第二話

 二日後、魔法学校の錬金術棟の空き教室に、二人の少女の荒い息遣いが響いていた。サーヤは胃液を吐きながら、弱々しくジルを見上げている。


「悪い、ちょっとやりすぎたかも」

「ひどいよ……」

「そうだな、今日のお昼、せっかくサーヤの好きなクラブサンドだったのに」

「そういう問題じゃないよ……」


 肩で息をしながら、ジルは床に手を付くサーヤの横顔を眺めていた。サーヤを傷付けた右手は、固く握られたままだ。

 魔力と金は蓄積すればするほどいい。そう考えているジルは、あの契約をした翌日から、早速サーヤを痛めつけることにした。やりすぎて周囲に怪しまれることが無いようにはしている。

 この二日間でサーヤが知ったことは、二つ。痛みを感じなくなった体は、何かに触れている感覚すらも希薄になった。ペンを持っているのにその感覚が分からないし、試しに身体をマッサージしてみても、何も感じない。難儀な身体になってしまったと、様々な場面でため息をついていた。


 二人の上では、コウモリが嬉しそうにぱたぱたと旋回していた。今もサーヤの体が受けた痛みを食べて悦んでいる。授業中も行儀よくサーヤの肩に留まっているコウモリは、個人的な研究の為の使い魔だ、ということになっているので、然程怪しまれてはいない。動物を使い魔にしている者は彼女以外にも居る上、超が付くほどの優等生のサーヤがそうすることに、誰かが疑問を抱くことはなかった。

 なので、サーヤにとっての問題は、あの日から感覚を失ってしまったことと、ジルが変わってしまったことだけだ。いや、厳密に言えば、ジルは何も変わっていない。元々ジルはサーヤのことを特別だとは思っていなかった。というよりも、子供が容易に死んだり売られたりする環境で育ったジルは、誰かを特別に想う気持ちが理解できなかったのだ。利用できる存在が側にいたからそうしただけなのである。

 一方でサーヤは、裕福な家庭に育ち、一流の教育を受け、さらにはその教育を完璧にその身に付けた才女である。友達と呼べる者が一人もいない環境だったことだけが二人の共通点だが、その受け止め方は真逆のものだった。

 サーヤには、ジルしかいなかったのだ。家や才能を見ず、サーヤをサーヤとして接してくれるのは、ジルだけだった。自分の意識がない間にとんでもない契約をされても尚、サーヤはジルに、こんな馬鹿げたことはやめて、卵を見つける前の二人に戻りたいと願っていたのである。


「ねぇ、ジル。もう、止めようよ」

「痛いのか?」

「痛くは、ないよ。ただ、なんか、上手く喋れない」


 サーヤの息が切れているのは、ジルが彼女を傷付けたからだ。痛みを感じずとも、体はダメージを受けている。腹部を何度も殴りつけられたサーヤの体は悲鳴を上げていた。魔力欲しさに、ジルが自身に身体能力を上げる魔法を使用したので、サーヤの体は豪腕の男に嬲られた程度には傷んでいた。


「ねぇってば」


 サーヤはそう言って両手を広げた。サーヤが静止しなくとも、そろそろ学校が閉まる時間になる。ジルは様々な器具が並べられたカウンターの向こうの窓を見やると、彼女の誘いを受け入れるようにハグした。

 一日の暴行の終わりにはハグをする。これはサーヤが提案した唯一のルールだった。そうして今日も嬲られ続けたサーヤは安堵し、ジルの華奢な背に腕を回すのだった。こんな非道で情け容赦の無いジルでも、体は温かい。サーヤはジルが唯一有している温かさが好きだった。


 そして一週間が過ぎ。その日も、二人はいつもの空き教室で対峙していた。外は豪雨で、それが二人の息遣いをかき消している。二人は時間の感覚も分からなくなっていた。サーヤは永遠を、ジルは小一時間という体感時間を過ごしている。実際には授業が終わってから二時間が経過しているのだが、壁掛け時計のすぐ前に錬金術の器具が重なっているこの部屋で、それを知ることは出来なかった。

 サーヤは、胃液ではなく、血を吐き出していた。内臓から込み上げた血液ではなく、口内から出血したものではあるが、いずれにせよ年頃の少女がしていい怪我ではない。

 ジルの暴行は日々エスカレートしていき、初めに顔を殴られてから二日が経過していた。他人から見て分かる部分は傷付けないようにすべきだと考えていたジルだったが、毎日懲りずに登校してくるサーヤに怪我の具合を尋ねたのがきっかけとなった。サーヤは言ったのだ、「回復魔法は得意だから」と。

 なるほどその手があったか、と感心したジルは呟いた。じゃあ顔を避ける理由ないな、と微笑んだ。サーヤは絶望した表情を見せたが、ジルはお構いなしだ。

 実を言うと、ジルは少し前から不満を感じていたのだ。それは、蓄積される魔力が思ったよりも少ないということ。既に彼女の魔力は小さな町を一つ吹き飛ばせるほどに溜まっているのだが、悪魔と契約を交わした代償としては少なすぎるくらいだと感じていたのだ。胴体をいたぶるよりも効率のいい何かを探していた彼女には、渡りに舟だった。

 だから、サーヤの顔は原型を留めないほど腫れ上がっている。昨日はもう少し遠慮があった。だばだばと口の中に流れてくる血液をそのまま口から床へと垂れ流しながら、サーヤは鼻の骨を折ったかも知れない、などと呑気に考えていた。


「サーヤ。サーヤって、どれくらいの回復魔法を使えるんだ?」

「……」

「例えば」


 ジルの指先には、悪魔との契約に使った魔法が宿っていた。指先が青白く光り、魔力で作られた刃は、サーヤの目に不気味に映る。


「切り傷とか」


 サーヤの手のひらを切って得た魔力が、殴りつけるよりも多かったことを思い出してしまったジルは本気だった。


「ジル……」


 彼女は、もうダメだ。サーヤはそう思った。この残虐性が悪魔の魔力によるものなのか、彼女が元々持ち合わせていたものなのかは分からないが、この問いに答えなければ、答えるまで嬲られることになると確信したのだ。

 ジルがゆっくりと近付き、サーヤの頬に触れようとしたとき、ジルの頬に激しい痛みが降った。


「ったぁ!?」


 魔法を解き、何が起こったのかと周囲を確認したが、何もない。存在するのは顔を腫らして、血まみれでジルに憐れみの視線を向けるサーヤだけだ。


「何を、した……?」

「何もしてないよ。何か出来るように見える?」

「いや……気のせい、なのか?」

「気のせいではないけどね」

「はっ……?」


 サーヤはゆっくりとその場に座り直すと、力なく笑った。


「いま、ほっぺたを叩かれたような痛みが走ったんでしょ」

「……そうだよ」

「一週間前、私に何したか。覚えてる?」


 やけに余裕があるサーヤの言い方に少しばかり腹が立ったジルだが、とりあえずは素直にサーヤの問いの答えを考えることにした。長い沈黙のあと、ジルははっと顔を上げる。


「私、お前のこと、叩いたな」

「うん。痛みが消えたか試してって、私からお願いした」

「……どういうことだ?」

「どういうことも何も、そういうことだよ。私は元々痛みを消して欲しいなんてお願いしてない。痛みを一週間後のジルに飛ばしてってお願いした。それだけ」

「はぁ!? お前ふざけんなよ!」

「私を殴る? 来週、ジルが蹲ることになるけど」


 サーヤに諭されたジルは、力なくその場に膝を付いた。怒鳴る気力もない。何故ならば、ジルにはこれから一週間、サーヤにした暴行の痛みが返ってくるのだ。徐々にエスカレートしていたことについては自覚もある。震えるジルの肩に優しく手を置いたのは、他でもないサーヤだった。


「行こう。ジル」

「どこに……?」


 サーヤの提案に、縋るようにジルは顔を上げる。もしかすると、この状況を帳消しにできる場所があるのか。彼女の目はそう言っていた。サーヤは鼻で笑い、現実を突きつける。


「地下遺跡だよ。ジル、寮でしょ? うるさくしたら怒られるよ」

「てめぇ……!」

「全部自業自得じゃん」

「だからって、こんな……」

「何か反論できるならしてみてほしいくらいだよ」

「くそっ……」


 そうして二人は、床に落ちた血の始末をすると、それぞれの自宅ではなく、地下遺跡へと向かうのであった。ジルが傘を持ってきていなかったので、サーヤは自分の分を彼女に持たせると、ジルの腕にぴったりとくっついて街を歩いた。



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