誓いを立てて、儀式を終えたときから、僕らは国とつながるんだ。目の届かないところで敵に侵攻されていたら体が痛い。どこかで民がたくさん飢えていたら、何を食べていても僕は満腹にならない。悲しみにおぼれている民がいるなら、僕もどこか悲しい……いわば指針だよ。だから周りの人は、どんなことも見逃すまいと、僕をいつも見ている……何かがあると皆すっごく心配するんだ」


 風が吹き、彼女の髪が揺れ、花々の光が躍った。


「すごいな。流れ星みたいにきれいだったよ。君の花」


 男が小さく笑った。


「だからさ、僕の言った返事は間違っていないと思うよ。王が健康であること。それが一番民が安心することなんだ。僕が街にしょっちゅう降りて散歩するのも、実はそのアピールなんだよ……なんてね、半分は嘘だ。普通に街にいるのが好きなだけ」


――「あの子は……いろんな国の事情を見てきたから、まだ、悩んでいるようだったけど……多分大丈夫な気がする。一緒にいた彼は、きっとあの子を支えるだろうから。きょうだいみたいで、微笑ましかったんだよ。僕たち国は、時々、すっごく孤独だから……不思議なことにね。周りに人がいるのに寂しいんだ。何も怖くはないはずなのに震えるんだ。これは民から来た訴えじゃない。はたから見ると同じに思われるかもしれないけれど、僕らにはわかる。どの感情が民のもので、僕ら自身のものなのか……でもさっき言ったように、ほかの人には違いが分からないから、心配をかけてしまうだろう?」


 そう言って、男は、首を少し上に傾けて、微笑みながら男を見つめる彼女を見た。


「だからこうやって話をできる人が必要なのさ。僕にとっての君のような人が。シェフの作るコーンスープがちょっと甘すぎるとか、夜中に目覚めたときに聞こえる風音が、戦争の足音に聞こえて怖い。なんて話とかをさ」



 風が今度は優しく吹き、木々が鈴のような音を鳴らした。音に合わせて花がきらめく。額に手を当てて男は――国である男――は笑った。



「あの子がどんな国になるのか、僕は見てみたい」



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