第11話 江口 ―えぐち―
「雨だなあ」
「雨ですね」
「……よく降るなあ」
「よく降りますね」
降り続く雨は、会話が聞こえなくなるほど強くはない。だが、いつまでも止む気配がない。
さすがに冷えたのだろう。ふるりと体を震わせ、旅の僧は部屋の中へ視線を投げかけた。
「ちょーっと中に入れてくんないかな」
「無理です」
笠の中から白いため息をこぼし、
「
部屋の中から、ふんっと鼻息がもれ
「
「そんな
「あんたが
「現代語訳!」
「そっちこそ!」
「世の中を
「ご出家の身と
同じような表情で遊女が答える。
静寂は一瞬と保たず、先ほどの応酬が再開された。
「ケチ!」
「坊主のくせに!」
「別に
「
そこに、みっしりとした気配が入り込む。
「はいはいはいはい、そ・こ・ま・で・よ」
二人の間に割って入った、むっちりと張りのある大胸筋。
「
「だってこの人が」
「だってこの坊主が」
振り向いた二人が叫んだ。
「泊めてくれないから!」
「出家した人を泊めてどうすんのよ! あんたが泊まったら他のお客さんが来られないじゃない!」
二人の目の前で
「やあだ、もう。新古今和歌集が泣くわよぉ」
部屋の内と外での
「ほらほら、二人ともそんな風にがるがる言ってないで」
この鍛え上げられた
それは薄い
「ここはアタシが
「菩薩様がおっしゃるなら、あたしはいいですけど」
今度は
「しょうがない。入ってくださいな、お坊様」
衣を
中に入るや、シャランラと音がしそうな光が体を包み、西行は
「ね、これならお部屋も濡れないし、いいでしょ」
「ありがとうございます。お世話になります」
「あらぁ、いいのよぉ」
菩薩は振り返ると
「ささ、どうぞ座って。西行ちゃんも
「はい! 素晴らしい所でした。何度焼けても再建されたのはそれだけ人々の
「うんうん、よかったわねえ」
やはり推し語りは早口になるものらしい。
西行のそれを菩薩はにこにこと聞いている。
「これを機会に弘法大師様の跡を追ってみようかと思っています」
「あらぁ、大丈夫? あの子結構きっついとこ行ってるわよ」
「……がんばります。尊敬するあの方が何を見たのか、何を感じたのか、私もそこへ行って考えてみたいと思います」
ちょうどそこへ
どうぞ、と
「遅くなってすみません。少しですが食べ物も用意しました。召し上がってください」
「いいのか? さっきまで、あんなに言っていたのに」
「菩薩様に宿代いただいてるのに、もてなしもしないのはどうかと思っただけよ」
照れているのか、
「すまなかった。さっきは雨に濡れて寒かったし、腹も減って気が立ってたんだ。出家したというのに情けない事だった」
「やだ、そんな殊勝なこと言われたら困るわ」
わだかまりが解ければ、なんということもない。即妙に和歌のやり取りをしたのも互いに気に入ったようだ。
間に入る菩薩の合いの手が絶妙なこともあって、食も会話も進む。
やがて西行の
「西行ちゃんお疲れね、横になったら?」
「いや、これだけ良くしていただいてさすがにそれは。少し休んだら出立しますので……」
そう言いながらも、ゆらりゆらりと船を
いつの間にか西行の体は
「やっぱりお疲れねえ、寝ちゃったわ」
「そうですね」
苦笑しながら
「菩薩様」
「なあに?」
「出家するのも悪くないかもしれませんね」
菩薩は小首を傾げ、先をと促す。
「もう昔の華やかな暮らしを思い出すことも少なくなりました。訪れては別れる人を見送り、来ない人を待つ遊女の暮らしもなんだか疲れてしまって」
いつの間にか雨は止み、
「心に波が立つと苦しい。それは迷っているから、惜しむ心があるからなんですね。流れる川のように心を留めずにいられたら」
「ふふっ、西行ちゃんよりお坊様みたいなことを言うのね」
妙は驚いたように目を見張り、そうでしょうかと困ったように笑った。
菩薩はそんな
「風に吹き散らされる春の花や、枯れ落ちる秋の林。確かに変わりゆく世界は移ろいやすい人の心と同じだわ」
でもね、と菩薩は空を仰ぐ。
「今も昔も月は変わらず輝いている。全ては同じ世界の姿なのよ」
菩薩の言葉につられるように
「さ、お
「はい……ありがとう……ございます……」
急に眠気が差したらしい
二人分の安らかな寝息を聞き、菩薩は柔らかに笑みを浮かべる。すうっと上げられた手の、その指からパチンと音がした。
「もし、お坊様」
「……んん……」
「お坊様、起きてください。こんな所でお休みになられては風邪を引かれますよ」
「江口まで行ったはずなんだが、なぜここに……」
きょろきょろと辺りを見回し、当惑して首をひねる。
「夢……だったのだろうか」
「あのう、大丈夫ですか?」
はた、と我に返り、西行は男に手を合わせた。
「ご心配おかけしてすみません。大丈夫です」
ほっと胸をなで下ろし男は去っていった。
「まあ夢でもいいか。いつの日も
朝日を浴びて西行は歩き出す。
と、不意に何かに気づいたように足を止め独りごちた。
「夢でなければ、いつか会えるかもしれんな」
西行の去った後、かすかに残った女物の
風姿花伝 偽の巻 kiri @kirisyu
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