最終話
堤防から臨む、光の当たることのない真夜中の海は、暗いというよりも黒いと言ったほうが表現としては正確かもしれない。一面が黒いインクで塗りつぶされているかのような光景は、ずっと見ていると無性に心細くなる。
波の音が一瞬だけ止まって、冷たい潮風が私の髪を揺らす。
今は、夜空に浮かんでいる月の明かりが海面を照らし、海の向こうでは建物やビルから発せられているのであろう人工的な光がちかちかと瞬いている。そして隣では一季が、その手に持っている懐中電灯とスマートフォンのライトで私を照らしている。だから、心細くはない。
「─落ちないように、気をつけて」
中身のカプセルを地面の上でひとまとめにしていると、後ろから一季が心配そうに声をかけてくれる。
湾に面している陸地から突き出たような堤防の上に、私と一季は立っている。幅も広く、海面からそこまで高い位置にあるわけではないけれど、それでも真下は海だ。視界も悪い。足を踏み外しでもすれば怪我を─もしくはそれ以上の事態になってしまうかもしれない。
また風が吹いて、地面に置いていたカプセルのいくつかがころころと、私から逃げるように転がっていく。そして、そのまま吸い込まれるように暗い海へと落下していった。私はただそれを目で追うだけだった。
一季が照らす光を頼りに、私は屈んでカプセルを拾う。
貼られたラベルに書かれていたのは、女の子の名前だった。私にいじめを行っていた生徒のひとりだということには、すぐに思い当たった。これからも忘れることは、ない。
カプセルを手で回して開け、丁寧に隅を合わせて小さく折り畳まれているルーズリーフを中から取り出す。時間が経っていることもあって、流石に中の手紙は古くなっていたけれど、書かれている文字はちゃんと読める。
パティシエになれていますか。素敵な人と結婚して幸せになっていますか。女の子らしい、丸っこくかわいらしい文字で、そういったことが書き連ねられていた。
私は目を閉じた。くしゃ、と握っていた紙の端が手の中で潰れた。
彼女はどういう心境でこの手紙を書いたのだろう。どうしてこんな手紙を書くことができたのだろう。私にいじめを行っておいて、私のことを苦しめておいて、どうして自分が幸せになることを望む資格があると思っているのだろう。
けれど、そんなことを考えても、今となってはもう意味のないことかもしれない。私にとっても、この手紙を書いた彼女にとっても。
ゆっくりと目を開けた私はカプセルの蓋を閉め、海に向かって思い切り放り投げる。
それからすぐに、ぽちゃん、と力が抜けるような音が、微かにではあるが聞こえた。呆気ないな、と思った。
またカプセルを拾い上げて、開ける。
今度はお世辞にも綺麗な字で書かれているとは言えない、男の子のものだった。プロサッカー選手になっていますか。私としては、彼がサッカー選手になっていてもなっていなくても、どちらでもいい。
手紙をカプセルの中に戻し、蓋を閉めて、海に向かって投げる。カプセルを地面から拾い上げ、中の手紙に目を通して、投げる。何度も、何度も。
じんじんと肩と腕が痛む。徐々に息も上がってきた。それでも、私は繰り返す。
今日、私は悪いことばかりをしている。慣れない動作を続けて火照った身体とは対照的に、私の頭はひどく落ち着いていた。
不法侵入に、不法投棄。タイムカプセルを持ち出してきたのは、もしかすると窃盗だったり窃取に当たるのだろうか。タイムカプセルが無くなっていることが判明したとき、学校は警察に届け出たりするのだろうか。警察が動いたとしたら、本当に私たちは逮捕されてしまうのだろうか。
たぶん、そうはならない。私たちのやることが、都合の悪い方へと転がるはずがない。根拠なんてものはどこにもないけれど、そう信じずにはいられなかった。
─家に帰ったら、一季にはちゃんと謝らなければならない。あまりにも勝手な我が儘に付き合わせてしまったのだから。
けれど、彼は初めから私がやろうとしていたことに気づいていたのではないだろうか。
彩葉がそれでいいのなら。あの言葉にすべてが集約されている気がする。
きっと一季は知っているのだ。いじめられていた過去を、私が今でも忘れることができないでいることを。今から私が、彼らに対してささやかな、そしてどうしようもなく下らない復讐をしようとしていることを。
それらを知っていてもなお、こうして私の傍にいてくれる。
そんな彼のことを、私は愛おしく思う。
だけど、もしも。
もしも一季が、いつまでも過去に執着し続けている私に幻滅したとしたら。
もしも一季が、そんな私のことを嫌いになってしまったとしたら。
そんな考えが頭を過っただけで、私は後ろを振り返るのが怖くなる。
─ふと、私を照らしていた光が消えた。
一瞬で、自分の身体の輪郭が分からなくなった。
いや、実際には目を凝らせば見える。自分の身体も、自分の腕も、カプセルを強く握りしめている自分の手だって見える。
光だって、もちろんすべてが消えているわけではない。遠くに見える街並みにはまだぽつぽつと明かりが灯っているし、夜空に浮かんでいる月だって、薄い光を纏い続けている。消えたのは、一季の持っていた懐中電灯と、スマートフォンの光。そのふたつだけだ。
それでも私は、身体が震えだしてしまいそうなくらい、怖いと思った。
私のことを照らしてくれていた光だけではなくて、一季も消えてしまったように感じてしまって。
それがどうしようもなく怖くて、私は泣きそうになった。
いじめを受けていたあの時でさえ、泣きそうになんてならなかったのに。
一季。
私は駆り立てられるように彼の名前を叫び、スマートフォンのライトを一季の方へと向ける。
私の手元から放たれる、あまりにも微弱な光が、それでも一季を静かに映し出す。
彼は、困ったようにも。
─そして、呆れているようにも見えるような表情で、笑っていた。
また、波の音が一瞬だけ止まった。
一季はこちらにゆっくりと近づき、静かに私の隣に立つ。すると、彼は私と同じようにカプセルを拾い上げ、中の手紙を取り出し、ざっと目を通すと、また手紙を戻して蓋を閉める。たどたどしく私の真似をしているみたいに見えた。
そして、表情を変えることなく、彼はカプセルを思い切り投げる。大きく振りかぶって、ひゅん、と風を切るように。
しばらくして、たぷん、と静かに海面を打つ音が聞こえた。
「ざまあみろ」
どこか楽しそうに、けれどはっきりとした怒りを込めてそう言ったのは、私ではなく、一季だ。
彼らしくない言葉遣いが面白くて、私も笑った。
─私の過去も、一季の過去も、そして、誰のものとも分からない過去も。
きっとこの波の音とともに、ゆっくりと溶けていく。
記憶は波音に溶けてゆく 鹿島 コウヘイ @kou220
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