痛みの記憶

代官坂のぞむ

痛みの記憶

「吉彦! あなたって最低!」


 鋭い痛みが、耳から頬にかけて炸裂した。

 強烈な張り手の響きが、しばらく頭の中で共鳴している。

「いってー」

 叩かれた左頬をさわると、ジンジンと熱を持ってきた。


「もう二度と連絡して来ないで。さよなら」

 三奈はくるりと背中を向けると、硬いヒールの足音を響かせながら歩き始めた。

「おい、待てよ」

 一応呼びかけてみるが、聞く耳など持たないという固い意志を全身で示しながら、彼女は去って行った。

 無理もない。デートの誘いを断った日に、ばったり街で出くわしたら隣にこいつがいて、しかも腕を組んで一つのクレープを一緒に食べていたのだから。


「先輩、今のは?」

「ああ、ちょっとあってね」

 隣にいるのは、同じサークルの後輩、桜子だった。

「あの人とも付き合ってたの?」


 なんと答えれば、ダメージが少ない?

「ああ。付き合ってるよ。というか、さっきの剣幕だと、付き合っていた、かな」

「そうなんだ」

 ケラケラと笑っている。

「さっさと別れられて良かったね。これで私と付き合っても問題ないし」

 こいつ、意外とタフなのかもしれない。


 三奈と桜子と俺は、映画研究会という大学の同じサークルに入っている。俺と三奈は3年生で、桜子は1年生。

 三奈とは1年の時から、なんとなくだらだらと付き合っていたが、桜子とは、つい最近付き合い始めたばかりだ。どちらもサークル内では隠していたから、今日まで全く問題なかった。


「三奈先輩と付き合ってるのに、なんで私の誘いにもO Kしたの?」

 純粋な瞳で、恐ろしいことを聞く子だ。

「それは……」

 言葉を選んだ。

「一目見た時に、これだって感じたから」

「それで二股って、本当最低」

 クスクスと笑っている顔は小悪魔的。ただ、会ったとたんに、ピンと来てしまったのは本当だ。

「じゃあ、私が思いっきりビンタして、最低! って言ったら、どうします?」


 小悪魔のビンタも悪くないかもな。それくらいされても文句は言えない。

「いいよ。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せってな」

 俺は目をつぶって桜子の方に向いた。

「じゃ、いきますよ」


 右の頬に、ゆっくりと手のひらが触れてくる。来るか。きつく歯を噛みしめると、唇に熱くて柔らかいものが押し当てられた。目をつぶったまま、柔らかくしっとりとした感触を楽しんでいたが、やがてすっと離れる。

 ゆっくりと目を開けると、パチン、と軽い音がして右の頬に手が当たった。

「やっぱり叩くのか」

「アメとムチですよ、先輩」

 秀逸なたとえだ。しっとりと甘く、ピシっと痛い。


「先輩、覚えてないんですか?」

「何を?」

「私のこと」

 何のことだろう?


「ごめん。大学に入る前に、会ったことがあったっけ」

「そうとも言うけど、ちょっと違う」

「どういうこと?」

「もう一回、叩いてもいい?」

「いや、ごめん。そんなにひどいことしてた、俺?」


 合コンで会ったことがあるとか? でも、出てた女子の顔と名前は、だいたい覚えているはずだが。


「降参。どこで会ったのかな」

「じゃあ、また目をつぶって」

 またキスされるのか。


 強烈な痛みが、右頬に炸裂した。

 さっきとは比べ物にならない大きな音の後に、キーンと耳鳴りがして周りの音が聞こえなくなる。

「いってー」

 その瞬間、またキスされた。そして、すべてを思い出した。


***


「生まれ変わったら、君のことをきっと探し出すから。また、やり直そう」

「気休めを言うんじゃないわよ! 輪廻転生なんて、唯物史観にそぐわない迷信よ」


 山中の道は凍りついていて、シャツ一枚では震えが止まらなかった。太ももからの出血もかなりの量になっていたから、激痛と貧血で気を失いかけている。山岳ベースから2時間以上歩いて来て、体力の限界を超えていた。


「君はまだ歩けるだろ。一人で峠を越えて、ふもとに降りるんだ」

「何言ってるの。一緒に行くわよ。革命的精神はどこに行ったの。この軟弱者!」

「革命ね……」

 このタイミングで、あえてそんな言い方をする彼女が微笑ましかった。


 俺と紗倉は、同じ大学の活動サークルの同志だった。資本主義体制を打倒し、真の革命を目指して活動していたはずが、いつの間にかサークルの雰囲気は変貌してしまっていた。公安当局の監視と検挙で、都内での活動が難しくなってくると、グループは北関東の山中に活動拠点を移した。しかし閉ざされた環境の中で、総括という名のリンチが横行し、優秀なメンバーほどリーダーに目を付けられて脱落していった。

 俺も、そんなリーダーの方針が正しいと信じてついてきた。総括されるのは、そのメンバーの意志の弱さが問題なのであり、総括により、真の革命的精神を復活させることが正しいのだ、と。

 しかし、リーダーから紗倉の総括が指示された時、疑念が湧いた。なぜ、誰よりも真剣に取り組んできた彼女が? 俺が反論すると、即座にリーダーは俺を指差して叫んだ。

「吉田! 貴様も革命的精神が不足していることが明白だ! 紗倉とともに、総括だ」

「リーダー!」

 その場で、俺と紗倉はロープで後ろ手に縛られて、外鍵のかかる監視部屋に放り込まれた。


 これまでやられた連中は、夜になるとさらに厳重に縛られて寒空の下に一晩放置された。脱出するなら早い方がいい。

「紗倉。俺のベルト」

「O K」

 俺のベルトのバックルは裏にナイフが仕込んであった。他のセクトの連中に襲われた時の護身用だ。下宿で同棲していた時に、何度も外しているから彼女も知っている。後ろ手でやりにくそうではあるが、ベルトのバックルを外すのは慣れたものだった。何度、こうして下宿部屋で愛しあったか。


 無言のまま、後ろ手でバックルを受け取ると、そのままナイフを広げて彼女の手首のロープを切り、代わりに俺のロープを切ってもらった。

 部屋にあった椅子をつかんで、格子のはまった窓に思い切り叩きつけると、木製の格子はあっけないほど簡単に壊れ、俺たちは外に飛び出して走り出した。


 窓が壊れる音に気がついて表に出て来たメンバーに、リーダーの怒声が飛ぶ。

「撃て。反革命分子は、殺しても構わん」

 山岳ベースには、猟銃が置いてあった。元々、狩猟免許を持っているメンバーの親族の山小屋だったらしい。後ろから銃声が聞こえ、脚に衝撃を感じたが、無我夢中で藪を走り抜けるうちに追っ手はついて来なくなった。



「どこで間違ったのかな。俺たち」

 凍った道の上で横になりながら、紗倉に言った。

「間違ってなんかいない。ずっと一緒に来たじゃない。今もこれからも、ずっと一緒にいることが、唯一正しいことだから」

「そうだな」


 次第に薄れていく意識の中で、もう一度繰り返した。

「また生まれ変わったら、きっと君を探し出すから」

「なら、その時のためにおまじないをしておくね」

「珍しいな。唯物論者の君が、おまじないなんて」

「薄情で忘れっぽいから、きっと私の事も忘れてるでしょ」

 ふっと笑う顔が、寂しそうだった。


「痛む?」

「ああ、死ぬほど痛いよ」

 彼女は、俺の頬を両手で包むと、そっと口づけしてきた。

「私が口づけした時に、死ぬほど痛かったら、必ず今この時を思い出すの。それがおまじない」


***


 過激派が立てこもっていた山岳ベースは、県警との銃撃戦の末、多くの死傷者を出して鎮圧された。周辺からは、メンバーの遺体が多数発見されたが、その内の2名の男女は、峠の街道に近い山林の中で、寄り添うようにして横たわっていた。男性は怪我による失血死。女性は目立った外傷は無く、凍死と見られた。

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痛みの記憶 代官坂のぞむ @daikanzaka_nozomu

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