囚われの異人(短編一話完結)

真源

囚われの異人

 バッテリィという物は意外に重い。それは、昔からの通例である。それでも、観測器の省電力化と疑似常温超電導の普及に伴う蓄電性能の急速な発達で、ひと昔前に比べると鉛の塊がアルミのメッシュになったほどの違いは生じている。三十台近くの観測器の半月分の電力が三十キロ弱の重量で賄えるのだから。

 箱型をした専用ケースに収められた、その合計三十キロ弱のバッテリィと小振りの赤いリュックを乗せた背負子を背負って、瀬名啓子は伊豆大島のカルデラの中を歩いていた。黒く粗い粒からなる砂に覆われた、起伏の多い大地に浅く足跡を付けながら、規則正しいペースで歩を進めていく。正面には三原山がそびえている。そこからやや右手に視線をずらすと、三原山の北壁から流れ出たのぺっとした溶岩が、亀裂を見せて固まっている。もう少し近付くと、溶岩の表面の起伏や渦巻状、波状の模様がハッキリとしてくるはずだ。溶岩の隙間を狙ってすすきの群生地が点在し、枯れた穂を風にそよがせている。そのずっと奥に見える外輪山に、御神火茶屋の展望台が建っている。この距離からでは、さすがに観光客を認識することは出来ない。

 啓子の出で立ちはというと、やたらポケットの多いモスグリーンの作業服の上下に、ウェスト・ポーチが巻かれている。南極越冬隊の記念品の帽子を被り、首には「アディダス」のタオルが巻かれている。義務で持ってきた気休めの白いヘルメットは、背負子に引っかけてある。足には淡いブラウンのキャラバンシューズ。

 地震研究所助手の身分の啓子は、この出で立ちで、十日に一度程度二日間かけて三原山を中心とするカルデラの中を巡り歩く。カルデラには、火山監視目的で、合わせて五十を超える三成分磁力計とソニック・レーダーが埋設されている。それらのバッテリィの交換と、メンテナンス、観測データの吸い上げ(勿論、データはリアルタイムで送られてくるのだが、それは必要最小限のデータでしかない)を行うという項目が、啓子の仕事には入っている。

 コンピュータ・パッドに組み込まれたナビゲーション・システムを頼りに観測点にたどり着いた啓子は、背中の荷を降ろすと、移植ごてで土を掘り返す。

 掘り返している場所のすぐ横からは、環境庁指定の保護色でカラーリングされたケーブル状のアンテナが五センチほど地上に出ている。

 五センチ程度掘ると、直径十センチ弱のジュラルミンの蓋にぶつかる。蓋の全体を露出させたところで、表面に残った黒い砂をブラシで掃き取る。蓋の中央のネジを緩め、蓋を開ける。コネクタが姿を現す。ケーブルを使ってコンピュータ・パッドと接続する。次いで、データの吸い上げと磁力計の状態の表示、チェックを行う。一分弱で作業を終わらすと、コネクタの取り付けられている中蓋を持ち上げ、その下から円筒形のバッテリィを取り出し、持ってきた物と交換する。更に、中蓋をはめ込み、動作確認、外蓋による密封、埋め戻しを行って作業が終了する。一カ所に十分とかからない、何の面白みもない機械的な作業である。

 それでも、啓子はこの「営業」と呼ばれる野外作業が気に入っていた。それは、観測点から観測点への移動時に、たっぷりと伊豆大島という火山を眺められるからだった。啓子は、一見荒涼としたものでしかない、三原山とその周囲のカルデラの風景が好きである。三原山に限った事ではない。十勝岳や阿蘇中岳、桜島といった現在噴火を繰り返している火山が作り出す、溶岩と火山灰に覆われた光景が好きなのだ。啓子は、そこに生き物を否定してしまうほどまでに土地を作り替えてしまう火山の生命力を感じてしまう。逆に、地球の時間レベルでほんの刹那だけ火山が活動を休止している間に、その火口にまで勢力を伸ばしてしまう動物や植物の様を目の当たりにすると、生き物達の図々しさを感じて、苦笑してしまうのだった。

 十五番目の観測点保守が終了し、一九八六年に出来た火口群へ向かって歩きだそうとしたとき、名前を呼ばれて啓子は振り返った。微かではあるが、聞き間違えようのない、澄んだソプラノ。遠くに、人影が見えた。足早に近付いてくる。見覚えのある、姿勢の良い足の運び方。夏目真菜だった。

 啓子は、嬉しい笑顔を浮かべてから、右手を高く上げ声が届いたことを知らせると、真菜に背を向ける。先ほどと変わらぬペースで、次の観測点へと歩き出す。こういう所で待っていてやるよりも、さっさと「営業」を終わらせてしまう方が良い。啓子は、そう考えている。

 十六番目の観測点でのソニック・レーダーの保守が終わった頃、使い込んだジーンズに色あせたスタジアム・ジャンパーという姿の真菜が啓子に追いついた。

 切り過ぎだと感じるほどに短い洗いざらしの髪や、帽子の日除けの分、目の下のところで幾分淡くコントラストが付いているといった風の無造作な日焼けがマイナスに働いたとしても、彼女が美少女であることに文句をいう人はいまい。凄味を隠し持つそれほど大きくはない目や意志の強そうな口元が、彼女の持つ気高さとプライドを物語っている。荒れ地を歩き回ることを常としている真菜のスタイルはすらりとしており、身長は、男性に混じってもそれほど目立たない啓子のそれよりも、高い。

「こんにちは、お久しぶりです」という挨拶をしながら、真菜は背負子を持ち上げ、啓子が背負うのを手伝う。

「ありがとう、本当にお久しぶりね。半年ぶりかしら」

「それぐらいぶりです」啓子と真菜は横に並んで歩き始める。

「相変わらず速いですねぇ。追いつくのに一苦労しました」

 そのペースに追いついて息ひとつ上げていない貴女だって大したものよ。自分の足のペースを知っている啓子は、そう思う。

「それにしても、よく分かったわねぇ、ここが」

「観測所の入り口に『山に行っている』て貼り紙があったし、前のお店の小母さんに訊ねたら、昨日も姿を見てないって言うから『営業』の二日目だろうと考えて、荷物を観測所の物置にほおり込んで、追いかけてきたんです」

「待っていようとは、思わなかったんだ」

「啓子さんについていけば、火口まで行けるのにどうして待っていられるものですか」

 確かにそうだ。三原山は火口を中心に半径五百メートルの地域は立入禁止区域となっている。この地域に入って文句を言われないのは、火山監視に従事している火山学者の様な類だけだ。勿論、正式に許可を受けて入っているわけではなく、学者特有の図々しさで勝手に入っているのだが、火山を熟知している(と周囲は錯覚している)ことと、火山の監視に必要であるという正当な(と周囲には説明している)理由から、黙認されている。このことは、別に三原山に限った事ではなく、桜島等若干の例外を除くほとんどの火山で行われている。真菜は、そのおこぼれを頂こうと考えているのだ。

 そのことを当然という風に話す真菜を、啓子はかなわないなと感じる。

 火山好きがこうじて火山学者になった者は数多くいる。そんな中でも、自分は特異な部類の存在であると、啓子は考えていた。啓子にとって、火山は畏怖すべき存在であるというのが、原点になっている。火山は、地球という惑星の代表すべき現象であり、その現象は、人間の歴史のような刹那なものに比べたら、無限に近いほどの雄大さで続いてきている。そんな火山にかなう筈がない。そう、考え続けてきている。だから、人間ごときがあとから来て火山に取り付いたくせに「噴火で先祖代々の土地を失った」などと言って嘆くことに対して、いたく憤り、軽蔑した頃もあった。啓子が各地の火山を歩き回り始めたのは、高校に入った頃からだった。啓子は、各々の火山に対して擬人化したうえで見上げるように接し、ひとつひとつ異なる人間的な性格を火山にあてはめていった。そのことは、火山に対して科学的なアプローチをしていかなければならない立場になった現在でも、変わっていない。しかし、その例えは、啓子が感じた直感的な一人勝手なもので、絶対的なものではけっしてない、と考えていた。自分自身の一種のエゴイズムに過ぎない、とさえ考えていた時もあった。

 だから、真菜と知り合って、真菜の火山に対しての接し方を聞いたときには唖然とした。自分と同じ様な見方をしていたからだ。そして、彼女の話を聞くにつれ、啓子の感情は驚愕に変わっていった。そして、啓子は、一回りも年下の真菜に対して腹を見せてしまった。

 まだ、中学生を卒業したてだった真菜は、屈託のない口調で「私は、火山の相を読む事が出来るのです」と言ったのだ。人の顔に人相があり、手に手相があるように、火山にもそれぞれ相があり、その相を見る事によって火山の性質が分かると言う。

「三原の嬢ちゃんは、すごく素直な山で明朗で単純、でも真面目で頭はすごくいいんです。阿蘇は、穏やかなおばあ様、世の中の色々な事を見てきたから、少々の事じゃ驚かない様です。何があっても『そんなことも、あるわよ』ですましてしまいそうな感じですね。有珠と雲仙は、見かけは良く似ているんですが、性格は正反対なんです。雲仙て、なんであんなにいじけちゃったんでしょうね」

 等と、日本各地の火山についてまくしたててくれた。真菜は、各々の火山が持つ性格を説明するにあたって「彼女の性格決定の一番大きな要素は、彼女の持って生まれた業なんですが」と前置きした上で、その火山の生まれ方、成長していく上でうけた周囲からの影響等についても語ってくれた。それらは、火山学の常識となっているもの多くあったのだが、啓子の知らなかったことも、火山学の常識に反するものも多かった。それでも、啓子は、真菜の言うことを信じたいと思ったし、多分本当のことなのだろうという確信も持った。啓子の思いを感じとってか、真菜は、火山学者の中では啓子にだけ、この様な話を口にしている。

 その頃から既に、真菜は、火山に対して対等な立場を取っていた。そのスタンスは、人間の事など眼中にないといった風情の、真菜自身を火山の領域へと移行させた上でのものだった。それを口に出来る彼女に対して羨望の想いを、啓子は抱いた。今でも、その想いは変わらない。

 二人は火口縁までたどり着くと、中を見おろした。

「溶岩湖、消えてしまったんですね」

 ため息をつきながら、真菜が呟いた。

「二ヶ月前にね。期待してたの?」

「ええ。大人しくなったのは分かってたけど、まだ、溶岩湖が残っているといいなあ、と考えてたのに。お嬢のやつ、だからはにかんでいたのね」

 お嬢とは三原山のことを指している。

「残念ね。せっかく大島まで来たていうのに」

「仕方ないわよ、タイミングだものね。気まぐれで、お嬢に無茶言うほどのエゴイストじゃないわ」真菜は、同意を求める笑みを啓子に送る「私としては、お嬢のご機嫌伺いが出来るだけでも嬉しいの」

「そうか、じゃあ火口周囲にセットしてある奴の保守をしてくるから。その間、ここにいて、存分に対談してなさい」

 啓子はそう言い、火口縁の一カ所を掘る準備を始めた。

「ありがとう。遠く離れていても話せるんだけど、やっぱり近いところが一番だものね。表情も良くわかるし」

 真菜は、火口の縁に腰掛けて、火口の底へ覗き込む様な視線を落とす。

 いつの頃からか、真菜は、火山と会話をするようになっていた。ある日突然と言うわけではなく、移植された株の根が徐々に土となじんでいくような、そんな成りゆきで話せるようになっていた、真菜は、そう啓子に説明していた。そんな姿を見て、真菜が益々火山の領域に入り込んで行っているように、啓子は感じている。

 啓子は、火口を巡っている間、可能な限りの時間を費やして、穏やか表情で会話に没頭している真菜へ視線を向ける。向けながら、自分自身を顧みて、沈んだ気持ちになる。

 真菜は、自分の大好きな火山をいとおしんでいる。例えば、一九九二年のイタリアのエトナ火山での騒動。溶岩の流れを人工的に変更するために、イタリア国防省の依頼により、アメリカ空軍がエトナに対して空爆を行った。結局、失敗し、流れは変えられなかったのだが、後遺症は未だに残っている、と真菜は声を荒げる。

「人間にとっては、昔のことで、とっくに忘れ去った歴史かも知れないけど、エトナにとっては昨日今日の出来事なんですよ。タイムスケールが違うんだもの。エトナて山は、世界の火山の中でも、もっとも感情豊かな山のひとつなんです。感情が豊かな分だけ、傷つき易くて、一度傷ついたらなかなか立ち直れないから、未だに空爆のことでおびえ続けて、半ば自閉症気味に陥っているの。私が、年に一、二度はエトナを訪ねて傷跡をさすって、一日に一度はエトナからの飛んでくる想いに応えてやらなければならないのも、そのためなんです」

 啓子は、米軍のエトナへの空爆と同じことを三原山にやっているのではないかと思う。三原山の山体に幾つも穴を掘り、センサーを埋めてしまっている。三原山も、エトナと同じく傷ついているのだろうか。啓子達は、センサーを埋める際に神事を行っているのだが、その様な事で許されるのだろうか。そういう考えに取り付かれてしまうと「噴火で先祖代々の土地を失った」と嘆く軽蔑すべき人達と同じ側に立っている自分を、嫌でも認識してしまう。その上、心ならずもという状態で参加したのではなく、自分の興味を満たすというエゴイズムのために参加していた、という事実にも思い至ってしまう。

 啓子は、どんどんネガティブになっていく自分を止められなくなってしまったまま、観測器の保守を終えた。 啓子が近付くと、真菜が見上げてきた。

「終わりました?」

「ん、まあね」

「どうしました?表情が落ち込んだ風になっていますよ」 精神の均衡を取り戻していない啓子の顔を見て、真菜が尋ねてきた。

 質問を予測していた啓子は、用意していた言葉を口にする。

「ねえ真菜、貴女が来て三原山がまた噴くなんてことないわよね」

 真菜が登った火山は、間違いなく活動が活発化する。桜島の様に噴火が常の火山を除くと、噴火に至ることは希だが、火山性微動の頻発やマグマの上昇による山体の膨張といった現象は、確実に起こる。真菜に言わせると、彼女の来訪を歓迎しているということになっている。

「大丈夫です。うん、間違いなく大丈夫。大規模な活動は起こさないと思います」

「そう、良かった。この間の溶岩湖の発生でね、火口縁に蒔かれている奴らの制御部、熱で、大体やられちゃってね。先月、修理したばっかりなのよ。ただでさえ少ない予算の四割も、本所に吸い上げられているから苦しくて。正直、今度壊れても、来年まで修理できないのよね」 真菜が立ち上がって、パンツの土を落としながら、ちゃちゃを入れる。

「今度から、真空管にしたらよろしいのに」

「そんなもの、誰が担いで持ってくるのよ?ここの火口よりも大きくなってしまうわ」

 話している間に、啓子の顔に笑顔が戻ってくる。仲間意識からくるのだろう、真菜と話すことは啓子にとってとても楽しいことなのだ。

「もっと、ここにいてもいいのよ。どうせ、私は帰りもメンテナンスしながらになるから。後で追いかけて来なさいよ」

 真菜が自分のリュックサックに腕を通しながら応える。

「いいです。話したいことは、全部話してしまいましたから。それに、お嬢とは、その気になれば何処からでも話せますから。でも、啓子さんとはそうもいきませんから。顔が見えるうちに話せることを話しておかなければ、次にいつ会えるか、分かりませんから」

「そう、ありがとう、気にして頂いて」啓子は、素直に嬉しさを表情に出して、笑顔を作る「なら、これを差し上げるわ。帰りは御神火茶屋の方へ下りるから。怒られない様にね」

 啓子は、ヘルメットを真菜の頭に押しつけた。

 真菜は、すぐにヘルメットを外すと、文句を言う。

「嫌ですよ。髪の毛がぺちゃんこになるんだもの」

「それだけ髪荒らしといて、ぺちゃんこもないもんだわ。男の子がいるわけでもなし」

「それもそうか」

 そう言って認めると、真菜は、顎紐を人差し指にかけてヘルメットを回しながら、啓子の先に立って山を下り始めた。

 しばらく下って、二人が横に並ぶ形になったときに、真菜が啓子を誘った。

「ねぇ、啓子さん。来週の木曜日の辺り、一緒に浅間を見に行きませんか?」

 浅間山は、四カ月程前から活動が活発になっていた。有感地震、小さな噴火に伴う火山灰の噴出等が続いている。当然、東大震研を始め、東工大、京大防災研、名大等の研究班が押し掛けて、色々とやっているのだが、啓子自身は、まだ現地に足を踏み入れていない。勿論、興味はあったのだが、人手不足から持ち場である三原山を一人で保守する羽目になったため、身動きが取れずにいた。

「そうねぇ、浅間か。一度は見ておきたいと思ってはいるのよねぇ」

 啓子の食指がうごめいた。一人で、浅間山を見に行っても教授にただ働きを強いられるのが落ちだ。なら、真菜と一緒に行って、彼女の保護者として見学者に徹した方が楽しい、と思った。

「今から有給を申請すれば、学生の一人も代打に送ってくれると思うけど」

「なら、ご一緒してもらえるのですか?」

「許可が取れたらだけど」

 そう言いながら、啓子は、既に無理にでも有給をふんだくってやると決めていた。

「でも、何故来週の木曜日なの?」

「私の予定が、木曜日を中心に三日間空いているんです。他のフリーの日は、しばらく、連日という訳にはいかないんです」

 そう言いながら、真菜の顔に迷いから来るような困ったという表情が一瞬だけ走ったのを、啓子は見逃した。それでも、啓子は真菜の口にした理由が嘘であると確信していた。あの真菜が、日にちを指定してきたのだ。その日に、浅間山で何かが起こるに違いはあるまい。

「そう、何が起こるか楽しみにしているわ」

 啓子は真菜の顔に自分の顔を寄せると、そうささやいた。


 その夜、啓子の部屋での夕食は、当然のように魚づくしの豪華なものになった。料理の効率の点から、厨房に立っていたのはもっぱら真菜だった。キャンプしながら料理を覚えてきた真菜は、室内の台所でももっぱらサバイバルナイフを振りまわす。いかを刺身に仕上げるのを横で見ていた啓子は、どうすれば向こうが透けるほど薄く切れるのかが、不思議で仕方なかった。

 新婚家庭の夕食程度の料理をテーブルに並べて、酒の飲めない啓子と酒を飲まなくなった真菜は、烏龍茶で乾杯をする。「それでは」という真菜の一声で、二人は料理へ箸をのばし始めた。真菜の器用さと啓子の調味感覚、そして昼間の野外活動が、夕食の味を上等なものにしていた。ふたりは、胃袋がある程度満足するまでの少しの間、会話そっちのけで料理を口に運んだ。

 テーブルの上の半分近くを整理して落ち着いたところで、啓子は、会話を再開させようと真菜に水を向けた。

「ねぇ、ハワイはどうだった?」

 啓子は、二月前ハワイ行きの飛行機の中で書かれた葉書を受け取っていた。

 真菜の表情が輝く。

「尋ねてくれるのを待ってたんですよ。やっと、ハワイにたどり着けたんですもの。地球でもっとも激しく熱いホットスポットにやっとたどり着いて、もう、最高。たとえじゃなくて、本当に血の煮えたぎる思いをしてきたわ」

 真菜は、昔からキラウエアの上に立ちたがっていた。だが、そんなに行きたがっていたキラウエアにたどり着くまでに、真菜は、相当な時間を要した。キラウエアが地球で最大規模のホットスポットのひとつだからだ、と真菜は啓子に説明してくれた。真菜は、火山と現地で話をすると、マグマのエナジーも受けるという。火山の意志というのは、その火山のマグマと表裏一対の関係にあるため、火山が意識を真菜に向けると、必然的に真菜はマグマのエナジーも正面から受けてしまうことになるらしい。だから、真菜は、小さなホットスポットを持つエトナを、次にアイスランドを経由してハワイを目指した。そのことを彼女は「まず、日本の小さな火山達から私の身を任されたエトナが、その持ち前の繊細さと干渉好きを駆使して、火山に対する接し方を一から教え直してくれて、同時に、体へ熱を受けたときの対処方法も身につけさせてくれたの。その上で、アイスランドに行って訓練して、そう、高い山を登る前に、それよりも低い山に登って練習をするみたいなものですか。それで、やっとキラウエア様に登れるんです。まったく、普通の人間ならすぐに行けるのに、因果なものですね」と以前、表現していた。

 だから、真菜のハワイの感想は、啓子の予想の範囲だった。しかし。

「それにね、自分が何者かていうのもわかったんですよ」

 と、真菜が続けてきたので、啓子は色めきたった。

「ねぇ、それてどういうことなの?」

「くふふ、それはねえ、後で話してあげます。話は順を追ってするものですから」

 真菜のじらしに、啓子は、顔に出すのは大人げないと内心で膨れながらも、しばらくの間黙って、真菜の話を聞くことにした。

「ハワイ島についた瞬間からね、もう大地から熱が上がってくるの。もうそれは、異常なくらい。まるで、ずっと会えずにいた恋人に対して、愛の言葉とキスを夢中で投げかけてくるような感じだったかな」話に夢中になってくると、真菜の言葉から敬語が抜け落ちてくる「私は、もうびっくりしてね、キラウエアに意識の波動を送ったわ。とにかく落ち着いて、落ち着いて下さい。そうしないと、私が近い将来に日干しになってしまうから、て。

 そしたら、キラウエアは『あら、そうねぇ』と言う感じで、大地からの熱の波動を弱めてくれたんだけど、それでも熱が来るのよ。もう、体中汗だらけで、両手に水のペットボトルを持って、それを交互に口に運んでいるという状態。ノーブラでTシャツを着てなくて良かった、と思ったもの。もう、そのままホテルへ直行して、ベッドに潜り込んだのだけど、そのときはもうへとへとで、前後不覚で意識を失ったわ。ホテルの部屋は、八階で、大地からある程度切り放されていたから、少しは楽だったけど。

 で、夜になった頃、キラウエアの意識で起こされちゃって。キラウエアはね『今、いらっしゃい。今なら誰もいないから。ちゃんと、安全に案内してあげるから』と言うわけ。こっちも、まあキラウエアの言うことだし、間違いないだろうて、借りていた四駆で出発したの。 でもね、夜のキラウエアは恐かったわよ。真っ暗なんてもんじゃなかったわ。濃霧よ、濃霧。五メートル先も、ヘッドライトが照らしてくれないの。ただ、私には道の具合が確信を持って分かるの。本当に、キラウエア様々だったわ。私は、もう、運転しながら感激の絶頂よ。だって、そうでしょう、真夜中の上、濃霧。私とキラウエアの対面を邪魔する奴がいないのよ。山頂にあるビジターセンターや火山観測所からだって、見とがめられる心配がないんだもの。

 山頂に着いて、車から降りた瞬間、身の毛が逆立ったわ。乗っていても強い波動は感じていたんだけどね、そんなの比じゃなかった。大地の底から、ぐーんて突き上げてくるの、意識も、熱も。もう、体中が煮えたぎるくらい熱くなって、でも凄く気持ち良くて。キラウエアのカルデラに棲む女神ペレーが、私の来たことを本当に喜んでくれているというのが、分かるの。ううん、分かるていうのじゃなくて、感じるていうのも違うんでけど、とにかく体と意識全てがその喜びを受け取って、私自身と同化してしまっているの。その感覚は、今まで受けたことがなかったものだったわ。私の波動とぴったり一緒で、ペレーの意識がそのまま私の意識になって、私の意識もまたそのままペレーの意識になったの。

 その瞬間に、私は、ペレーと同化してしまったんだろうけど、ハワイ島の全てが自分になってしまった感覚に包まれて。そして、私のことが全部わかっちゃったの。私、ペレーから派生していたのよ。ペレーの娘の一人て、表現でいいのかな。ペレーの意識やら、力やらの一部が切り放されて、私の元になった胎児に宿って、ううん、乗っ取ったて言った方がいいのかな。だから、私はね、人の形をしていながら、本当はペレーの娘であり、一部であるわけ。もう、凄い感激よ、地球上の火山でもっとも高い格を持っているキラウエアの一部だったんだもん。人間である引け目なんか、一瞬で飛んでしまったわ。

 でもね、それからが大変だったんだ。世界中の火山ひとつひとつに対して波動を送ってね、私自身が自分の縁起を知り、それを納得したこと、そして今後間違いなく再優先で火山の側に立つことを知らせていったの。もう、凄い精神力を使うから、頭から血は引くわ、体中が熱くなって脱水症状直前になるわ、全てが終わって気付いたときには、岩に背をあずけてへたり込んでいたもの。だけど、世界中の火山へのお披露目が終わっても、体力がどんどんなくなっていくの。良く考えたら、ペレーに直接触れているわけで、生身にとってはたまったものじゃないてことに思い至って、とにかく車に逃げ込んでペレーから離れたの。

 持ってきた飴をなめなめ体力回復をはかりながら、朝を待って山を降りたわ。で、もうその日のうちに飛行機に乗ったの。用事は済んだし、体力も持たないから、長居は無用とばかりにね。もう、ペレーの元に行くことはないと思う。行く必要がないんだもの。ペレーと私は、完全にシンクロしちゃっているもの。キラウエアのこと隅々まで分かってしまえる。何処の亀裂がいくら開いたとか、溶岩をどれだけ海へ流し込んだとか、全てがね」

 啓子は、言葉を失っていた。何とコメントしたらいいのだろう。

「唖然としているようですけど、何かご質問は?結構はしょっているから、たくさん出てくると思うんだけど」「ねぇ、真菜」啓子は口を開く「この話、だれかにした?」

「大丈夫。一般人に本当のことを言うほど、世間知らずじゃないですから」

「じゃあ、何故、私には話したの?」

 真菜は、イカの刺身を口に入れながら、夕食でありふれた会話を交わすような口調で答えた。

「信じてくれるからです。そして、啓子さんへは本当のことを伝えなければならない道理が、私にはあったからです」

「道理て、なに?」

「私が日本に産まれたのは、何の宗教にも捕らわれずに、火山の立場に立ってものを見れる啓子さんが生まれていたからなんです」

「何なのよ、それて」

 啓子は再び、言葉と思考力を失った。

 真菜は、いたずらっぽく微笑みながら、啓子の表情を眺めていた。

 

 啓子は、蛇行した登り斜面に従って、ステアリングを切っていた。ナビゲーターシートでは、真菜が、小さく口をあけて、眠っている。相変わらずのジーンズに、スタジアムジャンバーという服装で、口紅のひとつも付けていない。

 二人の乗るオフロード用の電気自動車は、八風山の山頂を目指して登っている。

 八風山は、浅間山の南南東約十五キロの所に位置する。標高は、千三百メートル余り。頂上までの自動車道路があり、頂上から北側の山林へと分け行って、しばらく歩くと木々が途切れ視界が開ける。視程が良いと、浅間山系を一望に見渡すことが出来る。

 八風山への登山は、真菜が強硬に希望したことによる。ここの風景が好きなのだと言う。

 啓子は、幼げな表情で寝入る真菜をちらり、ちらりと見ながら、先ほどまで続いていた彼女との会話について考えていた。あの夜、自分の部屋で真菜の独白を聞いた啓子は、頭の中の混乱を収集できずにまともな質問をし得なかった。真菜は、翌朝の船便で帰ったため、その後も訊ねるきっかけを失っていた。そこで、今朝、池袋で真菜と落ち合って、真菜が借りてきていた車に乗るや、啓子は真菜への問いかけを始めた。

 真菜の話を信用すると、火山達にとって人間は興味の対象にもならないもの、ということになる。ただ例外的に、自分達に対して危害を加えられたときに、人間に対しておびえたり、憤ったりするという。エトナ火山のように。それは、小さな蟻に対しての人間の行動と一緒なもので、噛まれたり、住宅に侵入されたりしない限り、私達は蟻に対して目も向けないでしょう。真菜は、そう言う風に例えた。勿論、そうした態度は、人間に対してだけではなく、他の動物や植物についても変わりはないのだという。彼らにとって、森が焼けてしまおうが、動物達が泥流に巻き込まれてしまおうが、知ったことではないのだ。

 そんな火山達が、人間の形をした火山の女王ペレーの娘、真菜を作りだしたのには、人間が加えてくる火山へのちょっかいが無視できないものになってきたからだという。火山達は、個々の意識の他に、火山全体で共有している別の意識を持っているらしい。その共有意識というものは、火山という事象全体について考える為に存在している。自分達の存在を守るためにはどうすべきか、自分達の格を高めるにはどうすればいいのか、その様なことを考えている、というのだ。そういう意識は人間にも、植物にもあるのだ、と真菜は付け加えた。ただ、動物や植物達は、自分達の共有意識というものを認識できるほどには、地球上での時間を費やしてきていないのだと。その火山の共有意識が、自分達を守るためにとった方法のひとつが、人間とコミュニケーションを取れる形の火山の意識を生み出すことであり、それが真菜だったのだ、という。勿論、真菜ひとりで人間の干渉を阻止できると考えたのではない。真菜は、起爆剤の役目を負っているだけだ。その昔、アメリカの一学生が掲げた「鯨を絶滅から守ろう」という看板が、反捕鯨運動として発展し、瞬く間に世界中の人間が共鳴させられていった。その結果、今やイヌイットさえも、鯨を口に出来なくなっている。それと同じことをやろうというのだ。世界には、熱心なエコロジストが掃いて捨てるほどいてくれるわ、彼らに火山の話をすれば必ず興味を抱いてくれる。相手が火山に対して同情的になってくれたらしめたもよ、そうなれば彼らの意識の波動に干渉できるもの。まあ、一種の催眠術をかけてあげるの。と、真菜はこともなげに言った。その言葉に、啓子は嫌なものを感じ、そのことを口にした。それに対して真菜は、別に、人間をどうこうしようて言うんじゃないの。人間が地熱発電をしようが、温泉につかろうがそんなことはどうでもいいの、火山にとってはね。好きになさい、ということよ。ただ、溶岩の流れをねじ曲げようとか、火山内の圧力を下げて爆発を阻止しようとかいう、火山自身の営みに干渉してくるようなことをどうにか止めさせようというだけよ、と反論してきた。確かに、真菜の言葉は彼女の側から見れば正論なのだろうし、啓子自身の考えも真菜の意見に近いものである筈なのだが、何故か納得できなかった。それは、エコロジストが暴走して、火山から人間全てを排除しまう可能性について考えが及んでいたからなのだが、そのことを口にしたところで、真菜の考えが変わるとも思えず、啓子は議論を放棄した。

 ただ、啓子はこれから先、真菜に引きずられていくような気がしてならないでいた。今までも感じていたのだが、啓子にとって、真菜の存在は麻薬の様に思える。理性も感情も超越した部分で、真菜に関わりあっていくことになるのではないのだろうか、と啓子は考えてしまう。そんな考えに至ったきっかけも、今日、真菜に与えられたものだった。

 それは、真菜の談によると、真菜が火山の共有意識によって作られた存在であるように、啓子の存在も人間が無意識に共有している意識によって生まれたものである、という。人間の共有意識の特徴として多くの事象を見、それを記憶として積み上げていくというものがあり、それによって、人間は己の格を少しずつ上げてきた、ということらしい。人間の共有意識は、事象を客観的に記憶する手段として、常に幾人かずつ、人間の社会通念に捕らわれない感覚を有した人間を生んできた。その一人が、啓子なのだ、と真菜は説明してくれた。確かに、自分自身を振り返ったときに、啓子は、納得せざるを得ない部分があることを認識する。啓子が、火山とそれに関わる者を見るときに、その者の行為の愚かしさを嘆くことはあっても、それを止めさせようと思ったことはなかった。それは、自分の意識の中に自分の好き嫌いの感情をエゴイズムとして排除しようとする意識が働き、どの様な結果になろうともそれはそれで自然の摂理にかなったものとして受け入れたいと考えていたからだ、と啓子は思っていた。だが、その考えが他から与えられたものだとしたら、それはそれで説明がつく、そう啓子の頭では結論づけられつつあった。何よりも、啓子自身の中の何かが、そのことを肯定する意識を発しているのだった。

 そんな思考実験を繰り返すうちに、車は頂上にたどり着いた。路肩を広げて作られたパーキングエリアに車を寄せ、電源を切る。

「着いたんですか」

 真菜が目を覚まして、伸びをした。車載の時計に目をやる。

「十一時三十七分、浅間を眺めながら、お昼を楽しむことが出来そうですね」

「関越で渋滞に巻き込まれた時には、どうなるかと思ったけどね」

「本当に」

 真菜が車外に出て、再び伸びをする。

「ああ、空が青い。水蒸気のかけらもないという感じ」

「本当、ぬける様」

 啓子も、車の後部の扉を開けながら、空を見上げる。天気概況の大きな高気圧覆われて上空まで乾燥という言葉通り、高層に薄いすじ状の雲が僅かに浮いているだけだ。風も時折微かに吹く程度で、まさに小春日和である。

カメラ一式と弁当の入ったリュックサックと、三脚を取り出して背負うと、車に鍵をかける。二人とも、軍手と帽子を着け、真菜は枝伐ち用に例のサバイバルナイフを手にする。

 地図とコンパスで方向を確認すると、真菜は、啓子の方を見、いたずらっぽくにやりと微笑む。

「いいですか」

 腰ほどまである枯れた茅をかき分けて、傍らの雑木林に入り込んだ真菜は、最初だけは葉が落ちきった枝を傷つけないように丁寧に曲げ進み、啓子もそれを真似て後に続いた。ただ、五メートル程も中に入り込むと、真菜は、目につく枝は全て駆逐するといった様に、ナイフを大胆に振るい始めた。おかげで、啓子は、リュックと三脚のふたつを背負っているにも関わらず、それほどの支障を感じずに林を進むことが出来た。

 十五分も歩くと、視界が開けた。小さな崖の上に出た格好になっている。崖を見おろすと、麓に向かって林は続いていた。崖の下から伸びた木々のうち、背の高い数本が二人の膝上の高さくらいまでに達していた。真菜は、それらの木の頭部を、崖の高さに合わせて切り落とす。続いて、崖の際に生えていた潅木と茅も払った。

「浅間の眺めも良いですし、座ってお弁当を食べるだけの空間もあるし、良い場所ですよ」

「強引に作っておいて、良い場所もないものだわ」

 真菜は、聞こえない振りをして、リュックの中からA3版程度の合板を数枚取り出すと、地面にひき、その上にブルーシートを乗せた。

 啓子は三脚の脚を開きしっかりと地面に突き刺すと、ビデオカメラを取り付けた。バッテリィチェックを行い、直径十センチ程のビデオディスクを差し込み、音源モードを遠距離にして、録画スイッチを押した。

「啓子さんのビデオ、ちょっと大きいですねぇ」

 真菜が怪訝そうに尋ねてきた。

「家庭用じゃないからね。ハイパーDVDだし、レンズも素晴らしく明るい奴でね。元々は、上空から撮影した火口を、精密に解析するために手に入れたんだけどね」

 そう答えながらシートに腰を降ろすと、真菜を手伝って弁当をリュックから取り出しにかかる。弁当を並べ終えると、二人して並んで座り、食事を取りながら山を眺め始めることにした。

 ここから一望する浅間山系は、幾つかの頂が折り重なるように東西へ連なって見える。山の中央部に位置する釜山の頂は一番高く、標高で二千五百六十八メートルをゆうする。そのすぐ左手に、同じくらいの標高の前掛山が、小さな外輪山として、釜山をUの字に囲んでいる。更に左に視線を運ぶと、過去の噴火で山体の多くを崩壊させてしまった黒斑山が頂を尖らせている。釜山の右に転ずると、小浅間山が申し訳程度に山腹から頭を突き出していた。白く濃い水蒸気が、釜山の山頂火口から噴き出されている。地熱のせいか、それとも今年はまだ積雪がないのか、霜月の中旬というのに冠雪は見られなかった。麓の東西に細長く見える盆地には、中山道に沿って東から、軽井沢、御代田、小諸と連なっていた。

 真菜は、右手に持った双眼鏡で覗いたり、外したりしながらも浅間山を見つめ続けていた。時折、サンドイッチを手に取るときだけ、弁当箱へ目を向ける。啓子はというと、浅間山を愛でつつも、それと同じくらいの時間を真菜の姿を観察して楽しむのに費やした。

 食事を済ませて、啓子が片付けをしていると、真菜が尋ねてきた。

「ねぇ、啓子さん、あれ何だか分かりますか」

「えっ、どれのこと?」

 真菜が指さした先を、啓子は自分の双眼鏡で覗いてみる。灰色をした、ゴミ出し用のポリバケツをひっくり返したような形のものが、空中に小さく浮かんでいるのが、視界に入ってきた。あまり大きくない翼が、底の部分から三方に伸びていた。

「へぇ。永武先生、とうとうリング・スキャナーを持ち出しちゃったんだ」

「リング・スキャナーて何ですか?」

「病院にCTスキャンて装置があるでしょう。あれの火山対応版みたいなものね。火山の構造を輪切にりして見てみようてことを、しているわけ。他にも七台浮いているはずよ、探してみたら。ひとつ三メートルくらいの大きさでね、底にプロペラが付いているの。で、山の周りをぐるぐる周りながら飛んでね、八つがお互いに連携しながら、電磁波で水平方向に走査していくて原理みたいよ。まあ、直径三キロが限度て言ってたから、前掛山の外側までが勢いっぱいてところよね」

「リアルタイムで分かるんですか」

「どうだったかな?確か、データはスキャナーにプールしておいて、後でまとめて解析するんじゃなかったかしら。まあ、どちらにしても今夜の夕食前には、一次解析がすんでるんじゃないかな?」

「じゃあ、間に合わないんだ」

「え、何が?」

 啓子は、双眼鏡を離し、真菜の方を見た。

真菜の真剣な眼差しが啓子の目を捉える。

 啓子は、少したじろいだ。

「実は、浅間山の山頂部にちょっとした亀裂が出来ていて、あと少ししたら、ちょっとした岩砕流が起こるんです。浅間本人が言うから、間違いないでしょう」

 岩砕流とは、火山の噴火によって山体の一部が崩壊し、砕け散った岩が麓に落ちていく際に、落ちていく経路にあたる岩を砕き、巻き込んで出来る、岩と土砂による流れのことをいう。規模によっては、麓に大きな被害をもたらす。

「あの山で、起こるの?」

 真菜の言ったことがあまりに突然で、またいかにも事も無げな風にだったために、啓子は思わず的外れの質問をしてしまう。

「そうです。だから、私、今の浅間の姿を見納めるために、一望できるここを選んだんです。と言っても、浅間の一部がちょっと欠けるだけで、死んでしまったり、活動が弱まったりするわけではないので、嘆き悲しむ気分ではないんですよ。それにしても、走査を昨日やっていたら、亀裂も発見できて、多分、今日は避難勧告が麓に出されていたのでしょうが。でも、もう間に合いません。あと五分とない筈です。啓子さんも、ちゃんと見ておかなければだめですよ」

 真菜の言葉を聞きながら、啓子は、事態を把握し始めていた。

「真菜、知ってて、何故教えてくれなかったのよ?」

 声が裏がえっている。

 真菜は、相変わらず啓子の瞳を見つめながら、冷静に答えてくる。

「教えてどうなるんですか。知っても、何も出来ないんですよ。どういう根拠を持ち出して、山体の崩壊を説明するんですか?どうしようもないでしょう。それなら、知らない方が楽でしょう」

 確かにその通りで、知った所でどうしようない。その現実を眼前に示されて、啓子は言葉を失った。体の末端が振るえ出すのが分かる。真菜を殴りつけようとする右手を必死に抑えて、顔をそむけ、真菜の姿を視界から外す。

 真菜が言葉を続ける。

「それに、言ったら、啓子さん来なかったでしょう。啓子さんには、是非、見ておいて欲しかったんです」

 啓子は、弾かれた様に視線を戻すと、真菜を睨みつけた。

「何の理由があってよ?」

 真菜は、それには答えなかった。答える間がなかったと言った方が良いかもしれない。

「始まります」

 それだけ言って、真菜は、その真剣な視線を浅間山に移した。つられて、啓子も浅間山の方へ体を向ける。

 何も起こってなかった。さっきと同じ風景があった。「何が、始まるて言うのよ」

 啓子がそう呟こうとしたとき、足が地面の振動を捉えた。次第、に大きく細かな周期の振動に変わっていく。低い音程の鳴動が耳に届いた、と同時に釜山の山頂の辺りで灰色の煙がたった。一瞬後、啓子が土砂の舞い上がったものだと気付いたときには、煙はかなりの面積の部分から立っていた。煙は、加速度的に瞬く間に広がっていきつつあった。土煙が九合目付近から上を包んだときに、浅間山の四合目より上、中央から西側にかけての山肌が滑るように動き始めた。動いた面積は、見えている山体の八割にも達するだろうか。山頂付近や山腹の十数カ所で、一気に爆発が発生した。滑り始めた斜面は、すぐに土煙に隠れた。山体が崩壊し始めたのだろう。土煙の一部が、麓へ流れ始めた。岩砕流が姿を現した。流れは、たちまちに数を増やし、各々の流れは見る間に幅を広げて、ついには大きな一本の流れになった。

 多分、十数秒の間の出来事だったろう。だが、啓子には、随分長い間、それを見つめていた様に感じられた。一瞬一瞬の場面が、コマ落としのように明確に視神経に焼き付けられ、脳に刻み込まれた。記憶は意識の奥の奥にまで染み込み、きっと死ぬまで忘れないだろう、何十年たった後も、この風景を微細な部分にいたるまで説明できるだろう。啓子は、確信できた。

「伏せて」

 突然、真菜が叫び、啓子の対応も待たずに林に突き飛ばした。一瞬遅れて、真菜は三脚を付けたままの啓子のビデオを腹に抱えて、飛び込んでくる。

「何を」

 啓子は起きあがろうとする。

「口を開けて、耳を塞いで、体を低くして」

 有無を言わさない真菜の口調に、啓子は思わず従った。 一呼吸置いて、爆音が届いた。その音に、八風山全体が震えた。林の木がしなり、啓子は、体が跳ねている様な錯覚に陥った。当然、鼓膜にも振動が伝わってきたが、啓子は、それを音としてではなく、痛みとして聞いた。爆音は数瞬の間に、爆発の数だけのピークを送ってきたが、啓子にそれを聞き分けることなど出来なかった。

 爆音が遠ざかり、啓子は身を起こそうとして、再び真菜に押さえつけられた。

「まだ駄目。熱風がくるから」

 真菜は叫んだのだろうが、啓子にはささやき声のようにしか聞こえなかった。

 啓子は、慌てて身を低くして、力いっぱいに目を閉じた。眉間にしわが寄る。

 周囲の木々が、ざわっと音をたてた。髪から背中に圧力を感じた。次いで熱が来た。木々が揺れるのが分かった。小さな枝が折れ、そのうち何本かは啓子の髪の上に落ち、背中を転がって行った。

 熱風は啓子が覚悟していたものよりは、規模が小さかった。それでも、髪が焦げるような臭いを嗅いだ。

 風が過ぎ、しばらくすると、山を滑り落ちる岩砕流の怒鳴るような低い音程の間断ない音が、啓子の耳に聞こえるようになった。

「もう、大丈夫だと思います」

 啓子は、弾かれたように立ち上がると、林の外へ走った。浅間山を見たときに、啓子は硬直した。

「何で、何でこんなに急に。それに、真菜、真菜はちょっとした、て言ったのよ」

 浅間山は、まだ土煙に包まれていた。それでも、薄くなった土煙の向こう側の山体を確認できた。浅間山は、南西の稜線を中心にして、山頂から四合目にかけてほぼ半円球状にえぐり取られていた。その幅は、約四キロにも及ぶだろうか。発生した岩砕流は、まだ下り続けていた。既に山麓にたどり着き、土煙を先頭に盆地部分を席捲しつつあった。土煙は、小諸市街を完全に包み込む程に下り、広がっていた。その上、まだ勢いを失っていない。岩砕流の本体が土煙の何分の一しかなかったとしても、小諸市の中心部は、確実に土砂に埋もれてしまうだろう。

「崩壊したのは前掛山の三分の一にも満たないんです。これを機に、浅間はまた成長を始めて、新しい山を造るんです。三千メートルに達するような山を。いわば、脱皮のようなもので、これを小規模という表現をしない方がおかしいんです」

 啓子には、反論する気力もなかった。

この岩砕流で、どれくらいの人が死んだのだろうか。どのくらいの家族が不幸になったのだろうか。何の覚悟もせずに暮らしていた人たちを、一瞬にして死へ、不幸へと至らしめることは、やはり、理不尽なことかもしれない。例え、火山の持つ力の大きさを想像もせずに、火山というものを甘くみていたという罪を背負っていたとしても、この罰は惨すぎるような気がした。

 そう感じたとき、啓子は、嘔吐感を覚えて、しゃがみ込んだ。我慢する気はなかった。両手を突いて、胃の中のものを全て土に戻した。真菜が背中をさすってくれているのを感じた。胃液が、鼻からも地面に垂れ、気管にも入ってきた。咳込み、涙が溢れてきた。このまま、胃液が気管に詰まって死ねたら、そう思った。思ったのに、気管は胃液を咳と共に押し戻し、呼吸の確保に成功した。 真菜は、吐くものがなくなって苦しんでいる啓子の背中をさすりながら、ささやいた。

「大丈夫ですか。気を確かに持って下さい。まだ、始まったばかりなんですから。啓子さんには、これからも世界中の色々な火山を見てもらわなければならないのですから。火山が活動を開始したときに、人間が火山に対していかに無力かを見て回ってもらわなければいけないのですから。そして、人間の共同意識の中へ、出来るだけ多くの火山に対する畏怖の想いを蓄積していってもらわなければならないのです」

 啓子は、荒い息をしながら、真菜のその言葉を半ば神の声のように感じながら聞いていた。

 


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囚われの異人(短編一話完結) 真源 @shingen_fff

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