第5話
” 20XX年、私は生まれて初めて稲佐の浜に降り立った。この地ではかつて、現在の根の国の主を高天原の使いの神が問いただしたと言われている。ことの真偽はここでは問わない。というか私には問えない。私は神様ではないからだ。だから、ちょっとしたお偉い方々をこの地に呼び出して私の税金を返すか否かとは問えない。そして、根の国の方々に向けて私が見えているか否かを問うこともできない。
この日はあまり日が射しておらず、海は曇っていて底まで根の国に通じているようだ。
紺碧の海とは言うが、私自身が海を紺碧、つまり「鮮明なる青」の色として内面化したことはない。私にとって海の色とはむしろ暗く底の見えないものだ。今見ている海の色はそういう意味で「海らしい」と感じる。この海の色、
海は自分から苦しいとは言わない。しかし私の熨斗目花色には多くの痛み、苦しみ、悲しみ、怒り、おそれが犇めいている。
作家だけでなく、なにかを創作する人なら生みの苦しみはよくわかることとお見受けする。小説なら、文字通り心身を削られる。同じく「うみ」といえば、膿を出す時も苦しい。あれも心身を削って毒を出す行為なのだし。そして「うみ」といえば、産むという行為もそれはそれは苦しいと言う。苦しいと言う、という書き方をしたのは、私が単純に私が産んでないからである。
しかし人には共感と想像という素晴らしい力がある。そして悲しくも、身体性という逃れられない檻がある。檻の扱いは自由だが、同じ檻に入ったものはいやでも同じ檻の有り様を経験することになる。檻のどの部分がどう作用するか、どう扱うと痛いのか、それは経験せずとも想像できるし、同じ檻の痛みは共感できてしまうものだ。
身体性の痛みへの共感がフェミニズムなら、痛みの更にその先の、根源への想像が反出生主義・反生殖賛美だろう。といっても、私はべネターを支持するつもりはない。ベネターには同じ檻が無いからだ。だから「出生」には辿り着けても「生殖」には辿り着いてないのだ。生きることそのものの苦しみは当然として、それが作り出される過程にまで想像と共感を届けるなら、私の辿り着く先はやはり同じ檻になる。そしてその檻の下に敷かれている数多の弱い檻に目が行く。
私は生む・産むということに対し、どうしても自分の下に敷かれている気配が気になっているのだ。生とはほかの生を巻き込む檻なのだ。産めば女性の一部は死ぬ。生めば子どもは誰かの所有物になる。生きれば誰かを食べることになる。食べられた誰かの残骸がまたこの海に熨斗目花色を足していく。
そういった連なりが生む言い表せない苦しみが私の檻の澱になり、澱は熨斗目花色に底を埋める。
おりおり、檻澱、四季は折々。
この世の常はただ過ぎていってしまうものだ。今私が見ているあの船もそうだ。春、夏、秋、冬、そして人の年齢もまた逆向きになることはない。
私が立っているこの波打ち際だけが繰り返し泡と飛沫を咲かせ、水晶を撒き散らしたように足もとに届きそうだ。届きそうかと思えば砂の上で溶け、いくつかの砂を掴んではまた遠くへ引き返していく。いい夢を見た時のとどめておけなさに似ていてなんとももどかしい。その反面、乾いた砂上を確認しては自身の足場がいまだ不可侵であることになぜかほっとするのだ。
死んだ人は波打ち際が捕まえて行った砂と同じく、届きそうなところまで来ても帰ることはない。それでも産みで死んでいったあの人を波のように繰り返し思う私がいる。
ふと、勢いよく鳴る飛沫が大輪の花を咲かせ視界をかすめたと思いきや、次の瞬間には私の足元まで掴みかかっていた。
このまま海を見ていたら、底の根の国にまで旅をさせられそうである。帰って来られるならそれも一興だが、私は地上の根の国観光でひとまず満足することにして、地上に帰るために先程買った蒲鉾を口にし、腹まで飲み下した。”
藤館はXX駅北口についた時、待ち合わせの時間までまだ30分ほどあったのでその間に風言著の『小舟』を開いていた。今さっき読んだのは「うみのくるしみ」というタイトルの章だった。藤館が以前読んだ風言の作品よりも全体的に悲しい話が多い印象だった。
藤館は前日に赤坂編集に結婚は考えてないのかと言われた時の凍える感覚を、風言氏の悲しい熨斗目花色を内面化するように本の中の海風とともに洗い流していた。いまの藤館には、風言氏の文章に心地よい風を感じるようになっていた。
「今読むとそんなにカチンと来る感覚は無いんだけど・・・。本のコンセプトが今の私に合ってるからかな。うーん、でも、あの時は風言氏の何を読んだんだっけ」
風言氏の著作をまともに読んだのは去年ぶりだった。あの時読んだのはなんだったか。たしか同じようにフェミニズムについて触れていて、それで男性批判のところで少しムッとしたのは覚えている。しかしなぜ私が男性批判のところでムッとしたのかが思い出せない。ムッとしたというのはつまり怒りを刺激されたからだが・・・。
本を閉じ、ベンチから立ち上がる。自身の海とまでは行かなくとも内奥に潜む「澱」をああでもないこうでもないと探す。すると、不躾に肩をぽんと叩かれるのを感じた。嫌な感じを受けつつも、清野さんかもしれないと僅かな期待を込めながら振り返る。その期待は嫌な感じ通り、裏切られた。
「あの、すみません、道を聞きたいんですけど、XX駅北口ってどこですかね?」
案の定、肩に触れ声を掛けるという無礼な行為をしてきたのは男だった。見た目はそこらにいる若い男と同じように、適当な薄汚れたスニーカーで、そこらへんで買ったような適当なベージュのズボンに、黒いジャケットを羽織ったTシャツ姿で、適当に短い髪で、決して美形でもない。目元も正直冴えないし、鼻も口もパッとしない。
藤館は北口はここですよ、と一瞬はふつうに応じようとしたが、すぐに待てよ、と思い直した。なぜなら北口は確かにここだし、何よりも藤館が座っていたベンチのすぐ横、出入り口付近には大きく「XX駅北口 ◯△ビル方面」と書かれている。そもそも道を確認したいのならなぜ駅員に聞きに行かないのだろう。いや、目的は方向の確認じゃないのか。
逃げるべきか。
そう思った瞬間から動悸がする。手足が冷えていく。血管にトゲが生えてるような気持ち悪い感覚が手のひらや心臓付近にギュッと集まる。
どこに?女子トイレ?でも女子トイレまでついて来られたらどうしよう。しかも私が出てくるまでトイレ付近で張っていたら?
清野さんに電話する?いや、それではだめだ。私が清野さんという知り合いがいるということがバレるし、落ち合う先まで聞かれたら本末転倒だ。
思わず足元を確認する。中くらいの高さとは言えヒールだ。ピンと言うほど細いものではない。ストラップが付いてるので走れなくはないが、長くは持たない。
最善は?最善はなんだ?考えろ・・・!
この間は藤館にとっては1時間くらいに感じられたが、実際は1分くらいだった。男がもう一度声を掛けてくる。
「あのー、大丈夫ですか。顔真っ青ですけど、具合悪いんですか?」
やめろ。これ以上私に話しかけるな。そう思って重たい足をなんとか動かして逃げようとした瞬間、別の男が男の手を掴んだ。
「なんですか貴方。俺の知り合いに何するんですか?貴方に話しかけられて困ってるのわかりませんか?」
見上げると長身の男がそこに立っていた。背は180はありそうなほどで体型もすらりと整い、顔立ちは鼻が高く目も大きめで、きりりとしていた。世間一般の感覚で言うと多分「イケメン」の部類に入るのだろう男だったが、藤館には面識が無かった。手を掴まれた男は明らかにうんざりしたように顔をしかめ、舌打ちをした。
「貴方こそなんですか?本当に知り合いですか?」
邪魔をされた小さい男は不機嫌そうに睨みつけている。一方長身の男は爽やかに藤館に笑いかけ、話しかけてきた。
「お待たせしてしまってごめんなさい、藤館さん」
「いえ、知り合いじゃないです。貴方も誰ですか」
藤館は怪訝な顔をした。長身の男はあっという顔をしている。面識が無いのに名前を知られているというのもまた恐ろしい。小さい方の男はへっと笑った。藤館は一刻も早くこの場から立ち去りたい思いでいっぱいだった。
「聞いてないですか?俺のこと」
「この子知らないって言ってんじゃん。あんたこそナンパ目的じゃないの?」
長身の男は申し訳無さそうにしているが、小さい方の男はチャンスとばかりに下品な笑みを浮かべていた。そこへ、安心感がそのまま歩いて来たかのような一陣の風が藤館の前に吹いた。
「知り合いはワイだよ、クソオスども」
清野が藤館の斜め前に、庇うように颯爽と躍り出た。声には明らかに苛立ちが感じられる。目は二人の男をしっかり見据え、貫かんばかりに睨んでいる。清野の背は二人の男よりも小さいが、こんなにも今の藤館にとって安心できる存在はいなかった。
「清野さん」
「ごめんなさい藤館さん。早く行きましょう」
藤館が答える前に清野は藤館の手を掴んでいた。
「えっ清野さん?いま清野さんって言いました?」
長身の男がそう声を掛けるのを、清野は意図的に無視した。清野は藤館の手を引っ張って小走りでその場を離れた。よく見ると清野の目にはじんわりと涙が浮かんでいたが、それに気付いたのは手を引っ張られていた藤館だけだった。清野が走りながら誰だあいつ、とだけ呟いたのを聞いたのも藤館だけだった。
**
先日のバーに行く前に一旦落ち着ける場所に入りたかった二人は、とりあえず休めるところという条件で周辺を歩き、スタバよりも安いドトールに入るということで意見を一致させた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。わ、私が遅れなければあんなことには・・・」
清野はさっきから豆乳ティーを抱えて何度も謝っている。目にはもう涙を滲ませていなかった。
「大丈夫ですから、もう大丈夫ですから、あのナンパ?が来たのだって清野さんのせいじゃないですよ。ああいうのはどこにでもいますし」
そう、ああいうのに遭遇したのは清野のせいでも藤館のせいでもなかった。清野は、ただ数分遅れただけだった。藤館は、ただベンチで本を読んでいただけだった。
ああいう手合いは、残念ながらどこにでもいるのだ。ああいうのは、女性と見れば取り敢えずああいうことを起こす。私達が何者で、何をしていようと関係はない。
その理由を、私達は知っていた。そして梅の樹の彼女たちも知っているのだ。藤館は自分で書いた梅の樹の女性たちを思う。彼女たちから見たら、今の私達はとても自由に見えるのだろう。あるいは、何も変わってないと呆れて悲しむかもしれない。
藤館は手元のホット抹茶ラテで手を温めた。緊張による手のひらの血管のトゲの感覚を、カップの熱でほぐそうとした。
一段落した私達はバーを目指して再び街を歩いた。予定していたよりも一時間半遅れての出発だった。風は秋であることを全身に知らせんばかりに冷たく、乾燥していて、空にはまた月が登ろうとしている。
「あの、今日はありがとうございます。あのバーに行こうと思っても、タクシーで帰っちゃったから道をちゃんと覚えてなくて。ネットにも載ってないし。清野さんのお仕事の邪魔になるかもしれないとか、もしかしたら・・・私のことに引いてたりしてるかもしれないとか、思ったんですが、またお会いできて嬉しいです」
「お礼なんてとんでもないです。まだ全然忙しいわけでもないですし、大丈夫ですよ。あの店を気に入ってくれたのなら、こちらとしても嬉しいですし」
先程の冷えるような手足も、怒りで涙を滲ませていたのも嘘であるかのように、なんにも無かったかのように二人は振る舞った。衝撃を振り払うために、目の前のことを掴む。トゲでざわつく血管に負けない勢いで歩くことに集中する。波に足を取られ飲まれないように、今いる現実立ち返るために、私達は日常を遂行する。
こういう意識をする必要があるくらいには、私達にとってあれらが脅威で、不快で、恐ろしくて、不気味であったことを意味する。
そしてあれらに遭遇し、私達に熨斗目花色の澱が積もるたび、私達は『梅見物語』を必要とし、彼女らと花見をする。
「藤館さんは体調大丈夫ですか。さっきよりは顔色よさそうですが、無理はしないでくださいね」
「清野さんこそ、ご無理なさらないでください。私は大丈夫ですから」
道中何度も私達はお互いの体調を、心身を気遣う。藤館は戦場で仲間を庇い合いながら進んでいる気分だった。おそらく清野も同じだろう。実際、藤館にしろ清野にしろ、あるいは彼女らと同じ檻を持つ者なら、ひとりでいると少なからず怯えながら歩を進めることになる。どこで声を掛けられるか、いつ手が伸びてくるか、その手に何が仕込まれているかすらわからないのだ。
それはまさに、いつ攻撃を受けるかわからない戦場を歩いているのと同じだった。
そこに、再びあれらの気配がする。「てめえ!何してやがる!」
あれらと思しき罵声が目の前で響いたかと思えば直後、女性が店の暖簾から突き飛ばされながら出てくるのを二人は目撃した。暖簾を破る勢いで今度は年配の男が出てくる。
「何を掴んだんだ!ふざけやがって!」
「私はなにも・・・」
女性が言い切る前に男の手が女性の顔めがけて振り下ろされた。女性はよろめいている。
「わからないとでも思ってんのか!なめやがって!誰の指示だ!?」
一連の出来事にいちいち足が、腕が、目蓋が、胃が、固くなっていく。再び藤館の身体が凍りつく。動悸がする。目がしばたたく。呼吸が上手くできない。
どうしよう。警察?救急車?とにかく助けないと・・・。動かないと。
藤館が震える手で携帯を取り出そうと右手を上着のポケットに動かし、身体を傾けたら、すぐ横にいるはずの清野がいない。なぜ視界にいないのかと思った瞬間、清野は男の背後に向かっていた。藤館が声をあげそうになった次の瞬間、男の頭部から鈍い音がした。
「ぐっ・・・」
「この悪性動物が」
清野の手にはタブレットが握られていた。声は怒りで震えていた。その目は毘沙門天や軍荼利明王を通り越していっそ観音のように静かだった。星が高温になるほど白い色に近くなるのと同じように、強大な怒りはむしろ静かな烈しさを持って映る。藤館はその目に神々しさすら感じた。
男がうめき、藤館が茫然としている間に女性は形勢を立て直し、うめいている男の梁丘に蹴りを入れた。男が更にバランスを崩す。清野もすかさず加勢して蹴りを入れ、男が倒れる。「ワイはいま気が立ってんだよ。この腐れ金玉ビッチンコめ」
清野は男の股間めがけて足を落とす。今度は罵声ではなく悲鳴が響いた。女性もすかさず清野のあとに続いた。男はしばらく立ち上がれないだろう。
「你这该死的!」
女性はもう一度男のみぞおち辺りに蹴りを入れながら、なぜか中国語で罵った。藤館には意味はわからなかったが、罵っていることだけは理解できた。
女性は清野に振り向き、腫れた頬を痛そうにしながらも礼を言った。
「ありがとうございます。お強いですね」
さっき聞こえたのは中国語だったが、清野に向けて放たれたのは流暢な日本語だった。
「貴方こそ、それより大丈夫ですか」
清野は興奮したのか、まだ息を荒げている。藤館は女性に駆け寄って常備薬代わりのアロマで手当をしようとしたところ、暖簾から別の、これまた老けた男が顔を出した。
「おい、黒澤、なにやって・・・ってなんだあんたらは!」
「まずいです、逃げましょう!」
そう言った次の瞬間には女性は結んだ髪をなびかせて走り出していた。一瞬遅れた藤館の手をまた清野が引っ張っていった。週末に飲みに訪れる人々が次第に現れてくる夜の街を、三人の女が駆けていく。
「待ちやがれ!くそっ!」
男が何ごとかわめきながら追いかけてきている。三人はとにかく人に紛れながら、男の目を撒こうとする。藤館は足の指の付け根に切れるような打撲のような痛みを覚えつつも、走る速度を落とさなかった。
「うるせえヨボ!じじいのくせに走ってくんなよ!」
「みなさん、こっちです!」
二人は女性のあとに続いて路地に回った。そのまましばらく息を潜め、ひとまず追っ手を撒いたのを確認する。藤館はかなり息が上がって喉から血の味がするような感覚を覚えた。息も切れ切れになりながらも藤館は話す。
「ど、どうします?ひとまず警察に、電話、とか」
「警察は困ります、あれには取り合ってもらえないでしょうし」
あれだけ走ったというのに女性は涼しい顔をして答える。しかも警察に連絡をするなとは。いったい何者なのだろう。息を整えた清野が信じられないことを口から漏らす。
「このままバーに向かいましょう」
「ええ?よりによって・・・なんであのバーに?」
藤館はわけがわからない、と言いたかった。人が殴られたというのに、このまま自分たちの用事を優先するというのか。いくら自分とは正反対の性格なのだろうとは言っても、物事には限度がある。
「そこは安全ですか」
女性は真面目な表情で尋ねる。清野は得意げに微笑む。
「下手な行政相談所よりも、110番バスよりも、あそこは安全です。ましてや警察に頼れない女性なら、なおさら」
「どういうことですか清野さん。あそこは確かに人目につきにくいけど、飲食店に変わりないでしょう?」
清野は藤館にも顔を向ける。そして同じように、得意げな顔で、そして誠意を込めてこう言った。
「あそこは表向きは飲食店だけど、逃げたい女性のための女性専用シェルターなんだよ。店主もああ見えて専門家だよ。あのバーの信頼性は、私が保証する」
字を書く女たち huang-se @huang-se
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