おにいちゃん、神は死んだんだよ?

夏山茂樹

夏のはじまり、壊されたおにいちゃん

「ナオミィ、扉を開けてや。お願いや」


 兄の特徴的な高い声が今にも消え入りそうに、右京奈緒美うきょうなおみに自室の扉を開けるよう頼み込んでいた。その声はやがて消えて、なんでや、だとか兄妹と寝るんは恥ずかしいか、などと呪うように尋ねてくる。

 その夜は真冬の東北にありがちな、靴下と床が引っ付いて離れなさそうなほどの寒さだった。田舎の家には部屋以外に暖房はついていない。


 その声があまりにも怖くて、可哀想に感じられたものだから彼女はあわててベッドから飛び起きて、引き戸を引いて兄の様子を見た。

 奈緒美なおみの兄は動かない左半身を重心に置いて、右腕を伸ばして奈緒美に頼み込んだ。左半身だけメデューサの眼光がんこうを浴びたように動かず、床と引っ付いた状態で横に置いてあるものだから、奈緒美はどこか異質的なものを感じながらその体を引っ張って中に入れる。


「何が起きたんや、にいちゃん」


 すると温かい室内にやっと入れた彼女の兄は、ここは天国や、などと言いながら横になって頼み込んだ。


「一緒に寝てや、ナオミ」


「なんでまたそんなケッタイなことをやあ?」


 すると奈緒美の兄は顔を背けて、どこか恥ずかしそうにして静かに答えるのだ。


「一人で寝るとな、なんかイヤな夢を見るんや。中学生になるお前には教えられないようなやあ、恥ずかしくて泣きたくなる夢や……。見てみぃ。にいちゃんの目、クマができとるやろ?」


 兄が動く右手でそのクマを指してみせる。奈緒美はその目に涙が溜まっているのが分かった。兄妹揃そろって同じベッドに眠るのは思春期のせいか、恥ずかしさというものを感じるが、兄に起きた悲劇を思うと断ることもできないのだった。


 アレは夏始まりの頃、奈緒美は小学生最後の夏だった。兄が所属するサッカーユースクラブが全国大会へ行くことになって、ちょうど家族でそれを祝うパーティーを開いた翌日だ。

 その晩はいつも帰ってくるのが遅い母親が、仙台駅の店で買った萩の月と後輩の局アナを連れてきて、頬をゆるませて兄に「おめでとう」と祝福していたのが奈緒美の頭から離れない。


「アトリ、アンタは自慢の子供だよ! ナオミにももっと頑張ってほしいわね。……例えばそう、無理はしないでいいから百合学園ゆりがくえんに受かってほしいわ」


 中学受験を控えた奈緒美にとって、その言葉はズサリと胸に突き刺さるものだった。百合学園は東京の本部をはじめ、様々な分野で有名人やエリートを輩出した、カトリック系の女子校だ。親戚のいる上杉学院とは違って毎年受験生で枠が埋まり、その中に入ろうと色々な親子が血眼ちまなこになって冬の受験に挑む。そんな学校だ。


「これも神様のお導きがあってのことだよ」


 アトリが静かに答える。彼は萩の月を両手でふたつに割ってみせると、それを歯並びのいい口の中へ放り込む。普段ならそういった行為は母が止めるのだが、その日の母はアトリのくせを止めなかった。

 彼は本当に美味しそうに萩の月を食べてみせる。形のいい唇を指で撫でながら心地のいい咀嚼音そしゃくおんをかすかに出して、こくんと力の弱そうな力で嚥下えんかする。奈緒美はあまり兄のことが好きではなかったが、兄と食べる萩の月は美味しいと思えるのだ。

 アトリは自分の力で得た地位や力も、全て神様のおかげだと思っている、と口で言ってはばからないような兄だ。だから同じユースの仲間には気味悪がられていたし、電波なところがある、とも思われていた。


「そうやな。アトリ、寝る前にはちゃんとお祈りするんだよ? ナオミみたいに欠かしちゃあかんで」


「分かった」


 素直に母の言うことを聞いて笑顔で奈緒美を見つめるアトリは、もう十五歳の高校生なのに反抗期というものが来たことがないのかと言うくらい、親に従順で彼女にはそれが気持ち悪く感じられた。

 だが顔は良くて、小学校のクラスメイトも奈緒美の兄を見て、「イケメンだわあ。なお、うらやましいわ」と言ってその顔貌かおかたちの良さを女子の集団で楽しむのだった。唯一の血縁である奈緒美は中に入れずじまいだったが。


 奈緒美とアトリの家、言い換えると右京家うきょうけの家族はいわゆるカトリックで、日曜日になると教会に行って礼拝れいはいするし奈緒美も自身のロザリオを当たり前のように持っている。それでも兄のように心身深い少女には成長しなかった。

 それでも母は当たり前のようにカトリックの女子校に奈緒美を入学させようとするのだ。中学受験の問題は難しい上に、奈緒美自身はあまり受験そのものに真面目になれないところがあった。

 普通に小学校の友人たちと同じ中学に上がって、普通に自分の入りたい学校に入って青春を謳歌おうかしたい。そんなことさえ考えていた。


「俺も女の子だったらな、百合学園を受験したかったな」


「本当に? あそこは歴史があってシスターもおるで。お前を女に産んどけばよかったわあ!」


 アトリと奈緒美の母が酒に酔ってか、いつも氷のように冷たい頬を赤く染めて笑い出す。あはは、とせきを切って笑い出す彼女の声は高く大きく、右京家の広い邸宅ていたくに響き渡る。

 それを見て、彼女の後輩に当たる女子アナが苦い笑みを浮かべて向かい側に座る右京兄妹を見つめる。


「本当に頑張ってるわね。アトリくんもナオミちゃんも。私は東京の百合学園を受けたんだけど、落ちちゃってさ。それからは芸能活動しながら勉強して、女子アナ目指してた。キー局じゃないけど、あなたたちのお母さんはいい人だし職場も楽しい。だから言うわ。アトリくんの全国大会も、ナオミちゃんの模試もし県内三位も、全部実力よ。決して神様のお導きなんかじゃない」


「私、そう言ってくれる人がいるのを信じてました! そうですよね! 全部自分の実力ですよ!」


「全部じゃないけどぉ……。運も大事なのよ。二人とも、運がいいわ」


 そこにアトリが口をはさんでくる。


「つまり神様の思し召しですよ!」


「そう解釈するかあ。まあいいけど、運が悪い時もあればいい時もあるから。苦しくても落ち込み切っちゃダメよ。落ち込みたい時は落ち込んで欲しいの。でも、落ち込みすぎると自分を見失うから。東京で芸能活動してた局アナとの約束よ」


 それからその日はめに入ったが、その翌日のことだった。アトリが繁華街の自動車の下敷きになったのだ。幸いにも彼は助かったが、医師によると利き足の骨が外に出て感染の危険性があるとのことで、開放骨折かいほうこっせつの診断が下った。さらに運が悪かったことに、彼は腰椎ようついのL3と呼ばれる箇所が潰れて、一種の脊髄損傷せきずいそんしょうとなっていた。


 それをただ父と伯父が深刻そうな表情で聞いていたが、奈緒美は何が起きたのか分からなかった。それでも、もう兄はサッカーができないと言うことは分かった。七月下旬に行われる全国大会を前に、学校が終わってから夜遅くまで練習していた兄の夢はここで終わった。


 兄のことは兄のことだから、私には関係ない。そう思って彼女は病室に入って左半身が不随ふずいの兄が犬食いの状態で昼ご飯を食べている場面に遭遇する。

 萩の月を食べる姿とは違って、左半身が石のように動かないおかげで、かろうじて動く右手で机の上にあるご飯の器を寄せて犬食いしている。熱そうなお粥も、シンプルな具材の味噌汁みそしるも、全て片手と口のみで行うものだからご飯粒が顔のあちこちに付いているし、ズルズル味噌汁を吸ってクチャクチャと大きな咀嚼音そしゃくおんを立てて、四肢ししがヒトのように動く犬みたいに食べてみせる。

 奈緒美がその姿に見入って視線を集中させていると、アトリと目が合う。お互い気まずい雰囲気になりながら、一ミリも動かずにいると先にアトリが味噌汁をシーツの上に落とす。


「あちっ……。ナースコール……」


 ナースコールのボタンは左側に配置してあった。左半身を重心じゅうしんに置けば届くかと思われたが、もがくアトリはやがてベッドから落ちた。

 その様子を見つめていた奈緒美はとっさに兄を起こして、頭を打っていないか確認する。


「にいちゃん、頭打ってない?」


「打ってないよ。それよりさあ、ナースコールを呼んでくれ。汁が熱い。火傷しそうや」


「分かった」


 それからナースコールを呼び、アトリは病院着を着替えさせてもらってベッドに戻された。ナースたちが笑みをこぼして去っていくのをみながら、兄妹は話し合った。クーラーが効いて、部屋の中は涼しいのにどうしてだろう。奈緒美は汗が背中ににじむのを感じるし、アトリの額からも汗がこぼれた。


「右脚が開放骨折で、脊髄損傷だって。L3ってところが潰れてるってさ」


「骨が折れたんか? オレ、もうサッカーできないんか……」


 この後に続く言葉はなんだろう。奈緒美が椅子に座ってアトリの左半身の世話をしようと左側に位置している。顔の部分も左側が動かないようで、それをいいことに、だろうか。アトリはずっと右を向いて話している。


「でもまあ、よかった。もうサッカーのことだけを考えないでむんだ」


 これも神様のお導きや。そうつぶやいたアトリはただ無機質にそう言った。彼にとって幸福だったのは、サッカーだけを考える時間が苦痛だったことだ。

 他の仲間たちとは違って、もう何かに夢中になるだけの人生にピリオドを打てた。その安心感がどこかにあったのを奈緒美は感じずにはいられなかった。だが、それが神の意思なのだと考えると、きっと兄は辛いだろう。


「にいちゃん」


「ナオミ、オレは辛くないで。ただ、不自由になったのは苦しいけどな」


 兄は今、どんな顔をして話しているのだろう。それだけが気になって奈緒美は右側に移る。すると彼はただ無表情のままに、目の下にクマを作って死んだような顔をしていた。ただそれでも、奈緒美にはそれが人間ではなく調理されて食卓に上がった焼き魚の目のように映った。


「ウソや。にいちゃん、クマができてる。顔もしなびて、焼き魚の目のようだわ。目が覚めて察したんでしょ? それで泣いて……」


「黙れナオミ、しばくぞ! お前なあ、もっと鈍感どんかんになれよ。頼むからやあ……」


「いいや、黙らんで。サッカーなんかより、にいちゃんは自分がもう自由に動けないってことがわかったことがイヤだったんや」


「ナオミ! やめてや、頼むからわあ……。もうにいちゃんの心、みんといてや」


 それからアトリが泣き始めた。右側にうつむいて、奈緒美から必死に目線やら顔やら、全てをそらそうとしている。奈緒美は気がついたら、ただ一点にアトリの投げ出された左腕をながめていた。その途端、母親が入ってきた。


「アトリ、もう私はこれっきりにさせていただきますわ」


「何がやあ?」


 奈緒美の問いかけに、母親はそのまま続けた。人差し指で泣き続けるアトリを指さして、彼が生まれてからの愚痴を吐き始めたのだ。


「今を思えば、アンタが元凶だったんや。ウチはアンタを妊娠しなかったらな、今頃は変な噂だのパパラッチだのが張り付かないで、『娘思いの明るい関西人アナ』ってイメージが仙台の奴らに付いてたはずや。それをアンタの親父とセックスしたがために……。ハア、娘の親権が旦那側に移っちまったんや」


 母親は声高こわだかに、何かを宣言する革命家のように叫び出す。彼女の心が乱れているのは内容でわかったが、それでも声調せいちょうといい、乱れない音の安定ぶりといい、元からあった石なのだというのが奈緒美には分かった。


「ハッキリ言ったるで。アトリの取り柄ってサッカーのユースにいたって事実だけだよな? つまりな、今のアンタは邪魔なんや。煩わらしいだけの障害者に成り下がったんや。そんな石みたいな体、神様も助けません」


「おいババア! お前さっきから言ってることが環境汚染かんきょうおせんなんじゃ! その二酸化炭素しか吐けない口と鼻を押さえて、今すぐ窓から飛び降りて死ね!」


 今まで抑えていた奈緒美の怒りがとうとう頂点を超えて、怒髪天となった。百合学園受験も、兄の巻き込まれた事故も、全て本人たちの意思ではないのに、神様の意思でないのに母はそのように語る。その語る内容と口ぶりに、兄への思いもなかった事実も重なってキレたのだ。


「なんじゃお前! 今のアトリは障害者なんやで! 壊れたんや! そうなるように神様が導いたんや!」


「うるせえ! お前の信じる神はなんじゃ? 苦しんでサッカーしてた男の子が生活できなくなるようにするほど迷惑な存在なんですか? それならその神様っつうのはアホやね! の頂点や!」


「神様を否定する気か? そんならお前が死ね! 私が飛び降りさせたるわ」


 それから奈緒美の体は母に押されて窓まで連れていかれる。窓がガラガラっと音を立てて開かれる。外からの暑い空気がムンワリと入ってきて、ついさっきまでずっと冷えた病室にいた奈緒美は息がまりそうになった。


「やめてや、ウチは生きたい。死後の世界なんか信じとらん……」


「それでもうちの子か? この親不孝者おやふこうものが!」


 勢いは弱くなったがそれでも反抗はんこうを続ける妹に、信仰しんこうの道を今まで示してきた母は怒りで娘の体を道へ落とそうとする。奈緒美の体はクラスでは大きい方だったが、それでも力は子供のままで大人の強い力には勝てない。


 あと数センチ半身が下へ落ちていたら。そんなところで誰かが体を押さえて冷たい病室へ戻してくれた。あと数センチ。そう考えると自然と涙が出る。奈緒美は母が錯乱さくらんした様子で息子への罵倒ばとうを浴びせ続ける様子を涙目に見つめながら、兄を見つめる。


「……にいちゃん」


 するとカーディガンを後ろから被せてくれた看護師が兄のしたことを優しく語った。


「お兄ちゃんがナースコールして呼んでくれたの。それが間に合わなかったら今頃、お陀仏だぶつだったよ」


 そう言われて奈緒美が向いた兄は、小さくうずくまってそれから一ミリも動かない。兄は左半身が動かなくなっていて、ナースコールも左側にあったのに。ありがとう。気を落ち着かせた奈緒美は兄の頭を撫でて言い、それからは何も言うことをしなかった。


 それから冬に至るまで、本当にあっという間の話だった。夏休みの間は奈緒美と、兄の世話を父から任せれたと言う叔父とともに兄の病室で時間を過ごし、昼ごはんの時間になれば奈緒美がご飯をよそって一口一口、兄に食べさせた。


 兄は左側が引きつった顔面で静かに笑って、かろうじて神経がまだ動く右手で彼女の頭を撫でた。それから病院が変わって、兄がリハビリを終えてからは県南の、仙台郊外の町に叔父と兄と三人で暮らすことになった。

 そこにはかつて伊達騒動だてそうどうを起こして一族もろとも処分され、城も破壊された原田甲斐はらだかいの城跡があった。雪の降らない日はそこに兄の車椅子を押して、奈緒美はヒイヒイ言いながら山の天辺てっぺんにある樅木もみのきまで連れて行った。


 兄の体は車椅子のおかげかもしれないが、平易へいいな道で押していると小学生女子でも安易あんいに押せるほど軽かった。こんなに兄は痩せたのか。サッカーをしていた頃はきたえていて、そのせいかはじめの頃は筋肉もあって重かった。


 だが日を追えば追うほど筋肉は落ちていくし、少食になった兄は味噌汁を二杯だけ飲んで寝る、と言う日が何日も続くにつれ、体重も、車椅子を押すときの重さも軽くなって行った。

 その事実がしんに迫っているような気がして、車椅子を押すとき、春になると観光客で埋め尽くされると言う千本桜に近づくと涙があふれて、車椅子を止めて泣いてしまった。そんな日が何日も続いた頃、兄が二階にある奈緒美の部屋へ来たのだ。

 昇降機しょうこうきは家に設置していない。夜は何かあったらスマホで伯父を呼ぶようにと話していたのだけど、石のように重い左半身を引きずってでも部屋へ来たと言うことは何かあったのか。


 奈緒美は兄の左半身を持ち上げて、ベッドに上げた。小学生にそう言う力があることに本人が驚いていたが、それよりも驚いていたのは兄の方だった。


「あんがとな」


「で、なんでおっさんを呼ばなかったん?」


「おっさんに聞かせたら辛い夢だからや」


「私にも聞かせるのが辛いって言ってたやん」


「そらそうよ。だってやあ、ベッドに手を縛られて犯される夢やもん」


「なっ……。ムナグソ悪いのはやめてよな」


 奈緒美がベッドに入って、リモコンで部屋を暗くした。あたり一面暗闇と沈黙に閉ざされて、二人きりの世界に閉じ込められたかのように錯覚させられる。だが、その沈黙も一瞬。兄が沈黙を破って話しだした。


「あれはそう……夏の始まりだった。ウチら、五橋いつつばしに住んどったろ? その時に同じ地区から先輩のユース選手がおったねん。体が大きくて、鍛えられた体躯たいく、一桁まで絞った体脂肪率たいしぼうりつ……。ウチも持っとったけん。ばってんソイツには人を黙らせる圧があったん。ウチにはなかったから、いつも引っ付いて優しゅうしてもろてたわ」


「そんなに優しい先輩がおって何が起きたん?」


「ソイツを家に招いたんよ。その日はクラブが休みで、ゲームして遊ぼうって話になっとったから。でも用意したお茶に薬仕込しこまれてやあ、飲んで意識が飛んだねん」


「それで……、縛られて……」


 兄は何も話さないが静かにうなずいて、肩まで伸びた自身の髪先を奈緒美に掴ませる。その表情は暗闇の中から静かに陰影いんえいと重なって闇から浮かび上がる。


「にいちゃんのこと、忘れんといてな。もう右京アトリは死んだんや。体がアトリでも、心はアトリやない」


「じゃあ、なんなのさ?」


 奈緒美が困惑しつつ、焦りも備えて聞く。そこには十六年間ずっと一緒にいた兄の面影が今にも消え入りそうになっている事実におののく彼女がいた。


「ウチはりらや。右京りら。アトリが死んで、りらが生まれたんや」


「なんでそうなるん?」


「男に犯されたアトリは心が死んだんや。眠っとるんか分からん。でも、かわりにりらがアトリだった体に宿って、こうしてアトリの妹の部屋におる」


 右京アトリは壊された。そう察した奈緒美にできることといえば、現実を受け入れてりらを暖かく見守ったり、何かあったら出来る範囲で助けることくらいだった。


「分かったわ。なありら、アンタのことをウチはどう呼べばええ?」


「そのままりらでええよ。ただ、にいちゃんとねえちゃん、は無しな」


「理解したわ。りら、よろしくな」


「これから、よろしく」


 百合学園への受験は、例の母による殺人未遂さつじんみすいがきっかけで取りやめになった。奈緒美はアトリと伯父について行ったが、それが正解かは分からない。だが、彼女の選んだ道には、あの日彼女を守ろうと動かない半身を引きずってナースコールした兄がいた。


 父はたまに兄、改めりらとその妹である自分の様子を見に月に一回家を訪ねてくる。その時は萩の月を持って、りらのために少し細かめに萩の月を刻んで兄に食べさせる。

 その時のりらは、少しずつ自分でリハビリして動けるようになった左側の口元も、元から動く右側の口元も一緒に連動して小さな咀嚼音を立てる。

 父が少し苦味にがみつぶしたような表情をしてりらを見つめるのが残念だが、自分はその咀嚼音が好きだ。少なくとも、奈緒美はそう思っている。きっと、りらも壊れてアトリが起きる日が来るかもしれない。そうなった日もそばにいようと奈緒美は考え、兄の車椅子を押しながら中学校の入学式へ向かうのだった。


 

 

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