第4話

 次の日の午後、清野凪はイライラしていた。処暑も過ぎたというのに妙に暑い天候も気に入らなかったが、次回作の打ち合わせのために赤坂編集者と会っていたからだった。打ち合わせ場所に使っているカフェは、挽きたてのコーヒーの芳醇な香りが漂い、香りだけで喉を潤してるような気分になってくるほどだが、それだけでは清野のイライラは収まりそうもない。

 清野は赤坂のことを嫌っているわけではない。編集者として信頼していないわけでもない。ただ、どうしても赤坂について受け入れられないことがあった。いつものように本題の前に雑談をするのだが、その雑談にいつも途中で耐えられなくなる。その日も赤坂はにこやかに清野を出迎えた。


「風言さんお久しぶりですね〜」


「お久しぶりです。赤坂さんもお変わり無いようで」


「私は新人さんが入って微妙に仕事が忙しくなった以外には変わらないですね〜。あ、変わったことと言えば、この前同僚が赤ちゃん産んだんですけど、ほんとに可愛らしくて、私も子供たちの小さい頃思い出して懐かしくなりました。やっぱり赤ちゃんはいいですね」


「あの、その系統の話は控えてくれませんか。私にはどうしても明るいものには思えないですし、正直苦痛です」


普段なら内心でうんざりしつつも聞き流して話題を変えたりできるが、この日は我慢の限界が早かったのでストレートに制止した。

 自分はなるべく怒りをぶつけるような言い方にならないようにはしたつもりだが、言葉の端々から滲み出るトゲは隠しようがなかった。その証拠に、赤坂は見るからに「やってしまった」という顔をしている。


「あ・・・ごめんなさい。つい・・・。そういえば、ていさんが亡くなられた日は、2年前の一昨日でしたね・・・」


確かにそれが理由として占める割合は大きい。現にこの前自分が別の出版社から出したエッセイ、『小舟』の内容が生殖賛美への批判とジェンダー規範への批判に偏ったのは、それが一因だ。

 自分の友人、いや友人という言葉で語り尽くせないほどの恩と情で結ばれたあの人、中原ていは2年前の秋に亡くなった。死因は出産だ。 

 女性たちのためにあの女性専用バーを創り、自分を愛し、自分の書く文を愛してくれたあの人は、あの人が最も愛した男によって殺された。

 それからだった。自分が髪を切って装飾を、つまり商品値札を捨てたのは。自分の長い髪に付随するのは鎖。装飾が示すのは味付け。それらは「女性身体」を「消費される価値」として囲い込んでいく。囲い込まれた先にあるのは、所有と生殖。つまり規範が守っているのは女性の家畜化だ。

 髪を切る時、自分は「手綱になりうる鎖」を切った。

 装飾を捨てる時、自分は「買われる価値」を捨てた。

 パンプスやヒールからスニーカーに履き替えた時、自分は「男に依存させない足」を取り戻した。

 短い髪は男に掴ませない。余計な飾りやインクを身に付けない身体は、財産と心身を消耗させられない。よたつかない足は自分で歩くことも走ることもできる。自分は商品棚から降りたのだ。



 清野は自分の短い髪にあの人の手が伸びてくるのを感じた。この髪は男の手には掴まれない。だがいまは死者の気配が自分の髪を掴もうとする。責めるでも恨むのでもなく、ただ私の髪を掴もうとする。あの人のところへ引っ張られていくような気がする。

 この手はあの人の念なのか。それとも自分の罪悪感と後悔が作り出した「寄す処」か。

 話題を変えなければ。このまま手が伸びて腕まで伸びて、視界まであの人に乗っ取られそうな気がする。

 意識をいまに戻さなくては。自分はまだ書かなければならないのだ。


「それより、赤坂さん、藤館香子って作家知ってますか」


「あら珍しいですね。風言さんが有名な作家さんに興味を持たれるとは」


「ええ、まあ、ちょっと気になって・・・」


昨日書店で藤館香子の『梅見物語』を目にした時、あのバーで泣き腫らした顔で酒を飲んでいた姿が意識にちらついた。清野は普段、人気の作家や有名な作家はあまりチェックしない。そういう作品は多くの人間がすでに通販サイトでレビューを書くし、レビューの傾向からだいたいの内容を把握してしまうからだった。そして多くの人に「喜ばれる」作品は、たいてい清野にとっては「喜ばしくない」ものだった。

 本のほうが清野を「呼ぶ」ということでもない限り、あるいは作家の人となりに興味を待たない限り、清野はそういう本を読まない。

 しかし『梅見物語』の場合は違った。あの場合は、はからずも「人」のほうを先に知ってしまった。それも奇妙な偶然で。そういう人の、しかも同性の書いた作品なら目を通してみたくなる。それは清野なりの礼儀でもあった。


「自慢じゃないけど、藤館さんは私の担当なんですよ。この前もお会いしたけど、やっぱりお若くて、それでいてすごく品が良いからやっぱりあのお家の育ちの良さを感じますね。今は受賞後のプレッシャーもあって落ち込み気味ですね・・・。元々少し人見知りですが」


「やっぱり受賞するとよくも悪くも目立ちますよね。人見知りなら尚更きついものがあるでしょうね・・・あの内容だし。やっかみも多そう」


「やっかみは・・・あるでしょうね・・・。若い女性が才能あるだけでも足を引っ張りたい人はいますから。でもうちの男性社員は良い人もいますよ。高塚こうづかさんは他の男性をよくたしなめてくれますし。やっぱり最近の若い男の人は意識がアップデートされてますね」


赤坂は感心しながら高塚という男について話した。清野は口ではそうかもしれませんね、と答えたが、本音ではその高塚というやつも「オス」だぞと言いたいのを我慢した。


「藤館さんや清野さんみたいな作家もいますし、高塚さんみたいな男性もいますし、私世代から見るとほんと良くなったな〜って思います。うちでは藤館さんのこともあって、これから女性作家限定でどんどん発掘する企画が通ったんですよ!」


清野はまたそうなんですね、とにこやかに答えた。

 女性作家に絞った企画は喜ばしいし、藤館氏と並べられるのは恐れ多いが、オスと並べないでくれ。と言うのをコーヒーとともに腹の底に飲み込んだ。


**


 清野は帰宅後、昨日購入した『梅見物語』を開いていた。『梅見物語』のおおかたの内容はこうだ。


  男が梅の樹の下で目が覚め、樹から続く道を辿っていくと女と出会う。一人の女と愛し合って失ってはまた梅の樹の下で目が覚める夢に囚われた男、梅宮。目が覚めるたびに出会う女はみな一人ひとり違い、出会い方も別れ方も違う。それぞれに違う成り行きを経て愛を交わすが、最後には必ず女を失って、梅の樹の下で目が覚める。一人の女と別れるたびに梅の樹は花をつける。

 とうとう十二人目に差し掛かる時、ようやく梅の樹は満開になり、女が現れなくなり、夢から覚める夢は終わり、梅宮は現実に目を醒ます。

 もう女と梅の夢を見ないのだ・・・と寂しく思いながら再び眠ると、真っ暗な中でやけに明るく色づく梅の樹が咲き、樹の背後には不気味なほど大きな月が出ていた。

 よく見ると梅の樹には梅宮がいままで愛し合った女達がいる。皆に懐かしい思いを抱きながら微笑むと男の脚は梅の樹の根っこに絡め取られ動けなくなる。そこに男と愛し合った女たちが順番に声を掛ける。男は女との記憶を話すが、女はたちは男に愛の名のもとに殴られ、犯され、財産をむしり取られ、裏切られ、売り飛ばされ、搾取されていた事実を話す。一人話し終えるごとに女は男から身体の一部をもぎ取り、梅の樹に与えていく。

 男がむせび泣き、梅は更に美しく咲き誇る。女達は文字通り男の血肉で咲かせた梅の樹の下で梅見を行う。怪しいほどに月が照らす梅の樹と女達の笑顔はいつまでも美しく咲いていた。


”おお、愛しく健気な紗代よ、そたなとはよき日々を過ごした。そなたはよく尽くし、大変な苦労のなかでもけして泣き言を申さなかった。そなたの笑顔に何度救われたかしらん。”


”はい梅宮さま。わたくしは貴方様を愛し、尽くしました。貴方様はわたくしが少しでも辛い顔を見せれば、わたくしをぶちました。わたくしの身体が動かなくなれば役に立たないと罵りました。わたくしが病になれば、わたくしを不浄とし、家ごと捨て置かれたわたくしはその後の震災にも逃げることがかないませんでした。その節はどうもありがとうございます。代わりに右腕をいただきます。”


”おお、愛しく美しい八重よ。そなたとはなんとも甘美な日々を過ごした。そなたの芳しい香りと肌がいまでも忘れられない。言葉に尽くせぬほどの身体の悦びを抱いたのはそなたとの床だけだ。”


”はい梅宮さま。わたくしは貴方様を愛し、どんな時も応じました。貴方様は厭がるわたくしを攫い、犯し、そのままわたくしを脅しわたくしの親に夫であることを認めさせました。貴方様はどんな時も構わずわたくしを消費し、わたくしを貪りました。ついにわたくしが貴方様の手によって病に至ると、貴方様はわたくしの不貞を疑いました。不貞を疑われたわたくしは追い出され、行く宛もなく餓死しました。その節はどうもありがとうございます。代わりに臓物をいただきます。”


”おお、愛しく悲しい芳よ。そなたまでわたしを恨むのか。わたしにはそなたとの楽しい時間しか思い出せぬ。どんな時もそなたはわたしを楽しませたではないか。そなたもわたしの喜びこそがそなたの喜びと申したではないか。”


”はい梅宮さま。わたくしは梅宮さまを愛しましたゆえ、わたくしの家にお上げになりました。わたくしは無知な貴方様の喜ぶのが愛おしかった。だからなんでも与えました。すると貴方様はわたくしの家ものすべてをむしり取ったではありませんか。ついにわたくしが与えるものがなくなると貴方様はわたくしをお売りになった。その節はどうもありがとうございます。代わりに指を少しずつ 少しずついただきます。”



 清野は梅見物語の前半部では「いつもの文学なのか」とあきれつつあったが、後半部を見て一気に印象を変えて読み終わった。梅見物語の前半部、つまり梅宮の「幸せな」パートは良くも悪くも文学らしい、美女と男の生生しくも美しい、幻想的なロマンスが描かれているが、後半部は一転して男の暗転だ。その暗転こそが女達の語る「愛」の真実だ。

 男が咲かせた梅の樹の花の多さと赤さは、男が重ねた女達への加害である。


 清野はネットで『梅見物語』のレビューを見た。案の定というか、男の読者と思われるレビューには女達の恐ろしい美しさ、とか愛のすれ違いが生々しいとか、所謂「女って怖い」「愛は難しい」系の読み取りしかできないものが多かった。対して、女性の読者と思われるレビューには「これは加害の告発だ」と書かれていたり、「女性たちの笑う姿が怖くも、その理由には共感できる気がしました」と書かれてもいた。

 清野は女性たちのレビューにいいねボタンを押した。男が書いたと思われるレビューには参考にならなかったボタンを押した。明らかな中傷には通報ボタンを押した。そしてそのあり様に相変わらずな世界だと思わずにはいられなかった。

 清野が通報したり、参考にならなかったレビューを書いた男の中に一体どれだけの「アップデートされた最近の若い男の人」がいただろう。おそらく、その数は赤坂や世間の女性が「ミソジニーのキツイ男」と思っている男たちとほとんど同じ割合だ。ある女性から見てでも、結局はオスなのだ。どれだけ上品ぶって人間みたいに取り繕っても、その本体は棒にあるのだ。


 自分は会うべくして藤館氏に会ったのかもしれない。あの人が生きていたらきっとこの本を勧めてきたのだろう。それともあの人が藤館さんをあのバーに連れてきたのかもしれない。

 藤館さんは誹謗中傷レビューを見てしまって落ち込んでいたのだろうか。もしそうなら自分はそいつらを許せない。殴りに行けるのなら一人ひとり殴りに行ってやりたい。もちろん梅の樹の女性たちを連れて。

 藤館さんは自分に会ってくれる気がまだあるだろうか。もし会ってくれる気があるのなら、ぜひ伝えたい。貴方の文章が素晴らしいこと、貴方の書いた女性たちは自分たちであると、そして男どもがキレ散らかし泣きわめくほど、貴方の文章の素晴らしさの証になること。

 それを伝える方法は一つだろう。連絡してみればいいのだ。連絡すれば、その思いを伝えられる。向こうがこちらをブロックしていなければの話だが。それを確認する方法も、結局は連絡してみなければわからない。

 清野は少し戸惑いつつも、携帯の連絡アプリを開いて藤館香子の名前を探した。するとちょうど通知が入った。


”こんにちは。この前お会いした藤館です。よろしければ今日お会いできませんか”


 清野はやはり会わなければならない人なのだ、と実感した。届いたメッセージに指で触れ、藤館宛てのメッセージを送る。


”こんにちは。この前のバーでまたお会いしましょう。5時30分に☓☓駅で待ち合わせで大丈夫そうですか?”

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