後編

 だってわたしがどんなに奮闘したところで、クリスさまの味方を増やすことはできても、王子の性根をたたき直すまでには至らない。 

 マリエッタの狂言が発覚し、クリスさまとルナンドが結婚したところで、果たしてふたりは幸せな結婚生活を送ることができるだろうか?


 ――絶対に無理だわ。


 ならばどうすればいいか。


 ――そうだわ、もっと素敵な結婚相手を探せばいいのよ! 


 どうしてもっと早く、そのことを思いつかなかったのだろう。もし婚約破棄を回避したところで、ルナンド王子はクリスさまにはとても相応しくないし、結婚しても不幸になる未来しか見えない。

 ルナンド王子はマリエッタとふたり、似たもの同士幸せになればいいのだ。


 そしてわたしにはひとり、クリスさまのお相手に相応しい男性に心当たりがあった。

 彼ならばきちんとした礼節を持ち真面目で、聡明かつ知的。容姿も端麗であり、何より身分の釣り合いも取れる。


 我が国の第二王子、アルベール殿下。

 ルナンドの弟君おとうとぎみである。


 彼はルナンドとは腹違いで、母親の身分が低いせいで何かと兄に遠慮がちだ。

 しかしルナンドと違ってとても優秀な王子で、兄と違って大らかかつ人当たりもよく、兄と違って臣下からの信頼も厚い。そう、素晴らしい王子なのだ。しつこいが、兄と違って。


 彼が留学から少し早く帰国するよう仕向けるとか、あるいは留学そのものをなくして、クリスさまと恋に落ちるよう仕向ければいいのだ。

 年齢はクリスさまより一歳下だけど、その程度はなんの障害にもなりえない。我ながら冴えているではないか。


 何度も失敗を繰り返したおかげもあり、わたしの計画は万全だった。

 国王陛下はご健勝でいらっしゃるし、詳細は省くがアルベール殿下の留学も阻止できた。

 彼らは胡乱げな眼差しでルナンドを見つめている。


 有力貴族のご夫人やご令嬢たちがクリスさまを取り囲み、口々に慰めの言葉を送っているためか、会場にいる他の貴族たちの反応も予想以上にクリスさまへ同情的だ。 

 九度も時間を遡った苦労がついに報われようとしている予感に、わたしはすっかり安堵していた。


 ――本当によくやったわ。これでアルベール殿下がクリスさまに求婚すれば完璧ね。


 もちろんその辺の根回しも完璧だ。

 クリスさまとアルベールさまのお茶会をセッティングしたり、外出の予定を密かに調整し、おふたりが出先で顔を合わせるよう仕向けたり……。

 もともとが聡明な方々だ。

 好きな本の話題や、趣味である乗馬のお話などで非常に盛り上がっており、大変いい雰囲気だった。


 今だって、クリスさまの隣にはアルベール殿下の姿がある。


「大丈夫ですか」

「ええ、アルベール殿下。なんの問題もありません」


 ああ。

 寄り添うおふたりの、なんと絵になることだろう。きっとこの後は、国王陛下とアルベール殿下が上手いことあのバカ王子の愚行の後始末をしてくれるはずだ。


 これほどの不始末をしでかしたのだから、ルナンド王子は間違いなく王位継承権を剥奪されるだろう。

 別にこの国の王太子は、第一王子が必ずなるものだと決まっているわけではないのだから。

 代わりにアルベール殿下が王太子となり、クリスさまと婚約を結ぶに違いない。

 これでわたしの役目も終わりと、育児を終えた母親のような気持ちになりながら、わたしは目尻に滲んだ涙を拭った。


 ――クリスさま、アルベール殿下、ご結婚おめでとうございます。


 一抹の寂しさが胸を過ぎるのを感じつつ、気の早い祝いの言葉を心の中で呟いたわたしは、人々に背を向けそっとその場を離れる。

 幸いにして誰もが壇上の王子やマリエッタ、そしてクリスさまやアルベール殿下に注目しており、わたしひとりだけが違う行動を取ったところで気づきもしない。


 そうしてわたしが向かった先は、食卓だ。

 煌々と燭台の光が輝く長テーブルには、色とりどりの料理や果物、デザートが並んでいる。

 王宮に勤める一流の料理人たちが仕込んだ、最高級料理。わたしは涎を垂らしそうになりつつ、嬉々としてそれらを皿にのせていく。


 ――すごい。なんて美味しそうなの……!


 つやつやに輝く七面鳥の丸焼きや、庶民では滅多に食べることのできない、みずみずしい生野菜を使ったサラダ。牛肉のゼリー寄せに、カボチャのプディング、魚介のパイ包み焼きまである。

 見つめるだけで幸福感に満たされる料理の数々は、もはや芸術の域に達している。


 実はわたしは、大変な食いしん坊だ。

 貧乏生活が長く、その辺の草を煮て食べていたほど苦労していたせいもあるだろう。クリスさまのもとで美味しいお菓子や食事を食べられるようになり、わたしの食欲は大いに増してしまった。


 今までは婚約破棄シーンを見届けることに全神経を集中させていたせいで、一度も手を付けたことがなかったが、これでようやくご馳走にありつける。


 ごくり、と無意識に喉を鳴らしたわたしは、いそいそとフォークを手に取った。

 そして、


「いただきま――」


 涎を垂らさんばかりの勢いで大口を開けた、その瞬間だった。


「く、くくっ……あはははははは」


 軽快な笑い声がわたしの耳を打ったのは。

 よく聞き覚えのある声だが、わたしの知っているものより野太く、そして少々豪快だ。

 振り向けば、腹を抱えて笑っているクリスさまの姿が目に入って、わたしは口をぽかんと開いたままフォークを床に落としてしまった。

 しかし会場の人々は皆クリスさまに注目していて、そんな些末な音には気付く様子もない。 


「ああ、おかしい。私と婚約破棄? ルナンド王子、貴様はとんでもない愚か者だな」


 あの声は一体なんなのだろう。

 これまでのクリスさまの声は、多少低めではあったが間違いなく女性のものであった。しかし今の彼女の声は、まるで成人男性のようだ。


「一体いつ、私が貴様と婚約を結んだというのだ」

「――は!? 何を馬鹿なことをっ」

「馬鹿なのは貴様のほうだろう、ルナンドよ」


 ルナンドが驚愕に目を見開き、間抜けな声を上げる。クリスさまの口調と声質が普段とまったく違うことにも気付いていないらしい。


「クリス! 私にふられたショックで頭がおかしくなったか!? こんな――公衆の面前で王子たる私を愚弄するとは。それほどまでに私がマリエッタを選んだのが悔しいのか」

「悔しい? なぜ?」


 クリスさまがぞっとするような笑みでルナンドを見据えた。その口調は冷たく突き放すような響きがあり、まるで黒いオーラが彼女から立ち上るかのよう。


 ――って、本当に黒い何かが見える!?


 クリス様の身体を黒い霧のようなものが覆い隠し、一瞬の後、ざぁっと音を立てて晴れる。

 そして再び現れたクリスさまの姿に、わたしは棒を呑んだように立ち尽くした。


 赤い目に黒髪。滑らかな褐色の肌にねじれた双角は、わたしがよく知るクリスさまの特徴そのものだ。

 しかし綺麗に結い上げていたはずの髪は解けて腰までまっすぐ伸び、身体つきは全体的にがっしりと逞しくなり、もともと高かった背丈が更に頭ひとつ分ほど伸びている。

 そしてパーティーのために身に着けていた深紅のドレスは、なぜか男性ものの盛装に変じ、身を飾るアクセサリーは跡形もなく消えてしまっている。

 たったひとつ、指輪を除いて。


 彼の右手小指に嵌まっているのは、わたしのよく知る指輪だった。


 わたしの目と同じ、青い硝子玉の埋め込まれた指輪。

 何度人生をやり直してもそのたびにクリスさまがお祭りに連れ出してくれて、毎回必ず露天で買った、お揃いの。


『それは、婚約披露パーティーには着けていかないほうがいいのではないでしょうか……』

『婚約披露の場だからこそ着けていきたいんだよ。ああ、もちろんメルティナも決して外さないでね』


 わたしにとってはもちろん大切な思い出の品だから、お風呂場以外で外すことはほとんどない。が、いわゆる玩具のようなその指輪が婚約披露パーティーに相応しいとはとても思えなかった。

 だけど毎回そんな提案をしては、クリスさまからやんわりと否定されるので、わたしは何も言えなくなってしまう。


 ――まさかあの男性が、クリスさまなの……?


 わたしは棒を呑んだように立ち尽くし、半信半疑でクリスさま――らしき男性を見つめた。

 誰もが声を失い、ことの成り行きを見守る中、真っ先に声を発したのはルナンドだった。


「おっ、おっ、おっ、お前! 誰だ! 一体どこから現れた!? 衛兵! この不埒な侵入者を捕らえよ!」


 やや声を震わせながらも、彼にしては勇ましい命令だった。

 しかし会場の隅に控えていた兵士たちは、おずおずと顔を見合わせるばかりで少しも命令に従おうとしない。ルナンドを無視しているわけでなく、威圧感を放つ赤い目の男性に物怖じしているといった雰囲気だ。


「同盟国の皇太子に対して〝お前〟とは、随分な物言いだ。それに、三年間も同じ城で共に暮らしていながら、多少姿形が変わっただけで私が誰かわからないだと?」

「ク、ク、クリスなのかッ!? だが、お前はどこからどう見ても男ではないか! そそ、それに、キルシュタインの皇太子だと――!?」


 空気を引っ掻くようなルナンドの声に、わたしはついつい感嘆してしまう。

 男性って、あんなに高い声を出せるものなのね……と。


「おやおや、子犬のようにキャンキャンと喚いて。だが、いい年をした男が喚くさまは愛らしい子犬とは違って、ただ鬱陶しいばかりだな」

「な、なにぃっ!? こ、このっ、不敬な! 僕がこの剣でたたき切ってやる!」


 ルナンドが腰の剣をするりと抜き、マリエッタが「キャア」と悲鳴を上げる。

 まさか同盟国の皇太子に斬りかかるつもりなのか――と誰もが青ざめる中、クリスさまがぱちんと指を鳴らした。

 たちまちルナンドの手の中で剣が砂へ変わり、さらさらと音を立てて床へ零れていく。


 ――まさか、あれがキルシュタイン皇国の魔法……?


 話には聞いていたが、クリスさまはご自分の魔法をひけらかすような真似は決してしなかったため、この目で実際に目にするのは初めてだ。

 剣が一瞬で砂に変わるのは恐ろしくもあったが、それ以上に、絶大な力を持つクリスさまのことをすごいと思う気持ちのほうが大きい。


 乗馬もダンスも剣術もお上手で、美しく聡明な上に魔法まで使えるなんて。クリスさまには欠点や弱点なんて、ひとつも存在しないのではないだろうか。


「ガルドラ国王陛下は、ご子息に随分と立派な教育を施しておられるらしい」


 感心のあまりぼんやりしていたわたしの耳に、クリスさまの凜とした声が聞こえてくる。

 彼はつい今しがた剣で襲われかけたにも拘らず、少しも堪えた様子もなく大げさに肩を竦めてみせた。 その視線が国王陛下のほうへ向けられていたので、わたしも倣ってそちらを向く。


 陛下は蒼白な顔をし、片手で額を押さえていた。纏う空気はずっしりと重く、ごきげんとは正反対のご様子である。


「さて、陛下。前々から何度か忠告申し上げていたが、これでおわかりいただけたでしょう。あなたのご子息――第一王子は、とても王太子に相応しい器ではない」

「なっ、なぁっ……!? クリス、お前よくもそんな――」

「黙らないか、ルナンド!」


 青ざめた顔のまま、しかし威厳たっぷりの声で国王陛下が言い放つ。

 滅多にない父親の怒声に、ルナンドは鞭打たれたように大きく身体を震わせ、餌を求める魚のように口をパクパクさせて黙り込む。


「我が愚息が大変なご無礼をいたした。誠に申し訳ない、クリス皇太子。どうかこの通り――」


 国王陛下がクリスさまに向かって恭しく頭を下げ、招待客たちがどよめいた。

 いくら相手が同盟国の皇太子とはいえ、一国の王が、臣民の見ている前で他人に頭を下げる。それがどれほどのことか、ルナンドはわかっているのだろうか。


「父上! なぜそのような女……いや、男? 女? とにかくわけのわからない存在に頭を下げるのですかっ」


 ――どうやらわかっていないようだ。

 陛下がもう一度ルナンドを叱り飛ばそうとしたようだが、クリスさまはそれを手で制した。


「もう結構。……ルナンド、私は前々から貴様のことを世界一の愚か者だと思っていたが、この期に及んでまだ状況を理解できないとは、本当に救いようがないな」


 クリスさまは大股で颯爽とルナンドに近づく。

 そしてやや前のめりに、まっすぐに彼の目を見つめながら、冷ややかな笑みを浮かべた。


「私は父キルシュタイン皇帝の命を受け、この国の第一王子である貴様が王太子たる器であるかどうか、この目で確かめに来たのだ」

「はっ!? だ、だがっ、お前は三年前からこう言っていたではないか! 〝見識を広め、未来の伴侶と親睦を深めるために来た〟と! それは僕のことでは……っ」

「なぜ私が、貴様のような無能と結婚しなければならない?」


 ルナンドの顔が真っ赤に染まり、全身がわなわなと震え始める。しかしたった今、剣を砂に変えられた恐怖のためか、彼は拳を握りしめ、悔しげに唇を閉ざしただけだ。


「私は〝未来の伴侶〟と言っただけだ。それが貴様だとは一言も言っていない」


 ――確かに。


 そんな声がほうぼうから聞こえてきて、わたしは自分の心の声が勝手に口から漏れたのだと一瞬勘違いしてしまった。

 クリスさまの『未来の伴侶』発言。そして同盟国の皇女という立場から、皆、勝手に彼女がルナンド王子の婚約者だと思い込んでいた。

 しかし確かに、本人の口からそういった言葉が出たことは一度もなく、国王陛下がそれらしい発表をしたことも一切ない。


「貴様が早合点して、長いこと私を婚約者と思い込んでいただけだ。その上、私を邪険にしてそこのマリエッタとかいう女を重用するのだから、呆れ果てて言葉も出ない」

「でもっ。結果的にお前は婚約者ではなかったのだから、私がマリエッタといちゃつこうが何しようが問題はないではないか!」

「結果的にそうだとしても、貴様は私を自分の婚約者だと思い込んでいたのだろう。ならば一国の王族らしく、もっと波風立てぬ賢いやりようがあったとは思わないか?」


 ルナンドは必死だが、これは完全にクリスさまの主張が正しい。

 それまで緊張して成り行きを見守っていた招待客たちも、やや白けた目をルナンドへ向けている。


「よりにもよって自分の成人を祝うために大勢の人々が集ってくれたパーティを、〝婚約者〟を辱めるために利用するとは……。貴様は悪の婚約者を断罪し、か弱い乙女を守る自分という構図に酔っていただけの、王族の風上にも置けない卑怯者だ。貴様の父君が最後まで、貴様が目を覚ますことを願っていたにも拘らずな」

「ひ、卑怯というならお前のほうだって! 女のふりをして僕を誑かそうとした悪女……いや、悪男ではないかっ」

「女の姿をしていたほうが、貴様の本性を見抜くのに都合がいいと思ったからだ。魔力で姿を僅かに変え、貴様を観察してきたが……貴様は私を女と信じ込み、たびたび侮ってきただろう。やはり貴様は、王太子の座には決して相応しくない」


 とうとうルナンドも反論が尽きたようだ。彼はへなへなと膝から床に崩れ落ち、そのまま呆然と床を見つめている。

 クリスさまは興味が失せたように彼から目を離すと、再び国王陛下に視線を戻した。


「陛下。もしルナンドが、周囲の忠言や陛下の切言すら聞き入れぬような愚か者と知りながら、彼を王太子――ひいては未来のガルドラ国王と定めるようなら、我がキルシュタインは貴国との同盟を破棄させていただく。元々そういうお約束でしたね」

「……ああ。皆の者。王太子の座は第一王子ルナンドではなく、第二王子のアルベールのものとする。異論はないな」


 誰もがしばらく沈黙し、やがてぱらぱらと戸惑うような拍手が起こり始めた。

 その拍手は徐々に強さを増し、広間は大雨が打ち付けるような音で満たされる。


「ア、アルベール殿下万歳!」

「国王陛下万歳!!」


 その騒ぎを余所に、わたしはマリエッタの姿を探していた。

 いつの間にか広間を去ったようで、どこにも姿が見当たらない。逃げ足の速いことだ。


 そしてルナンドはといえば、相変わらず床に座り込んだまま魂が抜けたような顔をしている。

 わたしはそれを見て少しだけ、ルナンドを哀れに思った。

 幼い頃から周囲に甘やかされ、我儘を言ってもほとんど注意されることもなく、自由奔放に育った王子さま。彼がこんな風になったのは彼自身の責任ももちろんあるだろう。

 だけど、周囲の大人たちがもっと早く気を付けていれば、今頃は違う未来が待っていたかもしれないのに。


 しかしそんな感傷はすぐに吹き飛んだ。


 ――そうだ、ご馳走!!


 一連の騒ぎで危うく食べそびれるところだった。

 今は皆、アルベール殿下たちに注目しているし、ご馳走をいただくなら今しかチャンスはない。

 正直言って、これまでのクリスさまの発言によってもたらされたさまざまな衝撃からまだ立ち直れてはいない。

 しかし現金なもので、わたしの空腹と食欲は既に限界を訴えていた。


 わたしは新しいフォークを手に、再びご馳走の前で大口を開ける。


「いただきま――」


 しかし次の瞬間。


「だめだよ、メルティナ」


 わたしはいつの間にか至近距離に迫っていたクリスさまに音もなくフォークを取り上げられ、そのまま片手で軽々と抱きかかえられた。

 混乱で声も出せないわたしを尻目に、クリスさまが指を鳴らす。またたきする間もなく、わたしたちは広間から別の場所へ移動していた。


 クリスさまがガルドラで過ごすために与えられた、私室の――寝台の上に。


「えっ? なんで? ――ごちそうは!?」

「くくっ……。まさかこの状況でそれを気にする?」


 半泣きになりながら寝台から飛び降りようとするわたしを、クリスさまが苦笑いで優しく押し戻す。


「やっぱりメルティナは面白い子だね。でも、だめだよ。今は食事ではなく私に集中して」


 わたしは寝台の上に向かい合う形で座っているクリスさまを、じっと見つめた。

 声は低くても、その少し冗談めかした物言い、柔らかな口調は、わたしのよく知るクリスさまのものだ。それに何より、わたしを見つめる特徴的な赤い瞳を、見間違えるはずもない。


 ――だって三年間、毎日見つめてきたんだもの。


 それもただの三年ではない。九回も繰り返したのだ。クリスさまと過ごす日々を。


「クリスさま……なんですよね?」

「そうだよ」

「男の人……」

「うん。そう」

「だからお湯浴みとかお着替えを、手伝わせてくださらなかったんですか……?」

「まあ、背や骨格は魔力で多少変えていたけれど、身体自体は男のままだったしね。君を驚かせたくはなかったから」


 ――今現在、十分驚いておりますが。


 しかしわたしの驚きは、それだけでは終わらなかった。


「それに、伴侶に身体を見せるのは初夜まで我慢と心に決めていたしね」

「はん……りょ……?」


 それって誰のことでしょう。

 石のように固まったわたしの頬を、クリスさまが優しく指先で突く。


「もちろん、君のことだよ。メルティナ」


 その笑みは女性姿の時と変わらず美しく艶やかで――なんて感動している場合ではない。

 今、クリスさまはなんて言った?


「君が私の伴侶だと言ったんだよ」

「こっ、心を読まないでくださいますか!?」

「ああ、ごめん。つい」


 表面的に謝罪はしているものの、彼の表情を見る限り絶対に反省などしていない。


 ――それに、しょ、初夜って。


「あのう、アルベール殿下は?」

「彼はただの友人だよ。私が男であることにも、ずいぶん早い段階で気づいていた。聡い少年だ」

「でも、わたしはクリスさまの侍女……ですよね?」

「これから奥さんになる予定だけどね」

「そんなこと、聞いてないですけど」

「え? だって君、前に言っていただろう。〝もしクリスさまがご結婚なさっても、お側仕えを続けてもよろしいですか?〟って。だから私は君に答えただろう? もし私がキルシュタインへ帰ることになっても、君のことは必ず連れて行くって」


 こともなげに言い放つが、あれはそういう意味で言ったわけでないし、そんな深い意図の秘められた返事だなんて考えるはずもないではないか。

 わたしはただただ、あれはクリスさまの親切心から出た発言だと思っていたのに。


 ――あれ?


 その時わたしは、僅かな引っかかりを覚えた。何か、このやりとりにすごく違和感があるような。

 そう考えた時、クリスさまがわたしの両手を強く握りしめた。


「君のために、マナーを教えたよね」

「は、はい」

「ダンスや、乗馬も」

「は、い……?」

「それに、キルシュタイン皇国語だって」

「えっ」


 ――ちょっと。待って。なんでクリスさまが、それを覚えているの?


 人生が逆戻り、王宮へ出仕して侍女として採用されるたび、クリスさまはわたしに向かってこう言っていたはずだ。

 初めまして、これからよろしくね――と。


 他の皆だってそうだ。前回の人生の記憶を宿しているような人物はわたしの他に見当たらず、だからわたしは、これがわたしだけに起こっている現象なのだと……そう思っていた。

 なのに、どうして。


「ふふ、不思議そうな顔をしているね」

「だ、だって。だって、クリスさま……クリスさまは……」

「うん。君が同じ人生を九度繰り返していることや、その間に交わした記憶、全部覚えているよ。だって、私が君の時を巻き戻していたんだから」


 ――なんて?


 クリスさまの言葉は理解できているはずなのに、意味がまったく頭に入ってこない。

 わたしの時を巻き戻していたのがクリスさまって、一体どういうことなの。

 戸惑いに凍り付くわたしを完全に置き去りにし、クリスさまはどこか恍惚として宙を見つめる。


「ちょ、ちょ、ちょ、待って下さい! なんで!? どうして毎回婚約破棄されるとわかっているのに、わざわざ時を戻したりしたんですか!?」

「うーん。ひとつには、私のために頑張っている君を見て自己満足に浸りたかったから」


 そんなにすごい力を、そんなくだらないことのために。

 本来なら呆れや怒りを覚えるべき場面のはずであるにも拘らず、先ほどからあまりにもクリスさまが悪びれもせず堂々と言い放つせいで、わたしの思考はたびたび停止する。


「ああ……。私があの馬鹿王子に婚約破棄されるのを回避しようと、毎回毎回一生懸命奮闘するメルティナは本当に可愛かった。貴族たちが私の味方になってくれるよう手を回したり、アルベールの留学話をなくすため、彼が尊敬する剣の師匠を説き伏せたり……嬉しかった。だって、それほど私のことを好きだっていう証拠なんだから」

「ええと……」


 咄嗟に言い淀んでしまったのは、ここで答えを間違えたら何かとんでもないことになる予感がしていたからだ。

 しかし、何が正解なのかわたしにはわからない。


 ――というか……。つまりわたしが『婚約破棄をきっかけに時が逆戻りする』と思っていたのは、すべて勘違いだったということだったの?


「どうして困った顔をしているの? 君は私のことを好きだったはずだろう?」 

「そ、それは、好きではありますが、なんというか主人に対する敬愛と申しますか、家族に対するような親愛と申しますか」

「感情の名前なんてどうでもいいんだよ。君が私を見る目は、明らかに私が君を見る時のそれと同じだったし、それに――〝夫と妻〟も家族だからね」

「ひぃ!」


 すりすり、と握られている手を撫でられ、わたしはつい悲鳴を上げてしまった。その手つきに、なんとなくよこしまなものを感じてしまったから。

 何せ十三歳で王宮へ上がってからというもの、わたしは両親から託された『玉の輿に乗る』という本来の目的からすっかり外れ、クリスさまを救うことしか考えていなかった。

 おかげで三年間を九回も過ごしたのに、男性とのお付き合い経験は皆無。


 ――クリスさまは男性だが、完全に女性と信じ込んで接していたため、ものの数に数えないこととする。


 そんな男性免疫がまったくないわたしがこんな美形に触られ、どうして無事でいられようか。顔は燃え上がるような熱さを訴え、耳や首筋までカッカと火照る始末である。

 いっぽうクリスさまのほうは、相変わらず上機嫌ながらも、至って平静な様子だ。


「……一目惚れだったんだ」

「はい?」

「一度目の人生の時、侍女の面接を受けにきた君を見て、君こそが伴侶だと思った。あのきらきらとした瞳に魅せられ、どうにかして君を妃に迎えられないかと考えたんだ」


 赤い目が、官能的な色を宿しながらわたしを見つめる。しかし冷静になってほしい。ここは寝台の上で、わたしは女、彼は男だ。迂闊に、なんとなく色っぽい空気を出していい場面ではない。


 ――というか、伴侶と親睦を深めるためって……あれ、わたしのことだったの!?


 気づけばわたしは寝台の上で平伏していた。無理。絶対無理。


「滅相――――もございません! わたしなんてただのちんちくりんな貧乏貴族ですし、教養もないですし、皇太子殿下のお妃なんてとてもとても!」


 わたしの本能が防衛脳内で警鐘を鳴らしている。なんとかこの状況から逃げ出そうと再び寝台から飛び降りようとしたが、すかさず腰をがっちり捕まえたクリスさまの手が、わたしの逃亡を許してはくれない。

 わたしは寝台の上で無駄にじたばたと手足をばたつかせるだけに終わった。


「前に……六度目の人生だったかな。言ったよね。将来結婚する時、私の教えたことが必ず役に立つからって」

「お、仰ってました」

「じゃあ、ここで質問。一体私がなんのために、人生を繰り返す度、君にマナーの勉強や習い事を受けさせていたと思っているのかな? まさか一介の侍女に対する、単なる親切だと思っていたわけではないよね?」


 ――お、思ってました。


 でも、鈍いわたしでも、ここまで言われればさすがに気付かざるをえない。

 クリスさまは先程、自分が婚約破棄される未来を回避するために孤軍奮闘するわたしを見て、悦に入りたかったと言っていた。それが、九回も時間を巻き戻した理由のひとつだと。

 では、もうひとつの理由は。


 ――クリスさまはわたしを妃にするため、わざわざ九回も時間を巻き戻して、毎回違う教育を施したんだ……!


 大国の皇太子妃として最低限相応しい知識や教養を、効率的に身に着けさせるために。


「あの、じゃあ先輩たちが以前、わたしに仕事を任せてくれなかったこととか……。〝人には適材適所ってものがあるのよ〟と言っていたのは?」

「ああ。侍女たちも皆、私のもくろみを知っていたからね。ようやく皇太子妃を迎えられると、喜んで協力してくれたよ」


 それじゃ、わたしだけが蚊帳の外ではないか。

 皆はさも「自分は時間を繰り返していることなど知りませんよ」などといった風な、素知らぬ顔をして、わたしを翻弄して。

 その執着に、わたしは多少の恐怖を覚えるべきだったのかもしれない。

 しかし、ふつふつと腹の底から沸き上がるような怒りが先立って、それどころではなかった。


「信じられない! 最低! クリスさまなんて大っっっ嫌い!」

「えっ」

「クリスさまが幸せになれるならと思って頑張っていたのに、クリスさまはそんなわたしを見て陰でずっとニヤニヤしていたなんて! ルナンド王子と結婚するつもりもなかったくせに、わたしが婚約破棄を回避しようと無駄な努力をしてたのを見て、嘲笑ってたんですね!」

「ちょっ、待っ……メルティナ! 誤解だよ。ニヤニヤなんて――いや、少しはしていたかもしれないけれど、でも、いつも純粋で私のために頑張ってくれる君が愛おしくて。君と過ごす日々が楽しくて……! 本当にすまない」


 これが先ほど、ルナンドの剣を一瞬で砂に変えた人間なのだろうか。あの時の威圧感は見る影もない。

 見たこともない慌てぶりがおかしくて、取り繕ったところの一切ない愛の告白がくすぐったくて、わたしの怒りはすぐに収まってしまった。


 ――元々クリスさまが好きだったのだ。多少甘くなるのもご愛嬌というもの。


 けれど、簡単に許してみせては意味がない。

 だからわたしはほんの少しだけ、意地悪を口にする。


「今更謝っても赦しませんから」

「そ、そんな……! お願いだ、メルティナ。私にできることならなんでもするから、どうか赦してほしい。もちろんご両親にはキルシュタインで何不自由ない生活を送っていただくように手配するし、君にも毎日沢山の贈り物を――。どんな願い事だって、君のためならなんだって叶えるよ」

「……それなら、わたしが食べたいって言ったら、王都一人気のお菓子屋さんから一日限定二十個のチョコレートを手に入れてきてくれます?」

「もちろん! それどころか、その菓子屋にリボンをつけて君にプレゼントするよ」


 ごくりと喉が鳴る。

 やはりわたしは現金だった。しかし、まだ表情を緩めてはいけない。


「それじゃあ、今日のパーティーで出たものより豪華なご馳走を食べたいって言ったら?」

「そんなの、キルシュタインの料理人に頼めばいくらだって……! 君に赦してもらえるなら、私は世界中の料理人や菓子職人を呼び寄せて、君の専属にしよう」


 なんて魅力的な言葉なのだろう。

 簡単に赦してなるものか、というわたしの覚悟は既に崩壊寸前であった。


「愛しているよ、メルティナ……。お願いだ。なんでもするから、どうか私の妃になって……」


 クリスさまの少し情けなくて甘い声は、まるで悪魔の誘きか魔法のようだ。抗うとするわたしの頑なな心を優しくほどき、甘く溶かしていくのだから。

 わたしは柔らかな声色に操られるようにして、気付けばはっきりと頷いてしまっていた。


「メルティナ……!」


 しまった、ついほだされた。だって嬉しかったんだもの。好きな人に求婚されて、嬉しくないわけない。


 感極まったように掠れた声で叫んだクリスさまが、わたしの腰をぐっと引き寄せ顔を近づけてくる。

 キスするつもりだ。

 そう直感したわたしは、両手でクリスさまの肩をつっぱり、彼から距離を取った。


「そういうのは、結婚してからです」

「え、でも、今」

「妃になるのを承諾したというだけで、わたしたちはまだ正式な婚約を結んでもいない、仮婚約者同士でしょう。過度な接触は禁止です」


 クリスさまが地獄のどん底に突き落とされたような、絶望的な表情を浮かべた。なんだか女性の姿に身を扮していた時と比べ、クールな雰囲気が損なわれている気がする。

 それとも、こちらが素の彼の姿なのだろうか。

弱点も欠点もないと思っていたけれど、意外にも、彼の弱点はわたしメルティナなのかもしれない。


「だ、だけど、我が国の結婚式は最低でも準備に半年は――。そ、そうだ、過度な接触でなければいいのだろう。頬へのキスは?」

「駄目です」

「抱擁は?」

「駄目です」

「手、手を、繋ぐのは……」

「駄目です」


 にべなく断られ、見るからに落ち込むクリスさまに、わたしは密かに笑いかける。とうに怒りは解けていたし、必死にわたしの機嫌をとろうとするクリスさまを見ている内になんとなく、彼の気持ちがわかってしまったから。


『ああ……。私があの馬鹿王子に婚約破棄されるのを回避しようと、毎回毎回一生懸命奮闘するメルティナは本当に可愛かった。貴族たちが私の味方になってくれるよう手を回したり、アルベールの留学話をなくすため、彼が尊敬する剣の師匠を説き伏せたり……嬉しかった。だって、それほど私のことを好きだっていう証拠なんだから』


 本当にその通りだ。自分のために好きな人が頑張ってくれている姿を見ると、それだけで心が弾んで嬉しくなってしまう。


「ねえ、クリスさま」


 優しくしく呼びかけると、クリスさまが弾かれたように顔を上げる。その目は期待に満ち溢れ、きらきらと輝いていた。


「クリスさまは、わたしのことを好いてくださっているんですよね?」

「も、もちろん! 世界一、愛しているよ」

「では、あと少し待つくらい、どうってことありませんよね」


 最後通告を突きつけられたかのように、きらきらが瞬く間に消え、美しい顔がたちまちしゅんと伏せられる。

 わかった、と小さな返事が聞こえてさすがに少し可哀想に思ったが、長い間クリスさまに翻弄されていたのだ。このくらいの軽い意趣返しは許されるだろう。


 何せわたしたちは、三年間を九回分、合計で二十七年間、ずっと同じ時を過ごしてきたのだから。半年なんて、きっと一瞬で過ぎていくはずだ。


 互いの両親への挨拶。結婚式の準備。

 共に過ごす、楽しい時間。

 まだ見ぬキルシュタインでの生活に不安がないと言えば嘘になるし、自分が皇太子妃に相応しいとはとても言えない。

 けれどクリスさまがそばにいてくれれば、きっとなんとかなる。


 だからその時が来たら、改めて本当の願い事を言おう。有名店のチョコレートや、豪華な食事ではない。


 ――今度は玩具の指輪じゃなくて、本物の指輪を嵌めてほしいって。


 もちろんデザインはお揃いで、わたしは赤色。クリスさまには、青い宝石を使った指輪を。

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婚約破棄したい? ぜひ、よろしくお願いします!(本人じゃないけど) 八色 鈴 @kogane_akatsuki

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