最終話


 空が晴れたのか、そもそも今は昼なのかすら分からない。ジルはこれから訪れるであろう痛みに怯えて、長い夜を過ごした。今晩は何もないんだから、とサーヤに言われても、ジルは安眠できずにいたのだ。


「多分、まだ数時間あるよ」

「うるせぇ」

「昨日からもう二十回は言ったと思うけど、全部自業自得だからね」

「分かってんだよ、そんなこと」


 サーヤは持ち込んだ本のページをめくり、のんびりとジルに告げる。この場所へは、サーヤだけが自由に出入りできるようになっていた。これから美味しいものを食べさせてあげるからね、と肩のコウモリに告げると、彼は快くサーヤに協力し、結界を張ったのだ。


「ねぇ悪魔さん。ご馳走あげるから、ちょっとジルの身体封じてくれない?」

「は……? お前、まさかここで私に何かしようってんじゃ」

「まさか。そんなことしないよ。私、これでもジルのこと好きだし」


 ジルは自分の身体が動かないことに気付いたが、何をすべきか分からなかったので身を任せることにした。


「それに、ジルに何かしても、悪魔さんのご馳走にはならないでしょ」

「おま、まさか……!」

「うん」


 サーヤは左手を開いて床に置き、近くに落ちていた大きめの石を拾うと、強かに自身の手のひらを石で殴った。


「おい! やめろよ!」

「あれ。上手く手が動かないや、折れちゃったかな? まぁいいや」


 みるみる内に真っ赤に腫れていく手を見つめて、サーヤはのんびりとした口調で独り言を言う。そして再び手を床に置くと、何度も石で叩きつけた。ジルは動けない身体で叫んだが、サーヤの手は止まらない。皮膚が裂けても、血が出ても、指先が動かなくなっても、何度も何度も。


「頼む……やめてくれ……」

「私、何回も言った。ジルに、やめてって。でも、一回も聞いてくれなかった」

「それは……」


 骨が折れ、血に染まった左手をだらりと下げて、ジルに見せつけるようにしてサーヤは続けた。


「ジルは私に聞いたよね。回復魔法でどこまでできる? って」

「……」

「回復魔法って、その人の人体への知識がそのまま反映されるの。幸い私は魔力も結構ある方だし。だからね、これくらいはすぐに治せるよ」


 サーヤは動かなくなった左手を、右手で掴んで握る。普通であれば激痛に悶える場面だろうが、痛みを担うのは一週間後のジルだ。まだ自分が働いた凶行の痛みすら始まっていないというのに、ジルの声は掠れていた。患部を握る所作を怒鳴られると思っていたサーヤは、拍子抜けしたように言った。


「普段なら絶対ふざけんなって怒ってたのに。そんな気力もないんだ」


 まだ始まったばかりの、いや、始まってすらいない地獄を前に、ジルは数年ぶりに涙を流していた。初めて見たジルの泣き顔を前に、サーヤは恍惚とした表情で「かわいいね」と囁く。そして言った。


「おかしいんじゃないかな。一滴も血を流さないでさ。ぎゃーぎゃー喚いて泣いて。気狂いみたい。ううん、連れを売って悪魔と契約するなんて、元々気狂いか。ね、ジル。そうだよね?」


 サーヤの目には怨念など籠もっていない。彼女の目に宿るのは、ジルへの親愛の情だけだ。それが空恐ろしさを加速させている。

 懐中時計を懐から取り出したサーヤは、鈴の音を転がすように笑った。あと少しでたくさんジルの声が聞けるよ、と。そしてすぐに立ちくらみに襲われる。サーヤは振り返って本を手に取った。それは分厚い本だが、全てが白紙だった。


「便利だよね。これ、一ページ一ページが回復用のスクロールになってるんだよ。……って、聞いてないか」


 いつの間にか気を失っているジルを見て、サーヤは微笑んだ。呪文を唱えてページを千切る。頭より高く紙をかざして魔力を込めると、醜い左手がたちまち回復した。何度か手を握ったり開いたりして具合を確かめると、付いた血はそのまま、読みかけの本に手を伸ばす。

 自分の身体を痛めつけるのところをジルに見せつけたいサーヤは、彼女の意識が戻るまで休憩を取ることにしたらしい。いつ目覚めるかは分からないが、サーヤはきっとそれまでに本を読み終えることはないだろう。彼女曰く、”あと少し”で暴行の痛みがジルを襲うのだから。


 ***


 ジルは、サーヤに齎した暴行の痛みに三度耐えて見せた。当然、彼女は地下遺跡に幽閉され続けている。初日の夜こそ、風呂に入りたいだのまともな食事にありつきたいだのと文句を言ってのけた彼女であったが、翌日からはそれもなくなった。サーヤがジルに見せつける拷問のような仕打ちに比べれば、ジルがサーヤにしたことなど、かすり傷のようなものだが、それでもジルの気力を奪うには十分だったのだ。

 地下遺跡に降りて二日目、サーヤは自分の腹をナイフで刺して見せた。喉から血が出るのではないかという程にジルは叫んだが、彼女が騒げば騒ぐほど、サーヤは悦んだ。もうお腹刺すの止めるね? と言った直後に太ももをナイフで貫くと、ジルはストレスで嘔吐した。


 昼夜を問わず、二人はそうやって時間を過ごした。サーヤも時計を手にしてはいるが、もうその時計が指し示す時間が午前か午後か分からなくなっている。そしてジルはまた意識を手放す。これはサーヤの自虐ショーではなく、ジルがサーヤに齎した痛みが返ってきての失神だった。

 サーヤは持ち込んでいた気付け薬を嗅がせると、甘い声でジルを呼んだ。しかし、意識が覚醒して一番に襲ってくるのは、腹部への強烈な痛みである。変な声を上げて蹲るジルを横目に、サーヤは楽しそうに言った。まるでお菓子作りでもしているかのような声で。


「ねぇ、この針。何に使うと思う?」


 サーヤはジルに問い掛けたが、彼女は自分の身体を襲う痛みに必死で耐えているところだった。答えがないのは分かっていたようで、サーヤは痛みに喘ぐジルの声を無視して続けた。見ていないかもしれないと、丁寧に自分の行動を解説しながらの凶行である。


「こうやって、手のひらから肘に向かって腕の中を通すように針を刺すでしょ?」

「あああぁぁぁぁ!! オイ!! やめろ!!!」


 発狂しそうになりながらも、ジルは懸命にサーヤを静止した。しかし、聞く耳を持ってもらえるほど、彼女の日頃の行いは良くなかった。


「体からはみ出てる針をぐりぐりしまーす」

「てめぇええええ!!!!」


 サーヤはニコニコしながら手のひらから飛び出している太い針を握って、ぐにぐにと動かした。叫びすぎてジルが嘔吐するのを見届けると、「他にもあるよ?」ともったいつけるように告げる。


「おい!!!! 早く針抜け!!!!! えぶっ……!」


 ジルは突然横に転がり、自らの吐瀉物の上に背を付けた。サーヤの腹部を殴った痛みだろう。吐瀉物に塗れても、ジルは構わず次に訪れる痛みに備え、呆然と天井を見つめながら呼吸を正していた。サーヤは楽しげに歩み寄ると、ジルの視線の上に腕を伸ばし、針が刺さったままの手首を見せつけるように動かした。煽って馬鹿にしているような行動だが、ジルはそうは思わない。彼女は来週訪れる痛みを想起をして、ただ心を削った。


「ああああぁぁぁ!!」


 地獄のような光景と痛み、それに相応しい叫び声の中、サーヤの愛嬌のある声が場違いに響く。


「ねぇ。私の痛みに襲われてる間に、ジルの体を傷付けたらどうなると思う? 二重に痛いって、どんな気分かな」


 この問いにジルは返答をしなかったが、聞いていない訳ではなかった。ただ絶望していたのだ。それは頬を襲う痛みすら吹き飛ぶほどの絶望だった。


「試してみようよ。とりあえず小指飛ばすね」

「……!」

「魔法で飛ばすのも味気ないよね」


 サーヤはジルの身体を魔法で拘束すると、食事に使うナイフを取り出した。せめて一思いにやってくれとジルは願っていたが、その僅かな望みすら消し飛んだ、ということになる。


 動けないジルの手を取り、小指を掴んだサーヤはゆっくりとその指にナイフを押し当てた。

 その時、何かが消えた。部屋の照明が切れたように、二人にとって一瞬で分かる何かが。サーヤが魔法で作った明かりは生きている。周囲を見渡して、先程までとの違いを探す。ジルは一人、腹を殴られる痛みに蹲っていた。


「あれ? 悪魔さん?」

「……悪魔が、消えたのか?」

「私、ずっと一緒に居たから、なんとなく分かる」

「いってぇ! ……何がだよ」

「悪魔さん、多分死んじゃった」

「は?」


 サーヤの言うことは正しかった。しかし、そんな一言でジルは納得できない。ただ一つ言えることは、今ならどんな魔法でも使えそうだ、ということだけである。痛みが消えて魔法に集中できれば、の話だが。


「悪魔さんが食べるのって、私の身体の怪我や痛みと、それに関わる感情なんでしょ?」

「……あぁ、そんなこと言ってたな」

「私がジルのこと怪我させようとしたときに、感情の食べすぎで形を保てなくなって死んじゃったっぽい」

「マジかよ……いった!」

「もう、ジル。静かにしてよ」

「お前がやったんだろ!」

「違うよ、元はと言えば全部ジルのせい」


 今しがたジルを襲ったのが、その日最後の痛みだった。ジルを拘束しておく手段が無くなったサーヤはあっけなく彼女を解放することにしたのだ。


「まぁ、解放されても、数日はここにいるけどな。とりあえず一旦家に帰るけど」

「どうして? 気に入っちゃった?」

「自分がやった分と、あと数日間はお前の拷問に耐えなきゃいけないんだよ、忘れたのか」

「あー、そういえばそうだね。私、成績に響くの嫌だから学校行っていい?」

「お前も付き合うんだよ!」


 自分に痛みを飛ばす存在が外で生活するなど、許せることではない。さらに、ジルにはある展望があった。


「お前、私のこと好きって本当か」

「え、うん。やられたらやり返すけど。それは身を以て知ったよね?」

「そりゃもう……まぁ、それなら決定だ。お前、学校辞めろ」

「え? やだ」


 口ではそう言ったが、サーヤはこの時点で従うことになるのだろうと、頭のどこかでは分かっていた。悪魔の魔力を吸収しきったジルが本気を出せば、サーヤに拒否権など無いも同然なのだ。


「お前の家族全員殺すぞ」

「……私のことなんて置いてけばいいのに」

「自分に痛みが返ってくるって、半身も同然だろ。無理」

「……えへへ、そんなに言うなら」

「家族全員殺すって脅されて喜んでんじゃねぇよ……」

「このナイフで自分のお腹刺そうかな」

「やめろ!!!!」


 そうして、数々の痛みをジルが乗り越えてから、二人は揃って退学したのである。退学届は受理されず、休学という形にされたが、彼女達に戻るつもりは無かった。



 ***


「今度は本物だろうな」

「さぁ。とりあえず、私が試してみるよ」


 探検者風の女は卵を拾い上げると、魔法を発動させうようと意識を集中させた。ローアンバーの髪が風に揺れる。何も起こらないのを見届けると、銀髪の女は徐々に目を見開いた。かつて長かったそのスレートグレイは、ばっさりと切り落とされ、そよ風が彼女のうなじを撫でた。


「……本物、だな」

「っぽいね。探し始めて三年で見つかるって、案外短かったね」

「あぁ。それじゃ、渡してくれ」


 ジルとサーヤは退学届を出したあと、アルフレッドの卵を探すため、旅に出ていた。たまに食料などを買いに街に戻ることはあったが、ほとんどが魔物の巣食う未開拓地での冒険である。しかし、人類最強とも言える力を手にしたジルには造作も無いことだった。

 アルフレッドの卵を探し出し、ジルはサーヤの付与した痛みを今度こそ放棄するつもりでいた。できることならサーヤに返し、その上でボコボコにしてやりたいと思っていた彼女だったが、一度放棄した感覚は本人に戻すことはできない。

 あのときは色々あった、と思い出したくもない過去を珍しく振り返りながら、ジルはサーヤに手を差し出す。しかし、卵は輝き、サーヤの手からは、アルフレッドの雛が飛び立っていった。


「は?」

「ごめん、使っちゃった」

「は?」

「だって、私の痛みを放棄されたら、もう私って用済みだよね?」

「……お前、まさか」

「うん。ジルの痛み、もらっちゃった」


 ふざけんなという怒鳴り声が響き、周辺に潜んでいた魔物たちが一斉に退散する。それでもサーヤは顔色一つ変えずに微笑んでいた。


「あぁあと、一週間後に痛みが来るって何かと不便でしょ? だからついでにそのタイムラグはなくしてもらったよ。私とジルの痛覚にまつわること、ってことで、一個のお願いとして聞いてもらえたみたい」

「そんなことはどうでもいいんだよ!」

「私は痛みと一緒に気持ちいいって感覚もなくなっちゃったんだけど……私達ってエッチしたらどうなるんだろう?」

「知らねぇよ!! ……はぁ~、やってらんねぇ。とりあえず街戻るぞ」

「はーい」


 こうして二人は、人類には到達不能と言われていた山から降りることにした。彼女達がレイア暦最強の開拓者として歴史に名を残すことになるのは、もう少し先の話である。


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