湯の街の裏路地で

上松 煌(うえまつ あきら)

湯の街の裏路地で



               1


 伊豆は雨が多い。

コロナ自粛の影響で、21時には赤ちょうちんの灯を落とすこの頃だ。

まだ、20時を回ったばかりだが、けぶった大気ににじんだ街明かりの向こうに常連たちの後ろ姿を見送ると、シンとした店内に古い柱時計の音だけが耳につく。

こういう天気の日は観光客の出足も鈍いのだ。

痩せぎすの体を白い板前法被に包んだ自分を、窓ガラスに映してつくづくと見やる。

(いつのまにか、60を越えちまったな)そんな感慨が雨脚に誘われて心をよぎった。


 熱海は山側の駅から見ると、ほんの一握りの街に見える。

だが、逆の海から見れば、家々が賑やかに山々を覆い尽くしているのだ。

そんなギャップのある街の片隅に流れ着いた自分が、今ではすっかり地元に溶け込んで、観光客や常連を相手に居酒屋を営んでいる。

思えば不思議な気がした。


「ごめんよ」

そんな声がして、だれかが縄のれんをくぐった。

「へい、らっしゃい」

反射的に振り向く。

瞬間、あれっ?っと思う。

どこかで見たような?

同時に相手も目を見張る。

お互いが記憶をまさぐりながら、ちょっと硬直する。

「おい、おまえ、白河(しらかわ)?」

それでこっちも思い当たる。

「え?そうですが…。あっ、えっ?武藤…武藤先生?」


 「そうだよ、武藤だよ。いやぁ、お互い年をとったなぁ。だけど、ピンときたよ。職業柄、人の顔は忘れない」

「そうですか。武藤先生は目でわかりました。昔のまんま」

「あはは、それも職業柄だな」

その笑い方も昔のままだ。

そうだ、あの時…。

白河より3つ4つ年上の武藤は彼に目をかけてくれ、物陰に呼んでから、

「いいか、受刑者番号呼称の後は結婚詐欺でココに来たと言え。ホントのことは口外するな。他の刑務官にも周知徹底してある」

と、言ったのだ。

当時、すでに刑務主任で一目おかれる存在だった。


 心のままに声が弾む。

「いや、本当に奇遇です。うれしいなぁ。その節はお世話になりました。今日はお仕事ですか?」

「いやいや、もう、とっくに定年さ。妻がタチの悪いガンになってね、熱海にいいセンセがいるんで、ほら、そこのオーシャンビュー・ランド(別荘地)に定住したんだが、残念ながらここへ来て3年半で逝っちまった。今じゃあ寂しくやもめ暮らしさ。やっとこのごろ居酒屋で一杯しけ込もうかって気分になった。白河んとこが飲み屋でよかったよ。これから、ひいきにさせてもらうよ」

「ああ…」

ため息とともにちょっと絶句する。

この人も苦労したのだ。


 当時は30代で気鋭の刑務所職員だった。

もう、所長にでも出世したかと思っていたが、そうではなかったらしい。

それを思わず口にすると、武藤は苦笑いした。

「いや、妻は入退院が多くてね。介護を優先したから、すっかり出世街道から外れちまった。でも、それでよかったと思ってる。思い切り見送れたよ」

「……」

どう返事すべきか言葉に詰まる。

武藤の妻は若いときからのガン体質で、体のあちこちで転移を繰り返すというやっかいな病状だった。

母親も若くして亡くなっていて、医師の話では遺伝だろうと言うことだったが、それを聞いたところでなんの支えにもならない。

それでも仲の良かった夫婦は希望を失わずに養生を続けたが、先行きの暗いことをお互いに自覚せざるを得なかった。

「ね、わたしより、仕事を優先して。こんな体でごめんね、ごめんね」

彼女が申し訳なさそうに言うたびに武藤は強くそれを否定した。

「な~に言ってる? 仕事が何だ? お前の世話がおれの生きがいだ。いつまでもいつまでも、こうしていたい。おれはこれで本気で幸せなんだ。よけいな心配してるとシワが増えるぞ」

「やだ、うふふふ・・・・・・」

弱く笑う妻を美しいと思った。

「ね、白河。おれは彼女に感謝してる。彼女のお陰だ。妻が待ってると思うと、老いるのも死ぬのも怖くないんだ。おれの人生の中で一番、充実した時間だったよ」

相変わらずの温情のある言葉に、本気で目頭がジンとくる。

「ホントにねぇ。自分も武藤先生のようでありたいです。人の生き死にはどうすることもできませんからねぇ…」

そう言いながらも、なんとなく背筋がゾクッとするような重い記憶が戻ってくる。




               2




 1988年当時、世間はバブル景気に沸いていた。

都心の土地価格は急騰し、豪華な億ションが飛ぶように売れた。

不動産屋は高級車を乗り回して昼は貪欲に物件を買いあさり、夜は夜で夜の帝王を自認していた。

そんな中で暗躍したのが、地上げ屋だった。

当時の香港マフィアも絡んだ連中で、追い出しの手口も放火やダンプで突っ込む、自殺に見せかけた殺人など、とにかくやり口が荒っぽい。

都心の住民を恐怖に陥れ、後手後手に回る警察を尻目に、社会問題になるほどの悪辣ぶりだ。

白河憲之(しらかわのりゆき)の家もその地上げに遭った。


 銀座に近い新橋の古くからの一角。

当初、江戸っ子の祖父母とともに荒物屋を営んでいた父は、「冗談じゃねぇやぃ」と抵抗した。

だが、ガラの悪いスーツ姿の連中が、昼夜を問わず店の周りをうろうろする。

果ては店の中に乗りこんできて客たちに眼つけし、商売にならない。

もちろん夜は電話のコールが鳴りやまない。

まず、西隣の豆腐屋が言い値で土地を売り払って越した。

家屋はあっという間に重機で破壊され、その折、白河家のひさしも激しく壊された。

警察を呼んだが、どこから連絡が行くのだろう?警官が駆け付けるころには雲隠れして誰もいない。

それを見た東隣も震えあがって、早々に去って行った。


 そのころから「話し合い」ということで、黒服連中がやってきた。

名目は話し合いだが、要は脅しだ。

その中に恰幅のいい、不動産屋然とした中堅幹部がいた。

彼は悠然と高級葉巻をくゆらせる。

それはいいが、口葉を切るのにわざわざ大仰なナイフを使う。

応対に出た父にフゥッと煙を吹きつけ、胸ぐらをつかんで目の前で白刃をヒラヒラさせた。

次の間から様子をうかがっていた母が仰天して悲鳴を上げる。

憲之(のりゆき)は反射的に店の工事用スパナをつかんで突進し、思う様殴りつけた。

相手はすっ倒れたが、すぐに起き上がろうとしてくる。

さすがその道の玄人だ。

どんな反撃があるかわからない恐怖と混乱で、それ以降の記憶がない。

ただ、これは裁判でも証言したが、「放っといてくれ、消えてくれ」と思い続けていたことは事実だ。

それ以外に覚えているのは黒服連中の逃げ足の速さだけだった。

中堅幹部は病院で亡くなった。


 「過剰防衛」、それが彼の罪状だった。

スパナを持っての攻撃は刑法第三十六条第一項の「急迫不正の侵害」を満たすものではなかったからだ。

それでも数々の情状が酌量され、刑期は2年7カ月に決まった。

逮捕から刑務所収監までの日々はカタギの憲之にとって、現実感のないCGのような日々だった。

困惑し、とまどい、恐れ、後悔しながらの時間。

その間に彼を慈しんでくれていた祖父母が相次いで亡くなった。

高齢者にとって、孫が殺人犯になったという事実は大きな驚きと悲しみであったのだろう。

憲之は「ごめんなさい」を繰り返しながら、涙の枯れ果てるまで泣いた。

彼はその時、29歳だった。




               3




 (アメリカ軍のブートキャンプだ。ここは日本じゃない)

憲之は本気で思った。

もちろん、米軍の新兵訓練所など、見たことすらないが、その厳しさはウワサに聞いて知っていた。

それでも初犯で刑期8年未満の彼は『A級短期』と呼ばれ、比較的穏健な監獄が選ばれる。 

窓に金網の張られた護送車に乗って刑務所の門をくぐり、数人が並ばされて刑務官との初めてのご対面だ。

とたんに、

「wi;@gg!!!っ」。

耳がキ~ンとするほどの意味不明の罵声に度肝を抜かれる。

2度目の叱責でやっと意味がわかった。

「遅いっ!」


 それ以降はなにをするにも、桁違いの大音量の洗礼だ。

たちまち受刑者たちはしっぽを巻いた犬畜生のように、卑屈な温順になりさがる。

もちろん、ぶったり蹴ったりはされないが、目をいからせた看守の怒鳴り声に本気でナニが縮みあがるのだ。

とにかくオドオドと言われるままに行動し、夢うつつのような状態で自分の『受刑者番号』を受け取り、娑婆でも有名な『身体検査』を受ける。

この時、初めて憲之は悪鬼の形相の看守たちに同情した。

巷でのウワサは嘘ではなく、素っ裸になって性器や肛門を丸出しにする。

なにかを隠し持てる部分だからだ。

陰毛に半ば隠れるほど縮んだナニのしわを伸ばしたり、広げた菊座の中を覗き込んだりする。

その真剣な表情には不正持ち込みを許さない気概が感じられるが、新手の収監のたびに見たくもない男の尻を検査するのが仕事では、正直言って人格が崩壊するだろう。

つんざくような罵声は、彼ら自身への喝にも感じられた。


 「冷(ひや)でもらうか」

武藤の声に現実に引き戻される。

「先生、今夜はおごらせてください。ね、どうかお願いしますよ」

「そうはいかない」

首を振る彼を押しとどめて、新規に獺祭の一升瓶の封を切った。

酒は空気に触れると風味が変わってしまうから、当然、新しいもののほうが美味い。

でかいホタテ貝柱は醤油漬けにしてあぶったものを出す。

その足で赤ちょうちんの灯を落とし、のれんを巻いてしまう。

「お、いいのかい?まだ客も来るだろ」

「先生、ヤボですよ。今夜は先生と飲み明かしたい気分です。付き合ってください」

武藤も笑顔になる。

「そうかい?うれしいねぇ」


 ちょっと平凡だがアワビと地魚の刺盛り、金目の煮つけ、エビ蒲鉾に烏賊メンチ、マグロのカマ焼きに高足ガニの海鮮サラダ。

ヒジキとワカメと油揚げを細切りにして、味付けした天草(テングサ)で固めた箸休めには、ワサビの茎葉を叩いてを添えてある。

「地物ばっかりですがね。どうしても観光客向けの品ぞろえになってしまうんです」

「いや、美味いよ。これなら常連にも受けるだろ?この金目、このあたりでは甘辛だけの味付けだが、これは針ショウガが落としてある。ピリッとした刺激を好む江戸前だ」

「はい、おかげさまで、美味いと言って地の人も来てくれてます。ここは難しい土地柄なんですが、なんとか溶け込めたようで先生のおかげです。先生がいらっしゃらなかったら自分のこの生活もなかったと思います。本当にありがたいことです」

言いながら、思いは再び過去に戻って行く。

そう、あれは…。


 刑務所では最初の3週間、6人部屋の房に入る。

これを『調査舎房』といい、個々の人間の性質や適性、傾向性などが見定められる。

丸見えのトイレと流し台のついた7~8畳の部屋で、2人分は2段ベッドだ。

初日の武藤刑務主任の託宣通り、白河憲之を含めた4人が詐欺、1人が常習の高額無銭飲食、残りの1人はなんと過失による子殺しだった。

これは本当に気の毒な事件で、パパの車を見て喜んで走り寄って来た幼児を、狭い車庫入れに夢中だった父は気付かずに轢いてしまったのだ。

子殺しは強姦犯などと同様、塀の中でも軽蔑といじめの対象になるが、彼だけは数度、足がらみをかけられるなどの嫌がらせにあっただけで目こぼしされていた。

いかにも胃弱のサラリーマンといった感じの、影の薄い人だった。

始めのうち憲之は、なぜ自分が結婚詐欺師にされたかがわからないでいた。

それが2週間を過ぎたころ、ある事件のウワサを耳にした。


 『調査舎房』の受刑者たちにも当然、毎日の日課がある。

他の房の連中とも接触があるのは、袋張りなどの簡単な作業を行う『考査訓練』と、動作管理目的で分列行進などを繰り返す『動作訓練』時だが、週2で30分の『運動』がある。

看守の目を盗んでの情報だから途切れ途切れだが、どうやらどこかの房で敵対する組の構成員が1人、敵の組員のいるまっただ中に配属されたらしい。

刑務官もそうした配分には気をつけてはいるのだが、構成員が下っ端の初犯であったため、見落としてしまったのだ。

本人もまさかと思ってタカをくくっていたに違いない。

だが、運悪く、彼の顔を見知っていた組員がいた。

刑務所内での犯行は夜、看守の巡邏(じゅんら)の間隙をぬって行われた。

5人で共謀して本人にフトンごと抱きついて押さえつけ、支給品のちり紙を何枚か濡らして顔に張り付ける。

それだけで人間は窒息死してしまうのだ。

貴重品の官物を使うのは供養のためだと言うが、本当のところはわからない。


 もちろん、5人が5人とも組員であったわけではない。

それでも別格の彼らに反抗することは許されない。

うっかりした行動をとれば、いづれ窒息死の順番が自分に回って来てしまうのだ。

口裏合わせをされたまま「なにも知りません。朝起きたら亡くなってました」と、オウムのように繰り返すしかない。

看守も刑務所内で異常に多い突然死の事実に、薄々疑ってはいる。

だが、傷一つない死体には何の証拠もなく、結局、病死として処理するしかないのだ。


 憲之は戦慄して心から武藤刑務主任に感謝した。

そして、この時初めて心底、更生を誓ったのだ。

今まではどこかに自分は被害者だとする甘えと恨みがあった。

もちろん、後悔もしたし、反省も半端なくしたつもりだった。

それでも自分の行動を「社会のクズを1人減らした」と思ったことすらある。

だが、直前まで危険が迫っていることに気づかずに逝った構成員の哀れさが、今初めて自分が死に至らしめた中堅幹部に重なったのだ。

組員の存在を事前に察知さえしていれば、彼は独房に移ることもできたのだ。

それと同様にあの時、いくら反撃の恐怖に怯えたにしろ、死ぬまで殴らなくてもよかったはずだ。

悪質な地上げ屋でも、悲しむ人のひとりふたりはいるだろう。

そんな個人の人間関係を安易に断ち切る権利など、だれにもないからだ。

憲之はいまさらながらに自分を愚かだったと恥じた。




                 4




 「結婚はどうした、嫁さんはいないのか?」

武藤の声に三度(みたび)現実に戻る。

「え?あ…はい…ええと」どう話せばいいか戸惑う「いや、ま、人並みに気になるヒトはいたんですがね。でも、やっぱり…」

「…前科か?」

「あ、いや…。ま、過去は消えないし。とんでもないことやっちゃったんだから、一生背負わないといけないし。その覚悟はできてますしね、それにまぁ、1人ってのもいいもんですから。それでも、若い時にはちょっと夢を見たときもありましたよ。でも、ま、結局こうして独り身ですがね・・・・・・」

思わせぶりに言いながら、心は過去をまさぐって行く。


 あれは『失われた20年』と言われる、バブル後の大不況の時代だった。

最高学府でも出ない限り新卒の求人はなく、倒産やリストラが巷にあふれ、自殺や失踪、ホームレスも珍しくなかった。

そんな混乱の中、民間ボランティアである『保護司』のツテで、憲之は日本料理屋に職を得ていた。

給与は低く渇々の生活だったが、当時は職場があるだけで幸せで、ムショ暮らしの経験のある彼には板前修業は苦ではなかった。

憲之は10年間というもの、わき目も振らず働いた。

もともと稼業が荒物屋であったため、客商売は嫌いではなかったからだ。

そんな折、父が亡くなり、けっこうまとまった金の相続を受けた。

独立の希望が心をよぎり、彼は親方に相談した。

「いい機会だ、独立しろ」

そう言って餞別を出してくれた親方の前で憲之は思い切り、男泣きに泣いた。

ムショ帰りがやっと一人前の人間として認められた気がして感謝の涙が止まらなかった。


 母は数年前に亡くなり、父も逝ってしまった今、生まれ育った新橋は、もう、選択肢にはなかった。

どこか見知らぬ新天地で新規巻き直しを図りたかった彼は、幼いころの思い出にある熱海を選んだ。

祖父母が元気だったころ、温泉好きの彼らのために、家族はよくこの地に旅したからだ。

当時は小田急特別急行列車内に『走る喫茶室』というサービスがあって、乗客たちが飲み食いしているうちに目的地に着くという趣向がウケて、憲之も提供される紅茶とケーキに楽しい思い入れがあったのだ。

昔ながらの歴史と伝統を誇る熱海の湯は、多くが弱アルカリ泉で肌がスベスベになる特徴があり、母や祖母が特に好んでいた。

林立する近代ホテルのほかにも、豪奢な日本建築の宿、モダンでゆとりのある別荘などが醸し出す独特の街の雰囲気は、いかにも古き良き観光地を思わせた。

父や祖父は毎回、海鮮料理を堪能し、都会的で洗練された味や盛り付けをうれしそうに褒めていた。

憲之自身も射的や輪投げなど、東京では縁日にしか見られない大時代的なゲームに目を見張り、いつまでも興じるのだった。

彼ら家族は1~2月の寒さから逃れるようにいつもこの地を訪れ、滝の流れる梅林で梅の香りを楽しみ、夏は夏で、憲之のために海水浴をしたり花火大会を鑑賞するのが恒例行事になっていた。

懐かしく風雅な思い出は、彼の心の中に深く根を下ろしていたに違いない。


 しばらくぶりの熱海は不況にさびれていた。

全体に暗く、廃ホテルやシャッター通りも目立ったが、それでも温泉目当ての観光客はいて、彼はそれに希望を持った。

そして温泉が枯渇しない限り、都心から最も近い温泉地は再び脚光を浴びるだろうと踏んだのだ。

数回通ったのち、熱海駅の南側、熱海停車場線に近い一等地に小さな居抜き売り物件を見つけた時、心から不景気に感謝せずにはいられなかった。

北側の路地に面して店、東から南にかけて開けたホテルの駐車場に面した物件は、こんな時代でもなければ、どうあがいても手に入らないシロモノだ。

彼はその立地を利用して、駐車場側にも複数看板を立てた。

そして、朝の9時半~14時半はモーニング及び定食、午後16時半からは居酒屋と、他の店との時間的差別化を図ったのだ。


 当初、移住者の彼の店は地元からあまり相手にされず、観光客のみが大切な客になったが、店の好立地がそれを救ってくれた。

気前よく、足の速い生ものや賞味期限間近な食品はどんどんサービス小鉢として無料提供してしまう商法もお得感をあおってウケ、5~6年もたつうちには地元の人もチラホラ顔を出すようになり、客の集中する昼の時間帯は彼の手に余るようになっていた。

憲之は店の目立つ所に従業員募集の張り紙を出した。


 それに応じてやって来たのが、伊東に住む30そこそこの寡婦で、幼稚園年中組にあたる5歳の男の子がいた。

面接時に夫とは死に別れたと説明していたが、憲之にとってそんな経歴はどうでもよかった。

関心事は当然ながら、彼女が商売向きか、また、彼が留守の時などパートナーとしてレジを任せられるかということだった。

長引く不況下での従業員との金銭トラブルは、この熱海の商店会でもチラホラ聞いていたからだ。


 人間の性根は目を見ればわかる。

刑務所で2年7ヶ月も詐欺師たちといるうちに、笑顔や態度、言葉などは雄弁に人を騙すが、目付きと雰囲気だけは本性を現すものだと、身をもって知っていたのだ。

彼女は幸恵(ゆきえ)さんといい、小柄で地味な人だった。

当初、憲之が希望していた、いかにも定食屋のおばちゃんといったバイタリティあるタイプからはほど遠かったが、彼はためらわず彼女を採用した。




                  5




 映画や小説なら、彼女とのロマンスや絡みもあったかもしれない。

現に彼は、真面目でよく気の付く幸恵さんに淡い恋心さえ抱いた。

だが、現実は淡々と過ぎていくだけだった。

もちろん、常連の中には面と向かって、

「ね、大将は幾つだい?早くユキちゃんみたいな嫁さんもらわんとね」

などと、水を向ける者もいた。

そんなとき、憲之の答えは決まって、

「いや、あっしとはふた回りほども年が違うんで。話の合わないこんな爺さんがダンナじゃ、ユキちゃんが気の毒ですよ」

というものだった。

これは彼の実感で、20歳以上も年の差があるととすでに世代が違うのだ。

つまり、共通の話題がなかなか共有しづらい。

今現在、すでに50を越えた憲之の将来的な性の衰えを考えれば、若い嫁を持て余すことにもなりかねない。

彼女も言わず語らず、同じ考えだったに違いない。

忠実によく働いてくれたが、その気配りも思いやりも、店と店主に対する誠実さの域を出なかった。


 それでも彼にとって、張り合いのある楽しい日々であったことは確かだ。

店に来てくれたお客さんには、ぜひ満足して帰ってもらいたいという憲之の経営方針を幸恵さんは良く理解してくれ、当初はあまり笑顔を見せなかった彼女も、半年、1年と経つうちによく笑うようになって行った。

アットホームな温かい雰囲気は景気の緩やかな回復とも相まって、彼の店を行列のできる店舗へと押し上げていた。

街の広報に載ったり、熱海を紹介する旅行会社のパンフレットに名前がでたりして、それがさらに客を呼ぶ結果になったのも事実だった。

若手の常連の中には、

「ねえ、昼もいいけど、夜の居酒屋部門を担当してくれたらうれしいんだよなぁ」

などというものがいた。

子供がいるからという理由で、昼の時間帯のみに固執する彼女の母親としての気持ちを十分知っての上だ。

彼らもまた、ひとり身で子育てに邁進する幸恵さんに、同情とそこはかとない恋心を抱いていたのだろう。

憲之は時々、彼女のために大入り(ボーナス)を出してさりげなく経済支援をしたりした


 

「ま、ユキちゃんとは、ホントなんにもなかったんです。彼女、2年ちょっとで、新たなダンナさんと所帯持って東京に越して行きましたよ」

「なんだ、白河。竜頭蛇尾か。ちょっと期待しちまった」

武藤の声に憲之も苦笑いする。

「すいません。これが現実ってヤツで。でも、人間って不思議なものですね。彼女がね、最後に挨拶に来た時、ダンナも一緒に来たんですが。そん時の気分と言ったら、もう、娘を嫁に出す親父の気持ちですよ」

「あはは、白河、いい経験したな。愛ってものには必ずエゴが絡む。妬み嫉みなどの嫉妬もある。おまえの感じたのはそれを超越した無償の愛だ。本物の愛情ってやつだよ。多少の苦労があっても婚家で頑張れ、どうしても我慢できなければ戻ってこいっていう親のアレさ」

「ええ、ほんとに。娘もいないのにいい経験させてもらいましたよ」



 それでも憲之が意気消沈したのは事実だった。

あすからはもう、幸恵さんは来ないのだ。

居酒屋の夜の業務を終えて1人になったとき、彼は思わず知らずポロッと涙をこぼしたのだ。

そして、それっきり次の従業員募集の気になれず、昼の定食をやめて夜の居酒屋1本に絞ってしまったのだった。

彼もいつのまにか、別れが骨身にこたえる年齢になっていたのだ。



 「あれ、なにか鳴いてる」

武藤が聞き耳を立てる。

「あ、うちの相棒たちです。幸恵さんが近所の地域猫さんたちをみんな餌付けしてね。うちで引き取ったんです」

「なんだ、ユキちゃんの置き土産か。ほら、奥の部屋の仕切りから、みんなして代り番こにこっちを覗いてるぜ」

「ええ、今夜はなかなか店を閉めないので、心配して見てるんです」

「ああ、健気な連中だねぇ。実はうちにも猫さんがいてね、2匹の姉妹なんだが、ともに女房を見送った大切な戦友さ・・・・・・おれも未だに寂しくてたまらない晩があってね。そんな時はひざの2匹の戦友相手に、思い出話をする。人間は猫語は解らないけど、猫さんたちはこっちの言うことが解ってるんだね。なにか言いながら、おれの涙をなめてくれた時には、白河。おれは本気で声を上げて泣いちまったよ」

「ああ・・・・・・本当にそうでしょうね。愛情のこまやかさは人間以上ですからねぇ。自分もユキちゃんがいなくなってから、張り合いがなくなって、やっぱり寂しい時もありましたよ。そんな時にどれだけ癒されたか。うちのこの連中には感謝しかありません。まぁ、ねぇ、ユキちゃんがそれを見越して置いてってくれたのかなぁ、なんて思ったりもするんです。猫ちゃんを飼って共に暮らしていると人間嫌いになっちまいますよ」

「おいおい、おれも嫌いにならないでくれよ。しかし、今夜は美味い酒だった。お互い、還暦を越えてからの邂逅もいいもんだなぁ。癖が抜けてともに好々爺だ」

「あははは。今後ともよろしくお願いします。自分も武藤先生の出現で今後の人生に張りが出て来ました」


 彼らはしみじみとした懐かしさの中で笑い合った。

「先生、明日も来てくださいますよね?」

名残り惜しさがこんな言葉になる。

「ああ、来らいでか。さて、そろそろタクシーを呼んでくれ。遅くなったんでうちの戦友も首を長くしているだろうよ。おれの家はオーシャンビュー・ランド(別荘地)でも入口でね。すぐそこなんだが、この年で熱海の急坂はきついよ」

ちょっとたどたどしい足取りの武藤を外まで送る。

そしてほどなく到着したタクシー代金を素早く前払いしてから、テールランプが坂の向こうに消えるまで見送ったのだ。


 楽しい余韻を引きながら店裏の小部屋に入ると、待ちかねていた猫さんたちがひしめきながらわっと取り巻いてくる。

「おうおう、おまえたち。先に2階で寝てりゃいいのに。待たせちゃったなぁ」

詫びながら、猫トイレと餌箱の点検をする。

その時、ふと置きっぱなしになっている小包に目が行った。

昼間届いたものだが、仕込みで忙しかった彼は受け取ったきり、ほとんど忘れていたのだ。

あらためて差出人の名を確認する。

「古森(こもり)…。甥っ子と同じ名字だが…?雅俊(まさとし)…じゃ名前が違うな。だれだろう?」

昼間も感じたことを繰り返して口にしながら、そのあとに書かれた家族名に目が行く。

「幸恵(ゆきえ)・大洋(たいよう)か。ふ~ん、え…、幸恵?」




                  6




 一瞬、手が震える。

「まさか、ユキちゃん?」

へたり込むように座りこんで包みを開ける。

中には手紙と40センチくらいある紙包みが入っていた。

開けてみると手作りの木札で、表には少し稚拙な『営業中』の文字が彫り込まれ、裏は見事な勘亭流で『準備中』とあった。

急いで目を走らせる手紙には彼への感謝の気持ちが丁寧につづられていて、その中にこの木札の経緯も説明されていた。

これは小学校6年になった息子が図工の時間に作った木工で、裏に父親が手を加えて合作として完成させたものだったのだ。


 なんだか目頭がじんわりと熱くなってくる。

「そうかぁ、大洋くんも6年生か。おれも年を取るわけだよ。父子(おやこ)関係もうまくいってるようで何よりだ。素直ないい子だったからなぁ」

つぶやきは祖父が孫を思いやる言葉そのままだ。

憲之はそれに自分で気づいて苦笑する。

文面はさらに続いていて、月末の3連休には伊豆を旅するので、彼の都合さえよければその折に寄りたいとの希望が書かれていた。


 憲之は我知らず、満面の笑顔になっていた。

「こりゃ、忙しくなるな。食材は何でもてなそうかな?時節柄コロナだからなぁ、いっそのこと布団を新しく購入してうちの2階に泊まってもらうか?おい、おまえたち。ユキちゃんが家族連れてくるってよ」

弾んだ声音に、憲之の喜びがわかるのだろう。

同じ気分を共有してニャアニャア返事する頭を平等になでてやりながら、

「アワビのバター焼きは外せないな。子供も好むし。大人にはにぎりで、大洋くんにはちらしずしもいいな。イセエビグラタンや海鮮ピザも焼くかな?あぁ?おい。そうそう、そうだ、武藤先生にも来てもらおう。ユキちゃんの家族なら武藤先生もきっと喜んでくれる。ついでにおれの過去もきれいさっぱりしゃべっちまうかな?」

などと盛んに話しかける。

これは心が浮き立った時の彼の癖なのだ。


 もう、1時をかなり回っているのに、とても寝る気にはなれない。

ちょっと小腹がすいたついでに南側の縁先に出て、ささやかな庭を見ながらカレイの煮凝りをつつく。

獺祭の残りは湯呑茶碗にうつして茶碗酒としゃれ込んだ。

もちろん木札は大事に抱えたままだ。

西側にそびえるホテルの向こうに、明るい上弦の月が出ている。

「『さまざまなこと思い出す桜かな』か…ええと~、だれの句だったかなぁ」

季節は全く違うのに、そんな感慨が浮かぶ。

思えば不器用な部類の生き方をしてきた自分が、曲がりなりにも60越えの今、地元民の一員として暮らしている。

刑務所時代の武藤先生といい、餞別を出して独立を祝ってくれた親方といい、人に恵まれたとつくづく思う。

そして自分のことなど、もう、とっくに忘れただろうと思っていた幸恵さんが、以前とかわらぬ思いやり深い手紙をくれるとは。


 世の中はまだまだ捨てたものではなかった。

その世の中に対して、自分もまだ何か出来るはずだ。

そんな思いが彼自身に喝を入れてくる。

「なぁ、おい。おれもフケこんじゃいられないよなぁ?」

思い思いに周りに侍(はべ)った猫さんたちにそんな言葉をかけながら、憲之はふと空を見上げる。

不景気を脱して再び活気を取り戻しつつある熱海の空が、街明かりを反射して少し赤っぽく見えていた。

あと数時間もすれば夜が明けてしまう。

この年で徹夜明けの仕込みはちょっときついから、少しだけでも身体を休めておきたい。


「さぁ、寝るぞ。おまえたち」

おもむろに立ち上がる彼に、ぞろぞろと付き従ってくる忠実な扶養家族に笑みを向けながら、2階への階段を上がる。

明日はまた、武藤先生が来てくれるのだ。

若い時の淡い恋心がもたらした思いがけない再会を彼にどう話そうか?

満足のため息とともに枕元に置いた木札をなでる。

しっかりした厚手の木の感触が、これからの絆を思わせていつまでも指先に残るのだった。



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湯の街の裏路地で 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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