婚約破棄したい? ぜひ、よろしくお願いします!(本人じゃないけど)
八色 鈴
前編
「――貴様がこれまでマリエッタに行ってきた嫌がらせの数々、これ以上看過するわけにはいかん! 今、僕は皆の前に宣言しよう! 貴様との婚約を破棄すると!」
びしっと突き立てられた指を前に、群衆が大きくざわめく。
『はいっ! ぜひよろしくお願いします!』
わたしはそう叫びたくなる気持ちを押し殺しながら、密かに拳を握りしめた。
――きたきたきた! ようやくこの日が来たんだわ!
ああ、なんていい日なのだろう。
歓喜に胸が躍り、思わずその場で口笛でも吹きながら躍り出したくなるというものだ。
今日、ここガルドラ王国の王宮では、第一王子ルナンド殿下の、十八歳の誕生日を祝う宴が開かれていた。男性の十八歳と言えば、この国において成人と見なされる年齢である。
ルナンド王子はこの宴の席で国王陛下から正式に王太子と認められ、未来の国王として祝福を受ける予定だった。
しかしそのめでたい席で、ルナンド殿下……もういいや、呼び捨てにしよう。ルナンドはなぜか空気も読まず、突然婚約破棄宣言をし始めたのである。
婚約相手は、ガルドラとは長きに渡って同盟関係にある、隣国キルシュタイン皇国の第三皇女殿下。
名を、クリス・グラン・アプロディットと言う。
ちなみに先ほど『ぜひよろしくお願いします!』なんて答えようとしていたが、わたしはクリスさまご本人ではない。
クリスさまはルナンド王子と同じ十八歳。
黒い髪に、紅玉をはめ込んだような赤い瞳。異国の
凜とした涼しげな目元が特徴的で、『
収穫祭の仮装パーティーで騎士の服を着て男装した際には大勢の女性たちが群がり、まるで花に集まるミツバチのような有様であった。
そうした類い希なる美貌を持ちながらも、彼女には一切の嫌味がない。
さばさばしている、と言うのだろうか。ドレスより乗馬服のような動きやすい格好を好み、口調もどちらかというと男性寄りである。
けれど決して乱暴な印象は受けず、むしろ彼女の誇り高さを益々際立たせているのだから、不思議なものだ。
そんなクリスさまの外見を語る時に欠かせないのが、頭頂部から生える山羊のようにねじれた長い双角である。
キルシュタイン皇国は遡れば魔族の支配していた土地で、人間との交わりによってその血が薄まった現代でも、魔法文化が非常に発達した国だ。
王族は特に祖先の血が濃いらしく、クリスさまのように、人間とは少し異なる特徴を持って生まれてくる者も多いのだとか。
クリスさまは三年前から我が国に留学している。
いわく『見識を広げ、未来の伴侶と親睦を深めるため』だそうだ。だから人々は皆、クリスさまをルナンド王子の婚約者として、未来の王太子妃として丁重にもてなした。
それなのに、なぜそのルナンド王子が今、大勢の招待客の前でクリスさまを罵倒し、婚約破棄を宣言しているのか。
それはルナンド王子が、この世界で一番おバカな王子だからに他ならない。
――さて、ことの顛末を語る前に、まずはわたし自身のことについて少しだけ語っておきたい。
わたしの名はメルティナ。一応侯爵令嬢ではあるものの、博打好きな曾祖父の代で実家が没落したせいで、
外見的特徴を一言で表すなら、平々凡々。これにつきる。
髪は茶とも金とも言えない藁のような中途半端な色をしているし、鼻も背も低い。体つきは凹凸に乏しくて、スカートをはいていなければ少年を間違われそうな薄っぺらさだ。
実家のある田舎町では領民たちが『そこそこ可愛い』と言ってくれるが、そんなものはしょせん身内びいきのお世辞である。
王都の華やかな女性たちの前に出ると、たちまち風景と一体化して霞んでしまい、『あら、アナタそこにいたの!』なんて言われる始末。
つまるところわたしの立ち位置は、いわゆる『
そんなわたしが両親のたっての願いで王宮へ出仕することになったのは、まだ十三歳の時のことであった。
先述のとおり我が家は大変な貧乏で、わたしを社交界デビューさせるほどの余力は残されていなかった。それどころか、その日食べるものにも困る始末。
そこで両親は考えた。
王宮には大勢の貴族やら優秀な廷臣が集っている。その中にひとりくらいは、平凡好みの男性がいてもおかしくはない。
侍女として働いていれば、社交界デビューしなくても大勢の男性とお近づきになれる機会はあるだろう。
『そうだ、娘を玉の輿に乗せよう』
あまりにも雑な計画だったが、もはや我が家の家計はそんな小さな希望に縋るしかないほど、抜き差しならないところまで追い詰められていた。
『まだ十三歳のお前に、こんな役目を押しつけてすまないね』
王都へわたしを送り出す際、父も母も申し訳なさそうな顔をしていた。
が、何も身売りをしようというわけではない。王宮で働く中で、誰か素敵な男性と出会えれば幸運というだけの話だ。
そこに、社交界で花婿探しをしをすることとの大きな違いはないだろう。
わたしだって空腹やあかぎれとは無縁の生活を送りたかったし、両親に少しでも楽な暮らしをさせてあげたかった。
だから自分でも納得した上で、王宮で働き始めたのだ。そこでクリスさま付きの侍女として採用されことは、わたしの人生で一番の幸運だったと思う。
聞けば面接の際、わたしひとりだけが作り物ではない笑顔を浮かべていたこと。そして特技を聞かれた際、『良い豆と悪い豆をより分けられること』と自信たっぷりに答えたのがあまりにもおかしくて、クリスさまに気に入っていただけたようだ。
『即決だったのよ』
後に先輩侍女がそう教えてくれた。
今思えば、緊張のあまりなんて恥ずかしいことを答えたのだろうと思う。豆のよりわけ技術なんて、皇女さまの侍女に必要なわけがない。
が、結果的にクリスさまという素晴らしい主人を得られたのだからよかったのだろう。
何せクリスさまときたら、こんなによくできた人間がこの世に存在していいのだろうか言いたくなるほど素晴らしい方なのだ。いつも明るく、優しく、使用人にも親切で、決して人の悪口など言わない。
クリスさまと過ごす日々は毎日がとても楽しく、充実していた。
どうやらわたしの平々凡々な顔立ちは、日頃から美人揃いの侍女たちに囲まれているクリスさまとって、非常に珍しいものだったらしい。
そして同僚たる先輩侍女たちも、わたしをまるでペット枠でもあるかのように甘やかした。
掃除をしようとすれば「メルティナはそんなことする必要ないのよ」と先輩たちから箒を取り上げられ、クリスさまのお召し替えやお湯浴みを手伝おうとすれば「絶対にやめなさい」と部屋から追い出される始末。
そんなに役立たずと思われているのだろうかとしょんぼりしたが、先輩たちにいくら聞いたところで「人には適材適所ってものがあるのよ」としか返ってこない。
――適材適所ってなんなのかしら。
わたしに許された仕事はと言えば、クリスさまのお話し相手やお茶のお相手をすることくらいだ。初めの頃こそ緊張していたが、クリスさまとの会話に慣れきった頃には、仕事というよりむしろご褒美という意識のほうが強くなった。
『お菓子を食べて、お茶を飲んで、お話をするだけで給金をいただけるなんて……。いつかバチが当たるのではないでしょうか』
『そんなことを気にしているの? いいんだよ、私がそう望んだのだから』
『ですが、わたしも先輩たちのように、もっとクリスさまのお役に立ちたくて……』
『もう十分役に立っているよ』
クリスさまはにこやかに言うが、とてもそうは思えなかった。
美味しい物を沢山食べられたおかげで、栄養不足でガリガリだった身体は随分と健康的になったし、クリスさまとのお喋りは純粋に楽しい。
けれど、当時のわたしはまだ、クリスさまとさほど打ち解けてはおらず、常に不安を抱えていた。
先輩侍女たちは皆、有能な方ばかりで、わたしはと言えば未だに掃除のひとつもさせてもらえない。
今は物珍しさからそばに置いてくださっているクリスさまも、いつか役立たずなわたしを見限ってしまうのではないか。
――ある日とつぜんクリスさまが我に返って、解雇を言い渡してきたらどうしよう。
そうなれば周囲は当然、わたしのことを王子の婚約者に無礼を働いた娘という目で見るだろう。きっと二度と王宮では雇ってもらえないどころか、貴族の屋敷で働くことさえ難しくなるはず。
悶々とした過ごしていた、そんなある日のことだ。クリスさまがわたしを、お忍びで町へ連れて行ってくれたのは。
わたしはそれまで、お祭りというものが嫌いだった。
何せ実家が貧乏だったせいで、生活必需品以外は滅多に買えない生活を送っていたのだ。
お祭りなんかにいったところで、惨めで悔しい思いをするばかり。そして、楽しむ人々を余所に自分だけ卑屈な感情を抱えてしまうことが、なにより大嫌いだった。
クリスさまはわたしの生い立ちをご存じだったから、きっと殊更に気を遣ってくれたのだろう。
出店の飲み物や飴をわたしに買い与え、庶民の食べるような料理を一緒に頬張りながら、『こんなに楽しいのは初めて』と眩しいほどの笑顔を浮かべていた。
だから、わたしは日頃の不安もお祭りが嫌いだったことも忘れ、ついつい童女のように大はしゃぎしてしまった。
『クリスさま! 見てください、このふわふわの雲みたいなお菓子! 可愛い! あっ、あの指輪。クリスさまのお目の色みたいで、とっても綺麗ですね』
今思えば、あんな安い硝子玉をクリスさまの目の色に喩えるなんて、なんて不敬だったのだろう。
けれどクリスさまは少しも嫌な顔をせず指輪を購入し、手ずからわたしの右手小指に嵌めてくださった。
そして同じデザインの青い石の指輪を手に取り、優しく微笑んだのだ。
『それなら私は、この指輪を嵌めようかな。メルティナの目の色だ』
『え……』
『友情の証と思ってくれればいい』
互いの目の色の指輪を嵌めるのは、ここガルドラでの正式な求婚の作法だったから少しドキドキしてしまった。けれど、キルシュタインの皇女であるクリスさまはご存じなかったのだろう。
恐らく彼女はわたしが不安を抱えていることに気付き、励まそうとお祭りに連れ出してくれたのだ。
『友情の証』
そのもったいなくもありがたい言葉は、お揃いの指輪と共に、わたしの心に強い勇気を与えてくれた。
それからもクリスさまはことあるごとに、わたしを励ますような言葉を口にした。
『メルティナはただ、私のそばにいるだけでいいんだよ』
『メルティナは頑張り屋さんだね。とっても偉いよ』
『君が社交界にデビューしていなくてよかった。そのおかげで、こうして私の侍女になってくれているんだから』
少し低い滑らかな声で告げられ、赤い目でじっと見つめられると、自身の立場も忘れ思わずぽうっとなってしまう。それをごまかすため、わたしはいつもお調子者らしく冗談めかして大声をあげるのだ。
『もうっ、クリスさまったら! そんなかっこいいことばっかり仰られると好きになっちゃいますよ!』
『ふふ……。好きになってくれていいんだよ』
『ぐっ……』
――危ない危ない。
わたしの恋愛対象が異性なのは幸いだった。
そうでなければわたしは身の程知らずにも、クリスさまに恋していただろう。
分不相応な恋は身を滅ぼす。クリスさまが女性でよかった。
そうしてひとしきり回想を終えた頃、再びバカ――もといルナンド王子の声が広間に響き渡った。
「マリエッタから聞いたぞ! 貴様はこれまで、彼女を散々辛い目に遭わせてきたそうだな。聞けば皇女とも思えぬ品位のない悪行の数々。見下げ果てたぞ、クリス!」
「……何をおっしゃっているのかわかりかねます、殿下」
勝ち誇るルナンド王子に対し、クリスさまはと言えば実に冷静な態度だ。凜とした表情のまま、なんら怖じることなく王子を見つめ返している。
その視線の先にいるのは、ルナンド王子だけではない。彼に縋り付くようにして縮こまる、小柄な美少女の姿もあった。
「ルナンドさまぁ。今、クリスさまがあたしを睨みましたぁ。こわいですぅ」
間延びした甘ったるい声を出す、この女こそがマリエッタ。ルナンド王子がクリスさまとの婚約破棄を宣言するに至った元凶だ。
リボンをたっぷりあしらったピンク色のフリフリドレスに、大ぶりの造花を飾った派手な帽子。
ふわふわの淡い金髪に、ぱっちりと大きな緑の目。
可愛らしい顔立ちをしている彼女に、少女趣味なその装いはよく似合っていた。
が、その愛らしい外見とは裏腹に、心の中は真っ黒に染まっていることをわたしは知っている。
ルナンドはすっかり彼女に骨抜きで、抱きつかれるたび胸を押し当てられデレデレしている。が、彼女がチラチラとクリスさまのほうを窺いながらニヤついていることに、どうして気付かないのだろう。
――あんな至近距離にいるくせに。ああ、
実はわたしにとって、この光景に出くわすのは初めてのことではない。
世の中には『
『気がする』というだけで、実際に見たり聞いたりしたわけではないというのが、その定義のひとつらしい。
しかしわたしの場合は、そんな言葉で片付けられるような生易しいものではない。
時間遡行、というものの一種なのだろうか。わたしは十三歳で侍女になってから現在に至るまでの人生を、九度も繰り返している。
ゆえに、この婚約破棄の場面を見届けるのも九回目のこと。
その証拠に、わたしは次にルナンド王子がなんと言うか、ぴたりと言い当てることができる。
『よしよし、何も怯えることはないぞ。僕が側についているからな、可愛いマリエッタ』
頼もしげにそう口にするルナンド王子に対し、マリエッタは、頬を赤く染めながらこう言うのだ。
『あぁん、愛しいルナンドさまぁ。ルナンドさまが守ってくださって、あたしとっても嬉しいですぅ』
――王子の台詞まであと三秒、二、一……。
心の中で数え、それが
「よしよし、何も怯えることはないぞ。僕が側についているからな、可愛いマリエッタ」
「あぁん、愛しいルナンドさまぁ。ルナンドさまが守ってくださって、あたしとっても嬉しいですぅ」
――ほら、ね。
さすがに慣れたとはいえ、何度見ても悪夢よりたちの悪い光景だ。
――なんて見る目のない王子なのだろう。クリスさまのほうが数百倍、いや、数千倍もお美しいのに!!
理不尽な状況を前に、わたしは悔しさのあまり内心で歯噛みする。
そもそもこのマリエッタという女。元々は平民の出であり、多くの男性を相手に何度も結婚詐欺を働いてきたという後ろ暗い過去持ちだ。
何度も、という言葉が示している通り、実はマリエッタは見た目ほど若くはない。
具体的には、自己申告している年齢の倍より少し上だ。恋愛に年齢は関係ないと思うが、嘘はよろしくない。
――それに多分、ルナンド王子はマリエッタのことを自分より年下だと信じ込んでるし。
マリエッタは持ち前の可憐な美貌を駆使して某男爵に取り入り、表向きは養女――実際は愛人である――として迎えられた。
それからというもの社交界へ頻繁に顔を出すようになり、貴族男性を手玉に取り始めた。男爵は彼女の輝かしい未来への踏み台として利用されたのだ。
しかしマリエッタの計画はそこだけに留まらなかった。彼女はとうとう、より上位の獲物に狙いを定めたのである。
言うまでもなくこの『獲物』とは、ルナンド王子のことだ。
マリエッタは生粋の悪女で、相手に婚約者がいようと伴侶がいようとお構いなしというスタンスの持ち主だ。
しかもルナンドは、自己顕示欲と承認欲求の塊とも言える性格な上に、思慮深さとは無縁の人間だ。
東方のとある島国では、『ブタモ・オダテリャ・キニ・ノボル』という言葉があるそうだ。これは能力の低い者がおだてられた際に、実力以上の働きを見せることを意味するらしい。
――なんてルナンド王子にぴったりの格言かしら!
初めてその言葉を知った時、わたしは思わず膝を打った。
ルナンドは勉強も得意でなく、乗馬も剣の腕もからきし。それでもせめて性格がよく真面目であればよかったものを、得意なことといえば女遊びくらいのもので、父王陛下も臣下たちもひどく頭を悩ませていた。
そんな調子だから、ルナンドは普段誰かから褒められることが皆無に等しかった。
『さすがですわルナンドさま!』
『知らなかったですわ、ルナンドさまは博識ですのね』
『素晴らしいですわルナンドさま』
マリエッタの放つ中身のない美辞麗句は、彼にとって非常に心地よかったのだろう。
更に、どうやらルナンドはスレンダーで凜々しい女性より、お菓子のように愛らしい、女の子女の子した女性のほうが好みだったようだ。
ルナンドがマリエッタの虜になるまで、そう時間はかからなかった。
「父上、そしてここに集まってくれた皆も、どうか聞いてほしい。クリスは、僕がマリエッタに優しくしていることに嫉妬し、日頃から彼女を――」
――はいはい、それも前に聞きました。
わたしはやや雑にうんざりとしながら、王子の発言を受け流す。
何せ九度目だ。ルナンドがクリス様に婚約破棄を言い渡すたび、翌朝にはなぜか三年前――つまり十三歳の頃に逆戻りしてしまうわたしの身にもなってほしい。
いい加減、バカ王子の同じ台詞は聞き飽きた。
一国の王子に対して、なんて酷い言い草だと思うかもしれない。だが、聞いてほしい。ルナンドときたら、本当に救いようのないおバカなのだ。
これまでクリスさまを初めとし、彼の従者や弟王子ですらも、マリエッタとの関係に関して苦言を呈してきた。
王子として軽率な行動は控えるようにだとか、人目があるところで未婚の令嬢とベタベタしないようにだとか。
それだけでなく、マリエッタの身辺調査を行わせるべきだという声もあった。
しごく真っ当な意見だ。
王子に急接近し、やたらとふたりきりになりたがる女を周囲が怪しみ、警戒するのも無理もない。
しかしおバカ、もといルナンドは、それらの諫言をすべて無視してきた。マリエッタに完全に骨抜きにされていた彼は、長く使えてきた近侍を罵倒し、解雇しさえした。
そんな経緯もあり、最近ではクリスさまを除き、ルナンド王子に忠告する者は誰ひとりとしていなくなった。
言い換えればクリスさまだけは、最後まで彼を見捨てないでいたのに。
――なんてお優しいクリスさま。外見だけでなく、心まで優しく気高くいらっしゃる、本当に素敵な女性だわ。
王子から敵対心を向けられ糾弾されても、すっと背筋を伸ばし冷静さを失わない彼女の誇り高い姿には、いつも感動させられる。
もし、王子が少しでもクリスさまの言葉に耳を傾けていれば、これから起こる悲劇は防げただろう。
しかし残念ながら、彼はどこまでもおバカだった。
皆が呆れているのにも気づかず、やれクリスさまがマリエッタを階段から突き落としただの、足をひっかけてわざと転ばせただの、声高にありもしない罪をあげつらっている。
小鼻を膨らませながら、得意気に語る王子の顔は本当に、見るに耐えない酷さだ。
「だがルナンドや、証拠はあるのかね。クリス皇女が、本当にマリエッタ嬢に嫌がらせをしていたという証拠は」
「それはもちろん、
父である国王陛下からの問いかけに胸を張って答えるルナンド王子だが、そんな主観的なだけの発言は普通証拠とは言わない。
王もそう思ったのだろう。
「何か他に証拠は? マリエッタ嬢本人やその侍女だけでなく、彼女らと何の関わりもない第三者の証言はないのかね。どちらかいっぽうだけの言い分を鵜呑みにするわけにはいかない」
「何を仰るのです父上! 他ならぬ被害者であるマリエッタが、嫌がらせされたと言っているのですよ!? 彼女の勇気ある告発をお疑いになるなど、父上は良心が痛まないのですか!?」
――そう言うルナンド王子は、良識がないようだけど。
呆れながら密かに嘆息したわたしは、密かに国王陛下の様子を盗み見た。そしてお年の割に皺の多いお顔が、苦いお茶を飲んだ時のような渋い表情になっていることを確認する。
国王陛下は善き王として民たちから慕われているが、子育てに関しては失敗したらしく、ルナンドはご覧のとおりの有様である。
もちろん陛下は公務に忙しく、ルナンドの世話はほとんど乳母や家庭教師たちに任せきりだっただろうから、ちょっと――いや、かなり可哀想だ。
けれど常識的な国王陛下の反応を前に、わたしは密かに頬を緩めていた。
――よしよし、いい感じね。今回は大丈夫そうだわ。
我ながら、よく頑張ったと思う。
『初めて』ルナンド王子が婚約破棄宣言を宣言した際、貴族たちのほとんどはマリエッタに同情的だった。クリスさまは味方も得られないまま、平民出身の貴族令嬢を不当に虐げた悪女という汚名を着せられた。
頼みの綱であった国王陛下は、知らぬ間に患っていた病が悪化したせいで床に伏していたし、兄より遙かに常識人な第二王子は留学中のため母国を離れていた。
実質的な最高権力者であったルナンドの言葉に逆らう者は、誰ひとりとしていなかった。
『クリスを捕縛し、祖国へ強制送還しろ!』
その言葉を耳にするなり、わたしは糸が切れたように意識を失った。
そして次に目覚めた時、わたしは侍女として与えられた部屋の柔らかいベッドではなく、実家の固いベッドに眠っていたのだ。
『クリスさまは!? ルナンド王子とマリエッタはどうなったの!?』
混乱しながら居間に飛び込んで叫んだわたしに、父は苦笑いを零していた。
『夢でも見ていたのかい?』
『そんなことより、今日はあなたが王都へ旅立つ日でしょう? ささやかだけど、お見送りのご馳走を用意したのよ』
と。
その時のわたしはすっかり、王宮でクリスさまに三年間仕えていたのはただの夢だと思い込んでしまった。
――だってまさか、時間が遡るなんて非現実的なことがあるなんて、思うわけないじゃない?
再び王宮へ出仕し、そこで偶然にもクリスさまの侍女として選出された時ですら、単なる偶然だと呑気にかまえていたほどだ。
しかしそれから三年後。
夢と同じようにクリスさま付きの侍女として働いていたわたしは、愕然とした。
『――貴様がこれまでマリエッタに行ってきた嫌がらせの数々、これ以上看過するわけにはいかん! 今、僕は皆の前に宣言しよう! 貴様との婚約を破棄すると!』
夢の中で聞いたものと、そっくり同じ台詞だった。
クリスさまが身に着けた鮮やかな青いドレスにも、王子の隣で怯えるマリエッタのピンクのドレスにも、見覚えがあった。
夢。既視感。
そんな言葉では片付けられないほどに、夢の記憶とまったく同じ展開に呆然と立ち尽くすわたしの目の前で、ルナンド王子が高らかに宣言する。
『クリスを捕縛し、祖国へ強制送還しろ!』
彼の言葉を聞き終えるや否や、わたしは再び意識を失った。前回と同じタイミングで。
『クリスさまは!?』
寝台から飛び起き、血相をかえて居間へ飛び込んだわたしに、両親が向けた言葉は、今思い出してもぞっとする。
『夢でも見ていたのかい?』
『そんなことより、今日はあなたが王都へ旅立つ日でしょう? ささやかだけど、お見送りのご馳走を用意したのよ』
その瞬間、わたしはようやく気づいた。
――夢じゃ、ない。
一体なぜ、わたしの身にこんなことが起きるのか。
答えを見つけるべく、わたしはさまざまな文献を漁り、似たような現象を経験した人はいないか探してみた。すると偶然にも図書室の奥で、わたしと同じ体験をした人の手記を発見することができたのだ。
それによると、この現象のきっかけとなる悲劇を回避すれば、時間は正常に動き出すらしい。
つまりわたしがやるべきことはひとつ。
――クリスさまを、お救いしよう!
手記を書いた男性は『きっとこれは、誤った未来を修正せよと神がお与えになった試練なのだ』と考えていたようだが、わたしも同感だ。
あんなに優しいクリスさまが、他人をいじめたりなんかするはずないのだ。冤罪に決まっている。わたしが見た未来は『誤った未来』なのだ。
誤りは修正しなければ。
神によって使命を与えられたわたしは、まず記憶にある王子の台詞やマリエッタの証言を思い起こしつつ、それら全てを書き記した。
このまま行けばクリスさまは四年後に祖国へ強制送還されてしまう。同盟国の王子の機嫌を損ねてしまったのだ。きっと故郷へ帰った後、クリスさまはなんらかの形で罰せられるだろう。
馬鹿王子のせいでなんの罪もないクリスさまが辛い目に遭わされるなんて、絶対に赦せない。
わたしは、これから起こるであろう未来を回避するための作戦を練り、様々な行動に打って出た。
まずマリエッタが嫌がらせを受けたという日時に、クリスさまがどこで何をしていたか。誰と会っていたか。そういった情報を集め、整理し、クリスさまが無実である証拠集めに奔走したのだ。
その結果、わたしはマリエッタの証言がすべて狂言であることを確信した。
嫌がらせなんてとんでもない。
彼女は、クリスさまとすれ違ったことすらないではないか。
それなのに大泣きしてルナンドに縋るなど、とんだ役者である。
そうして訪れた、三度目の婚約破棄。
わたしは声を上げ、クリスさまを救おうとした。いくら王子自身が馬鹿だとしても、証拠があれば周囲が味方になってくれると思っていたからだ。
しかし結果は無残なものだった。
ルナンド王子はわたしを鼻で笑い、貧乏貴族令嬢の証言などなんの証拠にもならないと嘲った。
わたしは王子の呼んだ近衛兵に捕らえられ、冷たい石で造られた地下牢に閉じ込められる始末だった。
幸いにしてその翌日には『十三歳の頃の自分』として、実家の寝台で目覚めたわけだけど。
失敗を踏まえ、わたしは再び考えた。
――なるほど。貧乏貴族の証言が証拠にならないというのなら、今度はもっと周囲から信頼されるような人物を味方に取り込む必要がありそうね。
どうせ翌朝には十三歳の頃に逆戻りできるのなら、何度失敗しても問題ない。
――クリスさまをお救いできるまで、何度でも挑戦してやろうじゃないの!
生まれながらに貧乏な生活を送ってきたわたしは、転んでもただではおきない性格であった。
何せ物心ついた時から、毎日のように借金取りが我が家へ押し寄せていたのだ。たった一度の失敗程度で諦めるほどヤワなわけがない。
むしろ失敗を糧に、クリスさまを救う新たな計画を練ろうじゃないか、と反骨心さえ抱くほどだった。
国王陛下が病に倒れる未来を回避するためしつこく医師に診察させたり、いざという時味方になってくれそうな貴族を厳選し、さりげなくクリスさまに引き合わせたり……。
さまざまな苦労もあったが、彼女のことを思うといくらでも頑張ることができた。
クリスさまはいずれの人生でも優しかった。痩せたわたしを心配し、お菓子や美味しい食事を食べさせてくれた。お下がりのドレスや、流行のリボン、アクセサリーを下さったこともある。
それだけでなく、二度目の人生では、淑女として必要なマナーまで教えてくれた。
実家が貧乏だったせいで、わたしは貴族令嬢としての教育をほとんどまともに受けたことがない。母から基礎は教わったけれど、やはり家庭教師がいるのとはわけが違う。
社交界での会話の仕方。優雅なお辞儀の仕方。そしてテーブルマナー。それら全てをクリスさまは人任せにせず、自ら教師となって教えてくださった。
『クリスさまに教わるなんて、畏れ多すぎます!』
『遠慮しなくていいんだよ。これはメルティナの将来のために必要なことなんだから』
ダンスを教わったのは、三度目の人生だった。
病弱な母はダンスが踊れなかったため、わたしもダンスは一度も習ったことがなかった。
『あの、クリスさまのおみ足を踏んでしまいますので……!』
『気にしないで。私が好きでやっていることなんだから。メルティナと踊るのはとても楽しいよ』
不器用なわたしが何度足を踏んでも、あの優雅で柔和な微笑みが崩れることはなかった。
四度目の人生では乗馬や楽器演奏などの習い事を。
五度目は相手を楽しませる話術。
六度目はならず者から身を守る護身術に、七度目は歴史や薬草学。
そして八度目――前回の人生では、異国の言語を教わった。クリスさまが教えてくださったのは、大陸一難解と言われる彼女の母国、キルシュタイン皇国語だ。
習得にはとても苦労したけれど、単語を覚えるたびクリスさまが喜んでくれたので、少しも苦ではなかった。
『どうしてこんなによくしてくださるのですか?』
あまりにもクリスさまが親切にしてくれるため、不思議に思い、何度目かの人生で思い切って聞いてみたことがある。
すると彼女は思いがけない質問をされたという風に目を大きく見開き、苦笑して答えた。
『将来結婚する時、必ず役に立つからね』
――なんて思いやり深い方かしら。
わたしは感激し、思わず涙ぐむほどだった。クリスさまはいつかわたしが結婚するときの事まで考え、淑女らしい立ち居振る舞いと教養を身につけさせようとしていたのだ。
ただの一介の侍女に対してそこまで考える主人は、なかなかいない。
以降、わたしはますます懸命に勉学やレッスンに励むようになった。人生が巻き戻ってしまうたびに基礎体力や腕力は元通りになってしまうけれど、基礎はきちんと頭や身体に馴染んでいる。
おかげで人前に出ても恥ずかしくない程度には、さまざまな教養を身に着けることができたと思う。
はっきりと、いつとは言えない。
けれどわたしは時間を追うごとに、図々しくもクリスさまを姉のように慕い、この方に一生お仕えしたいと考えるようになっていた。
強い憧れは、恋にも似ているという。
だからわたしはその時には自分の感情がただの憧れなのか、それとも恋なのか、もうわからなかった。
けれど同性同士の恋愛なんて世間では認められていないし、一介の侍女のつまらない感情でクリスさまを困らせたくもない。
だからわたしは自分の気持ちを精一杯隠して、クリスさまに聞いてみた。
『あの……もしクリスさまがご結婚なさっても、お側仕えを続けてもよろしいですか?』
『どうしてそんな当然のことを聞くの? 私がキルシュタイン皇国へ帰っても、メルティナを連れて行くつもりでいるのに。ずっと私の側にいて、今までみたいに楽しくお喋りをしよう。ああ、もちろん君のご両親の住居も心配しないで。家族を引き離したりはしないよ』
まさかルナンドとの婚約が破談になることを見越していたわけではあるまいが、祖国にまで連れて行って下さる気でいた上、わたしの両親まで気に掛けてくださってたなんて。
勇気を出して問いかけたわたしにクリスさまがくださったそのお言葉は、わたしを一生分の宝物を得たような幸せな気持ちにさせてくれた。
しかしそんな日々を送る中、わたしはとうとうあることに気づいた。
あれは確か、前々回。七度目の人生を送っている時だっただろうか。
――これ、下手にルナンド王子との婚約破棄を回避しないほうが、クリスさまは幸せになれるんじゃないの?
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