おにいちゃん、神は死んだんだよ?
夏山茂樹
夏のはじまり、壊されたおにいちゃん
「ナオミィ、扉を開けてや。お願いや」
兄の特徴的な高い声が今にも消え入りそうに、
その夜は真冬の東北にありがちな、靴下と床が引っ付いて離れなさそうなほどの寒さだった。田舎の家には部屋以外に暖房はついていない。
その声があまりにも怖くて、可哀想に感じられたものだから彼女は
「何が起きたんや、にいちゃん」
すると温かい室内にやっと入れた彼女の兄は、ここは天国や、などと言いながら横になって頼み込んだ。
「一緒に寝てや、ナオミ」
「なんでまたそんなケッタイなことをやあ?」
すると奈緒美の兄は顔を背けて、どこか恥ずかしそうにして静かに答えるのだ。
「一人で寝るとな、なんかイヤな夢を見るんや。中学生になるお前には教えられないようなやあ、恥ずかしくて泣きたくなる夢や……。見てみぃ。にいちゃんの目、クマができとるやろ?」
兄が動く右手でそのクマを指してみせる。奈緒美はその目に涙が溜まっているのが分かった。
アレは夏始まりの頃、奈緒美は小学生最後の夏だった。兄が所属するサッカーユースクラブが全国大会へ行くことになって、ちょうど家族でそれを祝うパーティーを開いた翌日だ。
その晩はいつも帰ってくるのが遅い母親が、仙台駅の店で買った萩の月と後輩の局アナを連れてきて、頬を
「アトリ、アンタは自慢の子供だよ! ナオミにももっと頑張ってほしいわね。……例えばそう、無理はしないでいいから
中学受験を控えた奈緒美にとって、その言葉はズサリと胸に突き刺さるものだった。百合学園は東京の本部をはじめ、様々な分野で有名人やエリートを輩出した、カトリック系の女子校だ。親戚のいる上杉学院とは違って毎年受験生で枠が埋まり、その中に入ろうと色々な親子が
「これも神様のお導きがあってのことだよ」
アトリが静かに答える。彼は萩の月を両手でふたつに割ってみせると、それを歯並びのいい口の中へ放り込む。普段ならそういった行為は母が止めるのだが、その日の母はアトリの
彼は本当に美味しそうに萩の月を食べてみせる。形のいい唇を指で撫でながら心地のいい
アトリは自分の力で得た地位や力も、全て神様のおかげだと思っている、と口で言って
「そうやな。アトリ、寝る前にはちゃんとお祈りするんだよ? ナオミみたいに欠かしちゃあかんで」
「分かった」
素直に母の言うことを聞いて笑顔で奈緒美を見つめるアトリは、もう十五歳の高校生なのに反抗期というものが来たことがないのかと言うくらい、親に従順で彼女にはそれが気持ち悪く感じられた。
だが顔は良くて、小学校のクラスメイトも奈緒美の兄を見て、「イケメンだわあ。なお、うらやましいわ」と言ってその
奈緒美とアトリの家、言い換えると
それでも母は当たり前のようにカトリックの女子校に奈緒美を入学させようとするのだ。中学受験の問題は難しい上に、奈緒美自身はあまり受験そのものに真面目になれないところがあった。
普通に小学校の友人たちと同じ中学に上がって、普通に自分の入りたい学校に入って青春を
「俺も女の子だったらな、百合学園を受験したかったな」
「本当に? あそこは歴史があってシスターもおるで。お前を女に産んどけばよかったわあ!」
アトリと奈緒美の母が酒に酔ってか、いつも氷のように冷たい頬を赤く染めて笑い出す。あはは、とせきを切って笑い出す彼女の声は高く大きく、右京家の広い
それを見て、彼女の後輩に当たる女子アナが苦い笑みを浮かべて向かい側に座る右京兄妹を見つめる。
「本当に頑張ってるわね。アトリくんもナオミちゃんも。私は東京の百合学園を受けたんだけど、落ちちゃってさ。それからは芸能活動しながら勉強して、女子アナ目指してた。キー局じゃないけど、あなたたちのお母さんはいい人だし職場も楽しい。だから言うわ。アトリくんの全国大会も、ナオミちゃんの
「私、そう言ってくれる人がいるのを信じてました! そうですよね! 全部自分の実力ですよ!」
「全部じゃないけどぉ……。運も大事なのよ。二人とも、運がいいわ」
そこにアトリが口を
「つまり神様の思し召しですよ!」
「そう解釈するかあ。まあいいけど、運が悪い時もあればいい時もあるから。苦しくても落ち込み切っちゃダメよ。落ち込みたい時は落ち込んで欲しいの。でも、落ち込みすぎると自分を見失うから。東京で芸能活動してた局アナとの約束よ」
それからその日は
それをただ父と伯父が深刻そうな表情で聞いていたが、奈緒美は何が起きたのか分からなかった。それでも、もう兄はサッカーができないと言うことは分かった。七月下旬に行われる全国大会を前に、学校が終わってから夜遅くまで練習していた兄の夢はここで終わった。
兄のことは兄のことだから、私には関係ない。そう思って彼女は病室に入って左半身が
萩の月を食べる姿とは違って、左半身が石のように動かないおかげで、かろうじて動く右手で机の上にあるご飯の器を寄せて犬食いしている。熱そうなお粥も、シンプルな具材の
奈緒美がその姿に見入って視線を集中させていると、アトリと目が合う。お互い気まずい雰囲気になりながら、一ミリも動かずにいると先にアトリが味噌汁をシーツの上に落とす。
「あちっ……。ナースコール……」
ナースコールのボタンは左側に配置してあった。左半身を
その様子を見つめていた奈緒美はとっさに兄を起こして、頭を打っていないか確認する。
「にいちゃん、頭打ってない?」
「打ってないよ。それよりさあ、ナースコールを呼んでくれ。汁が熱い。火傷しそうや」
「分かった」
それからナースコールを呼び、アトリは病院着を着替えさせてもらってベッドに戻された。ナースたちが笑みをこぼして去っていくのをみながら、兄妹は話し合った。クーラーが効いて、部屋の中は涼しいのにどうしてだろう。奈緒美は汗が背中に
「右脚が開放骨折で、脊髄損傷だって。L3ってところが潰れてるってさ」
「骨が折れたんか? オレ、もうサッカーできないんか……」
この後に続く言葉はなんだろう。奈緒美が椅子に座ってアトリの左半身の世話をしようと左側に位置している。顔の部分も左側が動かないようで、それをいいことに、だろうか。アトリはずっと右を向いて話している。
「でもまあ、よかった。もうサッカーのことだけを考えないで
これも神様のお導きや。そうつぶやいたアトリはただ無機質にそう言った。彼にとって幸福だったのは、サッカーだけを考える時間が苦痛だったことだ。
他の仲間たちとは違って、もう何かに夢中になるだけの人生にピリオドを打てた。その安心感がどこかにあったのを奈緒美は感じずにはいられなかった。だが、それが神の意思なのだと考えると、きっと兄は辛いだろう。
「にいちゃん」
「ナオミ、オレは辛くないで。ただ、不自由になったのは苦しいけどな」
兄は今、どんな顔をして話しているのだろう。それだけが気になって奈緒美は右側に移る。すると彼はただ無表情のままに、目の下にクマを作って死んだような顔をしていた。ただそれでも、奈緒美にはそれが人間ではなく調理されて食卓に上がった焼き魚の目のように映った。
「ウソや。にいちゃん、クマができてる。顔もしなびて、焼き魚の目のようだわ。目が覚めて察したんでしょ? それで泣いて……」
「黙れナオミ、しばくぞ! お前なあ、もっと
「いいや、黙らんで。サッカーなんかより、にいちゃんは自分がもう自由に動けないってことがわかったことがイヤだったんや」
「ナオミ! やめてや、頼むからわあ……。もうにいちゃんの心、みんといてや」
それからアトリが泣き始めた。右側にうつむいて、奈緒美から必死に目線やら顔やら、全てをそらそうとしている。奈緒美は気がついたら、ただ一点にアトリの投げ出された左腕を
「アトリ、もう私はこれっきりにさせていただきますわ」
「何がやあ?」
奈緒美の問いかけに、母親はそのまま続けた。人差し指で泣き続けるアトリを指さして、彼が生まれてからの愚痴を吐き始めたのだ。
「今を思えば、アンタが元凶だったんや。ウチはアンタを妊娠しなかったらな、今頃は変な噂だのパパラッチだのが張り付かないで、『娘思いの明るい関西人アナ』ってイメージが仙台の奴らに付いてたはずや。それをアンタの親父とセックスしたがために……。ハア、娘の親権が旦那側に移っちまったんや」
母親は
「ハッキリ言ったるで。アトリの取り柄ってサッカーのユースにいたって事実だけだよな? つまりな、今のアンタは邪魔なんや。煩わらしいだけの障害者に成り下がったんや。そんな石みたいな体、神様も助けません」
「おいババア! お前さっきから言ってることが
今まで抑えていた奈緒美の怒りがとうとう頂点を超えて、怒髪天となった。百合学園受験も、兄の巻き込まれた事故も、全て本人たちの意思ではないのに、神様の意思でないのに母はそのように語る。その語る内容と口ぶりに、兄への思いもなかった事実も重なってキレたのだ。
「なんじゃお前! 今のアトリは障害者なんやで! 壊れたんや! そうなるように神様が導いたんや!」
「うるせえ! お前の信じる神はなんじゃ? 苦しんでサッカーしてた男の子が生活できなくなるようにするほど迷惑な存在なんですか? それならその神様っつうのはアホやね!
「神様を否定する気か? そんならお前が死ね! 私が飛び降りさせたるわ」
それから奈緒美の体は母に押されて窓まで連れていかれる。窓がガラガラっと音を立てて開かれる。外からの暑い空気がムンワリと入ってきて、ついさっきまでずっと冷えた病室にいた奈緒美は息が
「やめてや、ウチは生きたい。死後の世界なんか信じとらん……」
「それでもうちの子か? この
勢いは弱くなったがそれでも
あと数センチ半身が下へ落ちていたら。そんなところで誰かが体を押さえて冷たい病室へ戻してくれた。あと数センチ。そう考えると自然と涙が出る。奈緒美は母が
「……にいちゃん」
するとカーディガンを後ろから被せてくれた看護師が兄のしたことを優しく語った。
「お兄ちゃんがナースコールして呼んでくれたの。それが間に合わなかったら今頃、お
そう言われて奈緒美が向いた兄は、小さくうずくまってそれから一ミリも動かない。兄は左半身が動かなくなっていて、ナースコールも左側にあったのに。ありがとう。気を落ち着かせた奈緒美は兄の頭を撫でて言い、それからは何も言うことをしなかった。
それから冬に至るまで、本当にあっという間の話だった。夏休みの間は奈緒美と、兄の世話を父から任せれたと言う叔父とともに兄の病室で時間を過ごし、昼ごはんの時間になれば奈緒美がご飯をよそって一口一口、兄に食べさせた。
兄は左側が引きつった顔面で静かに笑って、かろうじて神経がまだ動く右手で彼女の頭を撫でた。それから病院が変わって、兄がリハビリを終えてからは県南の、仙台郊外の町に叔父と兄と三人で暮らすことになった。
そこにはかつて
兄の体は車椅子のおかげかもしれないが、
だが日を追えば追うほど筋肉は落ちていくし、少食になった兄は味噌汁を二杯だけ飲んで寝る、と言う日が何日も続くにつれ、体重も、車椅子を押すときの重さも軽くなって行った。
その事実が
奈緒美は兄の左半身を持ち上げて、ベッドに上げた。小学生にそう言う力があることに本人が驚いていたが、それよりも驚いていたのは兄の方だった。
「あんがとな」
「で、なんでおっさんを呼ばなかったん?」
「おっさんに聞かせたら辛い夢だからや」
「私にも聞かせるのが辛いって言ってたやん」
「そらそうよ。だってやあ、ベッドに手を縛られて犯される夢やもん」
「なっ……。ムナグソ悪いのはやめてよな」
奈緒美がベッドに入って、リモコンで部屋を暗くした。あたり一面暗闇と沈黙に閉ざされて、二人きりの世界に閉じ込められたかのように錯覚させられる。だが、その沈黙も一瞬。兄が沈黙を破って話しだした。
「あれはそう……夏の始まりだった。ウチら、
「そんなに優しい先輩がおって何が起きたん?」
「ソイツを家に招いたんよ。その日はクラブが休みで、ゲームして遊ぼうって話になっとったから。でも用意したお茶に
「それで……、縛られて……」
兄は何も話さないが静かにうなずいて、肩まで伸びた自身の髪先を奈緒美に掴ませる。その表情は暗闇の中から静かに
「にいちゃんのこと、忘れんといてな。もう右京アトリは死んだんや。体がアトリでも、心はアトリやない」
「じゃあ、なんなのさ?」
奈緒美が困惑しつつ、焦りも備えて聞く。そこには十六年間ずっと一緒にいた兄の面影が今にも消え入りそうになっている事実に
「ウチはりらや。右京りら。アトリが死んで、りらが生まれたんや」
「なんでそうなるん?」
「男に犯されたアトリは心が死んだんや。眠っとるんか分からん。でも、かわりにりらがアトリだった体に宿って、こうしてアトリの妹の部屋におる」
右京アトリは壊された。そう察した奈緒美にできることといえば、現実を受け入れてりらを暖かく見守ったり、何かあったら出来る範囲で助けることくらいだった。
「分かったわ。なありら、アンタのことをウチはどう呼べばええ?」
「そのままりらでええよ。ただ、にいちゃんとねえちゃん、は無しな」
「理解したわ。りら、よろしくな」
「これから、よろしく」
百合学園への受験は、例の母による
父はたまに兄、改めりらとその妹である自分の様子を見に月に一回家を訪ねてくる。その時は萩の月を持って、りらのために少し細かめに萩の月を刻んで兄に食べさせる。
その時のりらは、少しずつ自分でリハビリして動けるようになった左側の口元も、元から動く右側の口元も一緒に連動して小さな咀嚼音を立てる。
父が少し
おにいちゃん、神は死んだんだよ? 夏山茂樹 @minakolan
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