第10話

 放課後、私と一季の掃除当番が重なった日がふたりきりで話すのに都合が良かった。会話をしていても不自然ではないし、人目も少ないからだ。私はともかく、彼が誰かから、くだらないからかいを受けてしまうのは避けたかった。


 教室前の廊下の突き当たり。そこで彼はひとり黙々と、階段の隙間に溜まったゴミを箒で掃いて、一か所に集めていた。もちろん几帳面なのは良いことなのだけれど、先生が監視しているわけでもないのだから程々に済ませればいいんじゃないか、とも思う。


 自分の緊張が伝わらないように「鷹野くん」と、過度なほど平静を装って私は彼に声をかける。


「─なに?」


 廊下の窓から差し込む夕日が眩しかったのか、一季は目を細めながら顔を上げた。


「─この学校にはもう慣れた?」


 わざとらしい笑みを作ったまま、上澄みだけを掬ったような、意図を隠した質問をする。


 ─姑息だ。これでは転校してきたばかりの彼を遠巻きに眺めていた、他の生徒たちとどこも変わらない。


 言いたいことがあるなら言えばいい。聞きたいことがあるのなら聞けばいい。他人にはそう思っていたのに、自分はできない。姑息な自分が、私は嫌いだ。


「─それなり、かな」


 階段を掃いていた箒の柄を右手から左手に持ち替え、相変わらずつまらなさそうな顔をしたまま彼は答えた。夕焼けが、彼の半身を鮮やかな橙色に染めている。


「クラスの人とかは、どう?」

「どうって?」


 掃除を怠けているのか、廊下からはクラスメイトたちの楽しそうな声が聞こえてくる。私たちがあの集団に混じる機会は、これからもう訪れない。けれど、私に限ってはそれで構わない。


「ほら、鷹野くんって東京から転校してきたじゃん。だから、他の人と話が合うのかとか気になって。この辺とか、けっこう田舎の方だしさ」

「それは、滝沢さんを除いて?」


 彼と会話をしていると、こんな風にときどき調子を狂わされることがある。けれど今は恥ずかしさを含んだ戸惑いよりも、断然、後ろめたい気持ちの方が勝っている。


「え? まぁ、うん」

「だったら話の合う人、というか─仲のいい人はいない、かな」


 そんな私とは違って、いつもと変わらない調子で、一季は淡々と答える。


 仲のいい人はいない。それを聞いて、調子に乗るな、と自分の身体の内側から告げられてしまったみたいに胸の辺りが苦しくなった。


「それは─」


 私のせいかもしれない。


 そう私が言おうとするよりも先に、一季が口を開いた。


「─まぁ、別に慣れてるからいいんだけど」


 え、と喉から声が漏れた。幸いなことに、彼には聞こえていなかったようだ。


「僕、人と話すのが得意じゃないんだ。友達って呼べる存在なんて、ほとんどできたことないと思う。それでも今まではすぐに学校が変わって、どうせ誰とも会わなくなるから正直どうでもよかったんだけど」


 そこで彼は間を置く。まるで言葉にしてしまうことを躊躇うかのように。


「これからしばらくはここで過ごすことになるって、お父さんとお母さんが言ってたんだ。だから、頑張って友達をつくらないといけないかもしれない」


 少しだけ不安そうな表情をして彼は言った。まだ知り合ってからそこまで時間は経っていないけれど、それはおそらく珍しいことなのではないか、と思った。




 今の私には、彼の真意は見抜けない。


 他人から向けられる悪意に鈍感なのか。本当に、友達がいない原因が自分にあると思っているのか。それとも、私のことを庇っているのか。そのどれに当てはまるのか、そもそもその中に正解があるかすらも分からなくなった。


 だけど、彼の。その自分の弱さを隠す手段を知らないような、寂しそうな顔を見たときに。


 気がつくと、私は口を開いていた。


「ねえ、鷹野くん─」


 鷹野くんの友達に、私がなっていいかな。


 私の記憶が正しければ、そう言ったはずだ。私にしては不器用で、それでいて単純な、そんな言葉を。


 そしてきっと、私の記憶は正しい。




 こうして私と一季は友達となった。


 それからは同じ中学校に進学して、小学生の頃よりももっと私と一季の関係が深くなって、私と一季が同じ高校を志望していることが判明して、受験を終えて、ふたりとも合格していることが分かった後に、私から告白をした。


 友達から恋人という関係になって、同じ高校に入学して、お互いに恋人らしいことをして、高校を卒業して。都内ではあるけれど、別々の大学に進学することになって。けれど、しばらくしてから同棲をするようになって。


 そして、現在に至る。




 私は今、幸せだと感じている。


 一季と出会うことができてよかった。心から、そう思っている。




 ─けれど、だからこそあの手紙は。




 小学校の卒業式も目前となった、とある日。


 卒業の記念に、未来の自分に宛てた手紙を書こう。最後の思い出作りのためか、ほとんど自習のようになっていた授業の時間を使ってそう提案したのは、自分のクラスで行われていたいじめにも気が付くことのできなかった─もしくは、気が付かない振りをしていた担任の先生で、クラスメイトの大多数もそれに賛同していた。


 もちろん私はその逆だった。一季を除いて、このクラスの面々と思い出なんてものを共有したくなかった。そんなことをわざわざ口には出さないし、結局は出せないのだけれど。


 手紙を書くこと自体も面倒だったし、そもそもこれを開ける場に居合わせたいと微塵も思えなかった私は、当たり障りのないことを適当に箇条書きで書くことにした。大人になっても元気でいますか。将来の夢を叶えていますか。やがて、大人になった私でさえも受け取りたくないと思うような手紙が書き上がった。


 そんな私とは違って、一季は何を書くべきかを真剣に迷っている様子だった。紙の上でゆっくりと鉛筆を走らせ、何か文章を書いては消して、また書いては消してを繰り返している。彼は変なところで真面目で、きっと本心から、未来の自分が受け取ることを想定した手紙を書こうとしている。


 隣の席で頭を悩ませている一季を横目で見た後に、私はほんの少しの気まぐれと、ほんの少しの冗談と、そしてそれよりもずっと大きくて、そして淡い感情を込めて、最後に一行を付け加えた。


 鷹野くんと一緒に、この手紙を読んでいますか。


 そのときはまさか、実現するとは思っていなかったけれど。




 もしも今の私たちを知らないクラスメイトがこの手紙を読んだとしたら。


 彼らは私たちを嗤うだろう。馬鹿にするだろう。愚かだと思うだろう。私たちのことを覚えていたとしても、忘れていたとしても。


 私のことを嗤うのは構わない。どれだけ馬鹿にしてくれてもいい。


 けれど、一季を嗤うな。

 



 私と一季の過去を嘲笑することを、私は許さない。


 私と一季にしてきたことから目を背けて、自分たちのあの時間は、あの過去は、とても美しいものだったと思い返すことを、私は許さない。


 絶対に、そんなことがあってはならないのだ。

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