液浸標本

原多岐人

 


 薄暗い部屋の中は外気より冷えている。このくらいの室温でないと都合が悪い。限られた幸福な時間を可能な限り延長する為には、これが重要な要素になってくる。室内には、私1人だけで、家具は椅子と2人がけのテーブルがそれぞれ1つずつあれば十分だった。他の物を置かないことは決めていたので、かなり奮発した。紫がかった落ち着いた褐色がこの部屋の薄暗さに溶け込むのは、一目見た時にわかった。私は椅子に座り、彼はテーブルにいる。光量の少ない中でも、その透ける揺らめきはテーブルの木目と相まって私の心も揺らめかせる。

 手を伸ばすと、触れたガラスの感触でさらに指先から温度が奪われる。厚手の遮光カーテンに袖が触れ、透明な板一枚で隔てられた空間、というか水中に一筋の光が差し込む。今の今までぼんやりと輪郭だけを感じとっていたものが、浮かび上がるように現れ出でる。血の気をすっかり失った、滑らかな陶器のような肌。そこには表情皺なんて存在する余地もない。うっすらと開きかけた瞳は、今でもしっかり光を反射する。唇は色を失っているが、その方が色味のバランスがとれるから、この方がいい。今にも開きそうな瞼の具合も上手くいった。初めてにしては本当に上出来だ。もっとも、彼以外をこうする予定は無いので、これが最初で最後だから上出来でないと困る。彼は1人しかいないので、失敗したらやり直しがきかない。私は彼の前に手を翳し、揺らす。瞳に光が反射する動きで眼球が動いているように錯覚出来た。


 それにしても、根本、首筋の部分をしっかり残しておいて正解だった。ネットで昔見た画像は、この部分がないことにより、顎が完全に底に着いてしまい、何だか不恰好だった。写真を撮る時、顎を引かないと顔が大きく見えてしまうというのも、何だか納得出来る。首の長さをある程度残すために、まずはデコルテあたりを切断する。その後骨をパーツに分けて取り外していき、残った肉を切断面の滑らかさに注意して整えていく。時間がかかりすぎると今後の保存状態に影響してくるので、丁寧な作業を心掛けつつも、迅速に行わなければいけなかった。胸や腕や足、生殖器など不必要な部分は全て取り去った。その手間を思い出すと、よりこの彼の姿が尊く思える。思わず吐息が漏れる。思いもよらぬ熱がこもっていたようで、表面のガラスが白く曇った。

 彼を見つめ続けて何時間か経った。この空間での時間経過の把握は困難だ。外は陽が沈みかけていた。そう言えば今日は2回目の溶液交換だ。間違っても彼を包み込む液体を変色させてはいけない。私が生きている間は出来るだけ良好な保存状態を保ちたい。私の死後は、どうせ世界は終わるから関係ない。

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液浸標本 原多岐人 @skullcnf0x0

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