休みとグローランプ

@Youryu777

休みとグローランプ

「よし……、これで問題無く点灯するはずだが………」

 そう呟きながら、薄水色の作業着を着て、プラスとマイナスの2本のドライバーをポケットに入れた、同じ色の作業ズボンを穿いている青年が、目の前にある小さな蛍光灯を睨んでいた。

 長年使い続けてくたびれた感じの、台所の上に取り付けられていた小さな蛍光灯は、初めは小さく点滅している状態だったのが、作業着を着た青年の手によって、本来の仕事を取り戻したかのように、再び力強く光り始めていた。

 その状態を見た家の住人であるおばあさんは、安心したかのようににこやかな笑顔で、軽やかに口を開いた。

「あらぁー、良かったわぁ。この前からここが調子悪くて、とっても不便だったのよ………」

「ちょっと見てみましたけど、これと言って壊れている部分はありませんでしたよ。蛍光灯とグローランプが切れかかっていただけですから、問題は特にありませんね」

「それでも取り替えてくれたのだから、こちらとしては大助かりよ。この年になると、ちょっと高いところの作業はとってもつらいから………」

「あぁー。確かに、下手すると大事故に繋がりますからね」

「でしょ? 本当に大助かりだったの。お手伝いさんも、あちらの用事で来られなかったから………」

「はぁ………」

「それにねぇ………」

 長くなりそうだなぁ、と頭を過ぎった青年は覚悟を決めて、おばあさんの話を全て受け止める意気込みで話に耳を傾けたが、ある音が部屋中を響きわたったために、あっさりと話が早く終わった。


ピィィィィィィィィ!!!!!!


 大きな音の元に青年とおばあさんが顔を向けると、台所の隅の古びたガスレンジの上にいつの間にか置かれていた小さなヤカンが、白い湯気を盛大に吹き上げながらお湯が沸いたことを報せる、甲高い音を鳴らし続けていた。

それを見たおばあさんが、待っていましたと言わんばかりに、鼻歌交じりで台所へと向かっていった。

「あらあら、お湯が沸いたみたいね。すぐお茶を淹れますから、そこの椅子に座ってちょうだいな」

「え、いや。大げさな作業な訳じゃないですから、そこまでしなくてもかまわないのですが………」

「いいの! せめてものお礼だから。気にせずにどうぞ」

「はぁ……」

 これ以上言っても話は進まないと思った青年は、素直に椅子へと向かってストンと座った。

それを見たおばあさんは、嬉しそうな顔でお茶を淹れ始めた。そして手馴れたようにお茶の葉と湯飲み茶碗を用意して、熱々のお茶と一緒にいろいろなお菓子を入れたお盆も持ってきた。

「さぁ、遠慮せずにどうぞ」

「あ、はい。いただきます………」

 ずずずず………………

 淹れたばかりの緑茶は、お茶の葉の香りとほのかな苦味が最も強く感じ、よく飲んでいるペットボトルのお茶とは違う味わいが、口の中一杯に広がっていた。

おいしそうにお茶を飲んでいる姿を見て、おばあさんは安心したように青年の前の椅子に座って、同じように熱々のお茶を一口啜った。

しばらくの間お茶とお茶菓子で、二言三言雑談をしながら過ごしていた。

「そういえば、貴方のお父さんの容態はどうなの? 体の調子が悪くなったって聞いたけど………」

「あぁ、それほど酷いものではないですよ。腰を悪くして一カ月か二カ月ほど入院するって話ですけど、大掛かりな手術をするって程でもないので」

「そう、よかった。もうお父さんもお年でしょ? あまり無理しないで体を大事にしてほしいけども」

「いえ、本人はまだまだ働くつもりですけどね」

「無理しないでと、伝えておいてくれないかしら?」

「しっかりと伝えておきますよ」

 そう苦笑いをしながら、湯気の立つ茶碗の中身をまた一口すすった。その姿を見たおばあさんも、つられるようにお茶を飲んだ。

 そしてしばらくの間沈黙が続いたが、すぐさまおばあさんの一言でその沈黙が破られた。

「貴方も、もういいお年じゃなかったかしら?」

「え………」

 唐突に親父のことから自分の事へと話題が変わり、それも自分の年に関する話題を振られた為にどう答えればいいか、少しだけ考えてしまった。

 しかし、おばあさんの質問攻撃は考える暇を与えないほどに、矢継ぎ早に繰り出されていた。

「今年でいくつくらいだったかしら」

「27ですけども………」

「あらぁー、そうなると良い年頃の子とお付き合いなさっているの?」

「いえ、お付き合いとかまったくありませんので」

「それなら、これからお付き合いする子っているの?」

「いやぁ~………、皆目見当つかないって感じですが」

「そうなの? もし知り合いでいい子がいたら、真っ先に紹介するのだけどねぇ………」

「そこまでしなくても、大丈夫ですから……」

「私の若いころは、もうお付き合いしているのが普通だったのよ?」

「はぁ………」

「私が死んだ夫と会ったのは、今からどれくらいだったかしら」

「は、はぁ………」

『こりゃ、帰るのが当分先だな』

 と、果てしなく続く思い出話を聞き流しながら、いつ開放されるのだろうと絶望に近い気分で、このつらい時

間を過ごしていた。

結果的にお手伝いさんが用事を済まして戻ってくるまでの間、苦行言える時間を過ごしてようやく開放された時には、夕方終わる予定が大幅に狂って、とっぷりと日が暮れた夜になってしまった。

「それじゃ、お父さんによろしく伝えてね」

「はい、それでは………」

 わざわざ玄関までお見送りしてくれた、おばあさんとお手伝いさんのお礼の言葉を背に受けて、心身共にぐったりとしながら、自転車を力なく押していった。帰り道の夜の街は、季節が秋に移り変わった為か今までの暑苦しさが大分落ち着いており、さらに心地よい風が時折吹いて疲れも一緒に流してくれようにも思えた。

 そして、街の明かりの眩しさで我に返り、早々に帰らなければと自転車に飛び乗って力強くペダルを踏もうとした途端………

「広瀬さん! 泰昭さん、ちょっと待って!」

「と、っとぉ!」

 後ろのほうから青年の名前を呼ぶ声が飛び込んできて、あまりの唐突さに自転車がふらついて倒れそうになりかけたが、必死にこらえて何とか立て直してその場で立ち尽くした。

一息ついた後に声が聞こえた後ろの方を振り向いてみると、先ほどのお手伝いさんが何かがぎっしり入った紙袋を手にしながら、すぐそばまで駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、お礼を忘れていたのよ。これを持っていってくださいな」

「はぁ………」

「それじゃ、ご家族の皆さんによろしくお願いします」

「はい、わかりました」

そういって、ぺこりぺこりと頭を何度も下げながら、お手伝いさんは家のほうへと戻っていった。その場に残された泰昭は、どっと疲れがたまった体を無理矢理奮い立たせながら、自転車に飛び乗り自分の家へと走らせた。

 薄暗い路地を走りぬけ、うって変わってぱっと明るくなった商店街の大通りを横切り、静かな住宅街を入っていって、一つの一軒家の庭へと自転車を進めた。

 雨どいのある広めのスペースに自転車を止めると、前かごに入れた道具袋とお土産の入った紙袋を掴み取り、小さな庭をそのまま通り抜けて、玄関のドアを開けた。

「ただいまーっと………」

「あー、おかえりなさーい」

 疲れたような細い声とは裏腹に、奥の部屋からあっけらかんと明るい声が飛び込んできた。

その声を聞いた泰昭は、ふぅと軽く息を吐くと、その声の元へとぶっきらぼうな声を投げつけた。

「母さん、父さんからの依頼終わったからね!」

「おーう、ご苦労さん! 早く上がっておいで、すぐご飯にするから」

「はーいよーっと」

 そんなやり取りが終わった後、いそいそと靴を脱いで玄関から上がり、着ていたジャンバーをすぐそこのコート掛けに掛けてから奥の部屋へと向かった。

ドアを開けて中に入ると、ほっこりとした暖かい空気が、夜の冷たい空気で冷えた体をゆっくりと暖めていった。

仕事の疲れと寒さを部屋の暖かさで癒していると、部屋の更に奥からラフな服装でちょっと白髪が目立つ、誰が見ても明るそうな五十代ほどの女性が、お盆の上に一杯のオカズを載せて、台所から出てきた。

「寒い中ご苦労さん。早く手を洗ってきなさい、この時期でも風邪になる人って多いらしいから」

「はいはーいっと、それで母さん。父さんの容態はどうなの?」

「うーん、昼間に見舞いがてら様子を見に行ったけど、元気と言えば元気だったわよ」

 へー、と軽く応えながら手を洗い室内着に着替え、大きめのテーブルに着いた。それと同時に母さんと呼ばれた女性は、ごはんの盛った茶碗と味噌汁の入ったお椀を持って、再び台所から出てきた。

泰昭は出された夕食を目の前にして、いただきますと軽く呟いてから食事にありついた。その姿を見た母親は、そのまますぐ傍のソファーに座り、趣味の裁縫の本を読み始めた。

 今日の寒さを考慮してか、メニューは唐辛子などを使った少し辛目のメニューが多く、水と飲みながらヒーヒー言いながら食べていた。それを気にせずに母親は雑誌を読んでいたが、数分後思い出したかのように泰昭のほうへと向いて、あっけらかんと語りだした。

「あのさ、明日時間ある?」

「んー、午前中は用事あるから無理だけど、午後でよければ」

「それで問題無いよー。午後でいいから、お父さんのところに行ってくれる?」

『お父さんのところに行ってくれる?』 

 軽い感じで言ったその一言で、泰昭は二つの可能性を頭に過ぎらせていた。

一つ目は病院に腰痛で入院している父親に、見舞いの品を持っていくという俗に言う『パシリ』。

二つ目はさっきやっていた、電気の仕事を父親の代わりに受けると言う仕事の代行である。高校時代にそういった資格を取っていた為、ある程度の電気工事を行うことが出来るのだが、建築現場でやるような大掛かりなことまでは、泰昭の腕ではとても難しい話だった。

 なので、大掛かりなものは父親が良くなるまでの間待ってもらい、緊急ながらそれほど難しくない仕事を代わりに行うということである。

 また何か頼まれるのかなと思いながら、泰昭はごちそうさまと言って、空に綺麗になったお茶碗と皿を台所の流し場へと持っていった。食べ終わった食器類を水で流して、流し場から戻った後にソファーに座って雑誌を読み続けている母親に、自分の頭に過ぎった思いをボソっと呟いていた。

「しっかし、父さんが腰を悪くして休んでいるのに、何でこうも仕事が来るのかねぇ。大したことない内容ではあるけど」

「ほら、お父さんも年でしょ? 六十にもなってよく仕事に出かけるけど、あれってお得意様がいるからお仕事があるのよ。だから折角のご指名を、出来れば不意にしたくないのよ」

「まぁ、理屈では分かるけどさ………」

「だから正統な二代目の君が、しっかりと対処しなければならないわけなのだよ」

「だったら、初めから親父の仕事を手伝わせてください、と意見を述べてみる」

「だから、そのことはずーっと前にも言ったじゃない………」

 そう呟くと、持っていた雑誌を座っていたソファーの横の小机に置いて、同じ事を何度も言ったようにスラスラと、泰昭を言い聞かせるように話し始めた。

「あんたの申し出はお父さんもすごく喜んでいたのだけど、それにはまずそれなりの実力をつけてからでも遅くないって事で、違うところで働いてこいって話になったでしょ?」

「耳が痛くなるほどにね」

「それで、その力をつけるために会社に勤めたけど、結果的に1年くらいで辞めたでしょ?」

「はい………、人間関係でちょっと………」

 そう呟いた泰昭は、その事を思い出したのか、表情がゆっくりと無表情になった。

「で、今現在は職探し中に至ると」

「職業案内所に、転職サイトをフル活用して探しています………」

 ズバズバと彼の現状を突き刺すように話す母親の口撃に、次第に惨めな気持ちで一杯になりつつ、小さくなっていった。

その状況を理解していないのか、彼の母親は遠慮なく、泰昭に向けてその鋭い言葉を次々に突き刺していった。

「転職サイト活用しているとか言っても、実際は別のサイト見てボーっとしているしー」

「もう………、本当に勘弁してください!」

「それにー、ん?」

 不意に言葉を切った彼女が見た光景には、目の前に立っていた息子は既に存在せず、代わりにぼろ雑巾の用にぼろぼろになった彼女の息子が、軽く涙を流しながら小さく床に横たわっていた。

さすがにこれは言い過ぎたと少し反省したのか、今まで以上に明るい声で話しかけていた。

「ま、まぁ! 会社辞めたって言っても悪いことじゃなかったし、あのまま勤めていたらどうにかなっていたかも知れないしね」

「う………、うん」

「だから、もうヘコむな! ヘコむな!」

 やや強引に会話の空気を変えられてちょっと呆然となりながらも、ようやく母親の口撃の傷が癒されたのかよろよろと立ち上がっていた。

ただし、まだ完全に癒えていないのか、少し足元がおぼつかない感じではあったが。

「今年中には、何とか見つけますのでご了承を………」

「大丈夫。ああは言ったけど、しっかりと動いているのは知っているから、自分に合うところをじっくりと探しなさい」

「ありがたき幸せ………」

「さ、この話はここまでにして。お父さんの件だけど、明日の午後で良いから行ってくれない?」

「わーかりましたー」

 そういうと、いつものように今日の作業で溜まった疲れを風呂で洗い流し、やや乱雑に物が溢れている自分の部屋のへと向かっていった。

ちょっと足の踏み場のない部屋を器用に突き進みながら、使い慣れたパソコンの前に座って起動させた。

そして、登録してある転職サイトを画面いっぱいに開き、何かいい職が無いか、星の数ほどある企業説明の文章を睨んでいた。

 真剣に探すこと八割と、休憩がてら別サイトを見ること2割の割合で時間をつぶし、明日の午前中には出かけることを思い出して、早々に布団の中へともぐりこんだ。



「失礼します、と………」

 ちょっとおっかなびっくりで引き戸を開けて、大きめの部屋に入っていった。

今、泰昭は家の近くにある大きめな病院に来ていた。

午前中は私用で外に出かけていたが、一区切りついた後に父親が入院しているこの病院へと向かった。

病院内は昼食が終わった為か、食器を入れる台車を押している看護士が、狭い廊下を器用に動かして病室から空の食器を片付けていた。

 泰昭も、そんな大忙しの廊下をぶつからないように気をつけながら、目的の部屋へと向かっていった。

そして、『広瀬 勝彦様』と自分の父親の名前が書かれているネームプレートを確認して、そのまま病室の中へと入っていった。

「おー、来たか。お疲れ様」

 病室に入って少し進むと、奥のほうから気楽そうな声が飛んできた。

声が飛んできたほうを見ると、頭が寂しくなっている白髪多めの人がよさそうな男性が、ベッドの上で新聞を読んでいた顔を上げながら、にこやかに出迎えてくれた。

「こっち来てくれ、詳しい内容話すから」

「はいよー。で、父さん。今度は何をするのよ?」

「これから話すよ。そんなに難しい話でもないし、すぐ終わるからな」

 そう話しながら、父さんと呼ばれた男性は読んでいた新聞をベッドの脇に置いて、泰昭のそばへと身を近づけた。

泰昭も腰の悪い勝彦に無理をさせないように、すぐ側にあった椅子をベッドの隣に置いて、話を良く聞ける位置に座っていた。

「さて、それじゃ仕事の内容を話すぞ」

「うん」

「今度は○□駅にある、雑居ビルの管理室で頼まれたことだが」

「どこそこ? 父さんの仕事先なの?」

「そんな感じだ。あそこの室長さんとは、結構長いこと仕事しているからな」

「それで、今度は照明関連? コンセントの増設? また、蛍光灯の取替えとか?」

「今度は、照明スイッチの交換だよ。」

「スイッチ交換か………、そこまで時間はかからないね」

「材料は、いつものように家の材料コンテナに入っているから。そこから、必要なやつ持っていってくれ」

「わかった、期限はいつまでだって?」

「出来れば速いほうが良いって言っていたから、明日までにやってくれ」

「わかった、明日は特に用もないからすぐに向かうよ」

「すまん。それじゃ、そういうことで頼む」

 そういって勝彦は新聞紙を手に取り、読みかけていたところから読み始めた。

泰昭も至って元気そうな父親の姿を見て、問題ないと安心したのか安堵のため息を小さく吐いた。

 その姿を見た勝彦は軽く笑いながら、まるでからかう様に口を開いた。

「何だよ、ため息なんかついて。転職活動がうまくいってないのか?」

「違うよ、いつもどおりの姿で安心したの」

「ははは………。たかが腰痛で入院したのだから、そこまで衰弱しているわけないだろ」

「そうだけどさ。急に入院って話になって、一番驚いたよ………」

「それはすまない。いろいろと忙しいところに、俺の仕事を代わりにやってもらっているのだからな」

「いや、そこまで大変なことじゃないから、逆に父さんの仕事の大変さを味わえたからいい経験だよ」

 いつもとは言わないことを話したのか、勝彦は目を丸くして泰昭のことをじっと見つめていたが、軽く笑うと何か思うような目で泰昭のことをじっと見つめていた。

それに気づいた当の本人は、その視線を不気味と感じたのか、少し体を引きながら恐る恐る尋ねていた。

「な、なんだよ………。変な目つきで見て、気持ち悪いな」

「いや、そういうことを言えるんだなぁと。心底驚いていた」

「気持ち悪いなぁ、本当に………」

「ははは! で、簡単な仕事だったけど、大変なのは実感できたのか?」

「言わずもがなだよ。痛感したよ」

「そうかそうか、それならば………」

 そういうと、急に今までのしおらしい態度から一転して、目に光が宿ったように感じた。

これは何かあると思った瞬間には勝彦の口からおびただしい勢いで、数多くの言葉が飛び出していた。

「そんなお父様を敬う為に、近くのコンビニからアイス買ってきてくれよ。後、家から持ってきたラジオの調子が悪いから、電気店行って新しいラジオ買ってきてくれない? ちゃんとFM局入るやつね。それと、漫画雑誌もついでに買ってきてくれ。それから………」

「ちょっと待って! 結局パシリかよ! 病院にラジオなんか持ってきて、誰かに怒られなかったのかよ!」

「だーかーらー、腰痛だけだから、そこまで規制は厳しくはないの。ただ早くしないと、面会時間が無くなるから早く持ってきてね」

「だー! この親はもう!」

 いつもの家にいる感じに戻って、まったく問題無いことがわかって本当に一安心したが、今度は色々と遠慮無く注文をして逆にしんどくなっていた。

「あー、後はねぇ………」

「まだあるんかぃ!!!」

 病院にいても変わらない、そう強く感じた昼下がりの午後のひと時であった。

その後、自転車をフル活用して勝彦の注文してきた品物を大急ぎで集め回り、助言どおりに面会時間ギリギリになって届けることができた。

「遅かったなー、もっと早く頼むよね」

「もー、勘弁して………」

 労いの言葉無く、ただ疲労のみ残った体を自転車に預けて、泰昭はふらつきながら家路に着いた。

明日の仕事の疲れも、前回以上なのだろうかと不安を胸に抱え込んだまま、その日は早めに布団の中に入った。



「えっと、父さんの話だとここになるが………」

 次の日、仕事道具一式をナップザックに背負った泰昭は携帯のナビ片手に、勝彦から指定された建物の前に立っていた。

昼前に電車に乗り、そのまま乗り続けること1時間ほどで、最寄り駅に着いた。

そして、勝彦から聞いた住所を携帯のナビ機能で探して、今その建物の前に立っていた。

 住所と一緒に聞いた建物の名称を確認して、ここが目的地と確認した後、そのまま少し古びた雑居ビルの中に入って、管理人室へと向かった。

「ごめんください………」

 遠慮気味な声で管理人室に入っていくと、そこにいた人の良さそうな初老の男性が、泰昭の方へと歩み寄ってきた。

 この人が勝彦の言っていた、このビルの管理人だろうと理解した。

「あぁ。この前電話であった、社長の息子さんですね? 遠いところをお疲れ様です」

『社長………。あ、父さんのことか』

 あまり家では聞かない勝彦の肩書に、一瞬戸惑いの表情が生まれたが、すぐに何事も無かったように管理人の方を向いた。

「社長さんの調子はどうなのでしょうか?」

「えぇ、そこまで深刻なものじゃないですし、昨日会ったときはいつもの調子でした。あれだけ元気なら、近いうちに退院できると思いますよ」

「それは良かった、私も心配しましたから………。急に入院するって話がきたので」

「僕もその話を聞いたときは、肝が冷えた気がしましたよ」

「わかりますよ………。でも、そこまで元気なら一安心です。早く退院できるといいですね」

「はい。それで、父から話があった問題の部分って、どちらでしょうか?」

「あぁ、すいません。話が長引いてしまって………、こちらになります」

 恐る恐る中に入った泰昭を、ビルの管理人は前もって連絡があり事情を知っていたのか、全てを知っていたかのように快く迎えてくれた。

そして、しばしの会話の後に、勝彦の話にあった修理する部分がある部屋へと向かった。

入った部屋は、その階の奥にある共用の給湯室で、水洗い場とちょっと古めのガス給湯器が置かれてあった。部屋の片隅にある大きめの棚には、たくさんの湯のみときゅうすが置かれていて、たくさんの人に使われているのが良くわかった。

「えーっと、それで問題の部分は………」

「こちらですね、このスイッチが押しても反応が悪くて………」

「じゃ、ちょっと見てみますね」

 管理人の方に教えてもらったスイッチを何回か押してみると、確かに給湯室の明かりの点きが悪く、押すときの手ごたえもしっかりとした感触ではなかった。

原因はスイッチと確信した後の泰昭の動きはとても機敏で、すぐさまナップザックから工具一式と新しいスイッチを取り出した後、手早く壊れているものと新しいものを取り替えて、電線を接続した。

元の様に新しいスイッチを取りつけて問題ないことを確認した後、取り替えたスイッチを何度か押してみると、今度はしっかりと明かりが着くようになった。

「うん、これで問題ないですね」

「おぉ、それは良かった」

 管理人も、何度もスイッチの入り切りを試して、問題なく動くのを確認していた。

とても満足したのか、その表情はとても嬉しそうであった。

その表情を見た泰昭も、安堵感でいっぱいになった。

管理人室に戻った二人はお茶で軽く一息ついた後、しばらく雑談をしていた。雑談と言っても管理人からのお礼の言葉が主だった。

「いやぁ、本当に助かりました。かなり早く終わったのにも、大変驚きましたよ」

「これくらいは、そこまで難しいものでもないですから」

「いやいや、謙遜なさらずに………」

 そんな応答をしばらくして、お茶を一杯飲み終えて一言挨拶をした泰昭は、早々に管理人室から出て行った。管理人は、ビルの出入り口まで一緒に付いてきて、お見送りまでしてくれた。

そこまでしてくれることに恐縮しながら、何度か頭を下げつつその場を後にした。

駅へと向かう通りに入って一息つくと、ポケットから携帯を取り出して作業報告をしようとしたとき、タイミングを見計らったように、携帯の着信音が鳴り響いた。

 大慌てで携帯を取ると、そこから聞こえた声に少し腰が砕けてしまった。

「いよぅー、終わったか? どうだったよ」

 聞きなれた勝彦の声が耳に入ってきて、さっきまでの仕事の顔はすっかり消えて、いつもの表情へと変わっていった。

「なんだ、父さんか。病室で電話かけるなって!」

「安心しろ、病院内の公衆電話から掛けているからな。まったく問題無いぞ」

「あー、そう……。しかし、いいタイミングだったよ。頼まれた仕事の報告をしようと思ってさ」

「おぉ、それはよかった。それじゃ、先にそれから報告頼むよ」

「父さんの言っていた通りで、スイッチ取り替えたら問題なく点灯したから。点灯の確認も済んでいるから、もう大丈夫」

「そうかそうか、ご苦労さん」

 問題無く終わった事に、勝彦の声は少し安堵したかのように聞こえた。

「それで、管理人さんから早く良くなってくださいって伝えてくれってさ」

「わかった。治ったらしっかりと謝っておかないと」

「そうだね。とりあえず報告としてはそんなものだけど、他にも何かある?」

「あー、終わってすぐで悪いが………。ちょっと急ぎで頼まれてほしい件があってだな」

「頼まれてほしいって………、今度は何を買って来るの?」

「いや、お使いじゃなくて仕事だよ」

「仕事?! また急だな」

「うん、続けてってのはきついと思ったから、今日ではなく後日改めて、と言ったのだが………」

「絶対に、今日じゃないと駄目だって?」

「うん。向こうも結構切羽詰っている感じだったから、根負けしちゃったよ」

「そっか………」

 勝彦の申し訳なさそうな声に、泰昭も申し訳ない気持ちになりながら、その話を続けて聞いていた。

「悪いが、そのままそのお宅に行ってくれないか? 仕事終わったすぐ後で申し訳ないが」

「いいよ、問題ないし。場所はどこなの」

「あぁ、住所は………」

 そうして、勝彦からその家の住所を聞きながらメモ帳に手早く書き写すと、二言三言話をして泰昭は携帯を切ってポケットに突っ込んだ。

幸いその場所はここからさほど遠くなく、電車で少し行ったところだった。

やれやれと軽く頭を振った泰昭は、ナップザックを背負いなおすといつもと変わらない足取りで駅へと向かっ

ていった。



 そうして、目的地に向かうこと三十分程で、泰昭の目の届くところまで近づいていた。

ただ、その全景を目の当たりにしたとき、自分の目を疑って何度も目頭をよくマッサージしてみた。

しかし、いくらやっても目の前の現実は、たった一欠けらの変化も起こらなかった。

「大賀崎さんのお宅って………、ここだよな………。間違ってないよな?」

 今、泰昭の目の前にある目的地の建物を、別の建物の名称に例えるなら、『迎賓館』という名称が一番近かった。

趣のある古めかしい屋根、モダンチックな高貴ある窓、適度につたが生い茂った歴史を感じる壁、その家を囲む長い塀も負けず劣らすに雰囲気があって、それらひっくるめて長い時代を見てきたという証拠になりえる程の雰囲気を、出し惜しみなく醸し出していた。

目の前の現実に未だ信じられず、何度も大きな門の側の表札を確認したり、携帯のナビ機能で何度も調べたり、近くを通った知らない人に尋ねて確認もしたが、ここが父親の言っていた目的地であるということが、わかっただけであった。

「こんな凄そうな所で仕事って、どんなことだよ。なんか新しいものを取り付けるのか? こんな豪華すぎるお屋敷に取り付けるって言うのは、恐縮しちゃうから勘弁してほしいが………」

 まだ始まってもいない仕事のことで色々と愚痴をこぼしつつ、大きな門の側にある小さめの通用門へと歩いていき、通用門に設置されているインターホンのボタンを押して、仕事の用件を伝えた。

そして、インターホンからは渋めの低い声が聞こえてきて、しばらくお待ちくださいと丁寧な言葉で応対してくれた。

ここまで丁寧な対応は泰昭にとっては初めての経験で、頭の中はより一層凄まじいスピードで混乱を大きく膨らませていった。

「ま、まぁ……。実際はそこまですごいお屋敷って訳じゃないでしょ。外見はえらく立派に見えても、中のほうは結構普通の家と変わらないかも。インターホンの声の人も、この前行ったおばあさんの家みたいなお手伝いさんみたいなもんでしょ。そうだ、きっとそうだよ。ははは………」

 まるで何かを言い聞かせるようにブツブツと小さく独り言を呟いていると、ガチャっと重々しい音が響いて目の前の通用門の扉がゆっくりと開いていった。

次の瞬間、泰昭の目に飛び込んできた景色を認識した瞬間に、自分自身に言い聞かせていたことは、ガラガラと音を立てて崩れていった。

『夢だ………、これは夢だ。それもとびっきりの悪夢に間違いない。夢なら早く覚めてくれー………』

 広めの部屋に通された泰昭は、ガチンガチンに体を強張らせながら、とても柔らかそうなソファーに座って、より一層大荒れしている頭の中を静めるのに一生懸命だった。

「大変申し訳ございませんが、家政婦長は別件の用がありまして少々遅れますので、今しばらくこちらでお待ちくださいませ………」

「は、はい」

 そういって、泰昭の側にいた、ゆったりとしたメイド服を身に着けた女性が、静々と目の前のテーブルの上に紅茶を淹れたカップを丁寧に置いた。

そしてカップのすぐ側に、紅茶用のミルクを入れた鉄製の小瓶と砂糖の入った陶器の小瓶、レモンのスライスを数枚載せた小皿を慣れた手つきで手際よく置いていった。

ゆっくりと湯気が上るカップから香る紅茶の匂いは、一般市民には飲まれないような上等のものだろうと、すぐにわかった。

「もし何かございましたら、こちらのベルをご遠慮無く鳴らしてください。すぐお伺いしますので……。それではもうしばらくお待ちくださいませ」

 丁寧な口調で用件を言うと、ティーセットや陶器のポットを載せている小さめのカートを、音も無く押していき、部屋の奥の扉の前まで進んでいってから、泰昭のほうを向いて深々とお辞儀をした後に、すばやく部屋から出て行った。

つられるように深々とお辞儀していた泰昭は無言のまま顔を上げると、部屋に入って初めて声を出して息を吐いていた。

「あれって………、メイドさん? まさか本物のメイドさんを、この目で見ることになるとは………」

 依然として、頭が混乱しているのか、変なところの感想を呟きつつ、改めて今居る部屋の中を見回していた。

「うん、家の外に負けず劣らぬ、とてつもない豪華な内装だよな。こういう所に来る事って、絶対無いと思っていたけど………」

 誰もがこの部屋に入ったとき、思うことは唯一つと断言できる。

それは、泰昭も同じだった。

『相当なお金持ちだなぁ』

 雰囲気ある空間、さらにその雰囲気を強調するかのように置かれたアンティークの家具類、そして有名画家が書いたと思われる、豪勢な額縁に飾られた絵画。

テレビや雑誌か何かでしか見たこと無い空間に、現実にいる自分。ラフな服装で、その傍らには仕事で使う道具を入れた、少しくたびれた愛用のナップザック。

場違いにも程があると、何度も頭の中を駆け回っていた。

 それに、この部屋へ向かうまでの道のりも、インパクトがありすぎていた。

塀で隠れていた広く手入れが行き届いている庭に呆然とし、改めて間近に見るお屋敷の大きさにも更に唖然とする結果に。

とどめは、お屋敷の中に入って目の当たりにしたホールや歩いてきた通路にも、今いる部屋に負けないほどの優雅さがあり、泰昭は周囲がグルグルと回転しているような錯覚に陥っていた。

 これ以上待つと、精神崩壊もありえるかもというほどに緊張していると、奥の扉からトントンと控えめな音が聞こえてきた。

救いの神が舞い降りたかのように思えたが、入ってきた人物を見た瞬間に、それは儚いものだと思い知った。

「お待たせしてしまって、大変申し訳ございません。私、この屋敷の家政婦長の水幸と申します」

「いえいえ! そんなことありません! えっと、自分は父の代理で来ました、広瀬泰昭と言います」

「ご丁寧にありがとうございます。どうぞ、お仕事の内容をお話しますのでお座りください」

「あ、はい! ありがとうございます!」

 泰昭はもう限界と言えるほどの緊張状態で、部屋に入ってきた人物と話をした。

そこまで緊張するのも無理も無く、見た感じは先ほどのお茶を持ってきてくれたメイドさんと同じ服装ながら、より丁寧な仕上げのメイド服を着ている、白髪が目立つ妙齢の女性だった。

しかし、体からあふれ出ている雰囲気は、厳かという言葉が一番適切な言葉だと思った。更に口調も同じようにとても厳かで、知らぬ間に威圧されているように感じてしまうほどであった。

 そんな拷問とも言える空間に、一人残された泰昭はさっきまでよりも体をガッチガチに硬直しながら、水幸と名乗った妙齢の女性と話を進めた。

「えーっと。まずお仕事の話なのですが、どこが悪いのでしょうか?」

「えぇ、倉庫に使っている蔵の中の電灯ですが、二~三日前から調子が悪くて電気が点かないのです」

「なるほど……、どこが悪いとかわかりますか?」

「いえ、電気に詳しいものが運悪く屋敷におりませんので、詳しいことはわかってないのが現状なのです」

「なるほど。では、現場に行って調べないといけませんね」

「はい。お手数をおかけして、申し訳ございません」

「いえいえ、謝ることでもありませんから。そういうのも自分たちの仕事ですので、お気になさらず!」

「そう言っていただけると、助かります」

 そういって、深々と頭を下げる水幸につられて、泰昭も同じように頭を下げていた。

そして、会話も程ほどに済ませて、いざ現場に向かおうとした矢先にふとした疑問が頭を過ぎった。

だが、次の瞬間には、不思議と臆することなく水幸に向けて、頭に過ぎった疑問を口に出していた。

「あの、仕事に関係ないことを聞いてしまうのですが、いいですか?」

「えぇ、かまいませんが………」

「父さん………、いえ自分の社長とはどういう経緯で知ったのでしょうか? こういうお屋敷になると、どこか贔屓にしている業者とか、そういったのがありそうな気もするのですが………」

「あぁ、そういうことですか」

 と、一言呟くと今まで気難しそうな顔から一転、ゆっくりと微笑みながら、丁寧に泰昭の質問を答えていた。

「確かに、当屋敷にはそういった業者はおりますが、今回は別のお仕事が立て込んでいまして。こちらに向かえないと、連絡がございました」

「はい………」

「それで、代わりにということでそこの社長さんから、あなたのところを教えてもらったのです」

「はぁ、なるほど。何とも、不思議な縁ですね………」

「えぇ、本当に」

 そう一言言うと、意味ありげな微笑と一言を、泰昭に向けて話していた。

「縁というものは、関係ないと思っているところにもあるものですよ。例え、それが想像もつかないところから繋がっている場合も、少なからずですがありえるのですから……」

「はぁ………?」

「ちょっとお話が過ぎましたね。それでは、蔵のほうにご案内します」

「はい、お願いします」

 手短に答えると、側に置いてあるナップザックを持って、水幸の後について部屋を出た。

この時の泰昭の頭の中では緊張による混乱や、未だ不鮮明な仕事内容による不安でも無くて、目の前の妙齢の家政婦長が話した、意味不明な一言による疑問で頭が一杯であった。

なぜ、あんな事を話したのだろう。

いくら考えても明確な答えが出てこなくて、より一層悩ませる結果になっていたが、前を歩いていた水幸の足が止まったことにより、強制的に思考が停止させられた。

「こちらが、倉庫として使用している蔵になります」

「ありがとうございます。それで、問題の電灯というのはどれになるのでしょうか?」

「はい、それはですね………」

 仕事の話をしていくうちに、次第に頭の中は疑問から仕事のことへと塗り変わっていき、水幸の話を頭の中にどんどん詰め込んでいった。

詳しい話を聞きながら問題の箇所を見て回ったが、そのほとんどが電灯の球が切れたといった、ごく些細な理由であった。

替えの球は別のところに保管されてあるもので交換していって、元の使える状態へと直していった。

ただ、蔵が古く思った以上に広いために点かない電灯がとても多く、さらに非常に高い位置に設置されている電灯も多かったため、球の取替え作業は長時間にも及んだ。

「これで………、ここも終わり!」

「はい、ありがとうございます。後は、そこの壁に設置されているシャンデリアの電球が終わったら、次で最後になりますので、それもお願いします」

「はーい、っとと!」

 高い位置にあった球の取替えを終えて、長い脚立をゆっくりと降りていき、点灯するかの確認を終えた泰昭は、水幸の言う最後の場所へと向かっていった。

しかし、向かう先は蔵の中ではなく蔵の外であったため、あからさまに動揺した様子で前を歩いている水幸に質問していた。

「あの………。最後の電灯って、蔵の中のものじゃないのですか?」

「いいえ、蔵のものはあれが最後なのですけれども、別の場所の電灯も調子が悪くて………。ついでと言っては悪いのですが、お願いできますか?」

「はぁ、様子を見ないと直せるか分かりませんけども、出来る限りのことはやりますよ」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、大変安心します」

「ところで、どこにある電灯でしょうか?」

「えぇ、大広間にある大きなものですけれども、それも点きが悪いので………」

「大広間にある大きなもの………」

 何気ない一言だったかもしれないが、泰昭にとってはと信じたくも無いほどに、危険な響きにしか聞こえなかった。

このお屋敷に入って、自分の目を疑うぐらいのすごいものを見続けていたので、これから向かうところも予想通りなら、きっと魂が抜けるくらいに凄いものだと予想できた。

そして、その予想は期待を裏切らず、更に凄いものとなって目の前に現れてしまった。

「うわぁ………」

「この大広間の中央にあるシャンデリアの電灯の1つが、先日くらいから調子が悪いのか点かなくなってしまったのですよ」

「はい………」

「なので、ここも同じように見ていただきたいのですが」

「わ、わかりました」

「それでは、お願いします。私はお茶の準備をしてきますので、ちょっと失礼します」

「お願いします………」

 心ここにあらずといった感じの生返事しか、泰昭は返すことが出来なかった。

それもそのはずで、視線の先には、見事な彫り物と装飾を身に纏った、立派なシャンデリアがそこにあった

無論、大広間の内装もこれまで見てきた以上のものと断言できたが、それを軽く凌駕している何かがそこにあった。

何よりもそのシャンデリアの中で目を引いたのが、上半分を覆っている金属の板に施されている、精巧な彫り物であった。

直線や曲線が絶妙に折り重なっていて、それが抽象的なデザインを見事に描いており、万人が言葉無くただ見とれると言い切れるほどの、素晴らしさと神秘性があった。

「………………」

「広瀬さん? 広瀬さん!?」

「は、はい?」

「何時まで見とれているのですか?」

「あ………、大変失礼しました」

「これが最後だからって、随分と力が抜けてしまっているようですけど?」

「いやぁ………、このシャンデリアをじっと見ていると吸い込まれるような気がして………」

「そうですか………」

 そう軽く話すと、水幸は天井につるされているシャンデリアをじっと見つめて、ふっと遠くを見るような目で静かに口を開いた。

「これは昔、この家の主人の海外にいるお友達から、友好の印として送られたものです。その方はこういった装飾物を作る腕が素晴らしく、当時の主人もこれを送られたときは大変喜びましたよ」

「よくわかりますよ、じっと見とれてしまうくらいですから………」

「そうでしょう。お客様をお招きしたときにも、このシャンデリアを絶賛する方が大勢いましたから」

「確かに………。それで、そのお友達の方って今でもお付き合いを?」

「いえ………。その方は、ある事故によりこの世を去りました。その方のお家とのお付き合いは、まだ続いていますが」

「あ………、失礼しました」

「いいのですよ、お気になさらず」

「はい………。しかし事故ですか、怖いですね………」

「どんな事故だったかは、今となってはもうわからずじまいですよ」

 そう軽く答えると、水幸は視線をシャンデリアから奥にある扉へと向けて歩き出した。

それに気づいた泰昭も本来の目的を思い出して、部屋の隅に置いておいた脚立を持ってきて、シャンデリアの下に置いた。

すぐさま作業に戻った泰昭を見て、水幸は軽く笑いながら歌うように話しかけた。

「ここが終わりましたら、温かいお茶を用意しておきます。他に何か必要なことがありましたら、廊下にいる者に遠慮なく申し出てくださいね」

「はーい、お手数おかけしますー!」

「それでは、お願いします」

「よーっし、やるか!」

 気持ちを改めて泰昭は、シャンデリアの点検を開始した。

明かりが点いていないのは中央部にある電球で、下半分にたくさん付いているきらびやかな装飾品を傷つけないよう、慎重に電球を取り外した。

しかし、確認をしてみると電球自体には、特に異常が無いことがわかった。

他の原因があるのかと思い直し、もう一度中央部を注意深く見ていくと、電球を取り付ける部分の少し下に小さい電球のようなものが、目立たないようにゆっくりと点滅しているのに気づいた。

「何だ、これ………。点灯管(グローランプ)みたいなものなのか?」

 訝しげに思いながらも、これが原因で点かなかったのかもと考え直して、この小さな電球を取り外そうと手を伸ばして電球を摘んだ瞬間に、驚くべきことが目の前で起こった。


パチッ………


「え?」


パァーッン!!!


「うわっ!!!」

 何が起こったのか、分からなかった。

 電球を摘んだとき、その電球から小さな音と共に青い雷のようなものが一瞬出たように見えた。

そして、次の瞬間にはシャンデリアに付いていた全ての電球が、大きな音と同時に強烈な光を発していた。

とっさのことだったが、反射的に両腕を顔の前に交差させて、泰昭は間一髪で光を防ぐことが出来た。

しかし、目の前の光景を目の当たりした瞬間に、ただ愕然とするしかなかった。


 まず目に入ったのは、付いている電球が全て壊れてしまったシャンデリア。


 そしてもう一つは、すぐそばの床に力なく倒れている、風変わりな格好をした女性だった。


「え………」

 目の前に広がる信じられない状況に、ただ混乱するだけだった。

確かに一人だけしかいなかったはずなのに、いつの間にか知らない人間が倒れている。

シャンデリアが強烈に光ったのはほんの一瞬で、その間にこの大広間に入ることは、まず不可能なはず。

それなのに、実際に目の前にいるのは、紛れも無い事実。

「これは、どうすりゃいいのよ………」

 一言、誰にも聞こえるはずの無い愚痴をこぼした後、泰昭はとりあえず脚立から降りて、床に倒れている女性の様子を確認した。

黒くかなり長い髪をしていて、顔立ちや体型を見る限りでは、年齢も泰昭とそれほど変わらないようにも見えた。

そして、一番の特徴が彼女の服装だった。

一瞬見たときは風変わりな衣装で良くわからなかったが、改めて観察してみると、肩の部分が妙に膨らんでいる赤いロングスカートのドレスを着ていた。

「こういう服って、結構お金持ちのところじゃないと着られない様な代物じゃなかったっけ? ということは、多分この子ってお嬢様なのかな?」

 じっと倒れている女の子をじっと観察している泰昭だったが、その時間がもうすぐ終わりに近づいていることを、いち早く察した。


部屋の外が、徐々に賑わってきたからである。


「やべっ、さっきの音と光で、外の人たちが気付いたか。シャンデリアがこんな状態じゃ、正直に話すしかないけども………。この子のことは、どうするかなぁ。正直に話をすると、なおさらこんがらがりそうだから、ちょっと目立たないところに隠して、一旦やり過ごそう………」

 そう呟くと、部屋の中を見回して隠すのに適している場所を、一心不乱に探し始めた。

すると、大広間の隅のほうに置いてある家具と、すぐそばにある大窓のカーテンを見た瞬間、すぐさま倒れている女の子を丁寧に持ち上げて、その家具の陰に隠すように座らせてから、大窓のカーテンを使って体を隠すように覆って、とりあえずのカモフラージュを完成させた。

「これで、ぱっと見は問題ないだろうけど………。追求されないように、何とか早めに話を終わらせないとなぁ」

 そう独り言を呟いた泰昭は、軽く頭をかきながら頭の中で、さっきの出来事で壊れてしまったシャンデリアの件をどう説明をしようかと、フル回転させていた。

しかし、結局のところは、正直に話すしかないと腹を決めて、部屋に入ってきた数名のメイド達を見て、軽くうなずいた後に、彼女たちの前へと進み出た。

「ふぅ、あんまり大事にならなくて良かった」

 大体の説明を終えて、大広間に残された泰昭は肩の力を思いっきり抜けた状態で、ふっと呟いた。

あの後、数名のメイド達の後から水幸もこの大広間に来て、何があったのかの質問攻めを受けることになった。

事が事だけに、大荒れになるかもと覚悟をしていたが、正直に事情を説明してシャンデリア自体が壊れたのでは無く、電球のみが壊れたとだけ告げると、それ以上はとやかく言わずに、「わかりました」の一言で終わった。

 そして、替えの電球が無いかどうかとたずねて見ると、運悪くこのシャンデリア用の電球は予備の分は無いとのことだった。

また、他のものを代用にすることも出来ず、作っているところも海外でしかないようで、取り寄せるのにもかなり時間がかかるとのことだった。

「とりあえず、破損してしまった電球が、いつ頃こちらに届くのかを確認してまいります」

「わかりました。自分も、もう少し他に異常がないか見てみますので」

「お願いします」

 そう言うと、他のメイド達と一緒に大広間に出ていった水幸を見送り、泰昭はどこか異常が無いかを確認するために脚立を上り、もう一度シャンデリアを隅から隅まで確認を行った。

幸い、電球が壊れた以外の異常は見当たらず、まったく問題ないということがわかった。

もう一度隅から隅まで見た後に、床に散らばった電球の破片を片付けようと、ナップザックから小さな箒とちりとりをとり出すと、手際よく床の掃除を始めた。

かなり派手に壊れたようで、かなりの広範囲に欠片が散らばっていて全てをまとめるのに、少し苦労した。

「ん………」

「ん?」

 集めた欠片をビニール袋に入れようとしたときに、かすかに弱弱しい声が大広間内に響いていた。

声がしたほうに顔を向けると、そこはあの不思議な格好をした女の子を、誰にも見つからないように隠したところだった。

さっと欠片を袋にいれると、早足であの女の子がいるところへと向かっていった。隠すように覆っていたカーテンを元に戻すと、そこには体を起こして目を軽くこすっている女の子がそこにいた。

しっかりと目が覚めていないのと、自分の現状を把握していないなのかどうかわからないが、かなりマイペースに自分の身なりを整え始めた。

 その後手で髪を簡単にまとめた後に、彼女の着ている赤いドレスを、数回優しく叩いて埃を落とした。

一通り綺麗にし終えたのか、ようやく目の前にいる泰昭のことに気付いた。

「あれ………」

「あ、気付いた?」

「え………?」

「君、いつの間にかここに倒れていたけれど、ここの人?」

 泰昭の一言で、ようやく自分の立場を把握できたのか、彼女の表情が一気に不安の色へと変わっていった。

「ここって………?」

「ここかい? ここは………」

「誰、あなた! 私を誘拐して、どうするつもりなの!?」

「って。ちょっと待って、落ち着いて!」

「離れて、変態! 人攫い!」

「落ち着いてって!」

「誰か………っ! もがっ」

「だから! ちょっと待って、落ち着いてー………」

 女の子が思いっきり大声を上げようとしたので、思わず両手で彼女の口を押さえつけて叫ぶのを止めた。

そして、部屋の外に意識を集中したが、誰かがこの部屋に来る気配は無かった。

更なる大事にはならないことを確かめた泰昭は、軽く息を吐くと小さい子をあやすように、ゆっくりと話始めた。

「とりあえず、君に危害を加えるようなことはしないから、絶対! って、口を塞いでいる今の状況だと、説得力は皆無だよな………」

「むー! むー!!」

「ともかく、怪しい人に見えるかもしれないけど、俺を信じて! 絶対に変なことはしないから………」

「………………」

 話を聞いてくれるくらいに落ち着いてくれたのか、何度か頷いてくれた。

その姿を見た泰昭は少し不安ながらも、ゆっくりと手の力を抜いて、彼女の口から離していった。

女の子は何回か咳をした後に、座り込んだ状態からじっと訴えかけるように見上げていた。

その刺すような視線から逃げるように、泰昭は遠慮がちに口を開いた。

「わかってくれてありがとう。苦しかったよね、ごめん」

「ふぅ………」

「どこか、体が痛むところとかある?」

「いえ、特には………。強いて言えば口塞がれたときに、無理やり押さえつけられたせいで、顔がちょっと痛いです」

「本当にすいません」

「もう気にしていません」

「あ………、はい」

「………………」

「うーん………」

 静かな空間となっている大広間に、見知らぬ謎の少女と二人きりの気まずい空気。

何か話をしようにも、答えてくれるかもわからないので、どんな話をしていいのかわからない。

どれだけ続くのかわからない時間を過ごしていると、不意にその時間が唐突に終わりを告げた。

「あの………」

「ん、何?」

「今更なんですけども、ここはどこなのでしょうか?」

「あー、ここの人って訳じゃないのか。ここは、大賀崎って人のお屋敷だよ」

「大賀崎………」

「かなりお金持ちで、結構有名だと思うけど………。知らない?」

「ごめんなさい、さっぱり………」

「あー、やっぱりわからないか」

「と、言うよりも………。まったく思い出せない………」

「え?」

「記憶喪失………? って、言うのでしょうか?」

 彼女の衝撃的な告白により、一瞬にして事態が更に悪い方向へと転がっているのを、泰昭は感じ取ることが出来た。

 とりあえず、この事態を収拾するよりも前に、彼女を落ち着かせる事が先と判断した泰昭は、安心させるように話を続けた。

「記憶喪失………。さっきの衝撃か何かで、記憶が飛んだのかな」

「もう、治らないのかしら………?」

「素人目だから、詳しくわからないけど。多分、一時的なものだから、その内戻ると思うよ」

「それなら、良いのですが………」

 見知らぬ場所に見知らぬ人。

そして、残酷なまでに追い討ちをかける記憶喪失。

どれもが、彼女の動揺を大きくさせるには、十分すぎる理由だった。

みるみる顔色が蒼白となっていき、身を縮みこませて落ち着かせようと一生懸命になっている彼女を、これ以上不安がらせないように、泰昭は明るめの声で質問してみた。

「そ、それじゃあ、何か覚えている事とかは無い?」

「覚えていること………、ですか?」

「そうそう、名前とか生年月日とかさ」

「それだったら………、少しは」

「教えてくれないかな。まずは、お互いを理解することから始めてみようよ」

「は、はい………」

「それじゃ、自己紹介しとくね。俺は、広瀬泰昭って言うの」

「私は、佐代子と言います。苗字は………、ごめんなさい、思い出せない………」

「答えられる範囲で良いよ。後、覚えていることって?」

「生年月日と歳くらいなら……。1880年の11月24日生まれで、19歳です」

「………、え?」

 一瞬何のことだかわからなかった。

些細な一言で、頭が真っ白になったのは初めてだった。

佐代子と名乗る女の子から、ただ質問するように生まれた年を聞いただけで、今回の件がとんでもない程の大事だと、十分に痛感することが出来たからだ。

「えっと、それ本当?」

「はい。名前と生年月日だけは、しっかりと覚えています」

「嘘じゃないよね?」

「そう言っているじゃないですか」

「そうか………」

「どうしました?」

「あのさ、信じられないかもしれないけど聞いてほしい」

「はい………?」

「今は、2010年だよ。2010年10月20日」

「え………。どうして、そんな先の時代に私が………!?」

「俺にもわからないよ。急に、君がこの大広間に現れたから………」

「それじゃ、もう私は私のいた時代に戻れないの!?」

 どういった理由で、佐代子が過去から現代へと飛ばされたのか、それは分からない。

 だが、彼女の平静を崩すには、十分な事実だった。

 泰昭は、場を落ち着かせるために、取り乱している佐代子を宥めるのに躍起となった。

「ちょっと、落ち着いて!」

「落ち着いていられません! こんな時代に、理由も分からずに来てしまったのですから!」

「まずは落ち着こうよ! ね?」

「ほっといてください!」

 そう一言、吐き捨てるかのように大声を上げると部屋の隅まで行ってしまい、肩を震わせながら静かに泣き始めた。

落ち着かせようかと思ったが、気の済むまで泣いたほうがいいかもしれないと考え直して、泰昭は少し離れたところで静かに見守っていた。

「うっうっうっ………」

「………………」

 泣き始めてから大分時間が流れて、佐代子の様子も初めの頃より、落ち着いてきているのが分かった。

もう一度声をかけようかと側に行こうと思ったとき、部屋の外からメイドの声が響いてきた。

「あの、広瀬さん。大広間のお掃除は終わりましたか?」

「は、はい! 欠片やごみとか、綺麗に片付け終わりました!」

「それでは、家政婦長がお呼びですので、こちらに来ていただけますか?」

「はーい! ちょっと待っていてください!」

 そういうと、泰昭は外にいるメイドに気づかれないように、早足で佐代子の側まで行くと、やや早口で言い聞かせるように話し始めた。

「とりあえず、君をここに残すことはできないから、俺の知り合いの家に置いてもらうよう頼むけど、君はどうしたい?」

「え………」

「詳細を知っていて信じることが出来るのは、今のところ俺ぐらいだと思う。ここのお屋敷の人に詳しく話すと、多分警察とかの保護を受けることになるかも」

「そ、それは………」

「そうなると、色々と自由に動けないかもしれないし、君が元の時代に戻れる手段を、完全に失うかもしれない」

「それは困ります!」

「だから、俺と一緒に来たほうがいいと思う。まぁ、初対面の怪しい男が言う言葉だから、信じられないかも知れないけど………」

「行きます!」

 泰昭の言葉が終わらないうちに、佐代子ははっきりと自分の答えを話した。

その目には今まで不安の色がはっきりと出ていたのだが、今ではそれを一欠けらも感じられないほど力強く輝いていた。

力強い答えを聞けた泰昭は、OKを表すように大きく頷いてから、ナップザックを自分の傍らに持ってくると、中身を見ながら佐代子をここから出す為の作戦を話し始めた。

「まず、その格好じゃ人目につくから………。嫌かもしれないけど、これに着替えてもらって………」

「はい………」

 小さく応えた佐代子だったが、急に何かを感じたのか弾けたようにすばやく後ろを振り返り、大広間の扉をじっと睨むように凝視していた。

あまりにも急な出来事に、泰昭はただ呆然とその姿を見ているだけだった。

「ど、どうしたの………?」

「いえ、誰かに見られていたような気配が」

「え、大丈夫?」

「気のせいみたいです。ごめんなさい、話を途中で止めてしまって」

「いいよ、気にしてないから。それでね………」

「はい………」

 再び話し合いに戻った二人を、扉の隙間から覗いていた人物は音を立てないようにそっと扉から離れて、足音を少しも立てずに、大広間から離れていった。



「はーい、着きましたよ。×××××円です」

「う、高い………。でも、はいこれ」

「はーい、毎度どうも………」

「あははは………、ありがとうですー!」


ブロロロロロロロロロ………


 ある一軒屋の門の前でタクシーから降りた泰昭は、一層薄くなった財布の中身に悲しげなため息をつき、一緒に降りた佐代子も、長時間車に乗った疲れによるため息をついていた。

「さすがに、あそこからずっとタクシーで移動するのは、懐に痛すぎる決断だったなぁ………」

「あの、よく分からないですけど、すいません」

「あー、気にしないでよ。あまり目立たずにここまで来るには、これしかないと思って決めた手段だし」

「はぁ………?」

「ところで、動きにくいとかそういうのは無い?」

「あー………。どちらかというと、ダブダブすぎて動きづらいって言うのが」

「だよなぁ、やっぱり大きすぎたよねぇ」

 そう軽く呟くと、目の前にいる佐代子を全身しっかり見た泰昭は、頭を軽くかきながらため息をついた。

それもそのはずで、赤いドレスを着ていた佐代子は泰昭が仕事現場に行くまでに着ていた、男物の私服を着ていたからだ。佐代子が元から来ていた赤いドレスは、今は泰昭が背負っているナップザックの中に、小さく折りたたまれていた。

そして、自分の私服を彼女に着させた泰昭が着ていたのは、作業でよく着る自前の薄水色の作業着姿だった。

「タクシーの運転手も、このアンバランスすぎる服装のカップルを、あからさまに怪しんでいたろうな………」

「かもしれませんね………。乗ったときのあの表情は、そうとしか言えませんし」

「うん………。あからさまに、怪しいって視線だった」

 そう話しながら、泰明は長時間の車移動で疲れた体を伸ばした。

佐代子はきょろきょろと、自分の周りの景色を見回していた。

その姿を横目で見ながら、泰昭は今までのことを思い返していた。

 


二人で話し合った後に、ナップザックから出した自分の衣服を佐代子が着替えた後に、大広間の窓から外に出して、一旦身を隠すように指示をした。

その後、大広間から出て、すぐ側にいたメイドに、すぐ戻ると話をしてすぐさま庭に出た。

 そして、佐代子と合流して、誰にも見つからないように庭を隠れながら進んでいって、裏口を見つけるとそこから佐代子を出した。

「さぁ、ここから出て………」

「わかりました………。でも、どこで待っていれば………?」

「えっと………。すぐ近くに小さな公園があるんだけど、そこで待っていてくれる? すぐ分かる場所だから」

「公園ですね?」

「ちょっと時間かかるけど、すぐそっちに行くから」

「あ、え………」

「それじゃ、ここの人に急いで説明しないといけないから!!!」

「あ、あの!」

「ん、何?!」

 今まさにお屋敷に向かおうとした矢先、唐突に呼ぶ声のほうを向いた泰昭の視線の先には、扉の先から心細いといった表情で、力なく見つめている佐代子がいた。

「早く………、来てくださいね………」

「おう、まかしとけ!」

 その不安を払拭できると思って至極明るく返答すると、それで安心したのかそっと扉から離れて、そのまま目的地に向かって走り始めた。

その姿を見送って大急ぎでお屋敷に戻った泰昭は、待っていたメイドに一言謝ると、今回の件について水幸に話したいと注げた。

その内容はあのシャンデリア自体には特に問題は無く、電球と点灯菅を取り替えれば、問題なく使用出来ること。

そして、あのシャンデリアに使われる電球などは、海外でしか作られていないものなので、発注するとなると時間がかかるということだった。

「そうですか。要約すれば、あのシャンデリアは、完全には壊れてはいないということですね」

「はい。あの後、隅から隅まで調べてみましたが、配線などの欠損は見受けられませんでした。それで予備の電球を取り付ければ、再び点灯すると思います」

「なるほど………、わかりました。ありがとうございます」

「あの………、よろしいでしょうか?」

「はい、なんでしょうか?」

 そう言って、振り向いた女性を見て、泰昭は内心汗がダクダクだった。

目の前にはさっきまでとは違った表情をしている水幸が、凛とした態度で立っていたからだった。

キッと睨みつけている力強い視線に、ただ言葉が消えうせてしまって立ち尽くすことしかできず、次の言葉がなかなか出てこなかった。

「どうしました? 他に話す内容があるのでしょう。どうぞ、続けてください?」

「す………、すいません!!! すいません!!!」

 理由はどうであれ、あのような事態を出したのは自分の責任であるため、その電球の代金はこちらが持つと頭を下げながら泰昭は話をしたが、水幸は電球が届いたときにまた交換をしてくれればいいと、そっと笑いながら答えてくれてその場は収まった。

泰昭はその後精一杯頭を下げた後に、電球がいつ届くのが分かったら連絡をくださいと一言告げてから、お屋敷を後にした。

 通用門を出た後、空は大分暗くなっていて佐代子のことが心配になり、公園へと疲れをものともせず駆け出していった。

数分とかからずに目的地に到着すると、公園の端のほうにあったベンチに小さくなって座っている彼女を見つけて、ほっと安堵のため息をついた。

「はぁっはぁっはぁっはぁっ………。はぁ………、よかったぁ………」

「あ………」

 泰昭の姿を見つけた佐代子は、少し表情を明るくしながら、そのベンチから立ち上がった。

少し肌寒くなっていたのか、両手を擦りながら近づいてきたのを見て、少し遅くなったことに後悔した。

それを理解した瞬間に、更に足を早く動かして彼女に近づいた。

「ごめんね、大分遅くなっちゃったかな。寒かったでしょ、日も落ちちゃったし」

「いえ、そこまででは………」

「まぁまぁ、ここで言い合って風邪引いちゃうと大変だからさ。とりあえず移動しようか」

「はい」

「と言っても、この姿で移動するのはさすがに視線が痛いよな………」

「は、はぁ」

「更に家に行くだけでも、かなりの苦行になりそうだしな~」

「はぁ………」

「とりあえず、出来る限り、他の人の目に入らないように移動するにはっと………」

「あの?」

「考え中だから、ちょっと待って………」

「はい………」

 暗くなりつつある空の下、昼よりも寒くなってきているのを承知で熟考しているが、これといってマシな考えが浮かばず、最小限の人にしか目に付かずに、すばやく移動が出来る方法が真っ先に思いついたので、それを選び取った。

そして、ズボンのポケットの財布を抜き取って、中身をじっくりと確認した。

「はぁ………」

「?」

 長い溜息を吐いた泰昭の姿を見て、佐代子は頭を捻ったが、それを知ることは皆無であった。



 泰昭が取った方法。すなわち、長距離のタクシー移動をして、ようやく目的地の一軒家にたどり着いた二人は、タクシーの去っていったほうを見送りながら、その前で立ち尽くしていた。

「運転手の視線よりも、この交通費のほうが心配だ………。経費では落ちないよな、これ………」

「はい?」

「あー! こっちのことだから気にしないで!!」

 そういって、中身が一層寂しくなった財布を懐に入れると、何事もなかったように佐代子のほうを見て、極めて明るく話を続けた。

「服装のことは、もう気にしないようにしよう。しばらくすれば、あの運転手も忘れるって」

「はぁ、でも………」

「ん?」

 小さく呟いた佐代子は、あっという間に走り去ったタクシーのほうを、じっと見つめていた。

不思議と思って、泰昭は側まで近づいていった。

それに気づいた彼女は、視線を泰昭のほうを向き直すと、感心したような声で話し始めた。

「あれが自動車………。初めて乗りました………」

「あぁ、そっか。今の技術はかなり珍しいのか………」

「えぇ、窓から見る景色も見ても飽きないものばかりで、退屈しないで済みました。でも………」

 そう呟くと、きらきらと光らせていた目が、急に寂しげな光を漂わせるようになった。

それと同時に、表情もさっきまでの明るい色が消えうせていて、今は暗い色が際立っていた。

そして、小さい声でポツリと呟いた。

「こういうのを見ていると、私のいた時代ではないと自覚してしまいますね。本当に未知の世界に取り残されたのだと………」

 その言葉を聴いた泰昭は、目の前の現実を突きつけられた気がした。

突然現れて、過去から来たと告げる謎の少女。

そして、その瞬間を目撃していながらも、まだ夢なのではないのかと思っていた自分。

まだ頭の片隅で、夢ではないかと心の奥底で思っていたが、この少女の一言で全てが現実なのだと、改めて思い知らされた。

せめて、安心して休めるところに連れて行ってあげようと思い直した泰昭は、できるだけ明るい雰囲気で佐代子を呼んだ。

「さぁ、ずっとここにいると風邪を引いちゃうよ。さぁ、こっちだよ」

「は、はい………。でも………」

「どうかしたの?」

「いえ………。いくら泰昭さんのお身内の方でも、いきなり見ず知らずの私を泊めてくれるのでしょうか?」

「あー、その点は気にしないで。多分問題ないはずだから」

「そうなのですか………?」

「うん。だから心配ないよ」

「はい………」

 不安な表情を思いっきり顔に出している佐代子を何とか言いくるめながら、目的の家へと引っ張っていった。

少し大きめの庭を抜けて、呼び鈴を押してから玄関のドアを開けると、奥まで続いている廊下から一人の女性がこちらに向かって歩いてきた。

白髪がかなり目立ったショートヘアーに、赤とオレンジの毛糸で編みこまれた派手なセーターと、深緑色のチノパンツというどちらかというと、派手な姿で2人の目の前に現れた女性は、既に状況を知っていますといったにこやかな表情で、明るく出迎えてくれた。

「ヤスちゃん、いらっしゃい! 待っていたわよー」

「こんばんはー。ただ、今はその呼び方は、ちょっとやめてほしかった………」

「何を言っているのよ。いつもこう呼んでいても、文句一つでないくせに」

「いいから! 後、外寒いから中に入ってもいい? 風邪引いちゃうから」

「あら、ごめんなさい。さぁさぁ、上がっていって」

 そう言うと、女性はスタスタと、奥の部屋へと向かっていった。

玄関前に残された佐代子は未だ現状把握しておらず、普段どおりのペースで靴を脱いで玄関に上がっていた泰昭のほうを見て、助けてほしそうな視線を送っていた。

その視線に気づいた泰昭は、さらっとした口調で、何も無かったように口を開いた。

「あの人は俺のおばあちゃん。佳子って言うの。悪い人じゃないから、安心して」

「はい………」

 出会い頭にとってもフレンドリーな呼び名が飛んできてしまい、頭から?マークをあからさまに出している佐代子を尻目に、軽快な近親者トークを飛ばす二人。

奥の部屋について、温かいお茶を振舞われた二人は、今までの疲労を癒すべくソファーの上でお茶を飲みながら疲れを取っていたが、佳子と呼ばれた女性が小一時間ほどあまり意味のない雑談をしてきたために、あまり休まった気分はしなかったが、ようやく本題を思い出して、目の前にいる女性にそのことを話し始めた。

「ところで、少し前の電話で聞いたけど、この子がそうなの?」

「うん、話を聞いている限りでは、本当みたい。錯乱しているって訳でもないし………」

「そう………」

 そう静かに呟いた佳子は、しげしげと佐代子のほうを見回していた。

男物の衣服を着ているので、多少奇妙に見えたのか訝しげな視線ではあったが、一通り見て納得したような表情のまま、泰昭のほうを向いた。

「あんた、この子が明治時代から来たって言っていたけど、それが本当だとしたら元の時代に返す方法とか、本当に心当たりあるのかい?」

「うん、とりあえず推測くらいでしかないけど………」

「話してごらん?」

「私も聞きたいです!」

 元の世界への戻り方、と聞いた瞬間に慣れないところなのか身を硬くしていた佐代子が、急に身を乗り出すように迫ってきたので少し躊躇したが、とりあえずの自分の考えを目の前の二人に話すことにした。

「まず、俺がいじっていたあのシャンデリアが、一番怪しいと思っている………」

「シャンデリアって、あの大広間で一番大きな………?」

「そう、あのシャンデリアがいきなり光ったと思ったら、いつの間にか佐代子さんがそこに倒れていたんだ」

「なるほど、それが原因と考えるとなると、真っ先に怪しいのはそれってことね?」

「そういうこと」

「そうなのですか………」

「だったら、その子はそのお屋敷に詳しい訳を言って、一時的に預からせてもらったほうが良かったんじゃないの?」

「そう思ったけど、身元がはっきりしていない人を、すんなりと預けてもらえるとは思えないよ。あそこはかなりのお金持ちのお屋敷だから、尚のことね」

「そうよね………」

 取り敢えず、自身の推測を部屋にいる二人に告げると、部屋の空気はピンと張り詰めたような空気へと変わっていった。

普通の生活の中にいきなりパッと現れた、あきらかに非日常的なこと。

過去の人間が現代に飛んできたのだから、その戸惑いの大きさは計り知れないのが見て分かった。

とりあえず、泰昭は張り詰めた空気を無くそうと、話題をまだ先が見えないものから、目の前にある問題へと切り替えた。

「ところで、さっきの電話の件だけど………」

「この子を預かってって話でしょ? いいわよ、私の家に置いてあげる」

「え、いいの!?」

「本当ですか!?」

「何はともあれ、困っている人を見捨てるほど、冷血人間じゃないからね。そこそこ広い家で、私一人しか住んでないから、自由に過ごしていいわよ」

「ありがとうございます、十分すぎるほどです!」

「さぁ、とりあえずは、ゆっくり体を休めなさい。お風呂を沸かしてあるから、入ってらっしゃいな」

「は、はい………」

 そう言うと、佐代子と佳子は広間から出て行った。

そして、泰昭一人となった広間では、ため息が一つ寂しく響いていた。

そのため息は、午後からひっきりなしに続いてきた、非日常の連続からの一時的な開放と、もう一つの案件についての重苦しいものも一緒だった。

「さーて、仕事の結果報告と、長時間の連絡不通。どうやって言い訳しようかな………」

 作業着のズボンから、自分の携帯を取り出すと、手馴れた手つきでボタンを操作してから、携帯を耳に近づけた。

数十秒後、耳元から大音量の怒声が鳴り響いた………、という展開には至らずに、いつも通りのんびりとした口調が耳に入ってきた。

二~三つほど質問があったくらいで終わり、心構えをしていた泰昭にしてみれば、軽い肩すかしを受けたような感じで、携帯の通話を終えたときには、心ここにあらずといった感じであった。

「あの子が着ていた、あんたの服を持ってきたよ………、ってどうしたのよ。魂が抜き出たような表情で」

「いやぁ………、あまりにも話が進みすぎて、呆気に取られているだけ」

「イマイチ、何のことかわからないけど………」

「こっちの話だから、気にしないで………」

 話の内容を読み取れない佳子を尻目に、泰昭は持ってきた自分の衣服を隣の部屋で着替えて、自分の荷物をさっとまとめると、小さく畳んだ赤いドレスを佳子に手渡し、軽く挨拶を交わしておばの家を後にした。

そこまで遠くない自分の家に向かって、足を引きずるように歩き出した。

まさにお金持ちといった大きなお屋敷、気疲れしそうなほどの厳格そうな屋敷の住人、そしてあまりにも非日常な出来事である佐代子の突然の登場。

始終、緊張しっぱなしと理解不能な体験から、ようやく開放された反動からか、体全体が急に重くなったような感じに襲われた。

実際にはまだ全て終了といったわけでは無かったが、自分の手から少し離れたことの開放感のほうが勝っていたので、体の重さはそれほど苦に感じることは無かった。

「………………」

 ふと、佐代子の不安そうな顔が頭を過ぎり、知らず知らずのうちに、佳子の家の方角に顔を向けていた。

それでタイムスリップしてきた少女が、無事に助かっていて不安を無くすということは出来ないのだが、それでも顔を向けずにはいられなかった。

無言のまま数分ほど立ち尽くしていたが、軽く頭を振るとまた何事も無かったかのような様子で、家までの道のりをゆっくりと歩き出した。



「本日のお勤め終了………」

 そう呟きながら、泰昭はぶらぶらと気だるそうに出てきた。

今日もまた父親の勝彦のお使いを頼まれて、注文されたものを持っていった後である。

また必要なものが多かったのか、その大変さを物語るかのようにいつも以上に、愚痴を呟いていた。

すぐ側を通った他の見舞い客の何人かは、何事かと思いながら泰昭のほうを振り向きつつ、病院へと歩いていった。

駐輪場に止めてあった自分の自転車まで行くと、前かごに背中のナップザックをぶっきらぼうに投げ入れて、自転車に飛び乗り、颯爽と駐輪場から走り出していた。

「ここのところ忙しかったなぁ、昨日は父さんの代理で仕事に行って、一昨日は職安へ行って先月分の活動報告と職探し、そして今日はパシリで大量の物を宅配………」

 自転車をのんびりと進ませながら、ここ数日のことを思い返していた。

この前の未体験な出来事から一週間は経っていたが、その一週間の間に父親からの仕事代理や、職探しでの企業訪問などやることが一杯だった。

目の前のやることが手一杯だった為、佐代子のことに関しては佳子に全部任せっきりで、今の今までその様子を見に行けずじまいであったのだが、今日は午前中の勝彦のお使いだけだったので、午後の予定は久々に真っ白な状態だった。

「あれから大分時間が経っちゃったけど、佐代子さんの様子を見に、おばあちゃん家に急ぎますかっと!」

 そう呟いた後、自転車を力強く漕ぎ出してスピードを上げていきながら、佳子の家へと目指していった。

今まで会えなかった分の心配が知らない間に溜まっていたのか、自然と自転車をこぐ足のスピードが早まっていった。

慣れない場所、それ以前に時代そのものが、まったく別のものなのである。

その状況を案じてか、更にスピードを上げて、町の中の狭い道路をすっ飛ばして行った。

秋も深まりつつあるためか、少し冷たい空気の中を駆け抜けていき、それほど経たないうちに佳子の家の前までたどり着いた。

その頃には、泰昭の体は真夏の陽気かと錯覚するほどの熱に包まれていて、自然と息が荒くなっていたがあまり気にせずに、佳子の家へと向かっていった。

「おーい、おばあちゃん。俺だよ、泰昭だよ。いるー?」 

 庭を抜けて、玄関の前で大き目の声で家の主を呼んでみたが、一言も返事が返ってくることは無かった。

再度、時間を置いて声をかけてみたが、やはり返事は返ってこなかった。

念のために、効きの悪いインターホンを力いっぱい何度も押してみたが、結局のところ反応は無かった。

「おっかしいなぁ。いつもだったらすぐ出てくるのに………」

 軽くぼやきながら玄関の開き戸に手をかけてみると、鍵はかかってはいなかったので、気にせずに家の中へと入っていった。

この前、佐代子と佳子とでこれからのことを話した部屋まで来て、部屋の中を少し見回したが、やっぱり人の気配は無かった。

「二人で買い物にでも行ったのかな………? だったら、適当に時間つぶしてから、また来る………、ん?」


ガタッ………


「あれ………?」

 そう言いかけた矢先、奥の方から明らかに怪しい物音が聞こえた。

奥にいるのかと考えたが、すぐさま別の可能性へと頭を切り替えた。

つまりは、泥棒および強盗という線だった。

ありがちかもしれなかったが、万に一の場合もあると思い直し、すぐ側においてあった箒を手に取って極力音を出さないように、奥のほうへと注意深く進んでいった。

 部屋を出て廊下を忍び足で進みながら、途中にある部屋をしらみつぶしに見て回ったが、人影は確認できなかった。

そうこうしているうちに一番奥の風呂場まで来てしまったが、扉のすりガラス窓越しに、物音と物陰を確認することが出来た。

窓越しでは遭ったが明らかに怪しい動きであったため、次の瞬間には泰昭は手にしていた箒を硬く握り締めながら、部屋へと飛び込んでいた。

勢いを殺さないで一気に行かなければ、このまま尻込みしてしまう。

だったら、一発勝負で一気に済ませたほうがいいと思ったからだ。

「誰だ、ごらぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 気合を一発自分自身に入れて、勢い良く風呂場の扉を開けたとき、真っ先に目に入ったものは、下着姿の見目麗しい女の子で、そっと下半身の布地を脱ぎ取ろうとしていた瞬間だった。

「あれ………」

「ふぇ………」

 何か間の抜けた声が2つ響いたと思ったら、次に自分に襲ってきたものはグァンッ!という、重々しい音と顔の真正面から後頭部へと貫く痛みだった。

その衝撃が決定打となって意識は、一瞬にして真っ黒になっていった。

そんな意識が無くなりかけているときに最後に見た光景は、脱衣所の空間にくるくると回転しながら落ちていく、謎の物体だった。

 何が起こったのか、あの物体は何なのか、ついでにチラッと見えた女の子は見たことあるなぁと、色々頭の中で巡らせていたが、結局は次第に広がってゆく黒い世界に飲まれていき、強制的に思考を終了させられた。



「あんた、そんなことをする子だったっけ?」

 佳子の第一声に泰昭は、まだひりひりと痛む鼻の頭を少し撫でながら、バツが悪そうに顔を背けた。

その横で佐代子は少し顔を膨らませながら、泰昭の怪我の手当てをしていた。

被害は、泰昭の顔面強打(それに伴う鼻血が少々)と、掃除用に使われる鉄製のバケツが少し凹んだといった具合である。

「だーかーらー、てっきり泥棒の類かもって思ってみたら、佐代子さんだったって言っているでしょー」

「それなら、確認のために一言かけるとかするでしょう? 普通は」

「………。泥棒かもっていう考えで、頭いっぱいでした」

「本当は、佐代子ちゃんの裸姿が見たかったからじゃないの?」

「ちーっがーっうーってのーっ!」

「犯罪者にはならないでね。身内の人間が容疑者でニュースデビューって、本当に悲しいから………」

「だから、何でそっちに話を持っていくの!」

 いつの間にか帰っていた佳子に、必死の抵抗(言い訳とも言う)を行っているが、半分冗談半分切実に返されるため思うように話が進まずに、かなり難航していた。

そして、同じように佐代子にも必死の抵抗を試みたが、顔を合わせた瞬間にそっぽを向いてしまうので、こちらも難航していた。

 そんな調子ではあったが、たっぷりと時間をかけたおかげで、何とか事の次第を治めることに成功した。

ちなみに、佳子達の方はと言うと、家から離れている家庭菜園で野菜の手入れをしていて、一段落したので汗をかいていた佐代子を、先に帰らせたということだった。

脱衣場で服を脱いでいるところに、勘違いをした泰昭が飛び込んできて、以下省略という流れだった。

「まぁ、とりあえずこの話に関してはここまでにして、何のようなの?」

「何とも不本意すぎるが………、佐代子さんの様子を見に来たの」

「あらぁ、今頃なの? 普通なら遅くとも二~三日くらいで来るものでしょうに」

「色々忙しかったの………、職探しとかパシリとか………」

「言い訳は醜いわよ、男らしくないわね」

「ぐっ………」

 一を言うと、十どころか百や千にまで増殖して襲ってくる言葉の矢に、ただうろたえるしかない泰昭を上から目線で見ていた名射手の佳子は、満足したかのようににんまり笑うと、一層楽しそうに声を弾ませながら話を続けた。

「まぁ、言い過ぎちゃったかしらね。からかうと面白いからついつい………、ね」

「いい加減にしてよ、本当に」

 頭痛がしたような気がして、両手で4頭を押えている泰昭を尻目に、いつもの様子に戻る佳子。

そして、ポカーンとした表情で、伯母と孫のやり取りを見つめている佐代子。

とてもシュールな光景だった。

「あの後、佐代子さんは私と一緒に、家のことをしながら過ごしているわよ。畑仕事とか、掃除洗濯とか」

「えぇ!? 何でそんなことやらせているの?」

「いえ、私が申し出たのです。ご厄介になっている以上、ただダラダラと日々を過ごすのは失礼に値しますので………。それに、色々とこの時代のことのお話も聞かせてくれたので、大変楽しいですし………」

 そう恥ずかしそうに、今まで口を閉ざしていた佐代子が、釈明するように話に参加した。

「ただじっとしているより、何かで体を動かしていたほうが気を紛らわせられますし………」

「まぁ、そう言われるとそうだけど………」

「こっちとしても、手伝いの手が増えてくれて助かるわ。もう年が年だから。体が思うように動かないこともあるし」

「いえ、気になさらないでください。こういうのも楽しいですし」

「よかったわぁ、佐代子ちゃんは、きっといいお嫁さんになれるわねぇ。やすちゃんのお嫁さんになってくれれば、尚更嬉しいけど」

「えっ!」

「ぶふっ!」

 不意打ちに近い爆弾発言に、若い二人は大いに動揺を露にした。

明らかに顔を赤く染めている佐代子と、変な咳を連発している泰昭を面白そうに見ていた佳子は、さらに楽しそうにある提案を持ちかけた。

「そうだ! 社会勉強に行ってきなさいよ。家事も大体終わったことだし!」

「へ?」

「え………?」

 突拍子も無く提案されたことに関して、人間は無意識に聞き返してしまうということを、二人はその場で実感する事となった。



「ったく、回りくどい言い方しちゃってなぁ………」

「は、ははは………」

 泰昭は呆れと頭痛が一緒になった表情で、佐代子はそれをかばうかのような控えめな笑顔で、赤茶色の小さな軽自動車から降りた。

そこは、一軒の白いビルで、豊富な種類と程良い安さをウリとしている、洋服などの衣料品を売る、量販店だった。

平日であるのに、たくさんの人で賑わっているのが、まさにその証拠とも言えた。

「ここで、洋服を買うんですか? ここまで大きなお店って、初めて見ますよ!」

「驚くのはまだ早いよ。中の品揃えも、君が考えているよりも凄いからね」

 そう、佳子が言っていた社会勉強とは、佐代子のための衣服を買ってくるということだった。

 よく分からない言い回しだったため、改めて言い直してくれるまで、まったく理解することが出来なかったが、やや呆れつつもその提案に同意して、自宅にある軽自動車に乗り換えて、待っていた佐代子を連れて行って、今に至るという感じである。

 ちなみに、佐代子の今の服装は、深緑色のゆったりとした長袖ワンピースと、すらっとした黒のチノパンツという、佳子が気を使って出来る限り今風の服装を揃えてもらったのだが、どことなく時代遅れといった雰囲気を出しているのが、誰から見ても何となく分かる姿であった。

 外に出ていたといっても、佳子の家の近くまでといった感じだったので、あまり気にしなかったのかもしれないが、今いる場所は人の通りが多いところで佐代子の服装がやたら目立つのか、何人かが佐代子に視線を送っていた。

 無論、それは好意というよりかは、物珍しさという意味での視線というのがよく分かった。

 そんな視線があるのを知ってか知らずか、依然として興奮最高潮といった彼女は、熱い視線でこれから入る建物を穴が開くほど見つめていた。

さすがにこれ以上ここにいるとまずいと感じた泰昭は、興奮している彼女の手に取って、やや引きずるように建物の中へと入っていった。

「ふわぁぁぁ………」

「凄いでしょ。服のほかにも、帽子とか小さな鞄とかも取り扱っていて、ここに来れば大体は事足りると言っても、過言では無いよ」

「………………」

 泰昭の説明にも耳にも貸さず、佐代子はただただ建物の中をじっと見つめていた。

 実際、一階建の建物の中は、一階全てが服のフロアとなっていて、見渡す限り服やズボンが所狭しといった具合に、埋め尽くされていた。

フロアの広さも相当に広く種類も豊富な為、一瞬衣類の迷宮に迷い込んでしまったと錯覚するほどだった。

 それほどまでに衝撃的だったのか、佐代子の目はまさに星が煌めいているという感じに、キラキラとさせながら隅から隅までじっと見つめまわしていた。

「あのさ………、ここ入り口だから移動しようよ」

「ふぁい………」

「女性物のエリアはあっちだから、気に入ったものがあるといいね」

「ふぁい………」

「………。電磁気学で、磁束を表す単位はなんでしょう?」

「ふぁい………」

『だめだこりゃ』

 完全に心ここに在らずといった生返事で、佐代子の精神状態を察した泰昭は、店の中に入るときと同じように手を取って、引きずるように目的地へと進んでいった。

 そして、あっという間に目的地である、女性物のコーナーへと到着する。

 ここも、見渡す限り綺麗で華やかな衣服が、溢れるように展示されていた。

「さーて、着いたはいいけど何を選んだらいいのかな。なんか気になるのってある?」

「どれもこれも珍しくて、これといったやつが選べないですよ………」

 向かっている最中に意識が正常値まで戻ったのか、ようやくまともな会話をすることが佐代子だったが、服装に関しては現代の着こなし術を知らない為に、気になる服を手にとって見ることしか出来なかった。

 いくつかの服を見てみたが、どれもすぐに戻すといった作業の繰り返しで、一向に進む気配が無いまま一時間ほど経った。

「うーーー………」

 やや低めの小さな唸り声を上げながら、涙をじんわりと溜めている目で、泰昭のほうを向いていた。

 まさに助けてほしいといった状態だったが、そんな目で見つめられても事態は好転するはずが無い。

 泰昭も普通の男でおしゃれに関しては、程々といった知識ぐらいしか無い。

 ましてや、異性のファッション事情に関して言えば、その知識はほぼ皆無とも言える。

 となると、今の状態を打破できる手はこれしかなかった。

「すいません、店員さん………」

 自分のセンスでは、まず周りの視線を別の意味で集めてしまうかもしれないし、第一に佐代子が満足してくれるかどうかも疑問であった。

だったら、少し情けないことではあるが、この道のプロである店員に聞くのが一番だと思って、近くで服の整理をしていた店員を呼び寄せた。

 泰昭の声を聞いた、髪を簡単に結んである女性店員は、すぐさまこちらへと近づいてきてくれた。

「はい! どうされましたか?」

「えっと、この人に合う服を見繕ってくれませんか?」

「わかりました。それで、どういった感じの服装がよろしいですか?」

 営業スマイルを前面に出しながら、渋い顔をしている佐代子に質問をするが、更に渋い顔を店員に見せてしまう形になってしまった。

「あの………、お客様?」

「え、あ、その~………」

「あの、どういった感じの服装がいいのでしょうか? 可愛らしいものとか、落ち着いたものとか………」

「え………、その………、落ち着いた感じがいいです………」

「それでしたら、このインナーとアウターを合わせていただくと、季節感にあった色合いが出てとても落ち着いた感じになりますけれども、いかがですか?」

「えっと、それだったらあっちの服でも合いそうな気が………」

「あちらになりますと………」

「はい………」

 時代を問わず、女性はこういったおしゃれに関しては貪欲なのか、佐代子は店員の話をその身に刻むかのように話を聞いていた。

 その様子を見ていた泰昭は、とりあえず任せておけば大丈夫そうだなと感じたのか、壁際に設置されている小さなベンチに腰掛けて、二人の様子を見守っていた。

 店員にどういった傾向がいいか伝えたためか、手馴れた様子で様々な服装を持ってきては、佐代子の元に持ってきて、好みかどうかを聞いているようだった。

 その内、好みの服装が決まったのかいくつかの衣装と一緒に、店の奥のほうに連れ立って移動を始めた。

 何事かと思った泰昭も、その後に続くようにベンチから立ち上がって一緒に移動すると、ずらりと並んだ試着室のコーナーにたどり着いた。

 そのうちの一つに、佐代子が衣装を手に入っていくのを目にしたとき、付きっきりで相手をしてくれた店員が泰昭に気づき、早足で近づいてきた。

「今、試着をなさっていますので、もうしばらくお待ちくださいね」

「どうもすいません。色々とご迷惑おかけしまして………」

「いえいえ、気になさらないでください。今日はデートか何かですか?」

「はぃっ!?」

 いきなり思いがけない質問をぶつけられたため、あまりにも素っ頓狂な声を出してしまった。

 店員もあまりにも動揺していますといった態度を垣間見て、思わずぷっと噴出してしまった。

 変な声と思いっきり笑われたことに関して、泰昭は思いっきり顔を赤くしてそっぽを向いてわざとらしい咳払いを、ゴホンゴホンと場を紛らわすように大声で口から出した。

 そうやって気分を落ち着かせて、何事も無かったように店員の質問に答えた。

「いえ、デートではありませんよ。新しい服を買ってあげるって話で、ここに来ただけですので………」

「あら、そうですか」

 くすっと笑いながら店員は楽しそうに話すと、また何かあったらいつでもどうぞと一言添えて泰昭から離れて元の仕事へと戻っていった。

 まだ少し赤い顔の泰昭は、今あったことを忘れるように頭を二~三回振ってから、佐代子の試着が終わるのを大人しく待っていた。

 待ち始めてから十分程経った頃、暇つぶしに携帯をいじって待っていた泰昭は、現実の世界から完全に意識を放していたが、シャっと試着室のカーテンを引く軽い音によって。現実に引き戻されて反射的に試着室のほうに視線を向けた。

 そこには、佐代子が立っていた。

 ただし、見たことのある、では無く見たことが無い姿の佐代子が、であった。

「ど、どうですか………?」

「うん、すごく良いです………」

 その言葉通りに、本当に良かった。

 試着室から、おずおずと恥ずかしそうに出てきた佐代子の服装は、青色の長袖チェックシャツにそれを合わせたような深めの紫のインナーTシャツ、そしてすっきりとした白いカーゴパンツで合わせた姿だった。

 誰がどう見ても、過去の時代から来た人間とは、微塵も思えないだろう。

 無論、泰昭もその一人である。

 そんなことを知らずに佐代子は、初めて身に着けた未来の衣服の着心地を確かめるように、一回くるっと回っていた。

 些細な動きだったのだが、泰昭は自分の中が一層熱くなるのを感じていた。

 それを知ってか知らずか、佐代子は嬉しそうに色々とポーズを変えながら、着心地を確かめていった。

 そして、その姿を少し熱っぽい視線で見ている泰昭。

 はたから見たら『何しているんだこのバカップルは』と、いった具合の光景であった。

「あの、お客様?」

「は、はひぃっ!?」

 魂はここにあらず状態で、背後から店員に声をかけられたものだから、素っ頓狂な声で返事をしてしまい顔を一瞬のうちに真っ赤にした泰昭は、二~三度咳払いをした後に店員に聞きなおした。

「あちらのお客様の洋服でよろしいでしょうか?」

「あ、ちょっと待ってください」

 変な空気になった場所から逃げるように、鏡の前でいろいろな角度から自分の姿を見ている佐代子の側まで行き、少し声を潜めながら聞いた。

「その服、気に入ったのなら買うけどいいか………」

「是非!」

「………。すいません、この服をください」

「ありがとうございます!」

 即決したときの姿は今まで見た中でとても活き活きしていて、これ以上何を言っても意味が無いということが本能的に察知することができた。

この場合は、さっさと話を進めてしまうほうが良いと言うことも、本能的に察知することができた。

 なので、そのままお会計するのであった。

 ちなみに、お金に関しては軍資金といわれて茶封筒に入った三人の諭吉さんを、佳子からしっかりと手渡されていたので心配は無用だった。

「×××××円になります」

「それじゃ、これでお願いします」

「はーい、毎度ありがとうございます♪」

 何事も無く、無事購入。

 購入した内容は、佐代子が気に入った服装を、色違い含め二組。

 そして、店員のお姉さんに頼んで、下着類もいくつか見繕ってもらった。

無論、泰昭は離れたところでその様子を、遠めで見ているだけであったが。

 ともかく、大量に買ったものを紙袋に入れてもらい、重そうに揺らしながら自分の車へと向かっていった。

 そのすぐ後ろに、佐代子が大人しく付いてきていた。

ようやく我に返ったのか、はしゃぎ過ぎたことに関して恥じているのか、顔はおろか指の先まで真っ赤になっていた。

 口のほうもさっきまでの明るさとは打って変わって、完全に口を閉ざしてしまいだんまりを続けていた。

 これに関しても、恥ずかしさが理由なのだろう。

 やや重たい空気が車の中を充満し、陽気な音楽を流しているカーラジオでもあまり効果が無く、お互い無言のまま車を家に向けて走らせていた。

 どれくらい走ったのか分からないが、何度目かの信号で止まったとき、ようやく佐代子がゆっくりと口を開いた。

「す、すいません。一人だけあんなにはしゃいじゃって………。私の時代ではあんな奇抜で綺麗なお洋服ってあ

まり無いもので、本当に珍しくって………」

「まぁ、そうだよね。この時代のものってのは、佐代子さんにとっては全部珍しいんだしね」

「そうですね。見るもの、聞くもの、感じるもの全てが本当に珍しいです」

「そっか、この時代が気に入ってくれて何よりだな」

 そう満足そうに泰昭は答えると、そっと佐代子のほうに顔を向けた。

 佐代子は、車の窓ガラスにぴったりと張り付き、じっと外の様子を見続けていた。

 本当に珍しかったのだなと思うと、なぜかこそばゆくなり、自然と口元から笑顔になっていった。

「ははっ」

「あっ………」

 泰昭の笑い声に気付いたのか、顔を赤くした佐代子がこっちを向いて、少し恨めしそうに睨んできた。

「わ、笑わないでくださいよ………」

「ごめんね。お詫びに喫茶店によって、お茶を奢ってあげるからさ」

「喫茶店って?」

「お茶とお菓子が食べられるお店で、珍しいものが食べられるよ。ケーキとか、アイスクリームとか」

「うわぁ! 楽しみです!」

「それじゃ、近くの喫茶店に行くよ」

「お願いします!」

 弾んだ声につられるように泰昭も自然と笑顔になり、さっきまで暗い空気で一杯だった車内があっという間に弾んだ空気に変わり、閉じていた口からたくさんの話が飛び出していた。

 今まで何の効果も無かったカーラジオからの音楽も、今ではぴったりのBGMとも思えるほどだった。

 泰昭はこの空気を無くさないよう、アクセルを気持ち強めに踏みつつ目的の喫茶店へと急いだ。

 この暖かい空気が消えないことを祈りながら………



「で、いろんなものを注文されまくって、会計全額払ったら財布の中身が空っぽになったと?」

「はい………」

 泰昭の前で、半分呆れ顔半分笑い顔の佳子が、とても複雑そうな声で聞いてきた。

 その質問で泰昭は、はいの一言を喉奥から申し訳なさそうに搾り出すことしか出来なかった。

 ちなみに、佳子は家の広間のソファーに座っており、泰昭はそのソファーの前で正座をしている構図で尚更お叱りを受けているような光景だった。

 そんな光景がむず痒くなったのか、佳子はたまらず笑い混じりの声で横入りした。

「ねぇ、なんでそこで正座しているのよ。別に怒っているわけじゃないのよ、楽にしなさい」

「いやぁ、やったことがやったことだし。けじめって言うか………?」

「ったく、そこまで気にしてはいないから、楽になさいな」

「んじゃ、お言葉に甘えて………」

 泰昭は正座でしびれている足を何とか崩しながら、楽な体勢を取り直した。

 一呼吸おいた後、ゆっくりと佳子が話を再開した。

「しっかし、そんなにあの子たくさん食べたり飲んだりしたの? やせの大食いって感じはしなかったけど………」

「いやー、それには深い訳がね………」

 意味深に言葉を切ると、先ほどと佳子のように複雑なそうな声で、ゆっくりと再び話し出した。

「妙な見栄張って、ちょっと値段の高い喫茶店に行ったのはいいけど………。そこで、好きなもの頼んでいいよって軽い調子で話したら、珍しいからってその店で一番高いケーキと紅茶のセット頼んでさ。その後、追加でアイスとフルーツがたっぷり入ったでっかいパフェも注文して、最後にコーヒーを頼んで満足したみたい………」

「で、あんたは何注文したのよ?」

「コーヒー一杯と、でっかいパフェを一口おすそ分けしてもらっただけです」

「あらあら………、私が渡した軍資金はどうしたの? 衣服とか色々買ったりしても、だいぶ残っていたとは思うけど………」

「服の他にも下着とか小物類とかも買ったから、かなり予想外に出費しちゃって、そんなに残ってなかった………。自分の手持ちと合わせて、何とか間に合ったのが不幸中の幸いというか」

「やれやれ………」

 事の真相を理解した佳子は、軽くため息をつくとズボンのポケットから自分の財布を取り出すと、諭吉さんを一人取り出して泰昭の前に差し出した。

「これで今月はもつでしょ? 働き始めたときに、ちゃんと返してくれればいいから」

「おばあちゃん、ありがとう!!」

「ちなみにトイチだから、早く就職先見つけなさいよ」

「なっ! 身内だからって暴利すぎる!」

「あはははは、冗談よ。無利子でいいから、ちゃんと返すのよ?」

「うん、感謝します………」

 泰昭は喜々とした表情で、もらった諭吉さんを自分の財布の中に突っ込んだ。

 そうして落ち着いたのか、いつからか姿の見えない彼女のことについて、佳子に軽く質問をした。

「ところで、佐代子さんどこ行ったの? おばあちゃんの家に着いた後から、姿を見てないけど………」

「あの子なら、お風呂場でシャワーを浴びているわよ。汗かいたとかでさっぱりしたいって」

「あ、そう………」

 なにやら残念そうに少し項垂れる泰昭に、佳子は目を輝かせていたずらっぽい声で話しかけた。

「なーに? またあの子の裸を見たいのー? いつの間にか男らしくなったものねー」

「んなっ!?」

 突然の大胆発言により、一瞬目を丸くした泰昭は言葉を失ってしまったが、次の瞬間には顔を真っ赤にしながら、佳子に向かってすごい剣幕で大声を張り上げていた。

「何を言っているの! そういう事しないって分かっているでしょうが! からかわないでっての!」

 必死に反論する泰昭に対して、佳子は面白そうに笑いながら、その勢いをいなしていた。

「だって、あんたもいい年じゃない? そういう性癖ができていたら困るわよ、身内がTVのニュースで報道デビューってご近所からなんて言われるか………」

「そんなことは! 微塵も! ありえません! 安心しろって!」

 ぜーぜーと息を荒げていた泰昭は、気分を害したといった表情ですっと立ち上がると、帰ると一言残してそのまま廊下へと歩いていった。

 その後姿をじっと見ながら、更にいたずらっぽく佳子が、更にうろたえるような言葉を泰昭に投げつけた。

 それは何となくと思っていたことだったが、不思議と確信を得ていたことを。

「それなら、さっさと佐代子ちゃんに、好きの一言でも言いなさい」

「ぶっはっ!」


ドンガラガッシャーン!


 明らかに動揺し、盛大に廊下でこけた物音が鳴り響いたそのすぐ後に、扉の奥から泰昭が顔を真っ赤にしながら鼻息荒く、佳子の前まで詰め寄ってまくし立てるように言葉を吐き出した。

「だから何を言っているの、おばあちゃん! 俺がいつ佐代子さんの好きってことになった! 俺はあの子が寂しい思いをしないようにとあの子の視野を広げるために! いやいやで! 仕方なく! わざわざ時間を割いてまで! 付き合っているの! それを………」

 まるで子供が恥ずかしさを隠すかのように騒ぐのとまったく同じで、更に赤くなった泰昭はそれに比例するかのように、スピードを上げて文句を吐き出していた。

 その様子を見た佳子は、その様子を見て『あぁ、やっぱりなぁ』と、自分の直観力を恐ろしく思った。

 そして、納得したかのような表情の佳子を見た泰昭は、バツが悪そうにしながら言葉を吐き出すのを止めて、顔を赤くしたまま玄関へと早足で向かって行った。

 佳子もニヤニヤと笑いながらその後についていって、玄関のほうまで見送りをした。

「んじゃ………。また時々、立ち寄るから………」

「はいはい。時々と言わずに、時間があるときには何時でも来なさいな」

「まったく………」

 ぶつぶつと文句を呟きながら、泰昭は玄関を出て行った。

 しばらくした後に、外から車のエンジン音が薄く聞こえた後に、タイヤが道路をこする音が起こったが、その音も次第に小さくなっていった。

 泰昭が家から出て行って、十数分程経った頃に広間のソファーで座っていた佳子の元に、寝巻き姿の佐代子が戻ってきた。

風呂を浴びてきたのか、少し湯気に包まれていた。

「あれ、泰昭さんは?」

「少し前に帰ったわよ。もうじき夜だし」

「そう、ですか………」

 帰ったという一言に、佐代子は少々残念そうな表情を浮かべた。

そして、佳子はその表情を見逃すことは無かった。

「あの子が帰って、寂しいの?」

 先ほど泰昭をからかったようないたずらっ子の顔に変わって、今度は佐代子に牙を向けていた。

「え、寂しいって………?」

「とぼけちゃってー、伊達に何十年も女の子やってないのよ?」

「え………、え………?」

「どこが好きになっちゃったの? 平々凡々な子よ、あの子は」

「あの、好きって意味が分からないですけども………?」

「わからない? 貴方の目は、恋をしている目なのよ?」

「こっ………!?」

「目の前でこういうのを見ると、年甲斐も無くはしゃいじゃうのよねー」

「も、もう休みます! オヤスミナサイ!」

 妙に熱気溢れる空気を大声で吹き飛ばし、逃げるようにドスドスと広間から出て行くと、一人残された佳子はいたずらっ子の顔からいつもの顔に戻って、ソファーに深く座ってゆっくりと呟いた。

「ちょっとだけ、からかいすぎちゃったかな………」

 少し申し訳なさそうにしながら、テーブルにあるお茶を啜りながら一息つき、今度はしっかりとした口調で呟いた。

「でも、あれは絶対に恋している目よねぇ」

 まったく反省してはいない佳子だった。


『恋をしている目なのよ?』

「こ………、恋………」

 佐代子は一人、寝室の布団を頭から被った状態で悶えていた。

 佳子から好きに使っていいと言われた寝室は和室で、六畳間の至ってシンプルな畳部屋で衣服を入れるタンスと和風な趣のある木の鏡台、そして文机が置かれていた。

 その部屋の中心に、布団が敷いてあるという状態であったのだが、現在進行形で敷かれている布団がぐちゃぐちゃになりつつあった。

「好き………、好きかぁ………」

 何十回目かの自問自答を繰り返していたが、その答えを見つけだすことはできなかった。

 今まで生きていた中で、こういった感情が湧くことがなかったからだ。

 友達や知り合いから話ぐらいは聞いてはいたが、どういうものなのだろうかと想像することも出来なかった。

 しかし、どういう理由かわからないが、自分のいた時代とは別の時代に放り出されている状況で、今まで体験したことのない感情を抱いている。

 本来なら、本当に自分の元いた時代へと戻れるかどうかに不安を抱くはずなのに、今はこの時代の生活に順応している自分に驚いている。

 なぜ、右も左もわからない状況で、いつもの自分でいられるのだろうか。

 ふと、泰昭と最初に出会ったときのことを思い出していた。

 真っ先に自分の身を案じてくれたこと、見ず知らずの身なのに何も言わず匿ってくれたこと。

そして、自分を元の時代へと帰らせてくれるために、色々と考えてくれていること。

 些細なことかもしれないし、それが当たり前なことなのかもしれないけれども、それがとても嬉しかった。

 それのおかげかわからないが、とても安心することが出来た。

 だからこそ、この時代でも不安にならず自分を保てることが出来た。

 信頼できる、あの人を。

「………。恋、なのかな………?」

 ゆっくりと平静さを取り戻した佐代子は、すぐそばまで来ていた睡魔に誘われるようにまどろみ、いつしか静かな寝息が響いていた。


 一方、泰昭のほうはと言うと。

「だーっ! 帰る間際に変なこと吹き込むなー! 余計に意識するわぁ!」

 部屋のベッドの上で、佐代子以上に悶え苦しんでいた。

 色々と物や本が乱雑に置かれている部屋が、更に酷い有様になってきているが、それでも気にせずにゴロゴロと悶え続けていた。

「ったく。これで次会うときは、どんな顔で会えばいいんだ! 本当にもうー!」

 こっちのほうは収まるのに、まだまだ時間がかかりそうだった。



「それでは行ってまいります」

「いってらっしゃーい」

 丁寧な挨拶の後に、元気良く玄関から出て行く佐代子と、その姿を玄関で見送る佳子。

 ここ最近、この家でよく見かける光景となっていた。

 理由としては、自分の甥が別の時代から来たという出生不明の女の子を、社会見学と大層な名目を付けて自分の軽自動車に乗せて、色々と連れまわしているのである。

 早い話は「デート」というものなのだが、甥は頑なに「社会見学」以外の名称を認めなかった。

『あの年で純情っていうのも、ある意味面倒くさいものなのねぇ………』

 佳子は半分呆れ半分感心といった複雑な内心で、家の前から遠ざかっていくエンジン音を聞きながら広間へと戻っていった。

 そして、いつもの調子でお茶の入ったポットから熱々のお茶を自分のカップに注ぎ込むと、ふーっと軽くお茶を冷ましてから、ゆっくりとお茶を飲み始めた。

 佳子しかいない広間はとても静かで、壁にかけてある時計の振り子から発せられる音が、しっかりと分かるほどに聞こえていた。


カッチコッチカッチコッチ………


 妙に長い時間と感じながら、ゆっくりとお茶をすすっていた佳子であったが、ある人物の訪問によりその静寂が破られた。

「こんにちはー、ケイちゃんいるー?」

「はぁーい、ちょっと待ってー」

 声を聞いただけで誰かがはっきり分かった佳子は、飲んでいたお茶をすぐ側の小さなテーブルに載せてゆっくりと立ち上がり、ぱたぱたと玄関まで小走りで向かっていった。

 玄関では声の発信元である訪問者が、小さなビニール袋を携えて立っていた。

「家の庭の柿の実を持ってきたよ。後、野菜のおすそ分けね」

「ありがとうー、助かっちゃうわ。お茶あるけど飲んでいかない、あっちゃん?」

「うん、飲む。あまりにも寒くて、身が凍えちゃいそうよー」

 そう小さく身震いしながら、厚手のダウンコートを脱いだあっちゃんと呼ばれた女性――泰昭の母の朱美だった――は、玄関から上がるとダウンコートを脇に抱えて、佳子の後をついていった。

 暖かい広間でソファーに腰掛けた朱美は、手渡されたお茶を一口飲んで、ゆっくりと息を吐いた。

 同じようにテーブルを挟んで、向かい側のソファーに座った佳子も、お茶を少しずつ啜っていた。

「そういえば、この前こんなことがあったのよー」

「え、何があったの?」

「それがねぇ………」

 と、佳子が口を開いたのを皮切りに、二人が最近あったおかしなことや他愛ないことを、矢継ぎ早に話しだした。

 そのまま一時間ほど経って、今まで途切れなかった会話が自然と途切れて、二人は話疲れた口をお茶で潤しながら、次に話そうと思っている話題を探し始めていた。

 ほんの数分の間の休憩の後に、最初に口を開いたのは佳子だった。

「ところで、勝彦さんの腰の容態って、今どうなの?」

「入院期間長いけど、順調に良くなっているわよ。この調子なら、今月中に退院できるかもって、お医者さんも言っていたし………」

「そう、良かったわねぇ。これまで勝彦さんのお仕事、ヤスちゃんに任せていたんでしょ?」

「えぇ、簡単な仕事はね。それ以外の仕事は、あの人が完治するまで待ってもらっていたけど」

「そうなると、ヤスちゃんもお役ごめんになるのねぇ」

「大変だったかもしれないけど、いい勉強になったと思うわ。それに、やっと就職活動に時間を注ぎこめられるし………」

「そっちのほうの調子は?」

「難航しているわよ。いろいろと探しては面接受けに行っているけど、中々ねぇ」

「色々とぶつかっていけば、きっといいところが見つかるわよ」

「まぁ、そうよねぇ」

 そういいながら、朱美はテーブルに置かれていたお茶を手にして一口飲んだ後、ふっと溜息と一緒にもう一つの言葉を吐き出した。

「仕事もだけど、いい加減彼女の一人でも作ってほしいわよ」

「彼女………、ね」

 彼女、というキーワードを耳にしたときに、佳子の目は無意識に視線を朱美からずらしていた。

 そして、その瞬間を見逃さなかった朱美の目は、ギラリと変わっていた。

「ちょっと、その顔は何か隠しているわね?」

「んー? 何も?」

「教えなさい」

「いや」

「………、いいから教えなさい」

「いーや」

 ほんの二言三言交わした後に短い静寂が、二人と広間を包んだ。が、すぐにその静寂は崩壊してしまった。

「教えなさいよ! 自分の息子の一大事でしょうに! そこら辺を把握しておかなくて、何が母親よ!」

「そういうのを野暮って言うの! そこは何も言わずに、そっと見守るのが親ってものでしょうが!」

「誰? どんな子? 年上? 年下?」

「いい加減にしなさいよ、本当にしつこいわねぇ………」

「いいじゃないのよ! 減るものじゃないし!」

「そういうことじゃないでしょうに………」

「それでもいいでしょう!?」

「だーめ!」

 この後、延々と似たような会話が続いていくが、この会話の先にあるものは何も無いと直感で理解した佳子は、心の中でうんざりしながら、どこか一緒に行っている甥と彼女(未定)に向かって、呆れと同情入り混じった心境で、しっかりと応援を送っていた。


『ヤスちゃん、絶対にその子を射止めるのよ………。佐代子ちゃん、不器用すぎる甥だけどいい子だから………』



「へっくしょぃっ!」

「くしゅん!」


 のんびりと走っている車の中で泰昭と佐代子は、二人そろって盛大にくしゃみをした。

「うーん………、風邪引いたのかな?」

「寒くなってきましたからね、気をつけないと………」

 そう佐代子は心配しながら、車の中においてあったティッシュを一枚泰昭に渡して、もう一枚を取り出して自分の口周りを丁寧に拭った。

 泰昭も片手でうまく運転しながら、渡されたティッシュでゆっくりと拭いきった。

そして、気楽な調子で、のんびりとその心配を跳ね除けた。

「むしろ。誰かが僕らに対して、変な噂をしたのかなー」

「誰かが噂をしたら、くしゃみをしちゃうって事ですか?」

「あれ、知らない? こっちの時代だと他人の噂をすると、その人がくしゃみすることがあって………」

「へぇー………」

 軽く談笑しながら、車はのんびりと目的地へと走っていった。

 二人の会話は軽快で、カーラジオからの音楽と合わさって、車内の心地よさは春と言えるほどで、寒風吹きすさぶ十一月後半の空気の冷たさや、ややどんよりとした薄暗い曇り空も、まったく気にならないほどだった。

曇り空の景色すら、この二人にとってはこの楽しい時間の味を出す、アクセントの一つでしかならなかった。

 そんな時間を逃さないかのように、一層楽しく会話を続けながら車は道を走り続けていた。

 そして、途中から一般道から高速道路に入って、いつもよりも長めのドライブを楽しんだ後に、ようやく目的地へとたどり着いた。

そこは、泰昭が住んでいる街よりもずっと大きな街で、その中心にある巨大な駅ビルを中心に、都市開発が今も続いているという、まさに現在進行形で巨大化している街だった。

建物の多くは大手の企業ビルが占めているが、数多くの商品を取り扱うデパートや、おしゃれな店が軒を連ねる大きな商店街、更にはコンサートなどを行う多目的ホールや、たくさんのスクリーンが備え付けられている巨大な映画館など、娯楽に関してもまったくの隙が無いほどに充実していた。

 二人を乗せた車は、沢山の買い物客で一番賑わっている大通りの側を走っていて、その脇に隣接してあるコインパーキングに入り、車を止めた。

車から降りた佐代子は、初めて見る風景をキョロキョロと見回しながらも、嬉しそうな表情をしていた。

その表情は、今度はどんな未知の体験をするのだろうかと言う、好奇心に満ち溢れた表情で今にも走り出しそうであった。

 走り出したい衝動を抑えながら、佐代子は目一杯の笑顔で泰昭のほうに向いて、元気一杯の声で声をかけてきた。

「今日の目的地は、一体どこですか?」

「まだ内緒。ここからだと、少し歩かないといけないけどね」

「何が見られるのかな………」

「それは着いてからのお楽しみ。さぁ行こうか」

「はい!」

 車の中と同じ雰囲気で会話をした二人は、冷え込んだ空気に包まれながらも仲良く並びながら、ゆっくりと冬に近づいていく街の中を歩き始めた。

 街は黄に色づいているイチョウの街路樹で、一層彩り鮮やかに染められていた。

大通りを歩く人々も、鮮やかな黄色に彩られた街をその目で楽しみながら、買い物や散歩などを楽しんでいた。

「すごいですね、ここまですごいイチョウの並木って、今まで見たことないですよ」

「へぇー。佐代子さんでも、こんな並木道見たことないの?」

「えぇ、紅葉狩りとかで山のほうに行かないと、これくらいすごいものは見られませんでしたから」

「時間があれば、山のほうにでも行けたけど………」

「そこまで無理しなくてもいいですよ。これだけでも、十分満足ですから」

「ははは………、ありがとうございます」

「いえいえ」

 時折強く吹く北風によって、イチョウの木から舞い飛ぶたくさんの黄色い葉がさらに大通りを彩り、泰昭や佐代子を含む多くの人々を楽しませていた。

たくさんの表情を変えてくる大通りを抜けて、二人は数多くの木々に包まれた、広大な公園へと進んでいった。

 この公園は、この街で一番の大きさで、小さな児童公園が四つある他に、市民球場や陸上競技場、更には市民プールに博物館や美術館といった沢山の施設を、その敷地内に併設出来るほどの広大なものだった。

また、たくさん植えられているたくさんの木々は、四季折々の鮮やかな表情に変えて、この公園を訪ねる人々を楽しませていた。

「わぁ…………」

 佐代子が感嘆の声を上げたのは、その木々の1つの表情である、たくさんの紅葉に出迎えられたからである。その凄さは、先ほど歩いてきた大通りのイチョウの街路樹以上のものだったので、無理もなかった。

「いやぁ………。話に聞いてはいたけど、実際に見ると本当にすごいなぁ」

「そうですよねぇ! 目の前が真っ赤に染まっているみたいです」

「うん。凄すぎて、続く言葉が浮かばないよ………」

「もしかして、今日見せてくれるのはこの凄い景色ですか?」

「それもあるけど、今日の目的地はここからもう少し先にある建物だよ」

「なら、早く行きましょう!」

「はいはいっと」

 さらにテンションあがった佐代子に引っ張られるように、泰昭は目的地へと色とりどりの葉が舞い落ちる小道を歩いていった。

進むごとに変わっていく風景を楽しみながら、二人は公園の小道を歩いていたが、急に視界が開けて大きな建物が立ち塞がるように現れた。

「うわぁ………」

「ここが、今日の目的地だよ」

「ここってどういった建物なのですか……?」

「博物館だよ。色々な物が、たくさん見られるよ」

「この建物が博物館………。凄いですね………」

 佐代子が言葉を無くすのも無理もなく、その建物は昔ながらの石とレンガ造りの建物で、今日までの長い時間をその場所でじっと見てきたことが、その堂々とした佇まいで分かるようだった。

 圧倒的な存在感に飲まれたように、佐代子はじっと見つめたままその場に立ち尽くしていた。

それ程の存在感が、その建物からにじみ出ていたので無理も無いと、泰昭は素直に思えた。

「さぁ、ここにいても風邪引くだけだから中に入ろうよ。中も凄いから」

「はい」

 建物の中へと促すように泰昭が歩き出すと、佐代子もそれに促されるようにその後をついていった。

入り口のすぐそばにある受付で、泰昭は二人分の入場料を払うと、巨大な玄関口へと足を進めていった。

玄関口も、建物の全体の雰囲気に負ける事の無い堂々とした佇まいで二人を迎えていて、その空気に包まれながらも、しっかりとした足取りで建物の中へと入っていった。

 そして玄関口を通って真っ先に目に入った玄関ホールでも、佐代子は呆然とその光景を見とれてしまうことになった。

内部も外観と同様に石とレンガ造りとなっていたが、床は様々な色と大きさのタイルでステンドグラスのような模様を描いており、ホール一杯にその大きさと美しさを存分にさらけ出していた。

さらには、ホールの天井に備え付けられている巨大なシャンデリアも、床の模様に引けをとらないほどの豪華さと歴史の重みという名の雰囲気を身に纏っていた。

「うわぁ………、この建物って外見も凄いですけど、中もそれ以上に素晴しいですね………。私がいた時代でもここまで大きくて凄い建物は、見たことないかもしれません」

「建物の見た目や内装とかで驚いていたら、この先身が持たないよ? もっと驚くようなものがたくさんあるからね」

「わぁ、本当に楽しみです!」

「それじゃ、こっちから行こうか。あ、中は大声あげちゃだめだから、あんまり叫ばないでね?」

「あ、はい………」

 そんなやり取りを二人の間で行いながら、すぐ側の展示室に入っていった。

 四階建ての風格ある博物館の内部は、隅から墨までたくさんのガラス棚に収められた展示物でうめつくされていて、その種類も多種多様であり、動植物に関しては、そのはく製や骨格の標本等が展示されていた。

また、時計などの身近な物でも、内部構造を見やすくした物や、その年代においての姿形で展示されている物もあり、それと一緒に展示されている説明文も分かりやすく詳細にまとめられていて、どれもじっくりと見ていくとなると、一日では廻りきれないほどの展示量であった。

 そのどれもが佐代子には全て初めて見るものばかりで、新しいおもちゃを与えられた小さな子供のように、目を輝かせながら、展示品一つ一つをじっくりと見て廻った。

泰昭も、そんな子供のように見て回る彼女の後を追うようについていき、一緒に展示物を見て廻っていった。

時折、佐代子からの質問に答えられる範囲で答えながら、次の展示室へと進んでいった。

 そして、一通り見て廻った二人は、玄関ホールの奥に併設されている休憩所で、自動販売機で買ったお茶を飲みながら、たくさん並べてあるテーブル席の一つに座って一息ついていた。

「どうだった? 身近なものも色々な視点で見ると、結構面白いでしょ」

「はい! どういう原理で動いているのかとか、姿形がどう変化していったのか、よく分かりましたよ!」

「ははは………。そ、それはよかった」

 手に持ったお茶のアルミ缶を、凹ませるぐらいに強く握りしめながら、興奮気味に返答をした佐代子に、向かい側の席でスポーツドリンクを飲みながら見ていた泰昭は、その姿を見て笑いかけながらも、その勢いに動揺しながら佐代子の熱弁を聞いていた。

 興奮気味に話を続けること十数分ほどで話す内容が無くなったのか、自分を落ち着かせるようにお茶を何度か口に運ばせて少し休んでいると、唐突に小さな声で佐代子は呟いていた。

「そういえば、展示の中には昔あったものも、たくさん展示されていましたね………」

「姿形を比較する為に、当時の物が展示されてあったやつのこと? それがどうしたの?」

「いくつかは私のいた時代でも見たものだったので、とても懐かしかったのですが………。あんな風に展示されていると、私のいた時代はもう過ぎ去ってしまった時間なんだなって、改めて思い知らされた気がします………」

「あ………」

 やや笑顔を曇らせながら小さく呟く佐代子に、泰昭はしまったと心の中で舌打ちをした。

 忘れられないあの騒動の日から三週間ほど経ち、佐代子もこっちの時代の生活に大分慣れてはきたが、彼女はこの時代の住人ではない。

今も何事もないように接しているが、心の奥底では自分のいた時代に戻りたいと切望しているはず。

そして、今の呟きがその寂しさを物語っていると、泰昭は即座に理解することが出来た。

『そうだよな………。彼女は、こことは別の時代に生きていた人だ。こういうもの見ると、自分の時代を思い出すのも無理無い………。というか、何で寂しい思いをさせるようなところに、俺は連れてきちゃったのかなー!』

 そんな自分を戒める言葉が、頭の中から滝のようにあふれ出てきては、次々に自分の体に深く突き刺さっていき、みるみるうちに泰昭の表情は、今までの楽しそうな表情から苦渋の表情へと変わっていった。

 そんな表情を変えていく泰昭を見て、佐代子は直ぐに自分の発言の意味に気づいたのか、会話の方向を変えようと別の話題に持っていった。

「あ………、えっと………。確かこの建物の奥にも、何か展示している建物がありますよね? そっちにも行ってみませんか? 私、すごく気になっていて!」

「建物の奥………? あぁ、新館のことか」

「そう、そこです! もう十分休みましたし、時間ももったいないから、そろそろ行きませんか?」

「そ、そうだね! それじゃ、そっちに行ってみようか。あっちも、面白いのがたくさんあるよ」

「それを聞くと、俄然楽しみが増えますね!」

「その期待は裏切らないよ。さぁ、行きますか」

「はい!」

 やや無理矢理な部分もあったが、泰昭は自分自身を戒めることはしなくなって、大分心が軽くなったのを感じていた。

さっきまでの自分に恥ずかしくなったのか、ポリポリと数回頭をかくと、休憩室から出る為に元気よく立ち上がった。

それに続くように佐代子も立ち上がると、その後に続くように、泰昭の後ろへとそっと近づいた。

「ははは………」

「ふふっ」

 近づいた際にお互いの視線が重なったのか、どことなくむず痒くなったかのように、二人は面と向かい合いながら軽く笑うと、何もなかったかのように休憩室を出て行った。

出て行く際に、何か憑き物が落ちたような表情の泰昭を見た佐代子は、ふっと安心したかのように優しい微笑みで、彼の後をゆっくりとついていった。

その胸の内では、ゆっくりと温かくなっていくものがあることを佐代子は自覚していたが、それがどういったものなのかは、まだ知ることは出来なかったし、その必要も無いと思っていた。

 そうこうしているうちに、二人は建物の裏手から出て、少し広めの中庭へとたどり着いた。

そこは、休憩用のベンチや抽象的なモニュメントや銅像が建てられていて、その中央には小さいながらも存在感のある噴水が静かに水を流していた。

その計算された噴水やモニュメントの配置に、二人はほんの数分だけ目を奪われたが、後ろ髪引かれながらも目的地へと足を進めた。

「わぁ………」

「あっちは年季ある建物だけど、こっちはこっちで斬新な建物でしょ?」

「えぇ、こちらもただ凄いとしか言葉が出ませんよ………」

 さっきまで色々と見てきた本館が歴史ある建物だとすれば、新館は現代の建築法で建てられた、正に今の時代を象徴するかのような外見をしていた。

無機質ながらも、芸術的なデザインで刻み込まれた鉄筋コンクリートの壁は、見るものに編な圧迫感を与えることはなく、逆にそのストイックさが一つの芸術と言われたら、誰もが納得するほどの出来であった。

さらに建物の四方のうち一面だけが、全面ガラス張りという外観をしていて、佐代子から見ればまさしく風変わりとも言える姿でも、すぐに一つの芸術と受け入れてしまうほどだった。

 自分の時代では考えられないような外観の建物の前で、本館を目の当たりにしたときのようにじっと立ち尽くしたまま、穴が開くほどにじっと見つめている佐代子を、後ろから見ている泰昭はくすぐったいように小さく笑うと、そっと近づいてポンっと肩を叩いた。

「あ………、すいません」

「すごい建物でしょ。僕も始めてこの建物を見たときは、しばらく立ちっぱなしになったよ」

「こんな………、凄そうな建物も博物館………?」

「最近になって新しく建ったもので、本館の展示内容以上に凄いって話だよ」

「さっき見た以上のものですか……、とても楽しみですねっ!」

「ははは! それじゃ、中に入ってみようか」

「はい!」

 本館に入るとき以上に興奮した佐代子に背中を押されながら、まだ新しい雰囲気漂う新館の中へと足を踏み入れていった。

「凄い………」

 建物の内部は、佐代子が小さく漏らしたその一言に、全てが凝縮されていた。

 外観と同じように、全面がコンクリートの内装ではあったが、その隅から隅までが、各階でテーマにしている展示物で一杯であった。

しかも、ただ整然と並べられているだけではなく、その物の特徴などを捉えられやすいように、あえてケースの中ではなく、天井や壁面、さらには透明な床の下に展示するなど、様々な工夫が施されていた。

 さらに、ただ見るだけではなく、実際に手で触れられるコーナーや、様々な化学実験を体験できるスペースなどもあり、万人が楽しみながら物事を理解していくような工夫がたくさんあった。

 一通り館内の展示物を見たり手に触れたりと、時間を忘れるほどに楽しんだ二人は新館から出て、さっき横切った中庭のベンチで休憩を取っていた。

 休憩用ベンチのすぐ側には、休憩することを予想していたかのように、軽食や飲み物の売店が建てられていたので、温かいお茶を二つ頼んだ泰昭は、お茶を持ってベンチで休んでいる佐代子の下へと歩いていた。

日もゆっくりと傾き始めていて、うす曇の空も少し暗くなってきていて、時折吹く風の冷たさも次第に厳しくなってきた。

「さてと、これで一通り見て回ったのかなぁ」

「これで終わりですか………? もうちょっと見てみたいですね」

「とは言っても、殆ど見て回ったからなぁ。後、あるとすれば企画展があるかどうかかも………」

「企画展って?」

「えっとねぇ………。期間限定で、一つのテーマに関しての展示をする催し物って感じだね」

「もしやっていたら、寄っても良いですか?」

「うーん………。帰りの時間を考えても、結構ギリギリだけど………っ!」

 急に言葉を切ってしまったのは、隣に座っていた佐代子が何も言わずに泰昭の腕に抱きついてきて、じっと見上げるように見つめながら、小さい声でか弱く呟いたのだった。

「お願いします………」

「うっ………」

 やや涙目なうえに、儚げな声でひっそりと帰りたくないと訴える佐代子の行動に、今まで女性とのお付き合いをしたことがない泰昭は、目に見えて分かるぐらいに動揺をしていた。

この状態で博物館から出られる人物など、相当の非情な人間か唐変木くらいである。

そして、泰昭は幸か不幸か、そのどちらにも属しない真っ当な人間だったため、渋々ながらも佐代子の頼みを聞くことになった。

「いいかい? もし企画展が催されてなかったら、真っ直ぐ帰るからね?」

「はい!」

 少し呆れながらも、佐代子の嬉しそうな声と表情を見て元気を取り戻した泰昭は、すぐ側に立てられている掲示板のほうへと向かっていった。

この掲示板には、催される展示会や催し物などのスケジュールが掲示されており、更には近くに併設されている美術館などのスケジュールも確認できた。

「えーっと………、今日の日付はっと………。これか。それで、何が催されているのかなー」

 やや見づらいスケジュール表にやきもきしながらも、ようやく今日の日付の部分を見つけだして、そのまま企画展の項目を、ゆっくりと確認していった。

「お、何か展示されているみたいだな。えーっと、何々………っ!!!」

 企画展名とその内容を自分の目で確認したとき、泰昭は一瞬時間が止まったような錯覚に陥っていた。

 目の前の掲示板には、今回の怪異の重要な鍵が隠されていると、確証は無かったが直感が走った。

 今までの疲れが吹っ飛んだかのような早い足取りで、ベンチに座っている佐代子の下へと向かっていく泰昭。残された掲示板のスケジュールで、泰昭が見ていた部分にはこう記されていた。


『近代魔術・錬金術の技術展。時を超える力を探し続けた者達の足跡』



サクッ………、サクッ………、サクッ………、サクッ………

 

 先ほどまで空を覆っていた雲は大分晴れて、空は傾いた夕日の光と一緒に紅く染まっていた。

 公園の中もその紅い光に照らされて、イチョウの木の葉の色も黄色から紅くなっていた。

時間も遅いせいか、昼間よりもずっと少なくて、殆どの人が帰り道を急いでいるようだった。


ざぁぁぁぁぁ………


 時折吹く強い風は、冬の寒さを一身に纏ったような凍てつく風で、イチョウの葉は一気に空へと舞い飛ばし、幻想的な紅い吹雪へと姿を変えた。

「わぁ………、すごい光景ですね!」

「うん………」

 目の前に広がる夢のような光景に、佐代子は素直な感想を声に出していたが、その隣を歩いていた泰昭の耳にはまったく届いては無く、ただ生返事を返すだけしかできなかった。

すぐ目の前の光景よりも、先ほど見てまわった企画展の内容のことで、頭が一杯だった。

 


まるで楽しんでいるとは言い表せないような表情で、早歩きで企画展の会場へと二人は向かっていた。

閉館時間が近づいていた為か、来館客は入場した時よりも大分少なくなっていて、目的の会場まではそう時間がかからずに着くことが出来た。

そこは、本館の地下にあった、特別展示室の一つで行われていた。

展示室の中は、企画のイメージの為かは分からなかったが、全体的に薄暗いといった印象だった。

薄暗い展示室の薄気味悪さと閉館時間が間近だった為か、泰昭と佐代子以外の客は一人も居らず、実質二人だけのために催された展示会と錯覚してしまうほどだった。

 中は二部屋ほどのスペース使って展示されていて、ガラスの展示ケースや様々なことが書かれたボードなどが、部屋一杯に埋め尽くされていた。

「まさか、ここで答えが見つかるかもしれないなんて………」

「うん。僕も企画名見たときは驚いたけども、本当に答えが出るのかは分からないよ?」

「えぇ………。でも、ほんの小さな手がかりでもいいから、とにかく知りたいです!」

「………、うん。そうだね」

 何故か分からないが泰昭は、少し歯切れの悪い返事をしながらも、一つ一つの展示をじっくり丁寧に見ていった。

その隣にいた佐代子も、それ以上に熱心に見ていった。

しかし、然る魔術師が使っていたといわれる中央の針が水晶で作られた日時計や、古ぼけた羊皮紙に謎の言葉が時計の文字盤のように描かれている物等、どう見てもおもちゃと思えるようなものが大半であり、壁に展示されている説明文などもあまり有用な情報が無く、これもやや馬鹿にされたような表現で書かれていた。

「言葉が悪いかもしれないけど………。どれもこれも、おもちゃや落書きにしか見えないなぁ」

「そう見えるかも知れませんけど、どれも必死で研究して、試行錯誤された跡が見られます。たくさんの人に馬鹿にされたとしても、自分の信念をまっすぐに貫いたのだから………。とても、凄いことだと思います」

「佐代子さん………?」

「どうしました、泰昭さん?」

「いや、何も………」

「?」

 少し首をかしげながらも、すぐさま別の展示品を熱心に見ていく佐代子の姿を見て、泰昭は少し違和感を覚えていた。

確かに未知の体験を目の前にした彼女は、嬉々として飛び込んでいくのは、今まで一緒にいた事で理解していたが、今回に関しては何やら言葉では言い表せないような、何らかの執念がその身に宿っているようにも見えていた。

『気のせいだろう………。彼女が、元の時代に帰れるかどうかの事だ。あそこまで必死にもなるはずだ………』

 やや言い訳っぽく、自分の中で生まれた違和感を押し込んだ泰昭は、佐代子に続くように一つ一つの展示品を見ていった。

そして、一つ目の部屋の展示品をあらかた見て回った二人は、奥にある二つ目の部屋へと進んでいった。

ここも薄暗い雰囲気ではあったが、圧倒的に違う部分が一つあった。

 一つ目の部屋と同じように、展示品が納められているガラスケースと説明文が書かれたものがあったが、部屋の中央には小さな部屋ぐらいある大きなガラスケースがどんと置かれていた。

そして、そのガラスケースには、二人が探していたものが展示されていた。


「これは………っ!」

「………っ!」


 それは、大きめで立派なシャンデリアだった。

 直線や曲線が絶妙に折り重なった、抽象的なデザインの金属板で施されている見事な彫り物。

それに負けないほど素晴らしく煌びやかな装飾も数多く、その神秘性をあふれ出すデザインに、これを見た人がただ見とれても当然と思える、そんな圧倒される雰囲気がそこにはあった。

「嘘………、だよな………。これ!」

「………………」

 ジッとガラスケースの中を見ている佐代子の隣で、泰昭は信じられないと思いながらも、目を凝らしながらガラスケースの中の物を観察していった。

そして、隅々まで十分確認した後にある結論を導き出した。


 これは『あの屋敷』にあったものに良く似ている、ということだった。


 装飾などの細かいところが、どこと無く違ってはいたが、全体的な雰囲気はあの家で見た立派なシャンデリアと、まったくと言っていいほど瓜二つだった。

その事実に軽く混乱しながらも、このシャンデリアについての説明文を読み始めた。


『シャンデリア  作製場所:ドイツ  作製年:不明(千二百年頃か?)  作製者:不明

ドイツのある屋敷から見つけ出された物で、ある魔術研究者が時間の概念は光にあると考え、それを日常の光を扱う器具であるシャンデリアに着目し、このような物を作製したと考えられる。

ある学者は、このシャンデリアに装飾されている飾りは人などの物体を表し、金属板に掘り込まれている無数の線は時間の流れを表していて、ランプが放つ光が流れに乗って別のランプが放つ光へと物体を導くという、魔獣的な構築式が描かれているという。

また、ある学者はこの構築式から、タイムマシンとして使っていたのではと仮説を立てているが、真意は依然不明のままである』


 全てを読み終えたときに、泰昭は自分の頭が真っ白になったのと、自分の周りの時間が止まったことを、同時に体験したように思えた。

どれくらい時間が経ったか分からなかったが、ようやく頭がはっきりと動き始めた時には、もう一つの結論が見えたような気がしていた。


 『佐代子は、元の時代に戻ることが出来る』


 まだしっかりとした根拠を得てはいなかったが、この考えは絶対に正しいと素直に受け止めることができた。

 興奮のせいか、息が少し荒くなっているのに気付いて、小さく深呼吸を繰り返しながら佐代子のほうに視線を向けると、彼女の顔は誰が見ても分かるくらいに、真っ白な顔になっていた。

「うっ………」

「わっと!」

 そして次の瞬間には、崩れるかのように床に倒れそうになったが、寸でのところで泰昭に受け止められた。

しかし、依然として白い顔のままで、しばらくは泰昭の手で受け止められたままで、視点もはっきりとはしておらず、ぼんやりと宙を泳いでいるようだった。

 この場にいても落ち着かないので、泰昭はおぼつかない足取りの佐代子の手をしっかりと握り、ゆっくりと本館の休憩所へと導いていった。

ゆっくりと佐代子をベンチに座らせると、持ち合わせていたハンカチを近くの手洗い場から水で湿らせて、丁寧に彼女の額へと当てていた。

 数分ほど時間が経った後、佐代子の意識が戻ったのか、しきりに周囲をきょろきょろと見回していた。

何でここに居るのか、まったく分からないと言った様子だったが、少し前に休んでいた場所だと分かると軽く息を吐きつつ、泰昭から渡されたお茶を受け取って、ゆっくりと飲んでいた。

「大丈夫?」

「えぇ………、急に目眩が………」

「まぁ、大事にならなくて良かったよ。今日は、もう帰ろう?」

「そうですね………。さっきの展示を見てから、どうも頭が少し痛くて………」

「それじゃ、気分が良くなったら行こうか。博物館の閉館時間も、もうすぐだし」

 泰昭の提案を素直に頷いた佐代子は、残ったお茶を一気に飲み干すと、すっと立ち上がった。

その姿に体調に異変が無いことが分かった泰昭は、とりあえず一安心といった安堵の表情を浮かべながら同じようにベンチから立ち上がり、休憩所の出入り口へと向かっていった。

 さっきよりも言葉が少ないまま博物館を出て行った二人は、ゆっくりと赤く染まっていく公園の木々に迎えられ、時間による景色の変化に少し驚きながらも、さっき歩いてきた道のりを二人並びながら歩いていった。

そして、急に吹いた強い風で公園の木々が一斉に騒ぎ出した。



ざぁぁぁぁぁ………


「わぁ………、すごい光景ですね!」

「うん………」


 急に吹いた冷たい風は徐々に収まっていき、目の前の幻想的な光景も同じように収まっていった。

静かになった公園の道が、二人の目の前に現れると、さっきの光景の余韻に浸りながら、またゆっくりと歩き始めた。


サクッ………、サクッ………、サクッ………、サクッ………


 落ち葉を一定のリズムで踏みしめながら、二人は口数が少ないまま公園の道を歩いていた。

先ほどまで紅かった空が、ゆっくりと黒く染まり始めていて、時折二人の側を小走りに通り過ぎていく人が増えているような気がした。

それでも、二人は特に急ぐこともせずに、変わらないペースのままで歩き続けていた。

「凄い風だったねー」

「えぇ。でも、あの光景が見られたのは幸運ですよ」

 簡単な雑談を、二言三言交えながらゆっくり進む二人。

何気ない光景ではあったが、二人の心の中はとても複雑であった。

特に泰昭の心は、ぐちゃぐちゃと言えるくらいに混沌としていた。

その一番の要因が、先ほど見た展示物だった。

全ての原因が、あれに詰まっていると心の中で分かってはいるが、まだ不確かなことがまだまだ多かった。

それ故に、泰昭の頭の中は更に混沌と化していて、必死に整理させようとするとより複雑になっていき、結局は何も答えが出ないのだった。


ざぁぁぁぁぁ………


 それでも何とかまとめてみようと必死に考えを巡らせていると、唐突に吹いてきた風によってその考えは中断することになった。

そして、目の前の光景によって、今まで考えていたことが完全に吹き飛んでいた。

「あははは、すごい!」

「あ………」

 再び木々の葉が舞い飛ぶほどの強い風が吹いてきて、先ほど見た木の葉の吹雪が目の前に広がっていた。その舞い飛ぶ木の葉の中を、佐代子がいつの間にか入り込んで、一緒に踊っているようだった。

その姿は、まさにおとぎの国の中と言い換えても疑わないほどの幻想的な光景で、そんな光景が目の前で現れたのならば、誰もが足を止めてその光景をただじっと見つめているだけだと、泰昭は心の奥底でそんなことを考えてもいた。

「泰昭さーん。これ、すごいです!」

「あぁ、うん。本当に凄いよね、綺麗で………」

 確かに綺麗だった。

 しかし、泰昭の視線の先は木の葉が舞い飛ぶ光景には向いてはおらず、その中心で踊るようにはしゃいでいる佐代子の姿しか映らなかった。

むしろ、彼女がいればどうでもいいとさえ、思えてしまうほどだった。

「泰昭さん、どうしたんですか?」

「え………?」

「そんなところでぼーっとしていると、風邪を引きますよ。もう、大分日が暮れていますし」

「うん、ごめん。すぐ行くよ」

 二人並んで落ち葉で敷き詰められた公園の小道を、サクサクと小気味よい音を立てながら、公園の出口へと進んでいった。

その道中はさっき見た博物館の展示のことなど、一切頭の中には無かった。

公園を出て、日が暮れたことによってもう一つの姿を変えた街の姿に、さっきの木の葉の吹雪と同じように目を丸くしながら、きょろきょろと全てを見るように視線を動かしていた。

泰昭はそんな彼女の動きに軽く笑いながらも、頭の中でゆっくりと考えを巡らせていた。

 その内容は博物館の展示物に関してのことではなく、今は別のことしか頭に無かった。


 泰昭は、佐代子のことが好きになっていた。


 初めは、そのことに関して嘘かと思っていたが、今まで彼女に対して感じていた気持ちを思い出して考え直してみると、嘘と思っていた気持ちが次第に小さくなっていって、その気持ちが本当なのかもと思い直すようになっていった。

 そんな泰昭の心の中の変化を、佐代子は知る由も無いまま、さまざまに色のネオンに彩られていく夜の街を、目を輝かせながら一つ一つを目に焼き付けるように、じっと見つめていた。

そんな様子を横目で見つめつつ、黒に染まりつつある空から逃げるように車を走らせた。

 その後、佳子の家に着いたのはとっぷりと日が暮れて、日付が変わる一歩手前の時間だった。

無事に家に到着したときには、佳子に根掘り葉掘りいろいろ聞かれたのは、言うまでも無かった。



プルルルルルルルル………


 昼も過ぎた、ある晴れた日。

家で留守番をしていた泰昭は、軽快に鳴り響く電話の受話器を手に取った。

「もしもしー」

『もしもし、広瀬様のお宅でしょうか?』

「えぇ、そうですが………?」

『私、大賀崎家の者ですが………』

「あ………」



ブロロロロロロロロ………


「泰昭さん、今日の目的地はどこですか?」

「んー、内緒ってことで」

「えー………。いつもは、すぐに教えてくれていたじゃないですか」

「そういう気分ではない、ってことです」

「それって、どういうことですか?」

「そういう日も、あるってことで………」

「………、もう!」

 軽くふくれ面になった佐代子は、ドアのウィンドウに顔をくっつけて、右から左に流れる景色をじっと見つめていた。

その様子を横目で見ながら、泰昭はアクセルを少し深く踏み込んで、車のハンドルを握り直していた。

 二人は、いつもの軽自動車に乗っていて、少し車の量が少ない高速道路を、法定速度少し越えるくらいのスピードで走っていた。

空も澄み渡ったような綺麗な青空で、まさにドライブするにはうってつけの日であった。

 しかし、車内の空気はそんな澄んだ天気とは裏腹で、例えて言うならばジメっとした梅雨空といった感じであった。

カーラジオから流れる軽やかな音楽も、二人の耳にはまったく届いてなく、この陰鬱とした空気を変えることは出来なかった。

「………………」

「………………」

 佳子の家から佐代子を車に乗せて、かれこれ二時間ほど車を走らせているが、あまり会話が無い車内ではそれ以上の時間に感じられた。

もちろん、車に乗っている二人も、この重い空気をいい加減に綺麗さっぱりさせたいのだが、妙なプライドがそれを邪魔していて、口を開かせようとはしなかった。

だが、そんな重い空気は、あっけなく消え去ることになった。

「もー、根負けです。降参です!」

「へっ!?」

「これから向かう先は海です。いつも街の中ばっかりだったから、たまには自然の空気を吸わせたいなってことで、安直な考えではありながらも、行き先を海に決めました。以上!」

「は、はぁ………。でも、この時期の海って寒すぎるのでは………?」

「いいの! こういう時期の海も、大変良いものなのです!」

「ちょっと怒っていませんか………?」

「怒っていません!」

「やっぱり怒ってる………」

「ません!」

「………、はぃ」

 そんなやり取りのおかげか、今までの空気は吹き飛んでいた。

ただ、まだ爽やかという言葉には当てはまらない空気ではあったが、さっきの重たい空気よりかはずっとましだと、二人は素直にそう思っていた。

それからは、今までどおりの会話をお互いしつつ、目的地の海に向けて車を走らせていった。

 二人を乗せた車は、しばらく走っていた高速道路を下りて、のどかそうな道をのんびりとした速度で走り出した。

たくさんの木々が生い茂る細い道を走り抜けると、視界が急に開いて大自然とは逆の、人工物である建物が立ち並ぶ街の姿が目の前にあった。

そのまま、街の中へと車を走らせていたが、海に近いのか海産物を扱う店や大量の魚の干物を作っている店が、街の道沿いに数多く並んで建っていた。

例のごとく、佐代子がじっと物珍しそうに見つめているのを、泰昭は運転しながら横目でしっかりと見ていた。

 そのまま車を走らせていくと、街を抜けて再びのどかそうな道に入っていった。

木々と田畑が広がっている景色をのんびりと走らせていき、何度目かの交差点で大きく曲がると、道の側にある広く開かれたスペースに入っていった。

そこは、たくさんの車が駐車できるための、かなり大きな駐車場だった。

ただし、今は時期外れのためか、指で数えられるほどの車が、思い思いの場所に駐車していた。

 泰昭もめぼしい場所を探していたが、良い場所が見つかったのか車をそこまで移動させて、丁寧に駐車スペースへと車を止めた。

「はーい、到着」

「んー、潮の香りを強く感じますー!」

「少し歩けば、すぐ海岸だからね。歩いて五分もかからない距離だよ」

「そうですか! 早く行ってみましょうよ!」

「はいはいっと」

 冬目前の寒さが潮風の強さと合わさり、更に身を凍えさせるような寒さとなったが、佐代子はそんなことを気にすることもせずに、防風林の中へと続いている小道へと力強い歩きで入っていった。

厚手のダウンジャケットをしっかりと身につけた泰昭も、少し微笑みながらその後に続くように、小道を小走りで歩いて行った。

冬でも青々と茂る防風林の林の中は、太陽の光を遮るほど鬱蒼としていて、少し薄暗い空間となっていた。

だが、林の先は暖かそうな光に満ちていて、あまり不安になることはなかった。

「うわぁ………、凄い景色………」

「おー………」

 二人の目の前に広がる光景は、言葉を失わせるほどの衝撃があった。

 

 ざざぁぁぁ………、ざざぁぁぁ………、ざざぁぁぁ………


 沖の方から時折吹く強い潮風と共に迫ってくる波が、少し離れていても音で分かるくらいの大きさで、周囲に響き渡っていた。

その響き渡る波音の先には、さんさんと輝く太陽の光を余すことなく浴びて、神秘的に輝いている冬の海が、二人を待ち侘びていたかのように、青空の下で堂々と存在していた。

 その威風堂々とした存在感の海に、二人は言葉を失いつつも目の前の光景を、いつの間にか誰かに勧められたかのように隅から隅まで眺めていた。

「綺麗ですねー!」

「でしょ。ここは景色が良くて有名な場所でね。この時期でも、凄く綺麗なところだよ」

「本当ですね!」

 二人からかなり遠くのほうでは、たくさんの海鳥が海中の小魚を狙っているのか、群れを成して海の上を飛んでいるのも見て分かった。

また、海上では二人がいる所より風が強いためか、大きい波が途切れる事無く巻き起こっていたため、その波を乗ろうとたくさんのサーファーが、冬のサーフィンを楽しんでいた。

その光景も、佐代子には珍しいものだったので、泰昭に質問攻めを試みていたのは言うまでも無かった。

 さらに、海から砂浜の方に目を向けてみると、厚めの防寒着で身を包んだ夫婦が、小さな犬と一緒に散歩している姿も見られた。

遠くのほうでも、同じように砂浜で散歩している人が多く見られることから、近くに住んでいる人たちの絶好の散歩道なのだろうと、すぐに理解することが出来た。

 砂浜の上でじっと佇んで景色を眺めていた二人は、時折強く吹く冬の風に少し身を震わせながら、散歩している人たちと同じように、砂浜をゆっくりと歩き始めた。

延々と続く砂浜と、青々と広がる海。

時折姿を見せる木々や遠くに見える山の姿など、歩くたびに刻々と姿を変えていく景色に、右や左へと目を奪われながら、二人はのんびりと会話を楽しみながら、散歩を続けていった。

「でね………、この後にさ」

「何があったんですか?」

「実はね………」

「本当ですか!?」

 他愛ない会話をしながら散歩を続けていくと、少し離れた位置に舗装された小道とその脇に設置されていた、休憩用と思われる木製のベンチを見つけた。

車を降りてから大分歩き通しだったのを思い出した泰昭は、ベンチへと近づいていった。その意図が分かったのか、佐代子も小走りで近づいていき、ベンチにゆっくりと座った。

その姿を見た後に、泰昭もベンチに座って、他愛ない会話を再開した。

 ところどころに、小さな雲が姿を出てきた真っ青な空は、冷たい海風のせいもあってか、日差しがどこと無く冷たく感じていたが、隣に座っている佐代子のおかげか、むしろ暖かく感じていた。

しばらくは雑談を交わしていたが、次第に言葉数が少なくなっていき、最後には目の前に広がる大海原をじっと眺めていた。

海の方から流れる波が砂浜にぶつかる波の色、空から微かに聞こえる海鳥たちの歌声、海風が二人の側を通ったときの風音や、砂浜の側に生えている木々の葉や枝を揺らす音。

広大な景色の他に自然の音色による音楽が合わさり、目だけではなく耳まで使って、二人は自分たちのいる場所を感じていた。

「………………」

「………………」

 言葉を発しないまま、二人はベンチに座っていた。

 時間のことなど一切気にせず、目と耳に流れ込んでくる自然そのものを、あるがままに受け止めていた。

泰昭はこのままの時間が、ずっと続いてくれるような気がしていた。

家からそれほど遠くでもない何気ない場所や、車や電車を使わないといけない遠い場所でも、きっとこんな風に時間を気にせず過ごすのだろうかと考えていた。

そして、自分の側には必ず佐代子の姿がいた。

その姿は季節によって様々な服装に変わっていたが、いつも自分の側に立っていて微笑みながら一緒に歩いていた。

『これって………、やっぱり………』

 そんな考えを頭の中で巡らせているうちに、泰昭が佐代子のことが好きだという気持ちが、嘘偽りのない本心であるということを確信していた。

それと同時に、彼女を戻らせたくないという我侭な気持ちも、小さいながらも泰昭の心の奥底に生まれていた。

この前の博物館で見た展示物で、元の時代に帰れるという事も根拠がないながらも『帰れる』と確信していた。

『このことを佐代子さんに話したら、やっぱり帰るって言うよな………。絶対に………』

 彼女を帰らせてあげたい。

だが、自分の心の奥底では帰らせたくない。

 まったく違う二つの考えが、泰昭の心の中でシーソーのように揺れ動いていたが、唐突に頭を巡らせている時間を止められてしまった。

「泰昭さん。やっぱり、私に何か隠している事がありますね?」

「え!?」

 とっさに声がした隣を振り向くと、少し顔を膨らませていた佐代子が、ジッとこっちを睨んでいた。

 一言も交えずに周りの景色と一緒になっていて、さらには自分の考えを巡らせることに集中していた為、急に声をかけられたことに大変驚いていた。

けれども、泰昭にとってはそれ以上に、佐代子の発した言葉の意味のほうに、驚きを隠せないでいた。

「な、何のことかな………」

「とぼけたって駄目です。車の中でもうまく誤魔化したつもりかもしれませんが、私は騙されませんからね?」

「いや、本当に何のことか………」

「誤魔化さないでください! 隠してあること全て、私に教えてください!」

 さらにきつく睨む目に圧倒されながら、泰昭は答えるか答えないかどうするかを、必死になって考えていたが、これ以上隠すにしてもいずれはばれてしまうと思い至り、深く息を吐き出すと座っていたベンチからすっと立ち上がり、目の前に広がる海をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「まぁ………、こういうのは長引かせるよりも、早めに話したほうがいいか」

「………、え?」

 そう呟くように言葉を吐いた泰昭は、心臓の鼓動がさっきまでよりも早く脈打っているのを感じながら、本題を口に出した。

「実は、少し前に大賀崎さん………、佐代子さんが倒れていたあのお屋敷から電話があってね。シャンデリアの件での連絡だった………」

「シャンデリ………、ア………って。まさか、この前の博物館の………っ!」

「うん、あれとは姿形は別物だけど、多分同じ力を持つ物だと思う」

「確か、時の力を操るとかって書いてありましたが………」

「あれを見た人は、多分眉唾だと思うだろうけど、僕は真実だと思うよ」

 泰昭があの時の展示物が真実だと断言した時、佐代子の目は今まで見たことがないほどに輝きだし、すっくと立ち上がると、掴みかかるかのような勢いで泰昭に近づいて、興奮気味に口を開いた。

「もしかして! 時が操れるっていうことは、私は元の時代に戻れるかもしれないのでは!?」

「いや………。それは確証が無いからわからないけど、可能性はあると思う………」

「じゃぁ………っ」

 そう言って再びベンチに座った佐代子は、口を開かずに小さく体を震わせていた。

その姿を見ていた泰昭は、声を発しない彼女の気持ちを、読み取ることができた。


『やっぱり、元の時代に帰れることが嬉しいのか………』


 その気持ちを察した泰昭は、自分の中に秘めていた気持ちをぐっと押さえつけるのに全力を注いだ。

少しでもその気持ちを表に出したのなら、きっと自分でもどうなるかわからないほどに、暴走するかもしれないからだった。

 泰昭の必死の抵抗を試みている頃、佐代子はようやく落ち着いたのか、ゆっくりとベンチを立ち上がって、目の前に広がる青い海を見つめて、ゆっくりと微笑んだ。

「それで、そのシャンデリアの件で、あちらは何と言っていましたか?」

 急に会話を振られた泰昭は、一瞬豆鉄砲を食らったような呆け顔になったが、すぐにいつもと変わらない顔つきに戻り、動揺したことを悟られないよう気をつけながら、言葉を続けた。

「えっと………。あっちはいつでもいいって話だから、明後日に向かうって返事をしておいたよ」

「明後日ってことは、お屋敷に向かうのは明日ですか………」

「うん。この時代の自然の景色を、最後に佐代子さんに見てほしくって、向こうにわがままを言っちゃったんだ」

「ふふっ、そうですか。何から何までありがとうございます」

 静かに笑った佐代子は、泰昭に向けていた顔を海の方に向けて、じっと遠くを見つめながら静かに呟いていた。

「そうなると、この時代の景色を見るのも、今日で最後になるんですね………。少し寂しいです」

「どうだった? 未来の世界の様々なものを、その目で見てきた感想は」

「そうですね………。やっぱり全てが見た事無いものばかりで、次は何を見せてくれるのかすごく楽しみでした。きっと、泰昭さんが見せてくれたものが全てではなくて、まだまだ見られなかったものがたくさんあると思うと、正直な話ですが元の時代に戻るのを躊躇ってしまいそうです」

「躊躇う………、か………」

「えぇ。できれば、もっともっとたくさんのことを見聞したいですよ。それに………」

「それに?」

「………、何でもないです!」

 質問の返答に言葉を濁した佐代子に対して、泰昭は自分の気持ちを抑えつけているのに、限界を感じていた。

これ以上抑えつけていても、いずれは爆発してしまって自分が自分ではいられなくなると、本能的に感じ取った。

その瞬間に、泰昭の口からある質問が飛び出していた。それは、自分の意思とはまったく別で、どうして出てしまったのか分からなかったが、それを途中で止めようとはせずに、流れに身をゆだねるようにその言葉を全部出していた。

「佐代子さん、この時代が気に入っていますか?」

「え………、それはもちろんですよ! 今話した通りです!」

 予想した通りの返答で、少し安堵の表情を得ることが出来た泰昭は、本題である言葉を佐代子に投げかけていた。


「なら、元の時代に戻るのと、戻らずにこの時代を生きていく。この二つの選択肢があるとしたら、どちらを選びますか?」


「え………」

 一瞬、この質問の意味がよく分からなかったのか、困惑した顔でちょっとの間悩んでいたが、すぐにその顔が、満面の笑みに変えて泰昭のほうへと向くと、はっきりとした声で質問の答えを返していた。


「私は、元の時代に戻ります。確かにここは素晴らしいものがまだまだあると思いますが、私はこの時代の人間ではありません。それだけで、十分な答えだと思います」


「そっか………。うん、それならいいさ」

 屈託のない、真っ直ぐな彼女の笑顔を向けられて、泰昭は抑えつけていたものがゆっくりと溶けていくのを、しっかりと感じ取っていた。

そして、すっきりとした気分になった時、彼の顔にも真っ直ぐな笑顔が出来上がっていた。

「大丈夫、元の時代に帰れるよ。電気技師の僕が言うんだから、絶対だ!」

「ありがとうございます!」

 さっきまで青かった空が次第に赤く染まっていき、海のほうから吹いてくる風の冷たさもそれに合わせるように、徐々に増していった。

夜に近づいてく気配を感じた二人は、休憩していたベンチから離れると、元来た道を辿るように進みだした。

風が強くなってきたせいか、波も大きくなっていて、砂浜一帯に流れる波音も大きくなっていた。

波音を聞きながら、二人はまた色々な雑談を交わしながら、赤く染まりつつある砂浜を踏みしめながら、駐車場を目指して歩いていた。

さっきまでの神妙な空気から一転、この場所に来たばかりの空気に戻っていて、たくさんの他愛ない話を繰り広げていた。

 そんな和やかな空気の中、泰昭の心の中は新たなもやもやしたものが生まれているのを、しっかりと自覚していた。

ただし、それは佐代子の前では打ち明けることはしなかった。

それ以前に、打ち明けると佐代子の決心をまた揺らがせてしまうかもと、泰昭なりに心配をしたからだった。

「あー、また考え事していますね? 今度はどんな悩みですか?」

「いや、何も? 今日の晩御飯は何かなって、何となく思っただけですよー」

「嘘ですねー、目が泳いでいますよ?」

「キノセイデス」

「白状しなさーい!!」

「嫌でーす」

 いつの間にか、どこにでもいるカップル二人組のような感覚で、お互いふざけあっていた。

いろいろと悩んで難しい顔をしているよりも、何も考えず小夜子との会話を楽しみながら過ごすほうが、ずっとマシだと思い直した。

一分一秒でも長く、彼女と一緒にいる時間を作るほうが、今はとても大事である。

それだけで十分だった。

 そう思い返しながら、車についた二人はそのまま帰宅の途に着いていた。

空は赤から星が煌めく黒へと変わっていき、走っている車の中から見る高速道路の光景は、対向車線から来る車のヘッドライトや道路側に設置されている照明灯と相まって、何度か見た光景が不思議と幻想的に見えたような気がした。

 車内は行きの時とは打って変わって、砂浜と変わらないほどの会話を続けていた。

いつもと変わらない内容の雑談ではあったが、いつにも増して話に引き込まれるように感じられた。

佐代子も、これから先のことに気づいているのか、話を途切れさせないように今まで見たことや体験したこと等を、全部報告する感じで話していた。

それは、泰昭が一緒にいた時にあったことや、いなかった時にあったことなど、これまでに彼女自身の身の回りに起こったことの全てだった。

 泰昭も、一緒にいなかった時のことを、事細かに説明しながら全てを話した。

その話を聞きながら、佐代子は目をきらめかせながら、たくさんの質問を楽しそうに繰り出してきた。

あまりの量の質問に、少々戸惑った表情を出しながら、できる限り丁寧に一つずつ答えていく泰昭は、いかにこの時間が暖かく楽しい時間なのかを、改めて分かった気がした。

 たくさんの思いを巡らせながら、二人の車は家へと向かっていく。

残されている僅かな時間を、一秒でも長くかみ締めながら………



「それでは、行ってきます」

「えぇ、気をつけてね」

 二人で海を見た日からの翌日、いつものように佐代子は佳子に挨拶の言葉を言った。

佳子もいつもようにその挨拶を返していた。

そして、玄関で立っている佐代子の手には、大きな紙袋があった。

紙袋の口の隙間から、最初に着ていた豪華な赤ドレスの姿が見えていた。

 そのドレスが目に入ったのか、佳子はいつの間にか物悲しい表情で佐代子を見ていると、その視線に気づいたのか佐代子はにっこりと微笑んだ。

「これでお別れですけども、これまでお世話になったことは、絶対に忘れません。ありがとうございました」

「もし、貴方がいた元の時代に戻ることができたのなら、この時代で体験した全ての事を忘れないでね。きっと佐代子ちゃんの生きていく上で、何かしらの糧になるはずだからね」

「はい。最後までご心配おかけしてすいません………」

「いいのよ、気にしないで。それじゃ、元気でね」

「………、はいっ!」

 ハキハキとした声で玄関から出ていく佐代子を静かに見送りながら、悲しい顔色だった佳子は柔らかい微笑みに変えて誰もいなくなった玄関の先を、じっと見守っていた。

 そして、家の門から出て目の前には作業着姿の泰昭が、今まで一緒に乗っていた軽自動車と一緒に待っていた。

「お待たせしました!」

「いや、さっき来たばかりだから大丈夫。最後の挨拶は、もう終わった?」

「えぇ、しっかりと………」

「もう、思い残すことは無いのかな………?」

「………、はい」

「よし、それじゃあ運命の場所へと行こうか。大賀崎邸に!」

「お願いします!」

 そう佐代子が意気込むと、車の助手席へと乗り慣れているようにすっと乗り込んだ。

その姿を見届けた泰昭も、いつも出かける感覚で車に乗りこみ、エンジンをかけて車を走らせた。

今日が最後ということは、二人は声を出さずともしっかりと理解していたが、一緒に過ごしてきた時間も長かったのか、これで別れとなることのほうが不思議で仕方がなかった。

それでも、二人を乗せた車は雑談の交えた空気と一緒に、目的地に向けて走り出していた。

 車に取り付けたカーナビゲーションの案内に従いながら、高速道路や街中の大道路を走り続けていき、一時間ほど経った頃には、目的地である大賀崎邸の近くにあるコインパーキングへとたどり着いた。

「さて、着いたっと………」

「えぇ、着きましたね」

 二人は車の側で、少し離れた位置に堂々と建てられている大賀崎邸を、じっと見つめていた。

泰昭にとっては、全ての発端の場所とも言える建物で、初めてここに訪れた時はその立派な佇まいに、始終圧倒されっぱなしだった。

しかし、今回は状況が違っていた。

器具の修理も含まれているが、本題は佐代子を元の時代に戻すことである。

一人の人間の行く末が決まるかもしれないと意識するだけで、あれだけ大きく見えた大賀崎邸が幾分抑え目に見えるような気がした。

「佐代子さん、いいんだね?」

「えぇ………、覚悟はもう出来ています」

「それじゃ、どうやって佐代子さんをあのお屋敷に入らせるかだな………」

「訳を話して入らせてもらうって言うのは、やっぱり無理なのでしょうか?」

「あのシャンデリアが、大賀崎さんに絡んでいるかどうかわからないから、真正面から行くよりかはグルっと回ったほうがいいのかもしれない」

「急がば回れ、ですね?」

「そういうこと。と、言っても方法は一つだけしかないけども………」

「その方法って?」

「いや、特に難しいものでもないけどさ………」


リンゴーン………


 少し重々しく感じるベルの音が、門の外でも聞こえるくらいに響いた後、少し間をおいてインターホンから妙齢と思われる女性の声が聞こえてきた。

『はい………』

「すいません。この前照明の修理でお伺いしました、広瀬と申しますが」

『はい、お待ちしておりました。今回は、以前お約束していただいた照明の修理でございますね?』

「えぇ、そうです」

『分かりました。今、門を開けますので、しばらくお待ちください………』

 その後、インターホンからの声が聞こえなくなり、作業着姿の泰昭は手に持った工具袋を軽く振り回しながら、以前入った通用門が開くのを待った。

その間、一人で大賀崎邸から少し離れた小さな公園で、自分のことを待っている佐代子のことが心配だった。


『公園って………。あの時にあそこで待っていてくれって言っていた、あの小さな公園ですか?』

『そう、隙を見て勝手口から入るしか、方法が無いと思うんだよね』

『あの大きな壁を私自身の力でよじ登るのは、どう考えても無理ですしね……』

『まぁ、道具を忘れたから取りに戻りますとか何とか、それらしいことを言えば問題無いと思うし』

『大丈夫なのでしょうか………』

『何もしないよりかは、ずっといいと思う。それじゃ、この作戦でいくけどいいね?』

『分かりました、泰昭さんに全てお任せします』

『よし、んじゃ行こう!』


 その後に、目的地である小さな公園で佐代子と別れると、堂々とした雰囲気溢れる正面玄関の門へと向かって、今に至っている。

『この時間だと、あの公園使っている人は少ないと思うから、怪しまれないと思うけど………』

 そう思いながら、ポケットから携帯電話を取り出して、時計機能のデジタル表示を確認した。

時間にして十一時を少し回ったくらいで、まだ朝の寒さが微かに残っているくらいの寒さだった。

そのまま携帯電話を閉じてポケットに入れた後、インターホン前で空を見上げながら通用門が開くのをじっと待っていた。

「………。まだみたいだなぁ」

 もう一度、ポケットから携帯を取り出して時間を確認してみると、あれから十五分ほど経過しているのが分かった。

最初に来たときも、同じような台詞がインターホンから聞こえたが、三分とかからずに通用門から誰かが来たのを泰昭は覚えていた。

それなのに今回はここまで時間が経っても、一人として姿を現さずインターホンからも声は出てこなかった。

そんな妙な状況であっても、泰昭は空をぼうっと見つめながら、さっきまでと変わらない状態で待ち続けていた。

しかし、ここまで経っても何の動きが無いことには、少し不安になっているのは紛れもない事実であった。

『もう十分くらい経っても何も無かったら、もう一回インターホン鳴らしてみようかな………』

 そう思いながら、携帯の時計を確認しようとポケットに手を突っ込んだとき、通用門の隣の一際大きい正面玄関の門が、ゆっくりと静かに開き始めていた。

一瞬、何事かと思った泰昭だったが、誰かが車に乗ってお屋敷から出るのかと考えて、邪魔にならないように通用門の端のほうまで移動して目立たないようにしていた。

 しかし、一向に車が出てくる気配が無く、流石に怪しく思った泰昭はゆっくりと近づいていって、門の向こう側がどうなっているのか確かめようとした。

そして、中を覗こうとした瞬間に、彼の目の前を塞ぐように、誰かが立っていた。

「ひゃあっ!」

 泰昭は、音もなく自分の前に立っていたものに声を上げて驚いてしまい、そのまま尻餅をついてしまうという失態を晒してしまった。

一瞬、何があったのか分からないという様子の彼の頭の上から、冷静な声が聞こえてきた。

「広瀬泰昭様ですね、大変お待たせしました」

「は………、はい?」

「屋敷にご案内いたします。こちらへどうぞ………」

「はぁ………」

 彼の目の前に立っていたのは、どうやら大賀崎邸で働いている、執事のような姿をした男性だった。

 少し恥ずかしかったのか、顔を赤くしながらその場に立った泰昭は、顔を少し赤らめながらゆっくりと立ち上がった。

作業着についた、泥汚れや埃を叩き落とした後、執事の後をついていくように歩き始めると、改めて大きく開かれた正門の向こうの光景を目の当たりにした。そこには彼が今までの人生の中で、まず目にすることは無いはずの光景が、目一杯に広がっていたのだった。

「………。え?」

 かろうじて、小さい声を出すのが精一杯だった。

そして、何度も目頭を念入りにマッサージしてから、もう一度目の前の光景を再確認した。

 泰昭の目の前には、大きく開いた正門を同じくらいの幅がある車道が、奥に見える大賀崎邸から真っ直ぐに続いていた。

しかし、これくらいのことは本やテレビなどで、良く似たような光景を見たことがあった為、何となく想像することが出来た。

だが、その想像を大きく覆すものが、大きな車道の両端にあったのだった。


 どこから集まったのか分からないが、たくさんの人達が幅の広い車道に沿うように整列しており、皆が泰昭に向かってお辞儀をしたまま立っていた。


 唖然としながら整列した人たちの服装などを見てみると、初めに見たメイド装束の女性や、泰昭を案内している執事と同じ衣装を着ている男性。

更には庭師のような姿をしたおじいさんや、白い料理服を身に包んだ恰幅のいい男性まで、もしかしたらこのお屋敷で働いている全ての人間が、ここに集まっているのではと錯覚してしまう光景であった。

「あの………」

「なんでございましょう?」

 いつまでもお辞儀を維持し続けている人たちを横目でチラ見しながら、泰昭の歩く速度に合わせて前を歩いていく執事姿の男性に、おずおずと声をかけた。

声をかけられた執事はクルっと回り、対面するように向かいあうと、まるで何事も無かったかのような感じで口を開いた。

「この車道の脇で並ばれている人たちって、一体何のために並んでいるんでしょうか………?」

「彼らは全員、泰昭様をお出迎えするために並んでおります」

「は………?」

「彼らは全員、泰昭様をお出迎えするために並んでおります」

「え、それってどういう………」

「ですから。彼らは全員、泰昭様をお出迎えするために………」

「いえ、もういいです。分かりました。ありがとうございます。理解しました」

「はい。では、こちらへどうぞ」

 少し濁らせたような返答に軽くもやっとした泰昭は、あまり納得してないと誰が見ても分かる表情で、執事の後を素直についていくと、前を歩いていた執事はそれを察したかのように、お屋敷の方に先導しつつもはっきりとし口調で丁寧に話を始めた。

「今はまだ、はっきりとしたことは話せませんが………」

「え………」

「主人がこのことに関して、包み隠さず全てを話してくれます。それまでお待ちいただけますか?」

「全て………、ですか?」

「はい、泰昭様が考えていること全てです」

「それは、もしかして………」

「それも含めて、『全て』です」

 淀み無くスラスラと答える執事に、泰昭は自分の心の奥底にあったもやもやは、少し晴れたようだった。

しかし、先ほどの執事からの言葉を聞くと、まだまだ知らないことが数多くあるということがわかった。

それを知ることに、抵抗感が無かったと言えば嘘になるが、知らなければならないと言う使命感があった。

「全て………、か」

 誰にも気づかれないほどの小さい声で、自分の決意を固めた泰昭は、前を先導している執事の後に続くように力強く歩き出した。

けれども、自分のためにお辞儀をし続ける館の人たちに、少々ビクついたままだったのは、邸宅にたどり着くまで変わらなかった。


「では、こちらでお待ちください。直ぐに、お茶をお持ちします」

「ど、どうも………」

 バタンと部屋の扉が閉まると、広々とした部屋に静寂の時間が流れた。

ここに通された泰昭は、屋敷の中に入るのは二度目になるのだが、やはり慣れるにはまだまだ時間が必要だと改めて思い知らされた。

普通に暮らしているのなら、まずはその目で見ることはないほどの豪華な部屋。

ただ、その内装がこの前に訪れた時よりも、更に立派で風格のある物が置いてあった。

こういったものが分かる人にとっては、まさに桃源郷と言っても遜色ないものが、この部屋一杯に置かれていた。

「この前待たされた部屋より、数十倍は豪華かも………」

 そういって、床一杯に敷かれている豪華な絨毯に目を落とした。

絨毯自体に使われている羽毛も、見ただけで上等なものと分かるし、さらに金糸をふんだんに使って大きく描かれた刺繍の虎は、細部までしっかりと表現されていて、今にも飛び掛ってきそうなほどの迫力があった。

 そして、下に向けていた視線をゆっくりと上げて、今度は右側に視線を動かすと、泰昭の身長を少し超えるくらいの大きさの彫刻像が置かれていた。

どうやらどこかの女性像であった。

この彫刻像は、本などで見る細部までしっかりと彫られている滑らかな彫刻とは違い、全てが荒々しく造形されていて、人間特有の曲線の美というよりは躍動感を表す為の手法だと、泰昭の素人目でも分かるほどすばらしい彫刻だった。

 他にも、どこかの田園風景を描いた大きな絵画。透き通るように蒼く大きい花瓶。長い時間を立っても樹木の優雅さと重厚さをしっかりと残しているアンティーク品。

更には窓を際立たせる為に、ひっそりとかけられているレースのカーテンも、布地や刺繍がすばらしいものだと遠めから見てもよく分かった。

「………。佐代子さんには悪いけど、今すぐにこの部屋から逃げ出したくなるな………」

 ある意味、国立美術館の展示ケースの中に放り込まれて、数々の歴史的価値のある作品に囲まれながら、普通の生活をしていると言えそうな状況だった。

気持ちが飲まれないように、必死で頭を回転させていると、扉からコンコンとノックの音が軽やかに響いた。

 必死に頭を回転させていた泰昭は、ノックの音が鳴り終わったのと同時に、扉のある方向へと視線を向けると、小さなカートを隣に置いたメイドの女性が、失礼しますと一言添えて扉を開けて、静かに部屋へと入ってきた。

 カートの上には、豪華な装飾が施されているティーセットとポット、角砂糖がたくさん入っている小皿、レモンの薄切りが数枚載せられている小皿、クッキーや小さなカップケーキが綺麗に載せられている銀のトレー、彩を添える為に、今の季節に咲く花を数本挿された小さな花瓶。

 泰昭の目の前に置かれている、高級そうなテーブルの側までカートを押してくると、あらかじめ場所が決められているといった具合に、手際よくお茶の準備を始めていた。

 カップに注がれるお茶は静かにカップに注がれていき、並々と注がれたお茶の水面にはやや不安な面持ちをしている泰昭の顔が写っていた。

「どうぞ、お召し上がりください」

「すいません、頂きます………」

 執事の男性に勧められてオズオズとカップを手に取り、自分の気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと琥珀色の液体を喉に流し込んだ。

鼻の奥まで届く芳醇な香りは、今まで飲んでいたものとは一味も二味も違うとわかるほどの物だった。

「美味しい………」

「お気に召しましたか?」

「えぇ。張り詰めていた気持ちが、緩んでいくように感じます」

「最高級のダージリンに香りづけのハーブが、とても良い塩梅となったようですね。この屋敷に入られてから、妙に気を張り詰められたように見受けられましたので………」

「あー、これはその………」

「いえ、お気になさらず。この屋敷の雰囲気に飲まれて、緊張なさる方は少なくございませんので」

 いつも見慣れていますと言ったような平然とした顔で、陶器のポットにお茶の葉を入れて、鉄製のポットに入ったお湯を注いでいた。

新しいお茶を入れる動作も手馴れた様子で、一切の無駄も無い優雅と言えるほどの華麗さだった。

『これだけの豪邸だしな。無理もないよねぇ………』

 カップに残っているお茶をぐっと一気に飲んで、ふぅっと息を吐いてカップを小皿に置くと、それを待っていたかのように執事の男性は、じっくりとお茶の葉を蒸らしていた陶器のポットを傾かせて、再び熱々のお茶をカップに注ぎ込んだ。

「すいません、頂きます」

「どうぞ、ご遠慮なく」

 そう言ってお茶を注がれたカップを手に取って、一杯目と同じようにゆっくりとお茶を喉に流し込んだ。

再び美味しいお茶の味を堪能していると、執事の男性は何も言わずにもう一つのティーセットを用意して、もう一度陶器のポットにお湯を注いでいた。

 既にお茶のおかわりをもらった泰昭は、並々と残っているお茶を飲みつつも、その行為に少なからず疑問を感じてしまい、持っていたカップを置いて質問を試みていた。

「もう一つのお茶を用意していますけど、誰か来るんでしょうか?」

「えぇ、もう間も無くかと………」

 先ほどと変わらぬ平然とした様子で、黙々とお茶の準備をこなす執事の男性に、泰昭は誰が来るのか皆目見当がつかなかった。

ただ、それも美味しいお茶を飲んだ時には、その些細な疑問も美味しさの余韻と共に消え去っていた。

 そして、二杯目のお茶が飲み終わって、もう一杯おかわりを頼もうとした時、扉の方からコンコンと叩く音が響いた。

「ん………?」

「おや、ちょうどお着きになったようですな」

 そう言うと、スタスタと扉の方へと進んで行き、執事の男性はゆっくりと扉を開けた。

 そして、開かれた扉の向こう側には、予想しない人物が立っていた。

「え………、何で?」

「泰昭………、さん」


 そこには佐代子が立っていた。


その姿は、さっき別れた時のラフな姿ではなく、この屋敷で始めた会った時と変わらない、あの時代を感じる赤いドレスを着た姿だった。


「あれ………、あの公園で待っているはず………。何でここに?」

「あなたと別れてから、身を隠す場所を探しているときに、後ろから急に声をかけられて振り向いたら………」

「振り向いたら………?」

「あの人が………」

 そこで言葉を切ると、佐代子が開かれた扉のほうへと振り向いた。

 それと同時に、扉の向こう側に誰かが立っているのを泰昭が気づいた。

ただ、佐代子の真後ろだった為、ソファーから立ち上がって、その姿を自分の目で確かめた。

「お久しぶりですね、泰昭さん」

「!」

 その声を耳で判断したときに、泰昭の頭の中にはその人物を見るよりも先に、明確な人物像を描くことが出来た。

そして、その思い描いた通りの人物が、扉の向こう側で立っていた。

「水幸さん………」

「あの日以来ですね、お元気でしたか?」

 そう言って正装の長いスカートを揺らしながら、ゆっくりと佐代子の側まで歩いてくると、真っ直ぐな視線を泰昭に向けてニッコリと微笑んだ。

「あれから大分時間が経ちましたが、お仕事の方はどうでしょうか? 良い就職先が見つかりましたか?」

「えぇ、色々と苦戦してはいますが、地道に探しています………。って?」

 ここで、泰昭の頭に一つの疑問が生まれた。

 以前、ここを訪れたとき、自分が無職であると言った覚えはなかったはず。

なのに、何で自分自身が職探しで苦労していることを、目の前にいる妙齢の女性が知っているのか。

「何で自分が無職であることを知っているのか、そんなことを考えていますね?」

「え………、はい………」

 その疑問を声にして出そうとする前に、水幸は依然としてニッコリと微笑を崩さないままで、泰昭の疑問の理由を説明しようと、静かに口を開いた。

「その理由を、一言で説明することができますが………。多分、すぐには理解できないと思いますよ?」

「と、言うと………。探偵を雇ったとか、そんな単純なものでは無いと?」

「えぇ、それよりももっと単純で。けれども、すぐには理解できない理由が………」

 そう言い終えた水幸は、少し間を取ってから先ほどと同じようにゆっくりと、そしてはっきりと泰昭の疑問の答えを解き明かした。


「このお屋敷の主は、未来を見ることが可能なのです」


 色々考えていた泰昭の頭は、その一言で全ての思考を完全に停止してしまった。

 何を言っているのか、この人は自分のことを馬鹿にしているのか。

 それとも、あえて言い方を変えて、本来の意味を隠しているのか。

 思考が止まった頭では、これ以上が精一杯で無理に働かそうとすると、底無しの沼に沈んでいくかのように真実から遠ざかっていく気がした。

 結局は、もう何もまとまらないと判断した泰昭は、素直にその意味を水幸に聞いてみることにした。

「あの、それってどういう意味ですか………? まったくもって、意味が分からないのですが………」

「あら、貴方はある確証を持ってこちらに伺ったのでは?」

「あ………」

「つまりは、そういうことになるのですよ」

 全てを理解しているといった冷静な視線をこちらに向けて、笑みを崩さずにはっきりと答える水幸に、泰昭は自ら導き出した推論が、本当に正しいものだと直感で理解した。

 ただ、あまりにも現実離れしたもので、ファンタジー小説などで言う、『魔術』そのものと言ったほうがいいものだった。

 このことを普通の人に話をすれば、まず信じてはくれないだろう。

しかし、目の前のメイド装束を着ている妙齢の女性は、遠慮なくそのことを肯定した。

 それは、常日頃から『魔術』という世界に身を置いているかしていないと、あんな言葉はまず出てこない。

 水幸から出た言葉の重みを、ソファーに座りながらじっくりと感じ取っている泰昭は、視線を佐代子のほうへと向き直した。

 佐代子は、まだ現状を把握していないらしく、視線を右や左へと頼りなさそうに彷徨わせていた。

「………………」 

『まぁ、いきなりあんな会話を聞かされて、すぐに理解できるなんてことは無理だよな。僕でさえ、信じられるかどうかも怪しいし』

 不安そうに、首と身に着けている赤いドレスを左右に揺らしていると、いつの間にか水幸がすぐ側にまで近づいていたことに気づき、少し身を縮みこませながら一歩後ろに引いた。

「あの………、なんでしょうか………?」

「………………」

 じっと見つめる水幸に、ただならぬ雰囲気を感じた佐代子は、やや怯えた口調で話しかけた。

 しかし、水幸は何も答えずに、じっと見つめるだけだった。

 ただ何も語らず、じっと佐代子を見つめているだけの水幸のことを、怯えた目で見つめるだけだった。

「………………」

「………………」

 見つめる水幸に、その姿に怯える佐代子。

 何のために見つめているのかわからず、ただ時間が過ぎ去っていくだけだった。

 泰昭は、何時までも変わらない状況にどうしていいか分からず、目の前にあるお茶が残っているカップを手にしたとき、ガチャッと小さく音が響いた。

 部屋にいた全員が、音のしたほうに視線を向けると、そこにはゆっくりと開いていく扉とその後ろでじっと佇んでいる、若いメイドの女性の姿を確認できた。

 そして、扉が完全に開ききったのと同時に、その女性は深々とお辞儀をした後、はっきりとした声で用件を述べた。

「水幸様、全ての準備が整いました。いつでも始められます」

「分かりました。もうしばらくしたらそちらに向かうと、皆に伝えてください」

「かしこまりました」

 短く返事をすると、女性は初めと同じようにお辞儀をして、静かに扉を閉めていった。

 水幸は、女性に向けていた視線を、佐代子から泰昭へと動かしながら諭すような口調で、ゆっくりと話し始めた。

「お話の通りです。いつでも始められますので、心の整理がつきましたらご案内いたします」

 その一言に、泰昭は全ての答えがそこにあるものと確信した。

 そこには、今まで自分が体験した以上のものが待っているということも、容易に想像できた。

 カップに残っているお茶を勢いよく喉に流し込み、気合を入れて立ち上がろうとしたとき、泰昭は自身の体の異変に気づいてしまった。

「………っ!」

 足が小刻みに震えていて、しっかりと立ち上がるには大変難しい状態だと、泰昭はすぐさま理解することが出来た。

 固まった決心が揺らがないように、無理やりにでも立ち上がろうかと思い、両手を自分のひざに置こうと体勢を変えたとき、ある光景が泰昭の目に飛び込んだ。

「………………」

 何の言葉を発していない佐代子が、泰昭と同じように小刻みに震えながら座り続けていた。

 その顔色は、誰が見ても分かるくらいに白く映っていた。

 何かの本で見た、外国の人形のように何も動かず喋らない彼女の姿を、二つの目でしっかりと認識した泰昭は、立ち上がろうとして宙に浮いていた自身の腰を、先ほどまで座っていた位置に戻した。

 そして、元の位置に座り直した後に、目の前に置いてあるカップを手に取り、申し訳なさそうに口を開いた。

「すいません、やっぱりお茶をもう一杯ください。後、佐代子さんにも………」

 その言葉に気づいた佐代子は、慌てた様に自分のお茶を頼んだ泰昭のほうを向いたが、その穏やかな表情を見て、直に彼の心遣いを察することが出来た。

 彼の優しさ、自分の心の現状を理解できた佐代子は、さっきまで嵐の中の大海原のように大荒れだった頭の中が、一変して時折小波が立つくらいに落ち着いている海原のようになっていた。

 二回三回と軽く息を吐いて、心身ともにいつもの自分を取り戻した佐代子は、着ているドレスを何度か軽く払った後、すっと執事のほうへと視線を向けて、しっかりとした声を出した。

「すいません、少し緊張してしまって………。お願いします」

 さっきまでの緊張と戸惑いに支配されていた姿とはまったく違う姿に、泰昭はほっとしたように息を吐き、水幸もすっと目を細めながら微笑んでいた。

 執事も一言返事をした後に、慣れた手つきで二つのカップに温かいお茶を丁寧に注いで、二人の前にそっと置いてくれた。

 二人はありがとうとお礼を言うと、入れたてのお茶をゆっくりと飲んだ。

 入れてもらったお茶の風味と香り、そして温かさが二人を包み込んでいき、さらにリラックスした状態へと至った。

 今の状態だったら、目の前で非現実的な光景が現れたとしても、一切動じることなく全てを受け入れられると、そんな自信が生まれていた。

 カップの中身を空にした泰昭は、ゆっくりとカップを置いて、その思いを視線と一緒に佐代子のほうへと向けると、さっきまで不安に満ちていた姿とはうって変わって、芯が入ったような力強い瞳へと変わっていた。

 その火の入った目を確認した泰昭は、両手を膝の上に乗せて力強くソファーから立ち上がった。

それに続くように佐代子も立ち上がるのを見て、水幸は満足そうに微笑むと部屋の扉の前まで進み、ゆっくりと扉を開けて、片手を扉の向こう側へと指し示した。

 まるで二人を深く暗い城の中へと、手招いているような光景を思い浮かべてしまったが、何度も大丈夫と心の中で鼓舞し続けながら、ほんの数歩の距離を踏みしめるかのように、ゆっくりと進みだした。

 その後、部屋を出て執事、泰昭、佐代子、水幸の順に屋敷の廊下を進んでいった。

 赤い絨毯が敷き詰められた幅の広い廊下を進んでいき、何度か曲って大きい階段を下りていくうちに、ある扉の前で執事が立ち止まった。

 それに続くように、その後をついて行った3人もそこで立ち止まり、執事が立ち止まった扉を見やった。

「ここって………」

「え?」

 泰昭の第一声と同時に、執事がゆっくりと扉を開いていった。

 ゆっくりと開かれていく扉、ゆっくりと姿を見せていく部屋の中。

 そして、天井にはあれがあった。


「シャンデリア………、か」


 一度目は初めて訪れたとき、二度目は博物館ではレプリカで見た、あの巨大なシャンデリアだった。

 だが、三度目に眺めるそれは、何か恐ろしいものを内側に秘めているように感じられ、纏わりつくような寒気に襲われたような気がした。

 しかし、一度覚悟を決めた泰昭は、その纏わりつくものを振り払うように部屋の中へと入っていった。

 開けられた扉を潜り、改めて部屋の中を見回すと、窓を黒いカーテンで日光を完全に遮断され、いくつかの燭台の火で仄かに明るい部屋を見て、初めてこの部屋に訪れたときとは完全に姿が違っているのに泰昭は驚いた。

 最初に驚いたものは、部屋の床に敷いてあった絨毯だった。

初めて訪れたときには、部屋中いっぱいに高級そうな絨毯が敷かれていたのは覚えているが、今見えるものは部屋の中心に大きな魔方陣が描かれていて、その外円にはたくさんの見たこともない模様や、さらに見たことがない文章が絨毯を埋め尽くしていた。

 さらに、部屋の四方の壁の前には、黒いローブで頭から全身を包んだ人間が隙間なく並んでいて、こちらが部屋に入ってからも何も反応をせず、ただじっと自分の前を見つめるかのように佇んでいた。

 そして、初めて訪れたときにはたくさんの家具や調度品が部屋に飾られていたのだが、一人がけの椅子が絨毯に描かれている魔方陣の上に、一つ置かれていただけだった。

 しばらく呆然と部屋の中を静かに見回していると、佐代子も入ってきた部屋の異様な光景に一瞬驚愕したが、すぐに我に返って落ち着かない様子で周囲を見ながら、先に部屋に入った泰昭の元へと歩いてきた。

 そのすぐ後に、水幸が扉を閉めて部屋の中心にいる二人の下へと歩いてきた。

 この部屋で何が起こるのか、そしてどうなるのかと身構えている二人に、柔らかい笑みのままで近づくと小さな子供に語りかけるかのように、優しくゆっくりと話し出した。

「お二人とも、この部屋の中にいる者達は、全員我が家の関係者です。だから、安心してください」

 そっと呟いたかのような一言だったが、その一言で二人の胸のうちに生まれた重りのような不安は、すっと溶けるように消えていくように感じた。

 しかし、この不気味としか言えない部屋の中で、一体何を行うのかが分からないうちは、完全には消えないような気がした。

 そのもやもやとした状況の中、水幸はいつもと変わらないような口調で話を始めた。

 その表情はさっきまでとは違い、優しさが分かる柔らかな表情から鋭い視線を伴った、真剣な表情へと変わっていた。

「これより、儀式を執り行います。内容としましては、お二人に関して言いますと、特に難しいことはありません」

 そう話してから、部屋の中央に置かれている椅子に視線を移して、また同じ口調で話しだした。

「佐代子様は、部屋の中央に置いてある椅子に座ってください。そして、泰昭さんはこの絨毯に描かれている円の内部に入らないよう注意してください。後はこちらで儀式を進めます」

 あまりにも簡潔にこれから起こることを説明されたが、それから先のことはまだ不透明で尚更不安を沸きたてるようなものだった。

 だが、この場に来た時点で、二人の決心は揺らがないものであった。

 その不安を抱きつつも、佐代子は水幸の指示したとおりに部屋の中央に置かれている椅子へと向かい、深く腰掛けた。

 泰昭は、ゆっくりと絨毯に描かれている魔方陣の円より外側へと向かい、円の外からじっと座っている佐代子を心配そうな視線でじっと見ていた。

 その様子を見ていた水幸は、二人の準備画が整ったと見たのか彼女の近くにいた、黒装束に包まれた人物に何かを話していた。

 それを合図に、部屋の壁際で埋め尽くすように並んでいた黒装束の集団は、音もなく歩きだして絨毯の外円を囲むように整列し始めた。

「………………」

「おぉ………」

 何が起きているのか分からない佐代子と、不気味な光景に戸惑いを見せる泰昭をよそに、物の数分で黒装束の集団は魔方陣の外円を二列できっちりと整列し終えていた。

 二列あるうちの一番魔方陣側にいる内円側は、神に祈るかのように両の手をがっしりと掴んでいて、立膝の体勢で椅子に座っている佐代子を見つめるかのように、魔方陣の中央を向いていた。

 また、その後ろのいる外円側も、同じように両の手を掴み直立の体勢で魔方陣の中央を向いていた。

 その光景を邪魔にならないように部屋の端に移動していた泰昭は、その一部始終をただ何もせずにジッと見つめていた。

 その光景は、まさに黒魔術の儀式といった光景で、本の中で見た挿絵を思い出しながらじっと事の成り行きを見守っていた。

 同じように黒集団の外にいた水幸は、儀式の準備が整ったのを確認したのか静かに泰昭へと近づいていき、小さい声ながらも凛とした声で話し出した。

「泰昭さん、お待たせしました。これより儀式を開始します」

「はい………、お願いします」

「これより先は、常人ではまず目にすることは絶対にない、正に神の奇跡とも言える光景。これから起こること一瞬一瞬を、心に留めておいてください」

「………、わかりました」

 その一言を聞いた水幸は、真剣な表情のままうなずいた後に、いつの間にか小脇に抱えていた物体を体の前に持っていき、その物体をサッと開いた。

 薄明かりの中、一瞬何なのかと思ってじっと目を凝らしてみると、それはかなり分厚い本であるとわかった。

 開かれているページも辛うじて見ることが出来たが、日本語でも英語でも無い、まったく見たことの無い文字で書かれてあり、更には見続けていると体の内側を引っ掻き回されたかのような感触を感じた。

 その瞬間に、視線を分厚い本から、自分の足元へと動かした。

 ほんの数秒の出来事のはずなのに、服の内側や額には、べったりと汗が滲み出ていた。

 更には、いつの間にか呼吸を荒げている状態にあり、自分の心臓もそれと同じくらいに激しく鼓動していた。

 静かに深呼吸を繰り返しながら、泰昭は額の汗を袖で拭いつつも、一瞬の出来事で混乱していた頭を落ち着かせていた。

 ゆっくりと正常に判断できるまでに落ち着いたとき、まず頭によぎったことはこれだけだった。


『あれは見てはならない』


 本の内容を少しだけ思い出し、寒気と眩暈に襲われた泰昭は、それを頭の中から無くすかのように脳を何度も振りつつ、現在進行形で進んでいる儀式のほうへと目を向けた。

 依然として先ほどの状態となんら変わらない状況であったが、素人目ながら儀式の周囲の空気が変わっていっているのが良くわかった。

 まるで、真っ白に光っている電球が、少しずつ青い色の光を放つように変わっていく、そんな感じに思えた。

 そして、次第に儀式の周囲の空気が一層変わっていき、更に密度が濃くなったように思えたとき、目の前の儀式の様子が一変した。

 それは、謎の分厚い本を開いていた水幸から発せられる謎の言語が、さっきまで発せられていた低く重い声から、高く響く声へと変わっていった。


『今こそ時の彼方より来たれ! 永劫なる時の流れの奥底に潜みし、我が血族の神なる力よ!』


 この水幸の一言を皮切りに、絨毯の魔方陣が薄っすらと光を帯びていくのが、遠目からでもわかった。

 その次の瞬間には、魔方陣の光が天井に届くほどまで強くなり、それと同時に光の柱に囲まれていたシャンデリアまでもが、強烈な光を放つ状況となっていた。

 今まで、部屋に置いてあるいくつかの燭台からの仄かな光が、儀式が進むにつれて神々しいまでのすさまじい光。

 水幸が部屋に入ったと気になっていた言葉が、泰昭の頭の中を過ぎっていた。


『正に神の奇跡とも言える光景』


 言葉通りの光景を目にした泰昭は、言葉を出すことや思考することを止め、ただ目の前の行く末をじっと見守るだけに徹していた。

 じっと様子を見続ける泰昭の目の前で、儀式は着々と進んでいった。

 神々しく光り続けている絨毯の魔方陣は、依然としてその光を弱めることなく、更に強めるように光り続けていた。

 また、シャンデリアの光も一斉に光っていた状態から、周囲に取り付けられているランプが、順番に点灯を始めていた。

 その点灯もゆっくりと回っていたが、徐々にその速度を上げていき、しばらくすると全てのランプが輝くまでとなっていた。

 そして、魔方陣の周りを囲んでいる黒装束の集団も、何やら呪文のような言葉を呟いていた。

 その呟きから放たれる言語は、今まで聴いたことの無い言語としか分からず、先ほどと変わらずにじっとこの儀式の見守るしか、泰昭にはできなかった。

 じっと儀式のほうに向けていた泰昭の視線ではあったが、黒装束の集団の隙間から、佐代子の姿を捉えることができた。

 今まで儀式の異様な光景と、それに伴う魔方陣とシャンデリアの神がかり的な変化に目を奪われていたが、緊張した面持ちの佐代子を目にした途端に、その視線をそっちに向けた。

 佐代子の様子は、魔方陣の中央の椅子にじっと座っているのが分かったが、その表情は心なしか固まっているように思えた。

『こんな意味不明な儀式の中心にいるのだから、あんな表情も無理はないか………』

 あまりにも常識を逸した儀式を目の前にして、泰昭自身も現状把握させるので精一杯なのに、その中心にいる佐代子の場合は、その儀式を把握するような状況では無かった。

 元の時代に戻れるという不確かな情報を信じてこの儀式に参加して、現状を理解する暇も無いまま、その儀式の中心で、その様子をただ見守るのみ。

 これで理解しようとするのは、大変酷な話とも言える。

 二人が必死で周りの様子を理解しようとしながらも、結局は何も得られないまま、時間は静かに進んでいた。

 ほんの数分か、それとも数時間か。

 もしかしたら、この儀式の影響か何かで、丸一日経っているのかもと思えるほど、長く経ったかと思えた。

 しかし、永遠とも感じられたこの時間が、あっさりと終わりを迎えていた。

 シャンデリアから放っていた強烈な光が落ち着いていき、ゆっくりと瞬くように光り輝いていた。

 それと同じタイミングで、絨毯の魔方陣から放っていた光も強烈なものから、シャンデリアと同じようにゆっくりと瞬くような光を放っていた。

 ただ、その光は絨毯の魔法陣の周りから放たれるものではなく、その中心である佐代子が座っている椅子をすっぽりと囲むように、ぐっと狭まったように光を放っていた。

 唐突に変わっていた儀式に、その中心にいる佐代子と部屋の隅で全体を見ていた泰昭は、一瞬何が起こったのか理解できなかったが、次にどう出るのかをやや心配そうな目で見続けていた。

 光の放ち方が変わって数分後に、呪文を唱え続けていた水幸がその口を閉ざし、魔方陣の周囲を囲っていた黒装束の集団も、後ろに振り返って、各々が部屋の四方の隅へと向かって進みだした。

 その足は思いのほか早く、一分とかからずに全ての黒装束が、一糸乱れずに壁際で整列を済ませていた。

 そして、部屋の中心には、さっきまで読んでいた分厚い本を脇に抱えた水幸、絨毯から察する光の柱に包まれている状況の佐代子、黒装束の集団の突然の移動により、いつの間にか部屋の隅から中心へと進み出ていた泰昭の三人だけとなった。

 やや不安な面持ちで、部屋の中をきょろきょろと見回していると、水幸がこちらに向かって手招きをしているのに気づき、やや足早にそちらへと向かった。

 さっきまで儀式を行っていた辺りまで進み、じっと佇む水幸のすぐ傍まで近づいた。

 魔方陣から放たれる光とシャンデリアからの光で、泰昭に振り向く水幸の顔がはっきりと分かった。

 その顔はじっとりと汗が滲んでいて、こちらを見つめる視線にもやや力が無いようにも見えた。

 少し呼吸を荒げながらも、さっきまでの口調を崩さないように気をつけながら、水幸は口を開いた。

「泰昭さん、お疲れ様です」

「え?」

「この儀式も、まもなく終局を迎えます」

「………、はい」

「次に私が呪文を発したとき、この儀式の魔術的構築が全て組みあがり、時の回廊の扉がこの部屋と繋がります」

「えーっと………、つまり?」

「佐代子さんが、元の時代へと戻る道が出来る。ということですよ」

「あぁ、そう言う事ですか………」

 あまりにも突拍子な表現に面食らいながらも、このまま進めれば佐代子は元の時代へと戻ることが出来ることを理解し、安堵の息を吐いた。

 しかし、その心の奥底では、妙な不快感が残っているのにも気づいていた。

 それに関してよく理解していた泰昭は、それを表に出さないように、ぐっと心の奥底に押しとどめた。

 その事に気づいたかどうか分からなかったが、水幸は一旦言葉を止めて泰昭をじっと見ていたが、すぐさま言葉を続けた。

「どうしますか?」

「どうしますか………。と、言うと?」

 不意の問いかけにまた面食らった泰昭を尻目に、水幸は顔を変えずに再び同じ質問を投げかけた。

「どうしますか?」

「言っていることが………、ちょっと理解できないのですが」

「あら、説明が足らなくて、すいません。このまま、儀式を進めてもよろしいのですか、と伺っているのです」

「すいません、まだどういうことか………」

「時の回廊が繋がり、後は彼女が元いた時代と場所へと、ただ赴くだけ。それはすなわち、この時代との、永遠の別れ。ここまで言えば、どういうことか分かりますよね?」

「………、なるほど」

 永遠の別れ。

 そんな言葉が、泰昭の頭を過ぎっていた。

 これが終われば、二度と会えなくなる。

 それも、後少しすれば、現実となる。

 分かっていたことだったが、分かりたくなかった。

 けれども、そんな自分の我侭が通るわけがないことも、重々理解していた。

 そんな泰昭の心の葛藤を見透かしていたかのように、水幸はまるで小さい子供をからかう様に質問を続けた。

「どうしますか? このまま進めてもいいのか。それとも、最後の挨拶を佐代子さんに………」

「………」

「今日までの約一カ月もの間、あなた方お二人は一緒に行動を共にしていた。そのまま、何もなくお別れと言うのも、とても寂しいものではないのですか?」

「それは確かにそうですが………」

「では、しばし儀式を中断いたします。心残りが無いように、しっかりと最後の挨拶をしてきてください」

 そう泰昭を諭すように話しかけると、分厚い本を脇に抱えたまま、部屋の扉の傍までゆっくりと下がっていった。

 今、魔方陣の傍にいるのは泰昭ただ一人。

 そして、その中心にいる佐代子と二人だけの状態だった。

 部屋の内部をぐるっと覆うようにいる黒装束の集団、その中でじっと見つめている水幸。

 周囲の状況はかなり特殊ではあったが、あまり気にしないようにしながらじっと座っている佐代子のに、静かに声をかけた。

「えーっと………、大丈夫?」

「あ………。えぇ、今のところは」

 昨日まで気楽に会話をしていた時とはうって変わって、まるで始めて会ったかのような、余所余所しい会話になっていた。

 佐代子が元の時代に帰ってしまうという事実、それがこの会話の雰囲気を作っているのだろう。

 薄々心の中で感づいてはいたが、それを表に出したくは無かった。

 これが原因で、何かしらの足枷になるかもしれない。

 彼女には無事に帰ってほしい。

 そう思い、自分の本音を表に出さないようにしていた。

 しかし、それが更に余所余所しくなっているのが、泰昭自身でも手に取るように分かることだった。

「その………、もし向こうに戻っても、元気でね」

「はい」

「あっちこっち行ったけど、そのことは忘れないでね」

「………、はい」

「………………」

「………、あ」

「ん?」

「佳子さんに、本当にありがとうございましたと、伝えてください。何から何までお世話になってしまったので………。本来なら、もっとちゃんとしたお礼をしなければならないのですが」

「いや、大丈夫。ばあちゃんも分かってくれているし、その一言だけで十分だよ。こっちこそ、ありがとう」

「え………?」

「たった一ヶ月ではあったけど、佐代子さんにこの時代のものを、色々と見せることが出来たんだ。いつもはただ通り過ぎていた光景を、改めてじっくりと見直すことが出来た。だから、ありがとうって言ったの」

「そうですか………」

「本音を言うと、佐代子さん以上に楽しんでいたのは、僕のほうかもしれないね」

「それが本当なら、何だか可笑しいですね」

「だね、へへ………」

「ふふふ………」

 それほど離れてない二人の間で交わる、小さな笑い声。

 今までの思い出が、新たに知った些細な真実によって、より鮮明に蘇っていった。

 この部屋で初めて出会ったことや、佳子の家へと送るまでの一部始終、泰昭の車でいろいろと見て回った時間、博物館で見てしまった衝撃の事実、そして海での告白。

 その全てが、二人にとって本当に忘れられない大事な思い出であった。

 その一つ一つを思い出しながら、ゆっくりと会話を続けていた。

 しかし、その思い出を出し尽くしたのか、自然と会話も落ち着いてきてしまった。

 最後には交える言葉は少なくなり、二人して足元を見たり別のほうを見たりと、無駄に時間をもてあそんでいるような状態だった。

 そんな二人を見かねてか、後ろに下がっていた水幸がゆっくりと近づいてきて、二人に助け舟を出した。

「お二人とも、そろそろ時間です」

「あ、はい」

「すいません、お願いします」

「………、本当に儀式を再開しても、よろしいのですね?」

「はい」

「十分です。時間を作っていただいて、ありがとうございます」

 二人の承諾の言葉を聴いて小さくうなずくと、水幸は脇に抱えていた分厚い本を再度開いて、魔法陣の中心にいる佐代子と対峙するように正面に立った。

 泰昭は先ほどと同じように、中央の魔方陣から離れるように、水幸の後ろのほうへと身を引いた。

 そして、絨毯から立ち上る光の柱をじっと見つめるように、部屋の中央へと視線を向けた。

 水幸は、さっきまでと同じように、時折分厚い本に目を移しながら、理解できない言葉で呪文を発していた。

 光の柱の中心にいる佐代子は、椅子に座ったままの状態以外では、特になんら変わった様子は見受けられず、じっと大人しく事の成り行きがどう変わるのかを待っていた。

 だが、その心配とは他所に、その瞬間は驚くほど、あっという間に始まった。

 本を開いてから直ぐに、水幸は小さくも鋭く重い一言を言い放った。

『時の回廊よ、今通じん!』

 その一言を待っていたかと言わんばかりに、絨毯からの光とシャンデリアの光が一瞬消えたかと思うと、すぐさま一番強い光を部屋中に照らし出すほどに輝いた。

 その輝きは、先ほどまでのものとは見たことが無いほどの輝きで、その光も単色のものではなく、複雑な光を放っていた。

 その光景を見て泰昭にとっては、部屋の中がオーロラの光で埋め尽くされたかのように感じられた。

『この光景………、本当に現実なのか………?』

 眼前に広がる光景には、今まで見て聞いて知って感じていた常識というものは、一切存在していなかった。

 ただ、そこにあるのは神秘的や神々しさといった、普段使わないような表現でしか言い表せないものがあった。

 そんなオーロラのように、様々な色で照らされた部屋は、一時的にその強烈な光に支配されてはいたが、次第にその光も落ち着きを取り戻していき、先ほどまでと同じくらいの輝きに戻っていた。

 しかし、目の前に広がる光景を目にした泰昭は、あまりにも変わっていた光景に言葉を発せずに、ただ驚愕の表情でみているだけだった。

 驚愕の表情にした光景、それは………


 佐代子が、光り輝く魔法陣の中心で音も無く、ただ浮かんでいた。


 先ほどまでの神秘的な光景だけでも十二分に衝撃を受けていたのに、更なる展開に言葉を失うほどの衝撃を受けた泰昭は、知らず知らずのうちに魔方陣へと歩を進めていた。

 いつの間にか宙に浮かんでいる佐代子は、そのことに驚いたような様子も無く、元から浮かんでいたと言わんばかりの平然とした表情だった。

 ただし、その目には光が宿っているようには見えず、やや虚ろに見えていた。

 魔方陣の前まで来ていた泰昭は、目の前で起こっている光景よりも佐代子の様子に目がいってしまい、その目は彼女のことを案じるような慈しみの目となっていた。

「今、彼女の精神と魂は、一時的に時の回廊へと繋がっています。そのまま回廊に入ってしまうということは、広大な海を海図無しで挑むことと同じ意味」

「そんなに………、危険なこと………?」

「何もせず、ではとても危険です。なので、彼女の精神と魂を先に回廊に送り込み、彼女がいた本来いるべき時代への道を、その魂で理解させる。それが今の彼女の状態でもあります」

「それって………、もっと危険なのでは!?」

「魂と精神だけだからこそ、道を知ることができるのですよ。肉体と共にあったら、それこそ時の流れの迷子となってしまい、永久に回廊の中を彷徨う事になります。大丈夫です、もうしばらくすれば、元の佐代子さんに戻りますよ」

「よかった………」

 また心を詠まれてしまい、少々戸惑いを見せる泰昭を尻目に、水幸は本を睨み付けながらも安心させるように説明をしてくれた。

 その説明のおかげか、不安の面持ちであった泰昭の表情にも、安堵の色が少しだけ表れた。

 それから十分ほど経過した頃に、虚ろな表情だった佐代子の目に光が宿り、それと同時に辺りを見回すようにゆっくりと顔を動かした。

「ん………、え………?」

 すぐさまはっきりと判断することは出来ないようだったが、次第に頭が冴えてきたのか、無表情だった顔に焦りの色が表れていた。

それを見た水幸は、ほっと胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべていた。

「意識がお戻りになったということは、道のりの選定も無事に終えたようですね」

「あ、大丈夫? 何かおかしなところは無い?」

「おかしいところって言われると………、何で私は宙に………、浮いているのでしょうか?」

 軽い感じで出された泰昭の質問に、佐代子は依然として焦りの表情を崩さないまま、把握していないといった感じで質問の答えを返した。

 それに納得できたかは分からないが、目の前にいつも顔を合わせていた泰昭の姿を確認できたのか、不安の顔色がゆっくりと消えていき、先ほどまでの落ち着いた顔色に戻っていた。

 それでも、宙に浮いているという自分の状態に、まだ不安の顔色を隠せない佐代子ではあった。

 何とか今の自分の状況を把握しようとしている佐代子の前に、水幸は分厚い本を閉じたまま鋭い表情で彼女の前に立った。

「これで全て整いました」

 “整った”の一言に泰昭、そして光の中で浮かんでいる佐代子は、先ほどまでよりもずっと表情が引き締まった顔になった。

 これで、全てが終わる。

 そして、佐代子とも本当の別れとなる。

 全て分かっていたことなのだが………

「では、時の回廊を開きます。佐代子さん、宜しいですね?」

「………、お願いします」

 その一言を合図に、水幸は開いていた厚い本のとある一ページを、軽く撫ぜるような仕草で手を動かした。

 ジッ………、ジジッ………

 水幸の動作が終わると同時に、何処からか聞いたことの無い異音が、二人の耳に飛び込んできた。

 不意に響いた聞いた事の無い音に、不安になってすぐに周囲を確認するように見回した。

 そして、それはすぐに確認することができた。

「ちょっ………!」

「あ………、穴?」

 魔法陣の中で宙に浮いている佐代子の足の下に、人一人が楽に入ることができる大きさの穴が、ぽっかりと黒い口を開けていた。

 その黒い穴は、どんなまばゆい光でも、一度飲み込んだら二度と逃さないと思えるほどの、真黒な穴であった。

 足元に唐突に生まれた大きな穴に、動揺を隠しきれない二人ではあったが、そこから更なる動揺が生まれる事態がすぐさま起こっていた。

「きゃっ!」

「佐代子さん!!!」

佐代子の急な叫びに反応して、その姿を見た泰昭の眼には、信じられないものが映っていた。

「穴に………、吸い込まれている………」

「い、いきなり、何で!?」

 足元に生まれた大穴に向かって、ゆっくりと吸い込まれていく佐代子。

 急な展開に動揺したのか、今まで落ち着いていた佐代子は取り乱したかのように手足をばたつかせ、穴に入るのを拒もうとしていた。

 そして、泰昭も動揺をしたのか、考えるよりも先に彼女を助けようと、魔法陣の中へと飛び込もうというぐらいの勢いで走りだしていた。

 すぐさま魔法陣の前までたどり着き、手を伸ばし佐代子を助けようとして、魔法陣の光に触れようとした時に、その動きを制する声が響き渡った。

「お二人とも、お待ちなさい!!!」

ぴしゃりと二人を制した声に、ぴたりと止まった二人は、鋭い声がした方向へと視線を動かした。

 そこには凛として立っている水幸が、鋭い視線のまま二人を見ていた。

「お二人とも、落ち着いてください。佐代子さんは、時空の流れに入ろうとしているだけで、それ以外は危険なことではありません。佐代子さんはただその流れに、抗わずに身を任せればいいのです。泰昭さんも、魔法陣に手をかけると、貴方の身に何が起こるか分かりませんよ?」

 魔法陣から放つ光の柱まで、後ちょっとという所で手を止めた泰昭。

 水幸の言葉で我に返ったのか、落ち着きを取り戻して大人しくなっていった佐代子。

 不思議と水幸の言い放った一言に冷静になったのか、お互いに抗うことを止めて、事の成り行きがどのように進むのか、ただ静かに見ていた。

 そして、そのままの速度で穴に吸い込まれていき、腰のあたりまで行き着いたところで、その動きが一旦止まった。

 急な出来事に、吸い込まれていた佐代子は元より、じっと見ていた泰昭も一瞬どうしたのかと驚いたが、一番驚いたのは儀式を進行していた水幸であった。

「ど、どうした………?」

「このような事態って、今まであったか?」

「いや………。こんな事は、一度も聞いた事がないぞ」

 今まで部屋の隅で無言のまま儀式を見ていた黒装束の集団も、今現在目の前で広がっている光景に閉じていた口が開き、動揺をまったく隠せられない状況なのか、傍にいた者同士で囁きあっていた。

 次々と動揺が広がるなかで、水幸は表情を一切変えずにこの事態について、鋭い視線のままじっと佐代子の様子をにらんでいた。

 その物言わずにじっと見据える冷静な表情で、一体何を考えているのか。

 周りの動揺を受けて、一切頭の働かない泰昭にとっては、何も分からないことだった。

 そんな状況の中で、更なる不安に襲われそうになりながらも、佐代子の無事が心配になった泰昭は、未だ光輝く魔法陣の中の大穴に吸い込まれている真最中の彼女へと、探るような細い声で声をかけた。

「佐代子………、さん?」

「………」

「どうしたの? 何か体に異変でもあったの?」

「………」

「あの佐代子さん? 一言でもいいから、返事をしてほしいのだけど………」

「………」

 いくら質問を投げかけても、その返答は一切返ってくることはなかった。

 とりあえず、遠目からではあったが、彼女に大きな傷のようなものは見受けられなかったし、おかしな動きもしていなかったので、問題はないと思った。

ただ、肝心の本人の声から問題ないという言葉が無い以上、あまり楽観視もできない状況でもあったが。

「佐代子さん? 佐代子さん!」

「………」

 泰昭の必死の声にも耳を傾けず、先ほどまでの不安そうな顔は消えて、今は完全な無表情といった状態で魔法陣の中を漂っていた。

 一向に返事をしない佐代子に、徐々に苛立ちを募らせていく泰昭をよそに、鋭い視線でこの状況を見ていた水幸が今まで閉ざしていた口を開き、ある質問を投げかけた。

「大賀崎………、佐代子様でございますね?」

「っ!」

「え………」

 水幸のちょっとした質問に、佐代子は無表情から驚愕の表情へと一変し、泰昭は疑問の表情へと変わっていった。

 そして、水幸のほうは自分が質問をしたときの反応を見て、何かしらの確信を得たのか、ゆっくりと魔法陣の前まで歩いていき、目と鼻の先まで近づいたときにある行動をとった。


 片膝で跪いて、深く頭を下げたのだった。


 なぜこのような行動をとったのか、間近で見ていた泰昭にとっては何も分からなかったが、とりあえずは水幸の次の行動が気になるので、何も言わずに様子を見る事に決めた。

 静観している泰昭の横で、佐代子と対峙している水幸は、次の言葉を出していた。

「思い出されたのですね、佐代子様………」

「はい、全てを思い出すことが出来ました」

 まるで、以前からの顔馴染みという感じの会話に、泰昭は一瞬どういうことか理解できなかった。

 水幸の話からして、どうやら佐代子の記憶が戻ったくらいしか理解できなかった。

 現状を理解できない泰昭を尻目に、水幸と佐代子の間では二~三の会話があったようで、双方とも何かしら理解したのか、さっきまでのピリピリとした雰囲気が微塵もなくなっていた。

 何かしらの会話を終えた水幸が、鋭い眼を宿したまま泰昭の方へと歩いてきた。

 ただ、その内に秘める雰囲気は、先ほどまでの尖ったようなものではなく、幾分か丸くなったように感じていた。

 そして、すっと泰昭の目の前まで近づいてきた水幸は、さっきまでとは打って変わって柔らかい笑みをうかべていた。

「泰昭さん」

「は、はい!」

 表情と一緒に、口調の方もピリピリとした雰囲気ではなく、初めてここに訪れたときのような温和なものに変っていた。

「先ほど、最後の別れと言いましたが、ちょっと予定が変わりました」

「は、はぁ………?」

「佐代子様が、貴方と話がしたいと仰ってます。お傍に行ってあげてください」

「話………、何だろう………」

 些細な疑問を口にしながら、佐代子の元へと近づいていく泰昭の後ろから、水幸が念をかけるかのように小さくもはっきりと言葉を投げかけた。

「これが、本当の最後の別れです。思い残すことが無いように………」

「…………………」


『本当の最後の別れ』


 その意味を深く理解し、未だ自分の奥底で渦巻いている物を再度噛み締めながら、泰昭は佐代子が待っている魔法陣の傍へと向かっていった。

 彼女の顔がはっきりと分かるくらいまで近づいた泰昭は、改めて今現在の彼女の顔をしっかりと見つめた。

 一見として、一月の間見てきた佐代子となんら変わらないという印象だったが、何やら佐代子自身から発する謎めいた威圧感とでも言うのか、とにかく言葉にできない力を纏っているようにも思えた。

 少々おっかなびっくりといった表情へと変わっていく泰昭に、佐代子の方はいつもと変わらぬ表情で話しかけてきた。

「泰昭さん」

「な、何………でしょうか? いや、何?」

 変わらない声に拍子抜けしてしまい、どもりながらの返事をした泰昭に、一瞬何事かと思い真顔に戻った佐代子だったが、すぐにほほ笑みながら言葉を続けた。

「ふふ………、そんなに意識しないでください。いつもの私ですから」

「そう………? よかったぁ、雰囲気的にかなり変わったような気がしたから、つい………、ね」

「私という人間が、別の人間に変わったのではありませんよ。話は聞こえていたと思いますが、消えていた記憶が戻っただけですから」

「あ………、うん」

そこで言葉を区切ると、ほほ笑んでいた顔から真顔へと変えて、口調もさっきまでとは違う真剣なものへと変わっていた。

 二人の間に流れる空気が変わったことを瞬時に理解できたのか、泰昭も気持ちを切り替えてその言葉を聞き始めた。

「まず初めに、私の本当の名前。私の名前は、大賀崎佐代子と申します」

「大賀崎………。って、このお屋敷の………」

「はい。私は、祖先とも言えるでしょうね………」

「祖先………。いきなり言われても、実感わかないよ」

「そうかも知れませんね。でも、私には大賀崎という姓を持っているのは、紛れも無い事実です」

「は、はい。分かりました」

 普段と変わらないと言いながらも、その内から発せられる威圧感に押されたのか、少し委縮してしまった。

 今まで一緒に過ごしていて、微塵も感じたことが無かったもの。

 それがあの不思議な儀式によって、全てを思い出したと考えると、本当にそうなのかもしれない。

 この儀式の一部始終を垣間見ていた泰昭は、何か府に落ちないという疑問を感じること無く、その事実をすんなりと受け入れていた。

 そして、自然と佐代子と同じように真顔へと変わっていった泰昭は、一言も聞き洩らすことが無いように彼女の言葉に耳を向けていた。

「遠い過去から来てしまった私を、貴方は親身に保護してもらい、更にこの時代についてたくさんの見聞を広めて頂いたことに、改めてお礼を言いたかったのです」

「いや、お礼って言われても………。大したことじゃないし、ね?」

「大したことでは無くても、私にとっては自分の命が無くなる恐れがあったのですから、貴方のその些細な行動が私を助けてくれたのです」

「そこまで言われると、さすがに恐縮しちゃうなぁ………」

 軽く頬をかいている泰昭に、そっとほほ笑む佐代子。

 記憶を取り戻して少し雰囲気が変わってはいたが、やっぱりそこまで変わってはいない。

 改めてそう思い知らされた泰昭は、さっきまで胸の奥につまっていたものを聞いてみようと口を開こうとしたとき、またも異変が起きた。

「あ………」

「え………?」

 今まで穴の中で止まっていた佐代子の体が、再び穴の奥底へと引きずり込まれていった。

 しかも、その吸い込まれる速度は、先ほどまでのゆっくりとしたものではなく、それ以上の早さとなっていた。

 このままでは、完全に穴に飲み込まれるまで、もって十数秒と無いだろう。


『このまま飲み込まれては、自分のこの思いを彼女に伝えることが出来なくなる………。そうなる前に!』


 目の前で起こっている事を見て、そのことを即座に理解できた泰昭は、すぐさま行動を起こしていた。

 そして、今まさに首元まで穴に飲み込まれている佐代子に向って、自分の思いを叫んでいた。

 届くかどうかは分からなかったが、それでも自分の胸の内を彼女に知ってほしい。

 ただそれだけだった。

 今まで他人に数回ほどしか見せてないほどの真剣な表情で、腹の底から出した声を佐代子へと向けてはなっていた。


「佐代子さ………。いや、佐代子! 僕はあんたのことが好きだ! 例え時代が壁になろうとも、あんたがどう思おうとも、僕はあんたが好きという事実を、元の場所に戻ったとしても覚えておいてくれ! 僕も、絶対に忘れたりはしない! 絶対に!」


 その言葉が響き終わった刹那、佐代子は穴の中へと完全に吸い込まれ、その姿を二度と表すことはなかった。

 それと同時に、魔法陣から放たれていた光の柱と、部屋中を明るく照らしていた魔法のシャンデリアがゆっくりと光を失っていき、あっと言う間に部屋に入った時と同じように、ただの部屋を彩るオブジェとなっていた。

「………………」

 その場に立ち尽くしている泰昭は、さっきまであった大穴が開いていた場所を、じっと見つめていた。

 一世一代の、命をかけた告白。

 本来だったらもっとちゃんとした場所、ちゃんとした雰囲気の最中にやるものなのかもしれないけれど、あの場を逃してしまえば、もう二度と自分の本心を伝えられない。

 そう思ったが故の、咄嗟の行動であった。

 今思えば、水幸や他の人たちが周りにいる状況の中での告白。

 普通に考えれば狂気の沙汰ではないと思うが、それを気にせず告白したことに気付いた。

『それほどまでに、切羽詰まっていたのかなぁ………。状況が状況だったから、仕方ないかもしれないけど』

 などと顔を赤くしながら、自分が行ったことに関して思い返していた。

 その視線は、先ほど開いていた大穴のあった場所だった。

『………。聞こえていたよな、絶対に』

 大穴に吸い込まれていった佐代子の姿を頭の中で思い返しなら、冷静になりつつある頭で考えを巡らせていた。

 告白が終わる前に吸い込まれていった佐代子。

しかし、最後の瞬間に何とか見られた彼女の表情は、泰昭の脳裏に離れられないものだった。

 

佐代子は、微笑んでいた。


 吸い込まれてしまうわずかな時間ではあったが、その時の彼女の表情は決して見間違いでは無いと、確信していた。

 きっと自分の思いは届いたという、確固たる証拠なのだろうとも確信していた。

 そう思うと、自然と自分の表情が綻んで行くのが分かった。

 例え、一回振られようとも、こっちの本心はしっかりと彼女に伝わった。

 そう思えただけで、不思議と落ち着くことが出来た。

「泰昭さん………」

「あ、はい!?」

 いつの間にか、部屋の周囲に並んでいた黒装束の人たちは既におらず、この部屋に残っているのは泰昭と水幸の二人だけとなっていた。

「これで、儀式は全てつつがなく終了しました………。お疲れ様です」

「あ………、すいません。ありがとうございます」

 全てが終わったという水幸の一言で、泰昭は改めて部屋の中をぐるりと見回した。

 自分と水幸以外、誰もいない大広間。

 さっきまで我が目を疑うような光景が、これでもかというほどに繰り広げられていたのだが、終わった後の部屋はとても静かで、さっきまでの光景は夢なのかと思えるほどだった。

 依然として静寂となっている大広間を、言葉を発せぬままじっと見続けている泰昭に、水幸は少しまを置いてから声をかけた。

「泰昭さん、場所を移しましょう。貴方もお疲れでしょう?」

「いえ………、そこまで疲れてはいないですよ。お構いなく………」

「唯でさえ常人が理解することのできない光景を、手の届く距離で目の当たりにしたのです。大丈夫とは思っていても、実際は心身共に相当疲弊しております。ここよりも落ち着いた場所で、体を休まれていってください」

「はぁ………」

 これ以上お世話になるのもどうかと思い、やんわりと断ろうかと思った泰昭だったが、水幸の言葉通りに体の気だるさと軽い目眩を感じていた。

 この状態でこの屋敷を後にしようにも、逆に迷惑をかけてしまうだろうと考えを改めた泰昭は、その誘いを受けることにした。

「すいません、お言葉に甘えさせてもらいます。水幸さんの言われた通り、ちょっと疲れているみたいで………」

泰昭の申し入れに、水幸はゆっくりと微笑みながら、大広間の扉の方へと促した。

 それに従うように、ややふらつく足を引きずるように歩く泰昭。

 これで、全部終わった。

 そんな言葉が泰昭の脳裏をよぎっていた。



「どうぞ、お召し上がりください」

「頂きます」


 ずず………


 水幸が淹れてくれたお茶を受け取った泰昭は、ただ無心となってゆっくりと飲みほしていった。

 茶葉の爽やかな香りと風味が一体となり、心身の疲れを消していくようだった。

 お茶を全て飲みほして、カップをテーブルに置いた泰昭は、体にたまったものを吐き出すように溜息をついた。

「ふぅ………。おいしい………」

「もう一杯いかがですか?」

「すいません。お願いします」

 ゆっくりと飲み干して、空になったカップを見た水幸にお茶のお代わりを勧められ、遠慮なくその誘いを受けた泰昭は、空になったカップを水幸に渡しながらも、あることに気付いた。

 カップを受け取った水幸の手が、微かながら震えていたことに。

 更によくよく見ると、顔色の方もさっきよりか白くなっており、自分以上に疲れているのではないかと疑ってしまうほどだった。

「あの、水幸さん………?」

「どうなさいましたか、泰昭さん? 特製のハーブティーのお味は、お気に召しませんでしたか?」

「いえ、そういうのではないのですが………。水幸さんも、相当疲れているのでは………」

「………………」

 水幸は何も言わずに、微笑んだままお茶のお代わりを淹れていたが、泰昭はその手つきを心配そうな目で見続けていた。

 自分はただ見ていただけで、これくらいの疲れが溜まっていたのだから、儀式を執り行っていた水幸の疲労はそれを優に超えているのではないか。

 あまり思考深くはない泰昭でも、自分が実際に体験したことを元に考えれば、その結論に達するのはとても容易だった。

 しかし、その結論に達したとはいえ、それをどのように解決すればいいのかまでは、いくら普段使ってない自分の頭をフル稼働させても、解決することが出来る答えを見つけることは出来なかった。

 それでも、何か良い答えが浮かぶかもしれないと、引き続き頭をフル回連させて思案していると、そのことに気付いた水幸はそれを察するかのように、温かいハーブティーを泰昭の前にそっと置いた。

「貴方は、本当に心のお優しい方なのですね………。でも、御心配には及びませんよ」

「あ………、いや………」

 自分の考えていたことが顔にでも出ていたのかと思い、少々顔を赤くしながらもその後に続く水幸の言葉を、目の前に出されたハーブティーをゆっくりと味わいながら、静かに待った。

 その姿を見た水幸は、すっと泰昭の目の前のソファーに座り、何かを諭すかのようにゆっくりと話し始めた。

「確かに、あの儀式は神の理を覆すほどの禁術。何も準備を施さなければ、術者は永遠に時空の彼方へと飛ばされてしまうでしょう」

「時空の………、彼方!?」

「逆にいえば、十分な準備を施したからこそ、貴方以上の心身の疲労で済んだとも言えるのですよ?」

「はぁ、なるほど………」

「それに、これくらいの疲労など良くあることです。貴方はそこまで気にすることでも無いのですよ」

「そういうことなら、そこまで聞きませんが………」

「ありがとうございます。もう一杯いかがですか?」

「あー………。すいません、頂きます」

「はい」

 新しいハーブティーを待つ間、泰昭は今までの会話の内容を出来る範囲で整理していた。

 神の理を覆すほどの禁術、下手すればこの世から消えているかもしれない。

 そんな危険な儀式を、行わなければならない理由。

それは、記憶が戻った佐代子が言った、彼女が大賀崎の家の者だからということ。

もしかしたら、自分たちの祖先かもしれない人物。ならば、元いた時代に戻してあげるのは普通なのではないか?

それ以前に、何で彼女はこの時代に飛ばされてしまったのだろうか?

向こうの時代で、この儀式を行ったのかどうかまではわからないが、何でわざわざこの時代に飛ばされたのかの理由が、どうしてもはっきりとした答えで見つからなかった。

先が見えない暗い道を手探りで歩くかのように、色々と考えを巡らせていると、水幸がこの場を制するように鋭い声を出した。

「色々と思案する部分もありますが、今回の件は特例として貴方もあの場にいることを許可しました。でも、本来はそのようなことは絶対にあり得ないこと。この事は、他の方には他言無用でお願いします」

 さっきまでの優しい雰囲気が、一瞬だけ滲み出た威圧感により、計り知れない恐怖へと変わっていった。

 その約束を破ってしまえば、自分の身に何が降りかかるのかは、火を見るよりも明らかであった。

「は………、はいっ!?」

 何とか腹の底から捻り出した精一杯の声ではあったが、その一言を聞いた水幸は満足したかのように、にっこりと微笑んだ。

「ですが、もしこの話を他の方が聞いたとしても、嘘偽りだとしか理解できませんでしょうけど………」

「まぁ………、内容が内容でしょうし………」

「えぇ、十人中十人はそう思うでしょうね」

「なら、僕に口止めしてもそんなに意味は無いのでは………」

「端的にいえば、そういうことです」

「ぶっ!?」

 さっきまでの威圧感たっぷりの警告を、自分であっさりと撤回した事に、泰昭は口に含んでいたハーブティーを、盛大に吹きこぼしそうになった。

「ごほっ!ごほっ! うー………」

「うふふ、冗談ですよ」

 からかう表情でクスクスと笑う水幸に、苦虫を潰したかのような渋い顔をした泰昭は、カップに残っているお茶を飲み干し、場の雰囲気を入れ替えるかのように話を変えた。

「ところで、今回の一件………」

「泰昭さん」

 質問をしようとしうた泰昭の言葉を途中で切った水幸は、微笑んだ表情のまま子供を諭すような口調で泰昭に向けて話した。

「今回の件については、部外者とはいえ貴方も深くかかわってしまいました。ならば、この件について色々と知る権利があるのは明確です。ですが………」

 と、ここで言葉を切った水幸は、やや申し訳なさそうな顔になり、言葉をそのまま続けた。

「ですが、その機会は後日に回してもらえないでしょうか………?」

「後日に………、ですか?」

 いきなりの水幸の申し出に一瞬困惑しかけた泰昭だったが、先ほどの大掛かりな儀式のことを思い出してみると、素直に納得することが出来た。

 今の水幸の状態では、たくさんの質問をするのは心身的に限界なのだと。

「わかりました。どうせ時間は他の人よりもずっと空いていますので、いつでも連絡をください」

「………。御理解が早くて助かります」

 すぐに了承の言葉を聞いた水幸は、一瞬戸惑って言葉を失ったが、すぐに泰昭の考えに気付き、素直に感謝の言葉を述べていた。

 泰昭も、その言葉を素直に聞き、ゆっくりと笑顔になった。

 思えば、この屋敷に来てから未知の体験の連続だったため、張り詰めたような顔しか出来なかった気がしていた。

 ようやく、緊張が解けたのかもしれないと、心の底でふっと安堵できたような気がした。

 その後、いくつか会話をしたところで、空の色がいつの間にか赤から黒へと変わりつつあった。

 これ以上お邪魔しても迷惑と思った泰昭は、そろそろお暇することを水幸に伝えて、屋敷を後にすることにした。

そして、いつの間にか勢ぞろいした沢山の家政婦に見送られながら、恥ずかしさのあまりに足早で屋敷を出た泰昭は、自分の車を止めた駐車場へと向かって歩き出した。

 ようやく自分の車にたどり着いた泰昭は、途中の自販機で買った缶コーヒーの中身を一口だけ飲んで、ゆっくりと車のエンジンをかけた。

ほぼ真っ暗となり、星も見え始めてきた冬の夜空を背にして、泰昭が運転する軽自動車は自分の家へと走り始めた。

カーラジオから流れるゆっくりとした曲が流れる車内では、いつものように周りを注意しながら運転している泰昭がいた。

いつものように一人で運転している、それが当たり前のことなのだったのだが、今日に限ってはそれが無性に寒く感じていた。


キキィッ………


 赤信号で一時停止した泰昭は、徐に助手席の方へと視線を向けた。

 そこには、誰も座っていない助手席があった。

 分かり切っていたことだったが、このことで改めて思い知らされることになった。


 佐代子は、もうここにはいない。


 ほんの一カ月ではあったが、彼女と一緒に過ごしていた時間は、泰昭にとって本当にかけがえのない一カ月ということが身に染みていた。

 出かける日には、いつも隣に彼女がいた。

 初めは、彼女の社会勉強と言う名目ではあったが、実際は自分が楽しんでいたのかも知れない。

 それも、日が進むにつれて、自分の拙い説明や案内でも全てを聞き入れてくれた。

 そんな彼女に好意を抱いて行くのは、そんなに時間はかからなかった。

 そして、その思いを伝えて一度は玉砕したものの、去り際にもう一度本気ということを伝えた。

 何よりも、自分が後悔したくなかったからだ。

 今までで生きてきた一カ月の中で、一人の女性と一緒に過ごすのも初めてではあったが、心の底からその人を愛するということは、今までの人生の中で初めてだった。

 しかし、その女性は自分の時間へと帰って行った。

 それ自体は仕方のないことだと、納得はしていた。

 納得はしていたが。


「………、うぅ………」


 泰昭は、一言小さく唸りながら、涙を流していた。

 一人、静かに涙を流していた。

 カーラジオから流れる音楽は、いつの間にか軽快なポップミュージックから、やや物哀しげなバラードへと変わっていた。

 普段はそこまで泣かないと思っていた泰昭だったが、今この時はただ溢れるように涙が流れていた。

「うぅ………っ」


プー!!!

プップー!!!


「あ………、いけね………」

さっきまで赤だった信号が、いつの間にか青信号に変っていて、一向に進まない前の車に、後ろにいた車はクラックションを鳴らして、信号が変わったことを促していた。

そのけたたましい音で我に返った泰昭は、涙を拭うことはしないでそのままギアを切り替えて、車を走りださした。

すっかりと空は黒に変り、雲一つない漆黒の夜空は、無数の星が煌めいていた。

そんな星空を楽しむ余裕は一切なく、車のライトと道路の両脇に併設されている街灯で照らされた車道を、自宅に向かって走らせていた。

一人だけの車内で静かに流れるカーラジオの曲は、特に好みのバンドの軽快な音楽で、泰昭自身もそのバンドのCDを数多く所持していて、家でも良く聞いている曲だった。

しかし、どれだけ軽快な曲調で気分転換にふさわしい曲でも、今日に限ってはその効力はまったく機能せず、ただ耳に入っては出ていくだけの、風音のようなものになり下がっていた。

そんな少し前までは当たり前な、今では少し寒く感じる車内で、泰昭は流れている涙をそのままに少し滲む視界の中で、細かくハンドルを動かしながら車を走らせた。

冬の夜の寒風が、さらに突き刺す冷たさとなり、人工の灯が煌めいている街中を、枯れ葉を舞い散らしながら駆け抜けていた。

寒風に舞い飛ばされた枯れ葉は、ゆっくりと冷たいアスファルトへと落ちていき、泰昭の乗った軽自動車が走り去っていくのを見ていた。

走り去った後の夜の街は、何事も無かったかのように人工の光を放ち、同じように寒風が街を駆け抜けていた。

全ていつものと同じように、時間が過ぎていった。



「ただいまー」

「おかえりー。職安の斡旋してくれた、会社の面接はどうだった? 手ごたえあった?」

「うーん………。まずまずかなぁ? 手ごたえあったと思うけど、面接の担当者の反応がイマイチ………」

「そうは言っても、それで決まるって訳でもないのだから、望みは捨てないで結果を待ちなさいな」

「そうするよ………。晩御飯の時まで、部屋で休んでいるね」

「はーいよ。出来たら呼ぶからね?」

「おねがーい」

 朱美からの質問に、泰昭はいつもの調子で返事をした。

 返事した後に、着ているビジネススーツをハンガーにかけて、クローゼットに仕舞うと、着慣れている室内着に着替えて、いつもの少し汚い自分の部屋へと戻った。

 そして、ちょっとぐったりしている布団の上に、身を投げるかのようにダイブして、そのまま横になった。

「はぁ………、今週訪問する会社は、これで全部だったっけ」

 小さく呟いた泰昭は懐から携帯を出して、そこに登録してあるスケジュールを確認していた。

 特にこれといった予定は無いことを確認して、そのまま布団に潜り込み、静かに目を閉じた。

「おーい、御飯だよー。 起きなさーい」

「ん………、もうそんな時間か………」

 頭は少しぼんやりしていたが、手慣れた手つきで布団の傍に置いてある目覚まし時計を手に取り、今の時間を確認してから、のそのそと布団から抜け出て、自分の部屋を後にした。

 その後、勝彦と朱美と一緒に晩御飯を取ってから、しばし家族団らんの時間を過ごした後、再び自分の部屋へと戻り、インターネットでの職業案内サイトで情報収集を行い、深夜を過ぎたら風呂に入ってそのまま布団に潜り込んだ。

「次こそ、俺の条件に合う職場があればいいなぁ………」

 意識がゆっくりと確実にまどろみの中へと沈んでいく最中、泰昭は中々上手くいかない就職活動に不安になりながらも、きっと報われる事を信じながら意識を沈めていった。

 こんな生活が、あの日からずっと続いていた。

 あれから年を越して、冬の突き刺すような寒さも落ち着いていき、次第に温かさが目立つようになっていった。

 そんな季節の移り変わりを感じながら、泰昭は以前当たり前と思っていた日常を、何かに追われながら過ごしていった。

 そして、年をまたぐ前に起こった、あの摩訶不思議な出来事の事に関しては、ゆっくりと頭の片隅から消え去っていった。

 泰昭自身にとっては、忘れてはならないことだったはずなのに、時間の流れには逆らえないのか、次第にその姿形は色あせていった。

 そのまま何も気づかぬうちに、最後の欠片も消えていこうとしていたとき。

その時は訪れた。


 リリリリリリン………


「はいはいっと、電話のお相手は誰かしらーっと」

 その日は、特に会社に面接しに行く予定も無ければ、職業案内所に寄る予定も無い、まったくのフリーと言える日の昼過ぎであった。

 春の日差しの暖かさが一番強く感じる時間帯で、窓から空を見上げると雲も少なく、風もそれほど強く感じないほどのいい天気で、泰昭も特に予定が無ければ街をぶらつこうと思っていた時だった。

 いつもの調子で受話器を取って、かかってきた電話の対応をした。

「はい、もしもし。広瀬です」

 よくある訳の分からない物の勧誘かと思って、何も考えずに電話に出てみたが、相手の返事を聞いた瞬間に、あの時の記憶が一気に甦ってきた。

 今まで頭の奥底で色あせていき、その姿も消えかけていた物が、その声一つで鮮明に、そして元あった形へと戻っていった。

「こちら大賀崎と申します。広瀬泰昭様は、御在宅でしょうか?」

「え?」

 一瞬のうちに泰昭の頭の中は、今までの事で一杯となり、思考能力が一時的に落ちていたのか、咄嗟に返事を返すことが出来なかった。

「もしもし………? こちらは広瀬様のお宅で、宜しかったのでしょうか?」

「あ、はい! 広瀬はうちで問題ありません!」

「それでは、泰昭様はそちらに御在宅でしょうか?」

「はい! 泰昭は自分です!」

 今の今まで忘れていたことを思い出したいが為に、さっきまでとは打って変わって、やや荒げたような口調となりつつも、相手の言葉を待っていた。

「まずは、あれから大分経ってしまったことについて、謝罪させてください」

「いえ、それに関しては気にしてはいないので、お気になさらず………」

「そう言って頂けると、こちらとしても助かります。それで、今日そちらにご連絡した理由ですが………」

「は、はい!」

「お忘れでは無いようなので、細かい説明を省きますが、ようやく泰昭様にあの件の説明をさせていただく準備が整いましたので、それをお知らせするためにご連絡をした次第です」

「すいません、ありがとうございます! それで、何時ぐらいにお伺いすればいいですか?」

「こちらとしては、泰昭様のご都合に合わせて頂いて構いません。ご都合の良いお時間を教えて頂ければ、そちらに合わせます」

「それじゃ………、そうですね。明後日の十三時頃にお伺いしても、大丈夫ですか?」

「明後日の十三時頃ですね、承りました。それでは当日、お待ちしております………」

「はい、どうもすいません………」


 ガチャ………


 電話の受話器を置いて、床に視線を移した泰昭は、ただ一歩も動くことはせずに、ただじっと立ち尽くしていた。

自然と速足となっていた心臓の鼓動を、いつもの早さに戻そうと、それだけに意識を集中していた。

『落ち着け………、落ちつけ………』

 そっと、自分の手を心臓にある位置へと持っていき、未だ足早に鼓動を続けている心臓を、押さえつけるように手を置いた。

 そして、その呼びかけが届いたのか、次第に心臓がゆっくりとした鼓動へと変わっていき、じきにいつもと変わらない状態に戻っていた。

 元の状態へと戻ったことを確認した泰昭は、納得したかのように軽く頷くと、そのまま自分の部屋へと戻っていき、そのまま布団の中へと潜り込み、そのまま強引に目をつぶった。

 これ以上考えても、何も思い浮かぶことはできない。

当日に全ての事を聞かせてもらい、自分で判断するだけだ。

だったら、やるべきことは、どんなことでも受け入れられるように、体調をしっかりと整えることが先決だ。

 分からないことが多い為に、あまり良い考えが浮かばなかった泰昭は、当日の話に望みをかけて、そのまま意識を手放していった。

「泰昭―? 晩御飯だぞー? 寝てるのー?」

 その日、泰昭が目を覚ましたのは、朱美からの晩御飯の催促の声であった。



「すいません、広瀬と申しますが………」

『はい、お待ちしておりました。今、使いの者を正門に向かわせますので、それまでお待ちください』

 そうして、インターホンからの声が消えた。

 あの不思議な儀式を目の当たりしてから、数カ月ぶりに見る巨大な正門は、相も変わらずその威圧的な存在感を、存分に醸し出していた。

 何度目かの訪問ではあったが、未だに慣れていないのか、門の前で待つ泰昭は少し落ち着かない気分のまま、扉が開かれるのを待っていた。

 その後、数分のうちにゆっくりと正門の扉が、重く鈍い音を響かせながら、ゆっくりと開いていき、開ききった先の光景を見て、ただ目を点にした。

「またですか………」

 それもそのはずで、前回と同様にまっすぐ伸びる道の両端に、ずらっとたくさんの人が、一糸乱れずの直立不動で並んで立っていた。

 前回も、この光景を見て相当面喰った泰昭であったが、今回はある程度予測はできていたが、やっぱりこの光景を目にすると、少し面喰ってしまった。

『いくらなんでも、数回の訪問でこうも扱いが変わることって、そんなにあり得るものなのかなぁ………』

 などと、イマイチ回らない頭でぼぅっとそんなことを思っていると、すぐ真横からしっかりとした声が、泰昭に耳に届いた。

「お待ちしておりました」

「うぉっ!」

 完全に別の方向に意識を集中していた為、すぐ隣にレディーススーツをきっちりと着こなした、見た目がまんまキャリアウーマンと言い表せるほどの、真面目そうな女性が立っていた。

 素っ頓狂な声を出して、盛大に驚いてしまった泰昭ではあったが、その女性はその事には気にすることはせず、事務的な口調で話を始めた。

「本日は当屋敷にお越し頂き、誠にありがとうございます。この屋敷で秘書業務を仰せつかっております、山中と申します」

「えぇーっと………、本日はお招きいただきありがとうございます」

「いえ、こちらもその後の後始末が手間取ってしまい、かなりのお時間待たせてしまいまして、大変申し訳ありませんでした」

「それに関しては、そこまで気にしてはいませんから………」

「そう言って頂けると、こちらとしても嬉しい限りです。それでは、ご当主がお待ちかねですので、お部屋までご案内いたします」

 そんなやり取りがあった後、山中と名乗った女性は屋敷へと続く道を、先陣切って進みだし、それに遅れないように、泰昭も彼女の後ろに続くように歩きだした。

 そして、道の両脇に並んでいる使用人たちは、二人が目の前を通ると同時に、その頭をゆっくりと下げていった。これも前回と同じ体験をしていたのだが、泰昭はこれも慣れることは無かった。

『これって、まさか毎回ここに来るたびに、こんなことをしなければならないのか………?』

 と、まったくどうでも良いことを、屋敷へと向かう道すがら、あまりにも場違いな光景を目にしながら、現実逃避のように考えていた。

 そのまま何事もなく屋敷に到着し、山中の案内で複雑な屋敷の中を進んでいき、ある扉の前でその足を止めた。

「こちらの部屋になります」

「この部屋、ですか………」

 山中の言葉を聞き、小さく呟きながら、泰昭は目の前の扉をじっと見つめていた。

 屋敷の中を歩いてきたが、目にしてきた中では一番大きく、一番怪しい雰囲気を感じていた。

それは、扉に施された装飾および彫刻が、その雰囲気を醸し出しているのか。

それとも、扉の先の部屋からあふれ出しているのか。

どっちにしても、泰昭にはそれを断定できるだけの判断は出来なかった。

「泰昭様? 中でご当主がお待ちですので、どうぞ中に………」

「あ、すいません………」

 目の前の扉、もしくは扉の先からの雰囲気に飲まれて、扉の前で呆然と立っていた泰昭は、山中の問いかけに寄って、我に返ることが出来た。

 恥ずかしさで顔を少し赤らめた泰昭は、出来る限りばれない様に、すばやく目の前の扉を軽く叩き、失礼しますと扉の向こうに声をかけてから、ゆっくりと扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れた。

「………………」

 扉を開けて最初に目に入ったのは、目の前に広がる異様な光景だった。

 入った部屋は、大きめの書斎といった感じで、泰昭が入ってきた扉の前に、応対用のソファーとアンティークのテーブルが置かれており、さらにその奥はこの部屋の主の物と思われる、重厚そうな木製のデスクと、余裕で人を隠せるほどの大きい皮の椅子が、デスクの奥に置かれていた。

 ちなみに、その椅子には誰かが座っていることが分かったのだが、その後ろの大きな窓からの日光により、顔をはっきりと見ることはできなかった。

 さらに、泰昭から見て右手側には、様々な陶器の皿や壺、更には外国製の小物や人形が収まっているガラス棚が置かれていた。

ぱっと見ただけで、それらは何かしらの名の在る品であって、相当な値段をするものだと、理解することが出来た。

 そして、泰昭から見て左手側には、壁いっぱいに収まっている本棚が置いてあり、その本棚には大小様々な本が、隙間無く収まっていた。

 それらの本の背表紙を、遠目ながらじっと見ていると、自分ではみた事の無い言語で書かれている以外は、まったく良く分からなかった。

 ただ、それでも気にせずに本の背表紙をじっと見ていると、次第に視界の外側から徐々にぼやけていくのが分かり、本能的にこの本棚にある本全て、自分にとって危険なものであると察することが出来た。

 しかし、察することは出来ても、一度背表紙に釘付けとなった視線は、泰昭の意志ではどうする事も出来ないほどの強固なものになっていた。

 次第に視界に映るものが黒一色となっていき、別の方向に視線を動かそうとする意志も、抵抗ではなく流れに乗ってしまおうという諦めに近いものとなっていった。

『あ………』

 視界に映るものが、完全な黒の世界に変ろうとした矢先、鋭い声が部屋中に響いた。

『本に眠る深淵の理よ、今はその姿を奥底に沈め、意識を理の裏に隠せ』

 その言葉が部屋中に響いた瞬間に、泰昭の視界は黒から、様々な色が映える世界へと元に戻っていった。

「え………? 何が………?」

 今の状況を理解することが出来ない泰昭は、ただその場で部屋の中をきょろきょろと見回す事しか出来なかった。

そんなうろたえている泰昭に、先ほど部屋に響いた鋭い声が、そっと助け船を出していた。

「今、この本達から発せられる魔力を、一時的に閉じ込ませました。これで、貴方が本の魔力に飲み込まれることはありません。まぁ、出来ればこの本棚に収まっている本は、その目で見ない方が良いのですけれども………」

「は、はぁ………。そうですか………。ん?」

 一瞬、聞いた事のある声が耳に入り、頭をしかめた泰昭は、すばやく部屋の奥に置かれているデスクの方へと、視線を向けた。

 それと同じタイミングで、先ほどまで椅子に座っていたこの屋敷のご当主と思われる人物が、ゆっくりと立ち上がり、泰昭の方へとその顔を向けた。

 ちょうど、後ろの窓から差し込まれている日光から外れたのか、ようやくその顔をその目にすることが出来た。

 そして、その顔を確かめた泰昭は、その目を見開くことしか出来ず、喉の奥から一言、小さい声を出す事がやっとであった。


「水幸………、さん?」


 見間違いなどではなく、その人物は今までこの屋敷に訪れて、何度もお世話になった水幸その人だった。

そのお世話になった人が、今は今まで目にしていた家政婦の衣服とは違い、シンプルながらも複雑な文様が描かれた紺色のローブを身に纏い、そのローブの下にはゆったりとした黒いドレスを着こんでいた。

 しかし、身につけている衣服は違っていても、その顔から出るほほ笑みは、いつも見ていた微笑みだった。

「お久しぶりです、泰昭さん。お元気そうで何よりです」

「いえ、水幸さんも何より………、と言いますか、あれ? 何でそんな格好で? この部屋って、このお屋敷のご当主がいるって話が………。あれ?」

 更に混乱したのか、泰昭から出る言葉は次第に意味不明な物となり、やがて判別できないような音へと変わっていった。

 その様子を制すること無く、じっと見ていた水幸は、くすっと小さく笑うと、デスクの前に置かれている応対用のソファーに腰掛けた。

「今回は、色々とお話をする事が多いのですが、まず先に私が何者なのかを説明するところから、最初に始めた方がよさそうですね………」

「はい、お願いします。すいません、色々と………」

「いいえ、このために来ていただいたのですから。今日は、すっきりとした気持ちでお帰り頂けるよう、私も精一杯頑張らせて頂きます」

「本当に、色々とすいません………」

 何度も頭を下げつつ、泰昭は水幸の反対側のソファーに座った。

そして、ソファーに座ったのと同じタイミングで部屋の扉が開いて、一人の家政婦がティーセットを乗せた小さなカートを押しながら、ゆっくりと入ってきた。

 軽く一礼をして、二人の間にあるガラスのテーブルの側まで移動し、手早く二人分のお茶を淹れると、手慣れた手つきで二人の目の前に静かに置き、再び一礼した後に、カートを押して部屋から出ていった。

 残された二人は、まず出された淹れたてのお茶を一口啜り、軽く息を吐いたところで、最初に話し始めたのは水幸だった。

「まず、先ほどお話ししたように、最初は私がどういう人間か、ということからお話しましょうか」

「はい、お願いします」

 そう言って、すっと目を閉じた水幸は、しばし間を置いてから、すっと目を開いて話し始めた。

「まず、私は水幸と名乗っておりますが、もう察していると思いますが、それは偽名です」

「それは、さっきの秘書の………、山中さんですか? あの人の言葉で、何となくですが………」

 泰昭の返答を聞き、しっかりと頷いた水幸は、そのまま言葉を続けた。

「泰昭さんのご想像通りです。私の本名は、大賀崎智代と申します。そして、これもご想像の通りですが、この屋敷の現当主でもあります」

「………。こっちの想定内ではありますが、やっぱり驚きで言葉が出ないです」

「かもしれませんね」

 そういって、また軽くクスリと笑う水幸改め智代に、泰昭は恥ずかしそうに視線を下に移していた。

 その状態のまま、目の前のテーブルの前に置かれているカップを手に取り、一口啜って喉を潤してから、自分の胸に秘めていた疑問をぶつけていた。

「とりあえず、貴方の本名は分かりましたが、本当に聞きたいのは、それではなく別の事です」

 しっかりとした泰昭の質問に対し、智代はそれに応えるように、一言ずつ丁寧にはっきりと答えた。

「今日の本題はそちらですものね、失礼しました。ただ、私が当主ということも、今回の話の肝にもなるので、先にお話ししたのです。ともかく、本題に入る前に泰昭さんに簡単な質問をしたいのですが、宜しいですか?」

「はい、どういった質問ですか?」

「貴方は、占いを信じますか?」

「………、占い?」

 あまりにも唐突で、しかも意味が分からない質問をされて、対面したときの混乱がもう一度顔を出して、正確な思考を遮っていた。

「えぇ、占いです。良くある本の簡単な占いや、有名な水晶占いやタロット占い。街角でたまにいる手相や、人相占い等もありますが、そういった占いは信じますか?」

「はぁ………、えぇっと………。そうですねぇ」

「その様子だと、余り信じないといったご様子ですね?」

「………。まぁ、単刀直入に言いますと、そうなります」

「大半の方はそうでしょうから、致し方ありませんね。理由を考えれば、胡散臭い、結果が曖昧、人を陥れるための手段に使われる等、キリがありませんけれども、大体は当たらないということが理由になりましょうね」

「理由………、といいますか。当たり前って感じでもありますが」

「そうでしょうね、ですが………」

 そこで言葉を一旦切った智代は、カップを手に取って一口お茶を啜ると、そのままカップを元に位置へと置き、さっきまでとは違う、獲物を射抜くような眼で泰昭を見て、言葉をつなげた。


「絶対に外れない占いが、もしあるとしたら?」


「え………、それってどういう?」

「言葉通りの意味、ですよ。泰昭さん」

 そう言って、もう一度カップ手にとって、またお茶を一口啜り、その泰昭の返答を静かに待った。

『絶対に外れない占い………? 何を言っているんだ? 必ず当たるなんて、本当にあり得ることなのか………』

 いくら考えを巡らせても、一向に明確な解答が見つけられない泰昭の姿を見て、智代は静かに助け船を出してくれた。

「ならば、ヒントを差し上げましょう。と言っても、正解を教えているに近いと思いますが………。ヒントは、だいぶ前に貴方が直に目にした、あの儀式の前に私が言った事です」

「あの儀式の前………?」

 智代のヒントで、泰昭の頭の中では、一つの光景が色鮮やかに、そして、その時の会話が鮮明に映し出されていた。あの時、あの場所で泰昭は、神の奇跡に近い光景を目にしていた。

 そして、人生で初めての恋を経験して、片思いの相手との別れも経験した。不思議と人生の厳しさを直に体験し、経験をした一日だった。

 あの儀式を執り行う前の待合室で、智代が言っていたある一言を思い出すことが出来た。

この一言を思い出したことにより、泰昭は智代の質問の回答を、全て繋げることが出来た。

 そして、一言ずつ言葉をゆっくりと選びながら、自分の言葉で智代に答えを告げた。

「確かあの時、智代さんは、『このお屋敷の主は、未来を見ることが可能なのです』 と、言っていたのを思い出しました。それについては、普通に考えれば冗談とも取れる話ですが、この前のあの儀式を、自分の目の前で見たのですから、それは嘘ではなく、本当の事だと理解しています。だから………」

 そこで言葉を区切った泰昭は、一瞬だけ気持ちを落ちつけてから、続く言葉をその口から発した。


「貴方は、ここに訪れた人の未来を見て、それを占いの結果として答えていた。そういうことですね?」


 泰昭の答えを聞いた智代は、まさに満点の答えを聞いたように、満足に頷きながら話しだした。

「とても素晴らしい答えです。貴方の答えの通り、私は人の未来を見ることが出来ます。その的中率は、外すことは有り得ないと言えるほど。それ故に、ここに訪れる人の名前は明かせませんが、どの方も財界や政界の重鎮の方ばかりです」

「はぁ………」

 答え合わせと思って聞いていたことが、わりとスケールの大きい事実を聞いてしまい、どう反応すればいいか分からず、気の抜けた声で返事することしか出来なかった。

「起源につきましては、江戸時代から始まっています。その頃は、西洋の魔術を主に使っていたのではなく、神教によるお告げで占いをしていた………、とでも申しましょうか。的中率は、お世辞にもそこまで高いものではありませんでした。まぁ、開国を機に、西洋魔術のノウハウを吸収していったようですけどね。おかげで、的中率が飛躍的に上昇して、今のような状態になりました」

「………」

「泰昭さん、ここまで一気に話させてもらいましたが、何かご質問でもありますか?」

「いえ、何も………。理解し難いところも多々ありますし、歴史に関しても同じくらいありすぎて、何も言えないですよ………」

「内容からして、まず信じられるかどうかも、まず怪しいですからね」

 小さく笑いながらそう言うと、智代はお茶で喉を潤し、まだ話のスケールの大きさに困惑している泰昭を気にせず、話を進めた。

「魔術のノウハウを教えてくれた一族の方々は、今も親しくお付き合いしております。あの大広間に飾ってある大きなシャンデリアも、実はその方々から頂いた魔法の品なのです」

「あれもですか………。確か、海外から取り寄せるとか言っていましたよね。納得出来ました」

「後、以前に博物館で、大広間のシャンデリアと同じ物を見たと思いますが………」

「!?」

「厳密に言えば、あれはお世話になっている方々から分かれた、別の一族が作られたものです。その方々は手先が器用で、こういった調度品を作るのがとても得意なのですよ」

「あの大広間のシャンデリアは、分かれる前に作られた、と言うことですね?」

「そう思って頂いて、問題はありません。あれは、大賀崎家との友好の証として、向こうから送られたものです。あれのシャンデリアも、今日までの占いが発展したと要因の一つで、この屋敷にとって無くてはならない物です」

「確かに、あんな現象を見せられると、そうですねって納得してしまいそうです」

 あの儀式でのシャンデリアの姿を思い返した泰昭は、ただ素直にその感想を述べた。

 見た目はただの大きい古ぼけたシャンデリアなのに、あの儀式と呼応しての変貌ぶりには、もはや言葉などは無く、ただ見ているしかなかったのを覚えていた。

「さて、ここまでお話を続けてきましたが、ここからが本題になると思いますよ?」

「本題………?」

 この時点で、もう精神的にはちょっと突けばバッタリと倒れるくらいに、泰昭の精神力は弱っていた。

 そんな状態で本題という単語に、少し虚ろだった目に光が宿り、真っ直ぐに智代へと向けた。

 その視線を受けた智代は、了承したといった感じで軽く頷くと、やや声の調子を落として話を始めた。


「なぜ、大賀崎家の当主は相手の未来を見ることが出来て、さらに時間を操る術を持っているのか」


 この一連の出来事に対しての、その核心に迫る質問のお題が出た事に、自然と気を引き締まるのを感じた泰昭は、一回お茶を飲んで頭を切り替えた後、ソファーに座りなおして智代の話を聞き逃さないと言った様子で、その話が始まるのを待った。

 その様子を見て、智代は問題無いと判断し、ゆっくりと話し始めた。

「先ほども話した通り、先代、先々代と、江戸時代から続く大賀崎家の当主は、全員強大な魔力を持っているという共通点があります。それも、時間に関する力を………」

 そこで言葉を切ると、おもむろに立ち上がり、本棚へと歩いていった。

 本棚のすぐそばまで近づくと、一冊の本を手にとって、パラパラとページをめくりつつも、話を続けた。

「何時の頃から、このような時間を操ることが出来るようになったかは、記述的には残されておらず、この真実を知る者は、私含めこの屋敷の中には誰一人としておりません」

「一人も………、いない?」

「えぇ、一人も」

 あっさりと一つの事実を知った泰昭は、驚きの表情で本に目を落としている智代の方へと、視線を向けた。

 それと同時に、智代は手にした本を、ポンと軽い音を立てて閉じると、視線を泰昭の方へと向けた。

「私の力は未来を見ることは出来ますが、過去に至っては未来を見るより、そこまで明確に見ることは出来ないのです」

「見られないって………、それは何故ですか? 未来を見ることが出来るのなら、過去も見られると思うのですが………」

 泰昭の素朴な質問に、智代は二~三度頷くとゆっくりと微笑みながら、泰昭の疑問を答えた。

「本当の理由は、私でも分かりませんが………。初代当主は、過去を見返すよりも、数歩先の未来を大事にすることが、全ての人にとって大事ではないのかと思い、時を操る術式にその手法を組み込んだのではないか、そう思いますね」

「その術式というものを、手を加えて過去も見られるようにすることって、出来ないのですか?」

「これまでの当主で、そのようなことを行った人物はいないと記されていますね。初代の当主の思いに、今日までの当主は共感した、ということではないのでしょうか」

「そうですね………、過去よりも未来。今はその言葉が、重く響くような気がします」

 過去よりも未来。

 その言葉には、この前の佐代子との日々と思い出が詰まっている一言だった。

 二人で過ごした日々は、もう二度と戻ってはこない。

 あれから月日は経ち、その思い出を胸に仕舞い、日々を過ごしていた。

 ただじっと過ごしていると、その時の記憶が全て消えて無くなるのを防ぐため、日々何かをして過ごしていた。

 ただ、忘れないために。

「そう言って頂けると、こちらとしても大変嬉しく思います」

 智代は、素直に自分の思いを共感してくれた泰昭に、感謝の言葉を述べた。

 突然の感謝の言葉に一瞬驚いた泰昭だったが、少し照れた様子で、智代の次の言葉を待った。

「話が少し脱線してしまいましたが、話を戻します。先ほども話した通り、大賀崎家の当主のみ、強大な魔力をその身に秘めて、時を操る術も身につけているのは、先ほど話した通り………」

 そこまで話を進めると、持っていた本を本棚の元にあった位置に納めて、話を再開させた。

「逆に言えば、大賀崎家の当主になるには強大な魔力と、時を操る術を身につけていないと、当主にはなれない。なので、その力を見極めるために、ある試練を受けなければならないのです」

「試練………?」

「えぇ、試練」

 そこで話を区切ると、智代は先ほどまで座っていたソファーの所まで進み、ゆっくりと座っていたところ同じ場所に座ると、目の前で座っている泰昭に視線を向けて、はっきりと伝えた。


「自分の時代よりも未来に飛び、そして生きて戻る事。それが試練です」


「………………」

 あっさりと簡潔に、されどその内容の重さに、言葉を無くした泰昭は、智代の言葉を待つしか出来なかった。

「まず、あの儀式の時に貴方も見たと思いますが、あの時空の大穴によって時間移動が可能、ということは御理解できますか?」

「まぁ、そこら辺は何とか………」

「結構です。まず、あの大穴に入るには、それ相応の魔力の強い者でないといけない。これには理由があります」

「理由とは………?」

「それは、最初にあの大穴に入った後、流れに乗っている間は様々な方向へと流れる時空の渦から、身を守るために魔力で身を固めること。この時、高い魔力を持っていなければ、永遠にあの大穴から抜け出す事は出来ません」

「それを含めて、試練を行う事によって見定める。と、言う事ですね?」

「えぇ、無事に大穴から戻ることが出来れば、十分な魔力の高さが証明され、当主として認められます」

「それなら、先程言った当主としてのもう一つの条件である、時を操る術というのは?」

 さっきの智代の説明から、当然のように出てくるもう一つの疑問にも、丁寧に答えが返ってきた。

「それは、本や口伝等で教えるのではなく、大穴に入り込んで自らその術を見つけなければなりません。もし、その術を見つけなければ、無数にある時空の渦にただ流されるだけの漂流物となってしまい、永遠に抜け出せなくなります。その場合の抜け出せる方法は、神の奇跡のみ。と、言ったところでしょうかね?」

「そこまでのリスクを背負ってまで、佐代子さんはこの時代に………」

「えぇ、彼女の時代での当主としての素質があるかどうかを、見極めるために」

「………。ですよね」


チッチッチッチ………


 つかの間の静寂で、置時計の時を刻む音が、異様に大きく聞こえた。

 その時を見計らったかのように、ガチャリとお茶一式をカートに乗せた家政婦が、お茶の淹れなおしてまいりました、と一言添えて入ってきた。

 その言葉を聞いた泰昭は、残り少ないカップの中身を見て、残りをぐっと飲み干すと、新しいお茶を家政婦にお願いした。

 軽く会釈した後に、慣れた手つきで温かいお茶を淹れて、ゆっくりと泰昭に手渡した。

 ありがとうございますとお礼を言って、カップを受け取った泰昭は、淹れたてのお茶を舌が火傷しない程度に、静かに飲んだ。

 智代も、新しく淹れてくれたお茶を受け取り、同じように少しだけ飲んだ。

 その後、家政婦は失礼しましたと二人に告げた後、カートを押しながら静かに部屋へと出ていった。


 チッチッチッチ………


 再びの静寂。

 さっきよりも、時計空の音が大きく聞こえる部屋の中を、二人は何も話さないまま、しばしお茶を飲むことに集中していた。

「………………」

「………………」

 時間的には、ほんの数分ではあったが、それ以上に長く感じた泰昭はいてもたってもいられずに、何となく頭をよぎった質問を智代に問いかけた。

「あの、さっきの時空の大穴に入って、無事に元の時代に戻ることが、当主としての試練と言うのは理解できました。ただ、佐代子さんの例で言うと、この時代に来ると言う事は、予め決まっていたことなんでしょうか? それとも、単なる偶然?」

 その質問に対して、智代は今までとは違った表情を見せていた。

 凛として堂々とした表情とは違う、やや憂いを秘めたような表情へと変わっていた。

 誰の目でも分かるような変化に、泰昭は一瞬戸惑いを見せたが、自分の質問を撤回することはせずに、そのまま聞く態勢を続けた。

 一歩も引かないと判断した智代は、小さくため息をつきつつ、諦めたかのように口を開いた。

「言い訳………、にしか聞こえないかもしれませんが、この試練に関する事例に関しては、予知や見ることなどは出来ないのです。理由は定かではないですが、試練の手助けを取らせないようにするため、そのように思われますね」

「手助け………、試練と考えるなら、不正が無いようにするためと?」

「その考えで、問題は無いかと」

「でも、おかしいじゃないですか? 今回の件で言えば、佐代子さんがこっちに来たのは向こうからの儀式ですけど、こっちから向こうに帰るのにも、儀式が必要ですよね? それは不正とは言えないのでしょうか?」

ふっと湧いた、泰昭の疑問。

 その疑問にも、智代は丁寧に答えるだけだった。

「この試練で重要なのは、時の大穴を往復して無事に帰ってこられるかどうか、と言うことです。ですので、行きと帰りに関する手段に関してまでは、特に関与してないという事です。逆に言えば、それ以外での支援は、行ってはいけないという事。事実、私の時もそうでしたし………」

「智代さんも、あの儀式を受けたんですね?」

 泰昭の質問に、智代は深く頷き、視線を一度窓の方へと移して、外の景色を見ていた。

 その視線には、得難い体験をした当時を思い出しているようで、その時の姿を知ることはできなかったが、その苦労を理解することはできた。

 泰昭の視線に気づいた智代は、すぐに我に帰ると、視線を窓から泰昭へと移して、話を再開した。

「えぇ、当主としてこの場所に居る以上、例外はありません。詳しい内容は伏せますが、この前見てもらった儀式と同じように、私もあの大穴に飛び込んでいました」

 話している最中に見せた、智代の寂しそうな笑いで全てを察した泰昭は、それ以上の話の続きを聞こうという気は、既に無かった。

 これ以上の話を聞くことは出来ないと判断した泰昭は、話の方向を修正しようと、ややうろたえた様な口調で試みた。

「えっと………。何か聞いてはいけない事を聞いてしまったようで………、すいません」

「いえいえ、今日は貴方の疑問を答える為ですから、あまり気になさらず。ただ、答えられる物とそうでない物がありますが」

「いえ、それでも十分ですよ。例え、答えられない物だったら、しょうがないと諦めますよ。それは自分にとっては知らなくていい、知ってはいけない物と理解できますから」

「ご理解が早くて、とても助かります」

 そう言った後に、お茶を一口飲んだ佐代子は、カップをテーブルに置き、泰昭の方に視線を向けた。

「さて、他に質問などはありますか?」

「え、はい、それなら………」

 こうして、泰昭の中にあった大小様々な疑問を、智代は丁寧に分かりやすく教えてくれた。

 いくつかの質問では、智代の口からその答えが出にくい物に関しては、自分には必要無い物と判断して、別の疑問を智代にぶつけた。

 そういったやり取りが続いていき、いつの間にか夕暮れの時間に近づいたのか、雲が多めの青い空が赤へと姿を変えていった。

 ボーンボーンと響く低い音が、二人のいる部屋にまで聞こえたとき、泰昭と智代は長く続いた質疑応答を、きりの良いところで中断した。

「あら………、もうこんな時間ですか。時間と言うのは、あっという間に過ぎていきますね。」

「そうですね。ただ、質問なんて最初の数十分くらいで、後は他愛のない雑談になっていた気もしますが………」

「それも良いではないでしょうか。私も政財界の方の重苦しい話よりも、貴方のような人の他愛ない話の方が、とっても有意義です。むしろ、ずっと話していたい気分ですよ」

「そう言ってもらえると、何か嬉しい気がします」

 そう話した後、可笑しくなったのか、二人同時に笑い出し、応接間は二人の笑い声に包まれていた。

 しばらくの間笑っていた二人であったが、次第にその笑い声が小さくなっていき、最後には静寂が室内に残っていた。

 泰昭は、何度か淹れなおしてくれたお茶の残りをぐっと飲み干し、目の前の智代へと深々とお辞儀をした。

「今回はお忙しいところを、わざわざ自分の為に時間を割いていただき、本当にありがとうございました。これで自分の疑問は、全部解消されました」

「そうですか………、ですが」

 そう言って、智代はまたソファーから立ちあがると、本棚へと歩き出して一冊の本を抜き取り、その本を持って自分が座っていた所まで戻ってきた。

 そのまま、さっきまでと同じように深く座ると、本棚から抜き出した本を泰昭の前に置いた。

 本は本革の表紙で覆われていて、所々擦り減っていたり汚れていたりと、少し見ただけで年代物であると理解することが出来た。

 しげしげと、目の前に出された本を見ている泰昭に、智代は静かに口を開いた。

「この本は、貴方を惑わすような魔術関連の本ではありませんので、中を確認しても構いませんよ」

「はぁ………、普通の本と聞いて安心はしましたが………、この本は一体?」

「ある方の日記帳ですよ」

「ある………、方?」

 智代の些細な返答に、まだ誰かはっきりとは分からないのに、何故か泰昭の心臓はさっきまでとはうって変わって、鼓動が早くなっているのが実感できた。

 なぜ、こうも心臓が苦しいくらいに、鼓動を早くなってしまったのだろうか。

 心臓を落ち着かせるように、右手を心臓のある左胸辺りに手を当てていると、智代は心配そうに話しかけてきた。

「泰昭さん、どうしました? 急に胸に手を当てて………」

「いえ、自分でも何が何やら………。ただ、本をちょっと眺めただけなのに………。失礼なことを聞くかもしれませんが、この本は本当に魔術に関する代物ではないんですよね?」

「えぇ………、中を確認したら、よくある日記帳なのですが。ある意味、運命なのかもしれませんね」

「運命………?」

「はい。その理由は、この日記帳を開いて頂ければ、ご理解できると思いますよ?」

「開く………」

 早くなった心臓の鼓動に呼応したのか、小さく震える手を何とか抑えながら、目の前にある革の日記帳を手に取り、表紙をゆっくりと開いた。

そして、最初の一ページに書かれている文字を目にした時、頭の中が真っ白になったのがはっきりと実感できた。

 最初に書かれていた文字は、とても丁寧な字体で小さくもはっきりと、こう書かれていた。


『大賀崎 佐代子 著』


 佐代子が書かれたと思われる日記帳を手にして、目を丸くしたまま固まっている泰昭を前に、智代はしんみりとした表情で泰昭を見つめていた。

 しばらくの間、泰昭は文字を凝視したまま動きを止めていたが、次の瞬間にはページを開いてびっしりと書かれた文字を、一文字一文字食い入る様に見ていた。

 最初に開いたページには、佐代子が元の時代に戻ることができ、そのまま当主として迎え入れられた事。いきなりの生活の変化に戸惑いながらも、自分に与えられた使命を全うしようと心に決めた事。初めての当主としての役割をやり遂げ、言葉に出来ないような満足感を得られた事。他にも、日々の様々なことに関して、その時その時の心境などを、丁寧な字面で書かれていた。

「………、そっかそっか。そんなことがあったのか………。楽しそうで良かった」

 一ページを隅から隅まで読んで、次のページへと進み、また同じように隅から隅まで読んで、と続けていった。

 文面だけではあったが、その様子を鮮明に思い浮かべる事は、今の泰昭にとってはいとも容易いことであった。

 佐代子が色々な事に挑戦している様子を、泰昭は思い浮かべながらゆっくりとしたペースではあったが、読み続けていった。

 日記の内容も残り少なくなっていき、日記の日付もどんどんと年月が経っていくにつれ、文字が徐々に弱くなっていくのが分かった。

 それに気付いた泰昭だったが、それには一切言葉に出さず、ただ黙々と日記を読み続けていくだけだった。

 智代も、同じように一言も声を出さずに、先程と変わらずに、ただじっと泰昭を見つめていた。

 そして、最後のページに差し掛かった時、一瞬ページをめくっていた手が動かなくなったが、それを振り切るかのように手を動かし、最後のページを開いた。

 最初にその目に飛び込んだのは、短い文章だった。

『最後に、私は大事な人に嘘をついてしまった』

 再び、泰昭の手は一瞬動かなくなった。

 その事に戸惑いながらも、まだ動かすことが出来る目で、そこから続く文字を読み続けていった。

『私の残された時間も、僅かなものとなった。この日記を書く時間も、同じように残り僅かだろう。最後の時間に私はここに、その大事な人への謝罪の言葉を残したいと思う。私がこの屋敷の当主となったのも、未来へと時を超えて、無事に戻ってくることが出来たからだ。それには、私がその素養があったことが要因でもあるが、一番はその時代でお世話になった、ある男性の助力あってのものだと確信している。彼は、見ず知らずの私を助けてくれた。時を越えたと妄言を言う私を、一時は怪しんだかもしれないが、それでも助けてくれた。そして、そのまま一カ月の間、その時代の物事を見せて、聞かせて、体験させてくれた。全部、元の時代に戻った今となっては、全ては思い出となってこの最後の時まで、形を一切失わずに残っている。その中で、彼はこんな私に好意を持ってくれた。それに気付いたのは、ある時に海まで連れて行ってくれて、その海岸での散歩中に告白をうけたのだった。その時の事は今でも鮮明に覚えている。その時まで恋について何も知らない私は、真剣な告白を受けたときは頭が真っ白になり、胸が熱くなったのがはっきりと分かった。過去から来た私を、好きと言ってくれた彼の心は、本物だった。その告白を受けたいとも思った。けれども………』

 一文字一文字を見逃さずに読み進めて、ここで一度日記から眼を放した泰昭は、少し長めに息を吐くと、お茶の入ったカップを手に取り、中身を少し口に含み、喉を潤した。

 その後、軽く眼頭を強めに刺激した後に、日記へと目を移し、中断したところから読み始めた。

『けれども………、私はその告白を断ってしまった。理由は彼にも話した事だが、私と彼の住む時間は決して交わることの無い流れにある。それを無理に交わらそうとすれば、世界の理を崩壊してしまうことだろう。もっとも、あの時の私にはそこまで深く理解はしてはいなかった。ただ、何となくそうなのだろうと感じただけではあった。それでも、私はその直感の為に、彼の告白を断ってしまった。この世の崩壊を崩すことを防ぐためとは言え、彼を傷つけてしまった。それは誰から見ても明確な事。それでも、彼はその事に気にする事無く、今まで通りに私と接してくれた。ただ、微妙な空気がしばらくの間続いたのは確かだった。その空気の中、私はこの時代での最後の日を迎えた。私が、元いた時代へと戻る日が来たからだ。その日の事も、鮮明に覚えている。未来の屋敷で迎えられ、そのまま時を超える儀式へと移っていった。儀式は順調に進んでいき、大穴へと飛び込む段階まで進んだ。その時に、初めの時超えの影響で、一部消えた記憶が元に戻った事もあったが、その大穴に身を沈める前に、彼から最後の別れがあった。最初は簡単な雑談ではあったが、私が大穴に飲み込まれる刹那、彼はこう叫んでくれた。


 佐代子! 僕はあんたのことが好きだ! 例え時が壁になろうとも、あんたがどう思おうとも、僕はあんたが好きという事実を、元の場所に戻ったとしても覚えておいてくれ! 僕も、絶対に忘れたりはしない! 絶対に! と。


その言葉が、時の流れの中に身を委ねた私にとって、恐怖など感じさせないほどの、暖かく強いお守りとなったのは確かだった。その温かさを感じながら、私が居た時代へと流れていった。そして、無事に戻る事が出来た私は、大賀崎の当主として生きていくことになった。つらかった事、楽しかった事、全て私の人生の中で輝かしく残っている。残された時間も後僅かな今、そのどれもが懐かしく思う。けれでも、私の最初で最後の罪である彼を傷つけてしまった事については、一生消えない傷としてこの身が滅ぶまで残るだろう。出来る事なら、もう一度彼の前で、心を込めて謝罪したい。しかし、もう歩くことすら出来ない今の体では、最後の望みすら叶わないだろう。でも、もしこの世に神の奇跡があるとするならば、この日記を彼の手まで届いてくれる事を望む。そして、あの時の返事を彼に届けたい。


あの時はごめんなさい。そして、私も貴方の事を本当に愛しています』


 最後の一文を最後に、日記は終わっていた。

 そのページを開いたまま、泰昭は自然と体が小刻みに揺れている事に気が付いた。

 そして、そのまま目から涙が流れているのも、しばらく経ってから気が付いた。

 じっとその様子を見ていた智代は、少し時間を置いてから話を始めた。

「大丈夫ですか? お茶をお持ちしましょうか?」

「いえ………、大丈夫です。ちょっと、胸のモヤモヤが消えたような………、そんな気分です」

「そうですか………」

 その後、お互いにしばらく話す事はせず、お茶を飲んでいるなど、お互いに静かな時間を過ごしていた。

 泰昭の方も次第に気分が落ち着いたのか、軽く眼もとを拭きながら、少し赤く腫れた目で智代を見て、はっきりとした言葉で口を開いた。

「お待たせしてすいません、落ち着きました」

「いえいえ、かまいませんよ」

 謝罪の言葉を述べた後、数回ほど軽く深呼吸をした泰昭は、簡単な質問を智代にしていた。

「智代さん。この日記帳があると言う事は、今回の件に関しては全て知っていた、と言う事になるんですか?」

「いえ、この日記帳が見つかったのは、つい最近の話です。それに、佐代子様の名前は出ておりますが、貴方も見ていたのでお分かりかと思いますが、詳しい日付や時間が書いておりません。先程も言いました通り、予め知っていたら、当主の試練にはなりませんからね」

「です………、よね」

「えぇ、この日記を書き始めたのが、佐代子様が元の時代に戻った後に書かれたもの。そうならば、この規約を厳守するために、詳しい日時などを記すのは避けたのでしょう。もし、早くに見つかったとしても、対応できない様にするためだと思いますし………」

「と、言う事は………。ここに自分の名前が記されていないのも、それに関係しているってことなるんでしょうか?」

 泰昭の質問に関して、智代は流れる様に質問の答えを返した。

「いえ、先程も申しましたように、試練に関しては大穴から無事に戻ってこられるかどうかですから、泰昭さんの名前が載っていたとしても、そこまで大きな問題にはなりませんよ」

「では、何のために………?」

その質問に関しても、智代は淀みなく返答してくれた。

「これは推測ではありますが………。佐代子様は元の時代に戻った後に、当主としての人生を過ごしていました。無論、女の喜びでもある結婚もしています」

「………、はい」

 結婚。

 たった二文字の単語に、一瞬だけ頭の中が真っ白となった。

 そして、早鐘のように鼓動を打っている心臓を抑える様に、出来るだけ目立たない様に深く呼吸を繰り返していた。

 呼吸を繰り返している泰昭は、どうにか回る頭で必死に考えをまとめていた。

 佐代子さんは、元は過去の時代の人間であり、彼女の生活があるのだから、結婚も有り得る話である。

だから、そこまで深く意識する必要はない。

 だから、落ち着け。

 頭の中で何度も何度も反芻させて、心臓の鼓動と精神状態を元の状態に戻していった。

 その様子を見ていた智代は、泰昭が落ち着いて話を聞くのを待ってから、再び話し始めた。

「佐代子様は、時代は違えども自分を愛すると言ってくれた、貴方の事を蔑ろにしてまで別の男性と結婚をしていた。それは、この屋敷を存続させるためとはいえ、佐代子様ご本人にとっては、貴方に申し訳ないと思っているほどに。だから、あの日記帳の最後の内容で、貴方の名前が出ていないのは、あの人なりの断罪の仕方なのかもしれません」

「断罪?」

 泰昭の一言を大きな頷きで答えると、智代はその疑問の答えを話してくれた。

「文字通り、断罪です。日記の最後の内容を思い出して頂ければ分かると思いますが、貴方の告白に対して佐代子様は、謝罪したいと言う心境なのは、先ほど言った通り。だから、自分だけ結婚と言う行為に負い目を受けて、貴方の名前を呼ぶのに相応しくないと思い、あのような書き方をした。と、私は考えます」

「自分の名前を呼ぶには相応しくないって………、そんなこと全く考えてないのに。まったく………」

 寂しそうに小さく笑う泰昭は、しばらくの間、目を瞑って考えを巡らせていた。

 その考えの中には、砂浜で告白していた時の佐代子の姿があった。

 ちょうど告白した時の、あの困ったような表情をしている彼女の姿が。

 あの時では完全に振られたと確信した場面だったが、彼女の本当の心の内が分かった今では、彼女の優しさが体中を巡りまわり、感謝したいと気持ちで満ち溢れていた。

「本当に………、優しい人だ」

「それも、貴方のおかげと言えますね」

「自分の………、ですか?」

「えぇ、貴方が佐代子様と一緒に過ごした一カ月。ただの一カ月かもしれませんが、佐代子様にとっては、本当にかけがえのない一カ月になったようですね。私としても、喜ばしく思いますよ」

「いや………、そこまでの事は………」

「貴方は、そこまでの事をやり遂げたのです。実感は無いかもしれませんが、自信を持ってください。信じにくいかもしれませんが、この私が保証します」

「ははは………。この場合、何と言えば良いか分かりませんが、素直にありがとうございますと言っておきます」

「はい」

 その後、再び他愛のない雑談等をしているうちに、部屋の扉の奥から鈍い鐘の音が数回鳴り響いた。

 その音に気付いた智代は、窓の方に顔を向けると、いつの間にか日は傾いていて、やや雲が多めの空の色は赤へと変わっていて、もうしばらくすれば黒へと変わっていきそうだった。

「ずいぶんと、話が弾んでしまいましたね。あっという間にこんな時間ですか」

「あぁ、本当だ………」

 腕時計で今の時間を確認した泰昭は、手早く身支度を整えると、ソファーから立ちあがり深々とお辞儀をして、感謝の言葉を智代に述べた。

「色々とお話を聞かせてくれて、本当にありがとうございました。これで、枕を高くして安眠出来ますよ」

「ふふふ、それならこちらとしても、安心です」

そう言って、智代も立ち上がり、泰昭の先を導くように進みだした。

一瞬どうしたのかと思ったが、すぐにお見送りと分かった泰昭は、すぐさまその後を追うように部屋を出た。

屋敷の中を歩いていき、玄関ホールを智代の手で開けてもらい、正門までの道が泰昭の目の前に広がった。

また道の両脇にたくさんの人が並んでいるのかと覚悟したが、今回は一人も並んではいなくて、心のどこかでホッとしていた。

「そう何度もお出迎えされては、恐縮してしまいますよね?」

「あ………。まぁ、その通りではありますが………」

 見透かされたような一言に、泰昭は一瞬ドキリと焦ったが、諦めたかのようにその質問に肯定の返答をした。

 その一言に、智代はにこりと笑って、話を続けた。

「さて、今日を最後に、貴方がここに訪れる事はもう無いでしょう」

 いきなりの衝撃的な告白に、目を丸くして智代の方を向いたが、その微笑んでいる表情を見た瞬間に、泰昭は全てを察することが出来た。

「………。そうでしたね、智代さんは未来を見る事が………」

「えぇ、儀式の用意をしなくとも、少し先の未来でしたら、明確とはいきませんがね」

「いやぁ、それでも十分すごいですけども………」

 泰昭の一言に、一層優しく微笑んだ智代は、一瞬だけ真顔になって泰昭を見据えた。

 あまりにも唐突だったので、一体どうしたのかと理解することが出来なかった泰昭は、疑問符を顔に出したような表情で、智代を見つめていた。

 その後すぐに、智代は先程までの優しい微笑みへと戻り、その笑顔を泰昭に向けた。

 ただ、その微笑みに泰昭は違和感を覚えた。

 どちらかといえば、優しさ溢れる微笑みというよりかは、いたずらっ子が何かしらを仕掛けた時に浮かべる、少し企んでいるように思える微笑みだった。

「………?」

「ふふふ」

 首を捻る泰昭に、智代は楽しそうに話し始めた。

「これも運命………。いえ、神様のきまぐれ………」

「は、はい?」

「いえ、この話はまだ続いていると言った方がいいのでしょうか………」

「あの………、何を言いたいのでしょうか? 意味が全く分からないんですが」

「うふふふ」

 再びいたずらっぽく笑うと、目を閉じてゆっくりと手を前に出して、泰昭に指を差しながら歌うように話しだした。

「貴方が直したシャンデリアですが、あれは魔法の品で滅多な事では壊れない代物です。なのに、貴方が来る前に壊れてしまいました。今まで一度も壊れなかった物なのに」

「はぁ………?」

 唐突に言いだしたシャンデリアについての補足説明的な話に、一層困惑していった泰昭を尻目に、智代はいたずらっぽい微笑みをしたまま、話を続けていった。

「壊れて点かなくなったシャンデリア、そのすぐ後に来た貴方、時同じくして現れた佐代子様。何と言いますか、神様の運命のいたずらとも思える出来事とは思いませんか?」

「まぁ………、あの時に触ったグローランプみたいな電球が光ったと思ったら、佐代子さんが床で倒れていましたからね。本当に、運命とも言えるのかもしれませんが」

「そんな神様のいたずらが、あの儀式の日を最後にその奇跡も終わらせてしまった。と、考えてしまいそうですけど、どうですか?」

「いやぁ………、あんな神秘的な儀式を目の当たりにしたのでは、神様の奇跡というのもそこで終わりと思いますけど………」

「そうでしょうねぇ」

「???」

 一向に質問の真意を読み取ることが出来ない泰昭は、未だいたずらっぽく微笑んでいる智代の言葉に少々苛立ちを感じていた。

「あの、もう降参です………。智代さんが言いたいことって、一体どういうことですか?」

「あら、ごめんなさい。久々にこういうことを目の当たりにすると、年甲斐も無く興奮してしまうもので。うふふふふ………」

「こういう………?」

「でも、そうですね。これ以上はぐらかしてしまうのも、泰昭さんに失礼ですよね。とはいえ、ここですんなり教えてしまうのもつまらないですから、分かりやすいヒントだけでもお教えしますね?」

「ヒント………、ですか」

「はい。ヒントとしましては、まだ終わってはいない。と、だけ言わせてください」

「終わってない………?」

「えぇ、終わっていません」

「???」

「貴方が付けたシャンデリアの明かりは、まだ消えたわけではない。とも、言えそうですね」

「ますます分からないのですが………」

「いずれ、分かりますよ。近いうちに、ね」

「はぁ………?」

 そうはぐらかせたまま、智代に見送られた泰昭は、新たな疑問に包まれたまま大賀崎の屋敷を後にした。



「………。本当に何だろう、最後のヒントって」

ぼそっと呟きながら車を止めた駐車場へと向かう道中、泰昭は最後に後ろを振り返って、堂々と佇んでいる大賀崎の屋敷をその目で焼き付けていた。

 ほんの一カ月程度の出来事であったが、自分の中の常識という言葉を、悉く塗り替えられたような一カ月だった事を思い返していた。

「本当に、色々ありすぎたよ………。ああいう変な儀式とか、佐代子さんの事とか………」

 周りに聞こえない様に小さく呟きながら、しばらく屋敷をじっと見つめてから、その場を離れていった。

 空は夕焼けの赤に染まり切っており、歩いている道の所々で咲き乱れている桜の花と、見事に一体となっていて、夕空の風景を一層華やかに演出していた。

 しかし、華やかに色づいている空を楽しむほど、泰昭に余裕はなかった。

「さっさと帰って寝るか………、無性に疲れた………」

 自分の中にあった疑問は殆ど消えてはいたが、適度に残った疲労感で足取りが重くなった泰昭は、周りの風景を楽しむと言うことをせずに、駐車場への道を急いでいた。

 夜へと進んでいく街は人通りが多く、スーツを着たサラリーマンや友達と喋りながら並んで歩いている小学生等、そのほとんどが自分の家へと向かっていた。

その流れから逆らうように、歩いている泰昭は、人にぶつからない様に気をつけながら、駐車場へと歩いていた。

 そして、小さな路地に入ろうと曲がったところで、泰昭の視界は一瞬真っ黒となった。


ドンッ!!!


「っと!」

「きゃっ!」

 視界が真っ暗になったのと同時に、強めの衝撃が体を襲い、ふらついて二~三歩ほど後ろへ下がってしまったが、すぐさま頭を振りつつ、黒だった視界を元に戻した。

 ぱっと戻った視界には、一人の女性が尻もちをついて倒れていた。

「つっ、いったぁ………」

「だ、大丈夫ですか!? すいません、よそ見していたみたいで!」

「い、いえ。私も同じようなものですので………、いたた」

「立てないのですか? 手を貸しますよ、はい」

「す、すいません………」

 泰昭の手を取った女性は、少し足をふらつかせながらもゆっくりと立ち上がった。

 春らしく、白のブラウスと淡いピンク色のスカートで着飾った女性は、身の周りを数回払い落した後、泰昭の方を向いて軽く頭を下げた。

「お手数かけてすいません。痛みもそんなに酷くないので、もう大丈夫です」

「あぁ、そうですか。それはよか………った………!?」

 泰昭は言葉を詰まらせた。

 ただ、転んだ女性の手を取って立ち上がるのを手伝い、その女性の顔を見ただけで一切の思考が止まってしまった。

「あの、どうかしましたか?」

「………」

 女性の質問にも答える事が出来ない程に、体が固まっているのが理解できた。

 心配そうに泰昭の顔を覗き込むが、結果的には更に固まってしまうという、あまり変わらない事態に陥ってしまった

「も、もしもし?」

「なんで………?」。

 ようやく喋る事が出来た泰昭は、率直な自分の言葉を呟くように出していた。


「佐代子さん………?」


 目の前に居る女性は、見間違えでは無く、よく似ているそっくりさんでもない、紛れも無く佐代子本人だった。

一カ月も一緒に同じ時間を過ごしていた泰昭にとって、彼女の顔は絶対に忘れる事や間違える事は無かった。

しばし固まっている泰昭の呟きが聞こえたのか、目の前の女性は一瞬驚いた表情になり、一つの疑問を泰昭に投げかけた。

「佐代子………? なんで貴方は、私のご先祖様の名前を知っているのですか?」

「ご、ご先祖?」

「はい、確か本家でご先祖様の中で、佐代子というお名前を聞いた事があるので………。失礼ですが、貴方は本家とはどういったご関係なのですか?」

「どういった関係っていうよりも前に………。本家? ご先祖様? そっちに関しても何の事だかわからないんですが………」

「え………、どういうことですか?」

「いや、僕もイマイチわかってないと言うか………」

「はぁ………」

「うーん………」

 しばらくの間、お互いに面と向かいあったまま、ただ何も話をしない無言の時間が過ぎていった。

 二人のそばを歩いて行く人々は、二人が何も話さずに面と向かっている光景に、疑問の表情を一瞬二人に向けたまま、足早に通り過ぎていった。

「えーっと、まずそちらの話を聞かせてほしいけど………」

「そ、そうですね」

 そういうと、女性は咳払いを一つついてから、話を続けた。

「私は、大賀崎小夜と言います。この街で一番大きな大賀崎というお屋敷で、お世話になっている者です」

「お世話になっているって………?」

「えぇ、私は分家で暮らしていまして、本家の方では家政婦のお手伝いをしているんです」

「後、本家と分家っていうのは………?」

「えぇ、大賀崎はここに建てられている本家とは別に、ここより先に建てられている所がありまして、そこを分家と呼んでいるんですよ」

「はぁー。それに関しては、今初めて聞いた気がするなぁ………」

「それで、貴方は大賀崎の本家とは、どういったご関係なんでしょうか?」

「あぁ、えっと。僕は広瀬泰昭って言って、あそこのお屋敷には、照明廻りの点検で入ったくらいくらいで………」

「作業員の方ですか? そうなると、ご先祖の佐代子様のことは、そこまで御存じでは無いはずですが………」

「あぁ、そこら辺の説明をするとなると………」

 そういって、言葉を切った泰昭は、どう説明すればいいか言葉を選んでいた。

 ただでさえ、佐代子に会った状況が状況なものだから、小夜と名乗った目の前の女性に、事細かく説明していいものか、とても悩んでいた。

 また、あの儀式に関する事を話すのだから、大賀崎の関係者とは言え、話していいものかと悩んでもいた。

 話したほうがいいか、話さないほうがいいか。

 ほんの些細なことで、思案している泰昭の顔を見ている小夜は、いつまでも話を進めない泰昭に恐る恐る話しかけた。

「あの………、そこまで話しにくい理由なのでしょうか?」

「いや、そのぅ………。これを言っていいのかどうか、ちょっと心配になって」

「心配………?」

 僅かに頭を捻る小夜を見て、これ以上話を留めていてもあまり意味がないと判断した泰昭は、意を決したかのように、話し始めた。

「まず、確認したい事だけど………」

 そう前置きしてから、少し間をおいて話を続けた。

「分家の人も、本家の………、その………、ある事に関してなんだけど。そういうことは理解しているっていうか、知っていることなのかな?」

「ある………事、ですか?」

「えっと、世間一般の人が聞いたら、まったくもって理解できない事。と、言った方がいいのかな………」

「理解………? あぁ、あの件に関してという事ですか? 当主に関しての………」

「そう! それそれ!!!」

 泰昭の質問に関して、小夜はあっさりと返してくれた。

 それだけで、事細かに話をしても問題ないと判断した泰昭は、自分が体験した事を全て話した。

 大広間のシャンデリアを、自分が修理したこと。その時に、試練の為に過去から飛んできた佐代子が現れた事。

その後に、彼女を助ける為、一カ月程一緒に過ごした事。そして、儀式は無事に終わって、佐代子は元に戻った事。

その場には、泰昭も一緒にいた事。

 ただし、彼女に恋をした事までは話さなかった。

「そうなのですか………、」

 泰昭の話を全て聞いた小夜は、納得したと言った表情で何度か頷いていた。

 泰昭も、話をして良かったことに、ほっとしたような表情をしていた。

「先程言いました分家とは、本家と比べて魔術の能力が低い家系で、昔から本家の様々な手伝いを行っています。なので、本家でやっている事の大体は、私も存じているんですが………。魔術に関しては、一般の方には公言していない事で、儀式に関してはもってのほか。それなのに、何で貴方がいる時に現れたのでしょうか………」

「本当に、奇跡というか神様のいたずらというか。そうとしか言えない………」

「そうとしか言えないほど、タイミング良く現れたんですね」

「今でも信じられないよ………」

 そう言い合いながら、お互いに軽く笑いあっていた。

 そして、小夜の笑う表情を見ていた泰昭は、ある一つの事を思い出していた。

 

 一緒にいた佐代子の笑顔と、まったく瓜二つだった。

 

 見れば見るほどに、佐代子を思い出してしまうほど瓜二つの小夜に対して、今まで我慢していた思いをこらえきれずに、泰昭はぶつけてしまった。

「あの、こんな事言うのもまったくもって変ですけど、小夜さんってその………、ご先祖様の佐代子さんにそっくりって言われませんか?」

そんな泰昭の質問に、小夜は驚き半分と恥じらい半分と言った表情でもじもじと答えた。

「えっと、そうですねぇ………。本家や分家で、長い間生活している熟年の方たちの一部ですか? 私の顔を初めて見た時に、とても驚いていた事を覚えています。」

 そう恥ずかしそうに言う小夜を見て、泰昭も納得したかのように頷いていた。

 当時の事を知っている人が、あの時の佐代子と同じ顔である小夜の顔を見れば、誰だって大いに驚くだろう。

 実際に、彼女の顔を知っている泰昭も、しばらく固まった事を思い出していた。

 まるで生まれ変わりとも言える彼女の容姿を、何も返答せずにジッと見つめている泰昭を見て、小夜は少し照れたような表情で、恥ずかしそうに聞いてきた。

「あの………、どうしたんですか?」

「へ!?」

「さっきから何も話さずに、私の顔をじっと見ているんですけど………。そんなに佐代子様にそっくりですか?」

「うん………。本当に、瓜二つっていう言葉しか、出てこないぐらいに」

「そこまで似ていますか………。何か不思議な感覚ですね、自分のようで自分で無い人の話を聞くのって」

 そう言ってクスクスと笑うと、にこやかに笑いながら泰昭に話しかけた。

「あの、そのお話を詳しく教えて頂けませんか?」

「へっ!?」

 突然のお誘いに、泰昭の思考は止まった。

 しかし、小夜はそれを尻目に、せきを切ったかのように勢いよく話し始めた。

「佐代子様と一緒に過ごしたってことは、一緒の家ですか? 後、どういう所を見て回ったんですか? 一番驚いた事って、どんなことですか? 佐代子様って、何か魔術を披露してくれました? 後は、気に行った事とか感動した景色とか。他には………」

「ちょちょちょちょ! ストップ! ストーップ!!!」

小夜の矢継ぎ早な質問責めに、大焦りで何とか制止した泰昭は、軽く一息ついた後、少し疲れたように口を開いた。

「とりあえず、落ち着いて………。まずは、人が通るこの場所でそういった話はしない方が………」

「あ………」

 小さく声を上げて、すぐさま周りを見回すと、人通りが激しくは無い路地とは言え、二人のそばを数人の人が歩いていた。

 一体何をしているのだろうと言う、やや白い目を向けている事に気付いた小夜は、一気に顔を真っ赤にして両手でその顔を隠した。

 それで落ち着いたのか、顔を隠したままで、おずおずと泰昭に声をかけた。

「あぁ、しまった………。いつも落ち着いて行動しなさいって、お母さんから言われているのに………。こう言う事になると、周りを見られなくなっちゃう………」

「自分も熱中していると、周りなんか気にしなくなっちゃうから、同じだよ」

 その一言で、二人は顔を見合わせて噴き出したように笑い始めた。

 ほんの数分ほど笑いあった後、小夜は楽しそうに笑いながら泰昭に話しかけていた。

「冷静に考えたらもう遅い時間ですね。泰昭さんもお忙しそうですし、都合が良い時にお話を聞かせてもらってもよろしいですか?」

「あぁ。時間に余裕がある状況だから、連絡をくれれば大体は………」

「本当ですか? だったら、携帯に連絡先を交換しませんか?」

「それなら………、はい」

「ありがとうございます!」

 二人はそこで言葉を切ると、お互いの携帯電話を向かい合わせて、赤外線通信を行った。

 数秒程経って、お互いの携帯から短い電子音が鳴り響き、通信が無事終了した事を知らせてくれた。

 小夜は、自分の携帯電話を胸元まで持っていき、とても嬉しそうに両手で掴んでいた。

 泰昭も、通信を終えた自分の携帯電話を、自分のポケットに突っ込みながら、ささやかな疑問を小夜に尋ねてみた。

「そんなに嬉しいのかい? 大げさだよ………」

 泰昭に質問に、小夜は満面の笑みで返してくれた。

「いえ、私ってこういう類のお話は、とても大好きなのですよ。良くある小さい子向けのおとぎ話とか、ファンタジー関連のお話とか、私の部屋に山のようにありますし………。それに………」

 そこで一旦言葉を切った小夜は、じっと泰昭の方を見ると、照れたように顔を別の方へと向けて、小さく答えた。

「それに、泰昭さんとは初対面のはずですけど、何故か一緒に居ると嬉しくて………」

「一緒で………、嬉しい?」

「えぇ! 一緒に居ると、不思議と安心できるって言いますか………」

「………………」

 小夜の一言で、泰昭は周囲の世界が自分を中心にぐるぐると回っているという、あまり味わったことの無い感覚に陥った。

 容姿が佐代子とまったく同じな同い年の女性に、笑顔でそんなこと言われると、こうも不思議な感覚に陥ってしまうのか。と、何とか動く頭であまりたいしたことのない事を考えている時に、不意に大賀崎の屋敷を後にする際に、智代から聞いた言葉を思い出していた。

『ヒントとしましては、まだ終わってはいないとだけ言わせてください』

 この謎の一言の後に、小夜との出会い。

 あまりにも出来過ぎたようなここまでの出来ごとに、もしかしたらとある考えが浮かんでいた。

 

小夜は、佐代子の生まれ変わりということだった。


 自分を見たときに安心するという一言が、心の奥底で妙に引っ掛かっていた。

 まったくの初対面である赤の他人に、ほんの少しの会話でそこまで心を許せるものなのかと疑問に思っていたが、あまりにも強引すぎるこの仮説だったら、妙に納得できてしまう。

冷静と思いながらも、大いにうろたえている頭で、小夜のほうへと顔を向けた。

そこには、不安そうにこっちを見つめている小夜がいた。

そして、目があった次の瞬間には、すぐににこやかな笑顔をこっちに向けてくれた。

その笑顔を見て、泰昭は小難しく考えたり悩んだりするのを、止めることにした。

例え、容姿が完全にそっくりなだけの女性でも、佐代子の生まれ変わりだったとしても、彼女はまったくの赤の他人である泰昭の事を、まったく疑うこともせずに安心できると言ってくれた。

それで十分だと、泰昭は確信した。

多分、智代はこのことを示唆していたのだろうと、理解した。

これも、初めて大広間にある、あのシャンデリアのグローランプに触れた瞬間から、すでに始まったのかもしれない。

もしくは、こうなる事は予め運命づけられていたのかもしれない。

でも、そんなことは泰昭にはもう関係なかった。

あのグローランプに触れた瞬間に、過去から来た佐代子と出会って、一ヶ月という長くとも短い期間を、一緒に過ごし、常識を一気に覆された光景を目にする事になった。

この事が今後の泰昭の人生に、どのような影響を与えるのかは分からなかったが、そのおかげで小夜という女性と出会う事が出来た。

全ては、あのシャンデリアの影響なのか………

『自分のこれからの人生が、あのシャンデリアのように明るくなったってことか?』

 そう考えた泰昭は、微笑みながらも小さく呟いた。

「一度グローランプが点灯したら、照明は明るく点灯するか………」

「え?」

「いや、こっちの話」

「変なの!」

 また不思議そうに顔を覗き込んでいる小夜を抑えながら、泰昭はにっこりと笑った。

「とりあえず、今日はもう時間無いから、話をするのはまた今度かな………」

「でしたら、次会うとしたらどこにしましょうか?」

「話す内容が多いから、落ち着いて話が出来る場所があればいいんだけど」

「だったら、この近くに雰囲気の良い喫茶店があるのですけど、そこにしますか? 案内しますよ!」

「喫茶店………。小夜さんって、結構食べちゃう方?」

「え? いえ、そんなに食べられるわけ無いじゃないですか」

「なら、良いけど………」

「???」

 空の赤色が更に濃くなっていき、その赤に塗られていく街の中で、二人の男女が話を続けていた。

 しばらく会話を続けていたが、その後話が終わったのか、二人は別れてお互いの行くべき方向へと歩き出していた。

そして、たくさんの人が行き交う雑踏の中へと入っていき、その一部となっていった。

 人の波に飲まれていた二人の思いは、どのように巡っているかは、誰にも分からない。

 ただ、泰昭は今回起こった全ての出来事に関して、心の奥底で余り信じきれてないながらも、感謝していた。

 あまり奇跡などを信じてはおらず、たまにある幸運を奇跡だと言って信じる程度だった。

 だが、今回の一連の出来事で、そう言った価値観を一気に覆されたようなものだった。

 その事に関しては、あまり不快感などはなく、むしろすがすがしく感じていた。

「本当に、色々とありすぎた出来事だったなぁ。でも、不思議と悪い気はしない………。まったく、俺にも何か魔術でもかかったのかも………」

 笑顔で呟きながら、車のエンジンをいれた。

 そのまま、いつもやっていたようにカーラジオのスイッチを入れて、流れてくる音楽に包まれながらサイドブレーキを切り、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。

 徐々に黒く染まっていく街を、二つのライトをつけた軽自動車が、染まっていく街を切り開いていくように走っていった。

 車を運転している泰昭は、この前の時とは違い、晴れやかな心で運転していた。

 泰昭の心の中のシャンデリアは、煌煌と明るく光輝いており、カーラジオから流れる音楽も、とても心地よく泰昭の耳に届いていた。

 今の泰昭の心の中は、過去と共に未来へと見始めていた。

 次はどんな奇跡があるのかと、期待しながら。



END

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