くまだ

高村 芳

くまだ

 俺が十六歳のとき、じいちゃんが死んだ。最期の言葉は、「くまだ」だった。


 母方のじいちゃんはずっと腎臓病を抱えていて、ここ数年は顔がむくんで苦しそうだった。いよいよ明日から夏休みという、終業式の日だった。じいちゃんが危ないという電話が伯母さんからかかってきた午後、家族みんなで田舎のじいちゃんの家に車を走らせた。母さんと妹は車が日本家屋の前に止まるやいなや、畳の部屋に駆け込んだ。俺と父さんはその後を追う。妹はばあちゃんと一緒に、じいちゃんの顔を覗き込んで声をかけている。母さんは「お医者さんがよく保ったほうだって」、と涙ぐむ伯母さんと話している。父さんはじいちゃんの足下に堅い表情をして座る医者に頭を下げていた。


「ほら、ゆうくん。おじいちゃんに顔見せてあげて」


 伯母さんに背中を押されて、じいちゃんの傍らに座る。じいちゃんの目は虚空を見つめていて、呼吸が弱々しくなっていた。ばあちゃんも母さんも妹も泣いている。俺も悲しさは感じるが、どこか所在がなくふわふわした気持ちだった。なんと声をかければいいのかわからず、ただ押し黙ってじいちゃんを見守っていた。

 そのとき、じいちゃんの乾いてひび割れた唇が少し震えた。「おじいちゃんが!」と妹が叫んだ。それまで思い思いに声をかけていた家族がいっせいに静まりかえり、カラスが鳴く声が聞こえた。虚空を見つめていたじいちゃんの瞳がかすかに大きくなり、じいちゃんの呼吸が乱れ、口がぱくぱくと動いた。かすれた小さな声がこぼれた。


「くまだ」


 そこから彗星が尾を引いて消えていくように、じいちゃんの瞳から光が消えた。家族が皆、じいちゃん、じいちゃん、と声をかける。医者は静かにじいちゃんの枕元へ移動し、脈と瞳孔を調べた。本当にそうするんだな、と人ごとのように思った。「ご臨終です」という重々しい響きを皮切りに、母さんや伯母さんの泣き声がよりいっそう大きくなった。八十五歳のじいちゃんは、そのまま息を引きとった。

 そのまま通夜と葬式をすませた翌日の夜、広間で夕食のそうめんをすすっているとき、妹がぽつりと言った。


「『くまだ』って、何だったんだろう?」


 返事はなかった。それどころか、そうめんのすする音まで止まった。扇風機がカタカタと首を回す音がする。


「熊、ってことかなあ?」

「にしても、なんであの死にそうなときに? 猟の夢でも見てたんだろうか?」

「『まだ……』って何か言いかけたのかも」

「それか、熊田さんなんて知り合いにいたっけ?」


 伯母さんは質問するが、元気のないばあちゃんは「さてねえ」と答えただけだった。風鈴の音が鳴り、またみんなでそうめんをすすり始める。それからは夏休みに入っていたこともあり、じいちゃんの家を片付けたり部活にいそしんだりして、それきり「くまだ」の話をすることはなかった。


 あれから、月日が矢のごとく過ぎていき、じいちゃんの家には家族が代わるがわる住むことになった。じいちゃんが死んでから数年であとを追うようにばあちゃんが死に、伯母さんがしばらくひとりで住んでいた。伯母さんは「一人じゃ手に余るから」と職場に近い市内に移り住み、俺も妹も手を離れた父さんと母さんが、代わりに寂れた日本家屋に住むことになったのだ。家庭菜園をしながらセカンドライフを楽しんでいた母さんが死に、父さんも死んだ。ちょうど、俺が一人で育て上げた息子が社会人になった年だった。妻とは息子が小学生のときに離婚していた。


「おにいちゃん。家、どうする?」


 父さんの葬式が終わり家を片付けている間、二人きりになったタイミングで妹がこっそり尋ねてきた。妹は結婚し、遠く離れた都会で夫と中学生の姪と小学生の甥と暮らしていた。ここには気軽に移れない距離だ。俺だけに家を任せるのが心苦しいと、しわの増えた妹の顔に書いてある。


「俺が住むよ」


 独りになった俺と、幸せに暮らす妹家族。こうなるのは当然のことだ。


「何も問題ない。俺はもう子どもの世話をする必要はないし、こっちでも仕事ができる。たまに遊びに来いよ」


 そうして、かつてのじいちゃんの家は俺の家となったのだった。


 もちろん古い家なので、住み心地はいいとは言えなかった。隙間風どころではない風は吹きこんでくるし、キッチンの高さも低い。階段は幅が狭くて急だし、段差はいたるところにある。でもやけに生活に馴染んだ。子どもの頃は“じいちゃん家の匂い”だった草木の香りや油がのった柱の香り。使い古されたイグサに染みこんだ線香の香り。季節の香り。ああ、じいちゃんもばあちゃんも、父さんも母さんもこの香りに包まれて生きていたのだ。余生を過ごすには十分すぎる環境だった。老いていくとはこういうことか。思ったよりも悪くない日々だった。


 そして、いよいよそのときは来た。


 少し眠っていたのだろうか。やけに重く感じる布団の中で、バタバタと騒がしい足音を背中から感じた。ヘルパーから連絡を受けた息子が間に合ったのだろう。スーツのままかたわらに腰を下ろし、「父さん?」と声をかけてきた。急いできたのだろう、額に汗が光っているのが見える。喉が渇いて、それに応えてやることができず、眉毛を少し上げるのが精一杯だった。


 もうすぐ俺は死ぬ。わかる。息は吸えない。目は見えない。医者も足下に控えている。ずっと眠たくて仕方ない。辛いが、不思議と怖くない。慣れた香りが、心を穏やかに保ってくれていた。もう限界が近い。指一本動かせなかった。目をそっと開けるがぼやけている。

 じいちゃんもこの景色をみたのだろうか。息子の顔越しに、天井のシミが滲んでいる。大きい丸いシミに、小さな丸いシミが二つ、くっついている。そうか、これが。


「くまだ……」

「父さん? 何て言った?」


 そこからは喉が動かず、視界が暗くなっていった。やっぱり熊、ってことだったんだ。納得がいって、俺の意識は虚空に溶けていった。



   了

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くまだ 高村 芳 @yo4_taka6ra

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